暖かい
おそらく私がこの世界で、あいまいながらも意識を獲得して初めて感じたのは、頭の先までぬるま湯に潜った時のような、体中を包み込む温もりだった。
後に考えると、この温もりは羊水を介して伝わったママの体温なのだが、この頃はまだ脳が発達しきっていなかったのか、暖かな昼下がりのまどろみのように、ボンヤリと温もりを享受していた。
次に意識を取り戻したのは、くぐもった声が切っ掛けだった。
脳がある程度発達したのか、この頃には寝惚けた状態程度の思考能力を得ていたからこそ、この奇妙な反響した音が、人の声であると理解できた。優しく語り掛ける女性の声、それが女性の声だと理解すると同時に、理屈とは関係なしに確信した。これママの声だと。体を覆う温もりはママの温もりだったんだと。
ママの声を子守歌に、温もりに包まれながら眠りに誘われながら、違和感を抱く。
あれ?うちの母ってこんなに若々しく綺麗な声だったっけ?年中酒ヤケだみ声ババアだったはず…
一つ違和感に気づくと、次々と疑問が頭を過る。
なぜ私はこの若い女性の声を母だと判断している?一人暮らしをしていたはずなのに、なぜ母がここにいる?なぜ母に包まれている?そもそもここはどこなんだ?
なぜ、なぜ、なぜ…
そんな言葉が頭で反響するも、未成熟な脳では数々と浮かぶ疑問を処理しきることが出来ず、疲労した脳は意識を強制的にシャットアウトした。
圧迫感と息苦しさ
それが次に意識を覚醒した切っ掛けだった。
この頃には脳が完全に成長しきり、明瞭な思考を出来る状態になっていたからこそ、突然この状況に放り込まれた当時の私は完全にパニックに陥った。なにせこの世界でのこれまでの意識の覚醒は、脳が未発達の状態での中途半端な意識の覚醒だったため、ほとんど夢のような感覚でしかなかった。なので感覚としては、仕事が終わり、疲れて家事炊事を済ませて明日の仕事に向けて眠りについて、奇妙な夢を見て目覚めたと思ったら、突然このような状況になったわけである。
自分の周囲を覆う膜、皮のようなものが定期的に収縮して圧迫感がどんどん強くなり身じろぎすら出来ず、まともに声が出せない状態。さらには眼も開けられない。そんな苦しみに喘ぎながらも冷静な頭の一部が結論を出す。これって日々の不摂生のせいでヤバイ病気になったんだな、と。
生き残るために、さらに考える。
病院に行こうにも、体が身じろぎ程度も動かせず、眼も開けられないから無理
救急車を呼ぼうにも、自分を取り巻く謎の狭い空間にはスマホが明らかに存在しない。
近隣住民に助けてもらおうにも、声が出せない。
やべえ、詰んでるじゃん…
必死で手立てを考えるも、全て役に立たない。他の手立てを考えようにも、これだけ手段が限定されてしまうと、まともな手立てが浮かんでこない。そんな状態で考え込んでもドツボにはまるだけだと、切り替える。もう思考に頼らず、破れかぶれながら最後まで足掻くことにした。
全力で叫ぼうとしながら、全力で体を動かそうとする。やったことはこれだけだが、体感で数時間はこれを繰り返した。努力が功を奏したのか、手足を数センチだが何度か動かせたし、その時に体を覆う謎の膜に何度か触れられた。そのおかげかどうかわからないが、謎の膜の収縮間隔がどんどん短くなり、その収縮によって私の体がどんどん移動させられていっているのを感じていた。
しばらくして、袋の端?にある穴のような部分に到達したが、そのあとが大変であった。ただでさえ苦しかった圧迫感が増したのだ。以前経験したことがある将棋倒しで、複数人に下敷きにされ、押しつぶされた時のような、あまりの圧迫感による苦痛に耐えていた。どうやらこの収縮は、袋から穴へ、私の体を押し出そうとしているらしく、しばらく耐えていると、頭、体と順番に穴を通して袋から出られたが、そこも先ほどよりは幾分か圧迫感が弱いが、また収縮を繰り返す膜に包まれた謎の空間だった。
だが袋のような場所から出て、収縮の頻度は増えたが圧迫感が緩まり思考に余裕が出たのか、気が付いたこともある。今いる空間の外、くぐもって内容は全く理解できないが、声のようなものが聞こえるのだ。若い女性の苦しむような呻き声、若い男性の焦ったような声、周囲でざわめく複数人の声。ここがどこかはわからないが、どうやら周囲に人はいるらしいということはわかった。いまだに体も動かず声も出せないが、幸いにも収縮による移動は袋にいた時より活発で、どんどん移動していっているのを感じる。気のせいかもしれないが、移動すればするほど声がどんどん大きく鮮明に聞こえるようになっていっているのだ、もしかしたら出口が近づいているのかもしれない。
そしてついに、その時が来た。しばらく収縮による移動を繰り返していると、瞼は開けられないから様子は伺い知れないが、瞼越しに光を感じる場所に出たのだ。暖かで水気を帯びた膜に覆われた狭い空間から、空気を感じる広い場所、明らかに周囲に誰かがいる空間に出られたのだ。するとすぐに、誰かが体に触れ、持ちあげられる感覚がある。
人だ!早く助けを求めないと!
叫ぶために息を思いっきり吸うと、以前はあれだけ苦労しても出来なかったのに、あっさりと肺を空気が満たす。
空気を押し出し声帯を震わせ声として吐き出す。だがその声は想定したものではなかった。
オギャア!オギャア!
助けて!と叫んだつもりであった。しかし実際に口からでた声は、まるで赤子の泣き声のようで、頭の中が混乱一色に染まる。どういうことだと、答えの出ない疑問が繰り返される間も、体は勝手に泣き続ける。
そんなときにまた誰かに持ちあげられる感覚。
柔らかな体に抱き留められ、清潔な石鹸とミルクを思わせる良い香りに包まれると、なぜかひどく安心してしまう。助けを求めなくても、この人は私を助けてくれる、守ってくれるという確信がなぜか湧いてくるのだ。
疲れ切った頭と体が、安心感から意識を手放す正にその直前。この人の一言で、私は現状を理解したのだ。
「生まれてきてくれてありがとう。」