2021年7月某日
朝靄の中、サラトガ競馬場の木々は緑の影を落としていた。まだ開門前の静寂に包まれた厩舎エリアで、三上光輝は深く息を吸い込んだ。馴染みのある砂と馬の匂い。懐かしさと同時に、どこか複雑な感情が胸の内を過ぎる。
「ようこそ戻ってきたな、三上」
声の主は、くたびれたチェック柄のジャケットを着た中年男性、マイク・ジョンソンだった。三上のアメリカエージェントを務める彼は、三上の肩を力強く叩いた。
「久しぶりだな、マイク」
三上はいつもの無表情ながらも、わずかに口角が緩んだ。
「日本で大暴れして帰ってきたじゃないか。新聞や競馬サイトは"日本を席巻した男の凱旋"って大騒ぎだぞ」マイクは笑いながら言った。
「…騒がしいな」
「まったく変わらないな、お前は」マイクは頭を振った。「でも、変わったところもある。目の輝きが違う」
三上は黙って厩舎の方を見た。かつて自分が「Dirt Claimer」と呼ばれていた日々。最下層のクレーミングレースで、年間1000回を超える騎乗をこなしながら必死にしがみついていた頃。
「今日からだ」三上は静かに言った。「見ていてくれ」
マイクは意味ありげに頷いた。「すでに初日から2鞍確保している。明日も3鞍。評判が良ければ、サバーバンへの騎乗も見えてくる」
「わかった」
三上は歩き始めた。アメリカへの帰還。しかし今回は違う。日本でのG1三連勝の経験は、彼に新たな自信を与えていた。クレーミングレースから這い上がり、日本のトップレースで証明した実力。今度はその全てを、かつて彼を「Dirt Claimer」と呼んだこの地で示す番だった。
「発走!」
ベルモント競馬場の開幕週。ダートコースの砂煙が舞い上がる中、三上が騎乗するブレイジング・ディパーチャーが鮮やかに好発進を決めた。クラスが一つ上がったアローワンス戦、三上の復帰初騎乗だった。
砂を蹴り上げながら、先頭集団の中団につける三上。かつての感覚が体に蘇る。アメリカのダートは日本とは異なる質感。しかし、その違いを読み取る能力は、彼の武器だった。
「ブレイジング・ディパーチャー、中団からじりじりと前へ!日本からの刺客、三上光輝騎手の判断が光ります!」
実況の声がコース内に響く。三上は冷静に周囲の馬の動きを観察していた。フロントランナーのペースが速すぎる。ここで我慢して、最後の直線で仕掛ける——。
コーナーを回り終え、最後の直線に入ると、三上は外へ持ち出し、一気に追い込みをかけた。ブレイジング・ディパーチャーの脚が伸び、次々と先行馬を捉えていく。
「ブレイジング・ディパーチャー、外から一気に伸びてきました!最内からはキャプテン・アメリカが踏ん張ります!接戦です!」
三上は無駄のない鞭使いで馬を促し、フィニッシュラインまであと50メートルで先頭に立った。
「ブレイジング・ディパーチャー、三上光輝騎手、アメリカ復帰初騎乗で見事勝利!」
勝利後、三上は静かに馬の首を叩いた。その表情は無感情そのものだったが、内心では確かな手応えを感じていた。
「さすがだな」とマイクが近づいてきた。「一本で勝っちまうとは。これでオファーが増えるぞ」
「…馬がいい子だった」
「相変わらず謙虚だな」マイクは笑った。「明日もいい馬を用意してある。ダートの"専用機"ぶりを見せてやれ」
三上は小さく頷いた。日本で「ダート専用機」と揶揄されたレッテルは、今や彼の誇りだった。それを証明する場所として、これ以上ふさわしい舞台はなかった。
翌日、三上は再び勝利を手にした。そして週末のドワイヤーステークス(G3)では2着。短期間でアメリカ競馬に再適応した三上の評価は日に日に高まっていった。
サラトガ競馬場の騎手部屋。三上がロッカーで着替えていると、地元新聞の記者が近づいてきた。
「三上さん、インタビューよろしいですか?『日本のG1を制した男がアメリカに帰還』というテーマで記事を書いています」
三上は黙って頷いた。
「日本での成功後、なぜアメリカに戻ることを選んだのですか?」
三上は少し考え、シンプルに答えた。「私の原点はここだから」
「クレーミングレースから始まった苦労の日々を経て、今やG1ジョッキーになった心境は?」
「…変わらない。馬と向き合うだけ」
記者は三上の寡黙さに少し戸惑いながらも質問を続けた。「サラトガでの目標は?」
「勝つこと」
インタビューが終わると、マイクが半ばあきれたような表情で近づいてきた。
「相変わらず少ない言葉だな。まあいい、記者は『氷の男』のキャラクターが気に入ったようだ」マイクはスマートフォンを見せた。「デラウェアハンディキャップの騎乗が決まったぞ。ミスティック・ガイドだ」
「G2か」
「ああ。調教師はサンダース。お前の日本での成績を見て依頼してきた。特に『馬の扱いが上手い』という評判を気に入ったらしい」
デラウェアハンディキャップは、三上にとって今回の遠征最初の大きな挑戦だった。かつてクレーミングの世界にいた頃、同じコースで行われるG2を遠くから眺めていたことを思い出す。あの頃は、ただ生き残ることだけを考えていた。
「準備はいいな?」マイクの声に、三上は我に返った。
「ああ」
「明日の調教で馬の感触をつかんでおけ。この勝負、大きいぞ」
三上は静かに頷いた。内心では、日本でのブルーダイヤモンド号との時間が頭をよぎった。あの馬との絆が、彼に多くのことを教えてくれた。その経験をここでも活かす時だった。
デラウェア競馬場。G2デラウェアハンディキャップのパドックで、三上はミスティック・ガイドの状態を確認していた。筋肉質の栃栗毛の馬体は引き締まり、目の輝きも良好だった。
「調子はどうだ?」サンダース調教師が近づいてきた。
「いい状態です」三上は簡潔に答えた。「少し緊張していますが、それは悪いことではない」
サンダース調教師は意外そうな表情を浮かべた。「馬の緊張を読み取れるのか」
三上は何も言わず、馬の首筋に手を当てた。ミスティック・ガイドはその接触で耳をピクリと動かし、わずかに体の緊張が解けた。
「…面白い」サンダース調教師は思わず呟いた。
レースが始まると、ミスティック・ガイドは中団の内目に位置取った。三上は馬の呼吸を感じながら、ペースを読み取っていく。フロントランナーのペースが上がり始めると、三上は馬に囁きかけるように手綱を操作した。
コーナーを回り終えると、先頭集団が一気に動き出す。三上もわずかに体勢を変え、外へ持ち出した。
「ミスティック・ガイド、三上騎手が外から仕掛けます!前方ではレガシー・ウォリアーが先頭、それにラストチャンスが迫ります!」
三上の騎乗するミスティック・ガイドは鋭く伸び、残り100メートルで3位に浮上。さらに追い込むが、トップ2頭との差を詰めきれず、そのまま3着でフィニッシュした。
勝利こそ逃したものの、G2での3着は立派な結果だった。下馬後、三上はミスティック・ガイドの汗を拭いながら、馬の首を優しく叩いた。
「よく頑張ったな」
サンダース調教師が近づいてきた。「素晴らしい騎乗だった。馬の脚を温存して、最後に使う判断が良かった」
三上は静かに頷いた。
「今度はウィンターチャンピオンでも頼みたい。来週だが、どうだ?」
「承知しました」
マイクは少し離れたところから、満足げにこの光景を見ていた。かつてのクレーミング騎手が、ここまで評価されるようになったことに、彼自身も感慨深いものがあった。
7月最終週、三上の評判は急速に広がっていた。地元メディアや競馬専門サイトでは「日本で活躍したアメリカ競馬出身の日本人騎手の帰還」として取り上げられ、騎乗依頼は倍増していた。
サラトガの朝調教中、騎乗後の三上に1人の男が近づいてきた。高齢だが背筋の伸びた小柄な男性、かつてのトップジョッキーで現在は調教助手を務めるトニー・メイヤーズだった。
「お前が三上か」トニーは三上を見上げた。「クレーミングから始まって、日本のG1を制したという男だな」
「はい」三上は静かに答えた。
「昔、お前がクレーミングで乗っていた頃を覚えているよ。『日本人には無理だ』って皆が言っていたな」トニーは柔らかな口調で言った。「だが、お前はやり遂げた」
三上は何も言わなかった。かつての苦難の日々が脳裏をよぎる。
「サバーバンハンディキャップに騎乗が決まったそうだな」トニーは続けた。「マインド・コントロールは難しい馬だが、お前なら扱えるかもしれん」
三上の目が僅かに見開かれた。サバーバンハンディキャップはサラトガの重要なG2レース。そして、マインド・コントロールはG1勝利経験を持つ名馬だった。
「デラウェアでのお前の騎乗を見て、オーナーが決めたらしい」トニーは付け加えた。「『馬の声が聞こえる男』という評判を聞いてな」
三上は静かに頷いた。「全力を尽くします」
トニーは意味深に笑った。「お前はもう、『Dirt Claimer』なんかじゃない。それを証明する時だ」
サバーバンハンディキャップ当日。サラトガ競馬場はこの日、多くの観客で賑わっていた。パドックでは、マインド・コントロールが落ち着きなく歩き回っていた。
「少し神経質そうだな」トレーナーのグレッグ・サコが三上に言った。「いつもより興奮している」
三上は馬の目を見つめ、ゆっくりと近づいた。マインド・コントロールは耳を後ろに倒し、警戒心を見せたが、三上が静かに話しかけると、徐々に落ち着き始めた。
「不思議だな」グレッグは驚いた様子で言った。「普段はもっと扱いが難しいんだが」
「彼は不安なだけです」三上は静かに答えた。「自分の力を持て余しているんです」
レース前の騎手への最終指示の際、グレッグは三上に言った。「作戦は君に任せる。馬が教えてくれるだろう?」
三上は初めて、かすかな笑みを浮かべた。
ゲートに入ると、マインド・コントロールは再び興奮し始めたが、三上の静かな声に反応して落ち着いた。
「発走!」
ゲートが開くと同時に、馬群が一斉に飛び出した。マインド・コントロールは好発進を決め、三上はそのまま先頭集団の4番手につけた。前方では昨年のチャンピオンであるホワイトアビスが先頭に立ち、ペースを作る。
三上は冷静にレースを読み進めた。ホワイトアビスのペースが速すぎる。後方からはフォレストキングが徐々に迫ってくる。状況を見極めながら、三上は絶妙のタイミングを待った。
最後のコーナーを回り、直線に入ると、三上はマインド・コントロールに指示を出した。馬は見事に反応し、外から一気に加速。先頭集団を抜け出し、残り100メートルで先頭に立った。
しかし、内からホワイトアビスが反撃。さらに外からはフォレストキングも迫る。三重の競り合いとなった最後の50メートル。三上とマインド・コントロールは懸命に粘ったが、わずかにホワイトアビスに及ばず、2着でゴールした。
「ホワイトアビスが逃げ切りました!2着はマインド・コントロール、三上光輝騎手!接戦を制したのはディフェンディングチャンピオンでした!」
下馬後、三上はマインド・コントロールの首を優しく撫でた。馬は疲れた様子ながらも、誇らしげに頭を高く上げていた。
「素晴らしい騎乗だった」グレッグが近づいてきた。「もう少しで勝てたな」
「次は必ず」三上は静かに答えた。
その言葉には確かな自信が宿っていた。アメリカでの7月、三上光輝は「帰還」を果たしただけでなく、新たな挑戦への第一歩を確実に踏み出していた。
テレビカメラが三上に向けられ、レポーターが近づいてきた。「三上騎手、日本でのG1三連勝後のアメリカ帰還、そして早くもビッグレースでの好成績。現在の心境をお聞かせください」
三上は少し考え、シンプルに答えた。「馬が教えてくれました。次は必ず勝ちます」
その表情には、かつての「Dirt Claimer」の面影はなく、世界を舞台に戦う騎手としての確かな存在感が感じられた。マイクはそんな三上の姿を見て、静かに頷いた。
「見ろよ、世界。三上光輝はもう誰にも止められない」
遠く離れた日本では、三上の活躍を伝えるニュースに、多くのファンが熱狂していた。その中で、BS11の「Winning Horses」のスタジオで、菅原優華はカメラに向かって静かに微笑んでいた。
「三上騎手の『帰還』はまだ始まったばかり。8月のサラトガ本番での活躍にも、ぜひご注目ください」
彼女の瞳には、プロフェッショナルとしての冷静さの中に、どこか特別な輝きが宿っていた。