翌朝、栗東トレーニングセンター。夜明け前の冷たい空気の中、三上光輝は池田厩舎に足を踏み入れた。
「おはようございます」
池田厩舎の厩務員たちが迎えてくれた。皆一様に緊張した表情をしている。マツリダゴールドの評判は厩舎内でも知れ渡っていた。
「三上さん、こちらです」
先導された馬房の前で、三上は立ち止まった。中では栗毛の馬が落ち着きなく歩き回っていた。マツリダゴールドだ。鋭い目つきで三上を一瞥すると、いきなり壁に向かって蹴りを入れた。
「気をつけてください。朝から機嫌が悪いみたいで」
厩務員の心配そうな声に、三上は静かに頷いた。
「大丈夫です」
彼はゆっくりと馬房の扉を開け、中に入った。マツリダゴールドは耳を後ろに倒し、威嚇するような目で三上を見つめていた。しかし、三上は怯む様子もなく、静かに馬に近づいていった。
「おはよう」
低く静かな声で話しかけながら、三上は馬との距離を詰めていく。マツリダゴールドは不満げに鼻を鳴らしたが、攻撃的な行動は見せなかった。
三上はマツリダゴールドの首を軽く撫でた。馬は身体を強張らせたが、それでも逃げようとはしなかった。
「運動場へ移動します」
厩務員の声に、三上は一度馬房を出た。マツリダゴールドはベテラン厩務員に引かれて運動場へと向かう。その後ろ姿を見ながら、三上の脳裏にアメリカでの日々が蘇っていた。
「また"Dirt Claimer"が来たぜ」
最初に米国のレース場に現れた頃、地元騎手たちはそう三上を呼んだ。"Dirt Claimer"—ダートのクレーミングレースでしか通用しない三流騎手という意味を込めた蔑称だった。日本人の小さな体格、そして初めは英語もままならなかった彼を見下す言葉だった。
「ダートの汚れた砂しか知らない男」
皮肉と軽蔑を込めた"Dirt Claimer"という言葉は、やがて彼の蔑称となり、「ダート専用機」という形で日本にまで伝わった。しかし今、そのレッテルは皮肉にも現実味を帯びようとしていた。
運動場に到着すると、マツリダゴールドは既に落ち着きなく円を描くように歩いていた。調教騎乗のため、厩務員が鞍を置こうとすると、馬は突然前脚を上げて威嚇した。
「いつもこうなんです。調教を嫌がって...」
厩務員の言葉に、三上は静かに馬に近づいた。
「少し待ってください」
三上はマツリダゴールドの横に立ち、しばらく動かなかった。馬は警戒した目で三上を見つめ続けていたが、やがてその眼差しに変化が生まれた。三上はゆっくりと手を伸ばし、マツリダゴールドの顔を撫でた。
「良い子だ」
その声には、命令でも恐れでもなく、理解と尊重が込められていた。マツリダゴールドは不思議そうに三上を見つめ、やがて身体の緊張が少しずつ解けていった。
厩務員が再び鞍を持って近づく。今度はマツリダゴールドは大人しく鞍を受け入れた。
騎乗した三上は、まずはウォーキングから始めた。マツリダゴールドは時折不満げな仕草を見せたが、三上の手綱さばきに徐々に従っていく。
クレーミングでは、こんな馬がたくさんいた。
思いがけず、あの日々が懐かしく感じられた。最下級レースで、問題児と呼ばれる扱いづらい馬たちに乗り続けた日々。信頼関係を築く時間もなく、時にはその日初めて会う馬で勝たなければならない状況。そんな厳しい環境で、三上は馬を「読む」技術を磨いてきたのだ。
「もう少しペースを上げます」
周囲の目が三上に集まる中、彼は速度を上げた。マツリダゴールドは初め抵抗を示したが、三上の的確なリードに次第に応えていく。ダートコースを一周すると、馬の走りは明らかに変わっていた。
お前は誰にも負けたくないんだよな。俺もそうだよ。
三上の思いは馬に伝わったのか、マツリダゴールドは耳を前に向け、リズミカルに走り始めた。
到着していた松原社長と池田調教師は、その変化に目を見張った。
「驚きだな」松原が呟いた。「あんなに素直に走るマツリダゴールドは初めて見た」
池田調教師も頷いた。「三上くんには何か特別なものがある。馬の気持ちがわかるんだろうな」
走り終えた三上がマツリダゴールドを寄せてきた。馬の息遣いは荒いが、目には充実感が宿っていた。
「どうだった?」松原が尋ねた。
三上は珍しく笑みを浮かべた。その表情には、かつての「ダート専用機」という呼び名を思い出したときの苦さはなく、純粋な喜びがあった。
「良い馬です。力強さの中に繊細さがある。かしわ記念、乗らせていただきたいです」
松原は満足げに頷いた。「頼むよ。あの馬、初めて笑顔で走ったみたいだ」
三上はマツリダゴールドの首を撫でた。馬は目を閉じ、その感触を楽しんでいるようだった。
「ダート専用機」―かつて蔑みの言葉だった"Dirt Claimer"が、今、三上の新たな物語の始まりを告げていた。