栗東トレーニングセンターの調教が終わった後、三上光輝は池田厩舎でブルーダイヤモンド号の調教後のデータを確認していた。天皇賞・春から一週間が経ち、次の目標である宝塚記念に向けて調整を始めたところだった。
「三上くん、ちょっといいかな」
声をかけてきたのは池田調教師だった。その横には吉野誠一と、もう一人見知らぬ中年の男性が立っていた。豪華なスーツに身を包み、自信に満ちた表情をしている。
「こちらは松原グループの松原隆志社長だ。三上くんに会いたいと来られたんだ」
三上は深々と頭を下げた。松原グループといえば国内有数の大手企業で、競馬界でも有力オーナーとして知られていた。
「初めまして、三上です」
「やはり実物も凛々しいな」松原は満足げに頷いた。「天皇賞・春、見事な騎乗だった。あの内からの抜け出しは神業だよ」
三上は静かに礼を言った。松原の来訪の目的は明らかだった。
「実は三上くんに、うちのマツリダゴールドに乗ってほしいんだ。かしわ記念を考えている」
松原の言葉に、三上は少し驚いた表情を見せた。マツリダゴールドはダート重賞に複数回挑戦している有力馬だが、気性が荒く扱いづらいことで知られていた。
「三上くんを見つけ出したのは吉野さんだしね、仁義は切らせてもらったよ。どうだろう?」
三上は吉野の方を見た。吉野はわずかに笑みを浮かべていた。
「私は構わないよ。他の馬に乗って経験を積むのも良いことだ。特にダートでのG1は、三上くんの今後のキャリアにとっても重要だろう」
吉野の言葉には優しさがあったが、続けて松原に向けて言った言葉には皮肉が混じっていた。
「松原さんは後追いがお上手だな。ブルーダイヤモンドが勝つまで三上くんに目を向けなかったのにね」
「ビジネスは常に結果だよ、吉野さん」松原は気にした様子もなく、むしろ愉快そうに笑った。「君は先見の明があって、私は結果を重視する。それだけの話さ」
二人のオーナーの間に流れる微妙な緊張感を感じながらも、三上は自分の気持ちを整理していた。自分はアメリカでダートを中心に騎乗してきた。「ダート専用機」と揶揄されながらも、その経験が自分の基礎を作った。そして今、芝のG1を二連勝した後に、再びダートで腕を試す機会が訪れている。
「マツリダゴールドに乗らせていただけるなら、ぜひお願いしたいです」
三上の声は静かだったが、確かな意志が感じられた。
「気性が荒いと聞いていますが、一度調教で会わせて頂ければ」
松原の顔に笑みが広がった。「期待していたよ。君なら扱えると思っていた」
「マツリダゴールドは素質十分だが扱いづらい馬だ」池田調教師が補足した。「三上くんの騎乗なら、あるいは...」
三上はわずかに頷いた。内心では、自分の原点であるダートでの騎乗に胸が躍るのを感じていた。芝のG1は大阪杯、天皇賞と制したが、本当の意味での「自分の騎乗」を証明するには、ダートでも結果を出す必要がある。
「明日の朝、調教で乗せてみよう」池田調教師が言った。
その日の夕方、吉野は三上を呼び止めた。
「松原の馬に乗ることは、君のキャリアにとって良い経験になるだろう。ただ、マツリダゴールドは難しい馬だ。騎手を選ぶタイプでね」
「挑戦したいです」三上は迷いなく答えた。「もともと私はダートで育ちました。その経験を活かせる場所でもあります」
吉野はじっと三上を見つめた。そこには今までの三上からは感じられなかった熱意があった。「氷の男」の内側に、確かな炎が灯っているのを吉野は感じた。
「久しぶりにダートを走るのが、楽しみなんだね」
三上は珍しく微笑んだ。「はい。ダートは...私の故郷のようなものです」
吉野は満足げに頷いた。あの天才騎手ミシェル・キンネが言った言葉を思い出していた。「真の騎手は、どんな地面でも、どんな馬でも、その力を引き出せる者だ」
松原グループのマツリダゴールドが、三上光輝にとって新たな挑戦となることは間違いなかった。そして、「ダート専用機」と揶揄されていた過去が、今度は彼の武器となる皮肉な展開が待っていた。