とある旅館の一室で、布団の上に正座したエルが、額にうっすら汗を浮かべていた。
「んっ……こ、こうかしら? 入れるには、これくらいで……」
「いや、奥まで届いてない。ほら、もうちょっと指先で押し広げないと」
「ちょ、ちょっと……それ以上は無理よ。私の器じゃ……!」
エルは眉をひそめて、震える手で空間に開けた穴を支えている。
僕はその前で膝をつきながら、穴の“縁”を慎重になぞった。
「ほら、境界がまだぬるい。ちゃんと“内側”まで通してやらないと、次元が反応しない」
「そんなにグリグリされたら、壊れちゃうわよ……!」
「じゃあ少しずつ慣らしていこう。最初は誰でもきついんだ」
エルが軽く肩を震わせながら、小さく喘ぐ。
その直後だった。
――バンッ!
「お主ら! 何をしとるんじゃーーーっ!」
勢いよくふすまが開いて、シロが乱入してきた。
その目は怒りと呆れと、若干の羞恥で潤んでいる。
「朝から旅館で、しかもその体勢で、そ、その会話内容は……っ、いくらなんでも……」
でも、シロの視線がふっと止まった。エルの指先――虚空にぽっかりと開いた“何か”を見て。
「……ん? な、なんじゃそれ……」
我々は真面目である。誓って。
「……ってことで、今のは世界移動のための次元孔を形成する基礎訓練だよ。実際に転移するには、もうちょっと精度が要るけど」
僕は手を振りながら立ち上がり、虚空に開いた穴を一瞥する。
エルはそれを真剣な表情で睨みつけたまま、ぷるぷると指を震わせていた。
「ふーん……世界移動、か……」
シロは僕らから三歩ほど離れたところで腕を組み、微妙に顔を赤くしながら視線を逸らしている。
「我、てっきり……その、もっと不純な行為を……こほん。まったく、お主らは紛らわしいことを……」
「誤解を招くように演出してるだけだよ。ほら、言い回しひとつで物事の印象って全然変わるし」
「堂々と言うな!」
シロのつっこみを軽く受け流しつつ、僕はエルに視線を戻す。
彼女はまだ穴の縁を見つめたまま、唇を尖らせていた。
「にしても……やっぱりこれだけは別格ね。世界移動だけ、明らかにレベルが違うわ。なんであなた、これを日常的にやってんのよ……」
「慣れれば簡単。というか、もう手癖みたいなものだし」
「その“手癖”で世界飛び越えるとか、ほんと頭おかしいわよ……!」
僕は肩をすくめながら、再び空間に指先を滑らせる。
すると空間の縁がひときわ明瞭になり、中の景色が一瞬、別の地平に揺らめいた。
「うわっ……今、ちょっと世界線ズレた? ちょっとだけ風景が……変な、あっ、ヤバ、なんか来てた、アレ来てたわ……!」
「……うん、それ、もうちょっと慎重にやらないと。下手すると、またあのバグ空間に落ちる」
「っ……! そ、それだけはちょっとやめてほしいわね……」
エルがゾッとしたように肩をすくめる。
普段のエルは、何だかんだで大抵のことを軽々とやってのける。
理屈も通るし、頭の回転も早い。
高次元存在らしい万能感を、これでもかと振りかざしてくるタイプだ。
でも、そんな彼女にも苦手分野はあるらしい。
未知への干渉。
法則を踏み外す瞬間。
自分の能力の“外”に出るとき。
そういう時のエルは、急に及び腰になる。
万能そうに見えて、案外そうでもない。
高次元だろうと何だろうと、向き不向きはあるのだ。
それを隠そうともしないところが、逆に好感が持てる――気がしないでもない。
「……で、次はどこに行く?」
訓練を終えて、お茶をすすりながらエルがぼそりと尋ねた。
「どこがいい? 君たち二人が決めていいよ」
「え、私たちが決めていいの?」
「うん、特に決めてないし」
エルは湯呑を持ったまま小首を傾げた。
そしてシロが一拍おいて、ぽつりと口を開く。
「では……のどかなところが良いのう。静かで、何も出ない場所。ご飯がうまくて、風呂が広くて、布団がふかふかで……」
「それ、ほぼこの旅館だと思うわよ」
「もうここで良いのでは?」
ふと、二人の視線が僕に向く。
正直ここにいてもいいけど、同じところに滞在していたら話が進まない。
「いや……やっぱりそろそろ動こう。エルの次元孔もそれなりに開けるようになってきたし」
「まだ“それなり”よ?」
「それでも、前よりはずっといい。……ね?」
僕が微笑むと、エルはわずかに顔を赤らめて目をそらした。
その肩は、どこか誇らしげに見えた。
「じゃあ、次も適当に。行った先で、決めようか」
「また適当……でも、それが一番この旅らしい気もするのう」
僕らは立ち上がり、部屋を後にする。
旅館の廊下を歩きながら、エルが小さくつぶやいた。
「ま、何でもいいわ。あなたたちと一緒なら、退屈はしないし」
二人の足音と、エルの照れ隠しみたいな声。
それが、次元孔の“向こう側”へと続いていた。
光の縁が静かに揺れ、ぽっかりと開いた次元孔の奥から、かすかに風が吹き抜ける。
まだ見ぬ風景。
聞いたことのない音。
どこかの世界の、どこかの朝。
誰も知らない――けれど、きっと何かが待っている場所。
「……じゃ、行こっか」
僕がそう言うと、シロが一歩を踏み出し、エルがそれに続く。
「変なところじゃ無ければいいのう……」
「そっちの方が面白いかもよ?」
「シロは怖がりね!」
そんな何気ないやりとりが、やけに心地よかった。
次に行く先がどこかなんて、実はあんまり重要じゃない。
ただ、三人で歩いていれば、それで充分だった。
そう――
世界のかたちがいくつ変わっても。
旅は、まだ、終わらない。
僕たちは今日もまた、知らない明日へと歩き出す。
観測という名の旅路を、続けるために。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
拙い点も多々あったかと思いますが、自分なりに書きたいものを形にできたのではないかと思っております。
端末くんたちの旅を最後まで見届けてくださり、改めて心より感謝申し上げます。
今後はまた別の小説も執筆予定ですので、そちらもぜひお読みいただければ幸いです。
それでは、またどこかでお会いしましょう。