全裸の男が、懐中時計を手に近づいてくる。
ようやく、認識が僕に向いたようだった。
「じゃあ……君は?」
おじさんが、優しく微笑みながら、ゆらゆらと時計を揺らす。
「目を見て……そう……リラックスして……言葉が、ゆっくりと、君の奥の意識に届いていくよ……」
懐中時計の揺れに合わせて、柔らかい声が流れ込んでくる。
けれど──
「……ふむ」
僕は、特に何の反応も見せなかった。
「え……?」
おじさんが、一瞬だけ動きを止める。
「今の……全然効いてない?」
「うん、効いてないね」
僕が答えると、おじさんはまるで現実を受け入れられない子どものような顔をした。
「え、それじゃあ──さっきからずっと、見てたの?」
「最初から。全裸の登場から、時計のくだりまで、一部始終」
おじさんの頬がわずかに引きつる。
「うわぁ……それ、けっこう恥ずかしいかも……」
やっとちょっとだけ、自分の異常さに気づいたようなリアクションだった。
でもやっぱり全裸だった。
おじさんは、しばし沈黙した。
その間にも時計は揺れていたが、もう誰の心も揺らしてはいなかった。
「……そっかぁ」
ぽつりと呟くその声には、少しだけ寂しさがあった。
「せっかく、ここまで完璧に仕上げたのに……この技術……この情熱……」
いや、それ以前に服を着てほしい。
「じゃあ、最後に……これだけは言わせてほしいんだけど」
おじさんが、深く息を吸い込む。
そして──
「“裸は自由”って、知ってた?」
全裸のまま、真顔で言い放った。
その言葉に、シロが叫んだ。
「な──なにが自由じゃ!! 最低限の自由すら守れておらんぞお主は!!」
地面を蹴って駆け出しそうな勢いで詰め寄るシロを、僕はそっと手で制した。
「まあまあ、観測はこれで十分だろう」
そう。もう観測は終わったのだ。
“全裸のおじさん”という存在は、確かに倫理を超え、理性を踏みにじりながらも──ひとつの“純粋な信念”として、そこに在った。
だからこそ、それが恐ろしい。
そして──少しだけ、羨ましいとも思ってしまう自分がいた。
信じる力は、時に世界すらねじ曲げる。
全裸でも。
いや、全裸だからこそ──かもしれない。
「……さて、そろそろ次の世界に行こうか」
「やっとか!」
シロは憤慨しながらも、どこかホッとしたように頷いた。
僕はふと後ろを振り返った。
まだそこに立っていた、全裸のおじさん。
だが──次の瞬間。
ふわり、と風が吹いた。
揺れていた懐中時計が、止まる。
同時に、何かが世界から剥がれ落ちるような感覚があった。
おじさんの目が、ぼんやりと宙を見つめる。
「……あれ? 俺、なにしてたんだっけ……」
気づけば彼は、服を着ていた。
いや、最初から着ていたのだ。
おじさんは頭をかきながら、帰路へとついた。
今日も特に変わったことのない、いつも通りの一日。
その背中を、僕たちは黙って見送った。
そう。もう催眠術は存在しない。
そんな力が、この世界にあったことすら──最初から、なかったのだ。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あのとき確かにそこに、“自由”を信じる男がいたということだ。
全裸で。
「……うん。やっぱ催眠術は消して正解だったな」
「当然じゃ!!」
背後で去っていくおじさんを横目に、僕たちは次の世界へと歩き出した。