光の軌跡   作:社畜A

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第14話 砂煙の向こう

轟音が耳を打った。

「発走!」

ゲートが開くと同時に、砂煙が空中に舞い上がった。息を呑む瞬間、すでにマツリダゴールドの筋肉が弾けるように緊張するのを三上は感じていた。前に出ようとする馬の意志を、彼は手綱で押さえつけることはしなかった。

「行け!」

船橋1600mのホームストレッチからのスタート。砂が顔に叩きつけられる中、マツリダゴールドは猛然と飛び出した。周囲の馬群が一気に集まり、砂を巻き上げながら先頭争いが始まる。全身が鋭い緊張に包まれた。ダートのレースは芝とは全く違う。最初から全てが激しく、荒々しい。

視界は砂で曇り、三上の顔には細かい砂粒が容赦なく降り注いだ。目を細めながらも彼は前を見据え続けた。

「キングサンダー号が先頭に立ちました!2番手にスーパールーキー、そして3番手に三上騎乗のマツリダゴールドが続きます!」

実況の声が場内に響くが、三上の耳には届いていない。今、彼の世界は砂と汗と血の匂いに満ちていた。わずか250mほどで迎える1コーナーに向けて、各馬が位置取りを争う。

マツリダゴールドの背中で、三上は芝のレースとは異なる感覚を全身で受け止めていた。砂の上を走る時の震動、足元からの反発力、周囲の馬との激しいコンタクト。これこそが彼の原点だった。

「クソッ!」

横から強引に割り込んできた馬に、マツリダゴールドが怯む。気性の荒い馬は普通なら暴れ出すところだが、三上の穏やかな手の感触が馬を落ち着かせた。

「大丈夫だ、このままでいい」

芝のレースではほとんど見られない馬同士の接触。砂を蹴り上げる蹄の音が雷鳴のように響く中、三上は冷静さを失わなかった。

1コーナーに差し掛かる。船橋特有の緩やかな入り口を活かし、三上はマツリダゴールドのスピードを一切落とさなかった。スパイラルカーブという高低差のついたコーナーは多くの騎手を惑わせるが、三上にとっては懐かしい感覚だった。

「マツリダゴールドがコーナーで上昇!2番手に躍り出ました!」

遠心力で体が外に引っ張られる感覚。砂の質感を読み取りながら、三上は絶妙のバランスでマツリダゴールドを支えていた。アメリカのダートコースで千回以上も同じことを繰り返してきた経験が、今、彼の体に染み付いていた。

砂煙の中、先頭のキングサンダー号のシルエットが見えた。

 

「ここだ」

 

三上は一瞬だけ、自分の中に流れる氷のような冷静さを感じた。芝の上では「氷の男」と呼ばれた彼だが、今、ダートの上では別の男になっていた。熱く、激しく、そして本能的に。

スパイラルカーブの遠心力を利用し、マツリダゴールドは加速した。周囲の馬が少しでもスピードを落とす中、彼らだけが速度を上げていく。その感覚は電流のように三上の背筋を駆け上がった。

「これこそがダートだ」

かつて蔑まれた「ダート専用機」という言葉が、今、三上の中で誇りに変わっていた。

砂煙の向こうに、未だ見ぬゴールが待っていた。

「2コーナーに入ります!先頭はキングサンダー号、しかしマツリダゴールドが猛追!外から一気に差し迫りました!」

バックストレッチに入ると、先頭のキングサンダー号との距離はわずか半馬身。三上は手綱を緩めることなく、マツリダゴールドのリズムを崩さないよう意識していた。ダートレースの芯を走る感覚。それは芝とは全く異なる、重く、しかし力強い振動だった。

「まだだ、我慢だ」

三上は自分に言い聞かせるように呟いた。船橋の1600mはコーナーの入り口が緩やかなため、スピードを維持しやすい。しかしその分、踏み込みのタイミングが難しい。早すぎても、遅すぎても勝機を逃す。

バックストレッチの向こうで、観客の姿がぼんやりと見えた。しかし三上の視界には砂煙と先頭馬の姿しかなかった。

「マツリダゴールドが先頭に立ちました!キングサンダー号を押さえ込み、トップに踊り出ます!しかし後方からスーパーエンブレムが追い上げてきました!」

先頭に立った瞬間、マツリダゴールドの走りが変わった。三上にはそれが手に取るように分かった。馬の筋肉が一層強く収縮し、一歩一歩がより力強くなる。先頭を走る喜びが、馬から伝わってくる。

そうだ、お前はそのために生まれてきたんだ

三上は馬の耳元で囁いた。砂煙に紛れて誰にも聞こえない言葉だが、マツリダゴールドには確かに届いていた。

3コーナーに差し掛かると、後方からの追い上げが本格化した。スーパーエンブレムが猛然とした勢いで迫ってくる。さらに内側からは昨年覇者のレッドスピリットが、狭いギャップを縫うように前へ出てきた。

三上の体に砂が容赦なく叩きつけられる。視界はますます悪くなり、周囲の声も砂を噛むような嘶きに変わっていた。ダートのレースは、砂の海を泳ぐようなものだ。

「ここからが真の勝負だ!3コーナーを回って、残り400メートル!マツリダゴールドがリード、しかしスーパーエンブレム、レッドスピリットの猛追を受けています!」

4コーナーに差し掛かると、マツリダゴールドが少し苦しそうな素振りを見せた。ここまでハイペースで飛ばしてきたツケが回ってきたのだ。内からレッドスピリットが差し迫り、外からはスーパーエンブレムが迫る。三上を挟み撃ちにするような形だった。

苦しい状況で三上は過去のクレーミングレースを思い出していた。何百という底辺のレースで、彼はこんな状況を何度も経験してきた。胸に秘めた記憶が、今、鮮明によみがえる。

「Dirt Claimer」(ダート・クレイマー)と蔑まれた日々。

「Japanese boy can't ride here」(日本人の小僧にはここでは乗りこなせない)と言われた日々。

全てが今、この瞬間のために存在していた。

「マツリダゴールド、苦しい場面です!このまま押し切れるのか、それとも—」

三上は静かに手綱をほんの少し緩めた。マツリダゴールドの耳がピクリと動く。馬と騎手の無言の会話がそこにあった。

「行くぞ」

第4コーナーの出口、直線に入る瞬間、マツリダゴールドの筋肉がバネのように弾けた。まるで新たな馬に生まれ変わったかのように、再加速する。

「マツリダゴールド、再び加速!直線に入って猛然とした伸び!これはすごい末脚です!」

内外から挟まれた状況から、一気に抜け出した。三上の体は完全にマツリダゴールドと一体化し、砂塵の中で唯一の確かな存在となっていた。

最後の直線、残り200メートル。

「来るぞ!スーパーエンブレムが外から迫ります!」

スーパーエンブレムが外から迫り、わずかにリードを削り始めた。一方、内側のレッドスピリットは徐々に失速し始めていた。

三上は手綱を握り直し、マツリダゴールドの背中でわずかに体勢を変えた。このわずかな動きが、馬に最後の指示を与える。

「残り100メートル!マツリダゴールド、スーパーエンブレムの猛追を受けています!このまま逃げ切れるか!?」

砂塵の中、二頭の馬が一歩一歩、ゴールに近づいていく。観客の声援が砂を突き抜け、場内に響き渡る。

マツリダゴールドの呼吸が荒くなり、疲労の色が見え始めた。しかし、その眼には決して諦めない意志が宿っていた。三上もまた、全身全霊でゴールを見据えていた。

「残り50メートル!接戦です!」

三上は最後の追い込みに出た。マツリダゴールドが蹴り出した後脚が戻る瞬間、馬の首が自然と下がる。三上は肩甲骨から腕全体を使い、手綱を巧みに操った。馬の尻が上がり、首がさらに押し下げられる。

人馬一体となった最後の力の振り絞り。三上は胸を馬の首に近づけ、限界まで前傾姿勢を取った。その動きが、騎手と馬の完全な同調を生み出す。

 

お前は強い。誰にも負けない

 

マツリダゴールドの耳がピクリと動き、その瞬間、最後の爆発的な力が湧き上がった。人と馬の心が一つに溶け合い、二つの生命が一つの流れとなって砂煙を切り裂いていく。

「ゴール!」

フィニッシュラインを越えた瞬間、三上は既に結果を知っていた。マツリダゴールドの背中で、彼は静かに微笑んだ。

「勝者はマツリダゴールド!三上光輝騎手、芝のG1に続き、ダートG1も制しました!かつての『ダート専用機』が、本当の意味でダートの王者となりました!」

三上は汗と砂に塗れた顔を上げ、空を見上げた。ダートの匂い、砂の感触、それは彼の原点だった。芝で証明した実力を、今度は生まれた場所で示した。これ以上の証明は必要なかった。

マツリダゴールドの首を優しく叩きながら、三上は静かに微笑んだ。

「ありがとう」

その言葉は、馬に向けられたものでもあり、かつて彼を「Dirt Claimer」と呼んだ全ての人々に向けられたものでもあった。

 

 

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