光の軌跡   作:社畜A

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第27話 二つの道

サラトガ競馬場のバックサイドは、朝靄の中で既に活気に満ちていた。三上光輝は時計を見た。午前5時15分。最初の調教騎乗まであと15分ある。彼はコーヒーカップを手に、40番厩舎へと向かった。

「やあ、三上。早いね」

エクイティ・レーシングのジェイソン・パークが笑顔で迎えた。30代前半のこの新興馬主は、テクノロジー系投資ファンドでの成功を競馬界に持ち込み、サラトガシーズンに特化した戦略で注目を集めていた。

「アクセレレーターはどうですか?」三上は静かに尋ねた。

「調教師によれば絶好調だ。今週末のジム・ダンディS(G2)に向けて最終調整だ」パークは熱心に説明した。「サラトガ開幕週に君が彼で勝利してくれたおかげで、すべてが順調に進んでいる」

三上は黙って頷いた。エクイティ・レーシングとの「サラトガ・パートナー」契約は、彼の夏季限定参戦と完全に一致していた。7月から9月の間、彼らの主力馬すべての第一騎乗権を三上が持つという約束だった。

「サラトガのコースコンディションは日によって変わる」パークはトラックを見渡しながら言った。「今朝は昨日の雨の影響で少し重めだが、週末までには乾くだろう。この『王者の墓場』の変化を読み切るのは一筋縄ではいかない」

三上は静かにトラックを観察した。確かに、サラトガの馬場は特殊だった。タイトなターン、微妙な高低差、そして何より天候による変化の大きさ。多くの名馬がここで思わぬ敗北を喫してきたのも納得できる。

「それと、コーエン先生が9番厩舎で待っている」パークが付け加えた。「何か新しい2歳馬を見つけたらしい」

三上はわずかに表情を和らげた。サラ・コーエン獣医師との「若馬投資アドバイザー」契約も順調に進んでいた。彼女のシンジケート「ネクストジェネレーション・ブラッドストック」は若馬の発掘と育成に特化しており、三上の「馬の声を聞く」能力に大きな期待を寄せていた。

「分かりました。アクセレレーターの調教後に向かいます」

 

アクセレレーターの調教は順調に進んだ。三上の騎乗の下、馬は5ハロンを力強く走り切った。サラトガのトラックに完璧に適応している様子が伺えた。

「彼はこのコースを気に入っている」三上は馬を冷却しながらパークに伝えた。「特にターンでの安定感が素晴らしい」

パークは満足げに頷いた。「君のサラトガ・スペシャリストとしての目は確かだ。今週末のジム・ダンディでは、ターンでのポジショニングが勝負のカギになるだろう」

調教を終えた三上は、約束通り9番厩舎へと向かった。

 

「この馬よ、一番奥の馬房の」

サラ・コーエンは三上を9番厩舎の奥へと案内した。40代半ばの彼女は、獣医としてのキャリアを経て小規模ながら精鋭の若馬シンジケートを立ち上げていた。

「スカイピアサー。覚えてる?先日ファスティグ・セールの前にオカラのトレーニングセンターで評価してもらった馬よ。あなたの評価に基づいて25万ドルで購入したわ」

三上は馬房の前に立ち、静かに中を覗き込んだ。そこには筋肉質な栗毛の2歳馬が、やや警戒するような目で彼を見返していた。オカラでの出会いを思い出した。

「...話しかけてもいいですか?」三上は静かに尋ねた。

コーエンは頷き、少し距離を取った。三上は馬房に近づき、静かに声をかけ始めた。最初は警戒していたスカイピアサーだったが、次第に耳を前に向け、三上の声に反応し始めた。

五分後、三上は馬房から離れた。

 

「どう?環境の変化に適応できている?」コーエンが期待を込めて尋ねた。

「少しずつ落ち着いてきています」三上は慎重に言葉を選んだ。「ただ、まだ自分の力を恐れている様子は変わりません。特別な調教プランが必要でしょう」

コーエンは真剣に頷いた。「あなたの『自分の力を恐れている』という洞察は正確だったわ。オカラのトレーニングセンターのジムも『この馬には問題がある』と警告したけど、あなたが『才能がある』と言ったから決断したの」

三上は責任の重さを感じながらも、静かに頷いた。彼の「馬の声を聞く」能力は、ここアメリカでもその真価を問われ始めていた。

「金曜日に特別調教があります。騎乗していただけないかしら?」

「...分かりました」

 

その日の午後、トレーニングトラックでの調教を終えた後、三上は事務所でスケジュールを確認していた。すると、コーエンとパークが連れ立って入ってきた。二人は既に面識があるようで、軽く挨拶を交わした。

「三上、パークが私の新しい2歳馬ターフスター号に興味を持っているの」コーエンが説明した。

「彼女の馬の中で最も有望なのがその馬だからね」パークが笑った。「私は購入を検討している。もし買えたら、土曜のサンフォード・ステークス(G3)に出走させたい」

「もちろん、購入するかは三上さんの評価次第よ」コーエンが付け加えた。「私たちネクストジェネレーションは育成が専門で、G3レベルの勝負は他の馬主に任せるポリシーなの。もしパークのような良い馬主が見つかれば、彼らに任せて次の若馬を探すのが私たちのビジネスモデルよ」

三上は二人のビジネスの仕組みを理解し始めていた。コーエンは若馬の才能を見出し、初期の問題を解決する専門家。そしてパークのようなオーナーがその馬を購入し、重賞レースで勝負する。その過程に三上の「目利き」が加わることで、全体の効率が上がるという構図だった。

「金曜日、スカイピアサーの後に、ターフスター号にも騎乗します」三上は静かに答えた。

パークは満足げに笑った。「素晴らしい。私たちの『サラトガ・スペシャリスト』の意見は非常に価値がある。特にこの『王者の墓場』での判断は」

三上は静かに考えていた。この二つの契約は、彼のアメリカ滞在を最大限に活かす完璧な組み合わせだった。エクイティ・レーシングのメインレースと、コーエンの若馬発掘。両方とも彼の「馬の声を聞く」能力を真に評価し、活用していた。しかし同時に、大きな責任も伴うものだった。

 

金曜の朝、三上はスカイピアサーに騎乗した。調教師の指示は「軽く5ハロンを」というものだったが、三上は馬の反応を見ながら独自のアプローチを取った。

最初は常歩で芝コースを一周。その後、ゆっくりと速度を上げていく。馬が恐怖を感じると、すぐに速度を落とし、安心させる。そして再び少しずつ速度を上げる。この繰り返しで、馬は徐々に自信を取り戻していった。

 

「驚くべきね」コーエンはギャロップを終えた三上を出迎えた。「典型的な調教とは全く違うアプローチだったけど、この馬が初めて本来の能力を発揮したわ」

三上は小さく頷いた。「彼は恐怖を克服し始めています。今週末にもう一度同じように調教すれば、来週のメイデン戦に出走できるでしょう」

「あなたの評価で購入した馬だから、特に気になるわ」コーエンは真剣な眼差しで言った。「もし成功すれば、あなたへの報酬だけでなく、私たちシンジケートの評価も上がる。失敗すれば...」

彼女は言葉を切ったが、その意味は明白だった。彼らはビジネスパートナーとして、成功も失敗も共有する関係だった。

 

次にターフスター号への騎乗。この馬はスカイピアサーとは異なり、既に自信に満ちており、高い能力を示していた。三上は5ハロンを力強く走り切り、パークとコーエンの待つ場所へと戻った。

「どうだった?」パークが興奮した様子で尋ねた。「サンフォード・ステークスで戦えるレベル?」

三上は珍しく、言葉を選ばず直接的に答えた。「この馬なら勝てます」

パークとコーエンは顔を見合わせ、笑顔を交わした。

「決めた。購入しよう」パークはコーエンに向かって言った。「価格と条件は後で詰めるとして、今すぐに手続きを始めよう。土曜のサンフォードまであと24時間しかない」

コーエンは満足げに頷いた。「では私はオフィスに戻り、手続きを進めるわ。三上、あなたの目利きに感謝するわ」

パークが三上と二人きりになると、彼は少し声を落として話し始めた。

「コーエンに言うと自慢話に聞こえるから言わなかったが、実はターフスター号に関しては彼女より先に興味を持っていたんだ」パークは打ち明けた。「レーダーに入ってはいたが、今日の君の評価で確信が持てた」

三上は静かに聞いていた。

「サラトガでは時に『王者の墓場』と呼ばれるとおり、単純な血統やタイムだけでは勝てない」パークは真剣な表情で続けた。「ここでは馬の精神力や環境への適応能力が問われる。君のような『サラトガ・スペシャリスト』の直感が、データよりも価値を持つことがある」

三上は微かに頷いた。「サラトガは特殊な場所だと感じます。馬が本来の力を出せるかどうかは、単なる能力以上の何かが左右する」

「その通りだ」パークは嬉しそうに言った。「君が私たちのチームにいることで、データだけでは見抜けない要素を補完してくれる。これこそが私が求めていたパートナーシップだ」

 

土曜日、サンフォード・ステークス(G3)の日。パークがコーエンからターフスター号を購入し、急遽馬主登録を変更した。2歳馬限定の重要なG3レースだ。

パドックで三上はターフスター号の状態を確認していた。馬は落ち着いており、目の輝きも良好だった。

「緊張するね」パークが三上に近づいてきた。「私の所有馬としては初めての経験だ。購入して24時間以内に重賞レースだなんて」

「大丈夫です」三上は静かに答えた。「彼は準備ができています」

パークは深く息を吐いた。「これが成功すれば、今後も同じパターンでコーエンから有望馬を購入していくつもりだ。彼女の目利きと君の評価、そして私の資金力。これは強力な組み合わせになる」

 

レースでは、三上は絶妙のタイミングで後方から追い込みをかけ、最後の直線で先頭に立ち、そのまま押し切った。

「購入して24時間以内で重賞勝利だ!」パークはウイナーズサークルで興奮気味に叫んだ。「さすが『サラトガ・スペシャリスト』!」

三上は静かに馬の首を叩いた。明日はジム・ダンディS(G2)でアクセレレーターに騎乗する予定だ。メインレースと若馬戦、両方での成功。この週末が、彼のアメリカ滞在の目的を完全に体現していることに、三上は静かな満足感を覚えていた。

 

その日の夕方、レース後のインタビューでパークは三上の貢献を惜しみなく称えた。

「三上光輝はまさにサラトガ・スペシャリストです」彼はカメラに向かって言った。「彼の『馬の声を聞く』能力と、このコース特有の難しさへの適応力は群を抜いています。私たちエクイティ・レーシングは彼との提携を非常に誇りに思います」

取材を終えた三上がロッカールームに戻ると、メールが届いていた。コーエンからだった。

「三上、おめでとう。あなたの評価通りの結果になったわ。今日の成功で、ターフスター号の売却による追加ボーナスをすぐに送金するわ。あなたの『目利き』がなければ、この取引は成立しなかったかもしれない。明日のアクセレレーターでの成功も祈っているわ。」

三上は静かに微笑んだ。彼の役割は単なる騎手を超え、ビジネスパートナーとしての側面も強まっていた。それは大きな責任でもあったが、同時に彼の能力が真に評価される喜びでもあった。

 

翌日のジム・ダンディS(G2)。アクセレレーターは三上の騎乗で見事に勝利し、次走のトラヴァーズS(G1)への出走権を獲得した。二日間で二勝。エクイティ・レーシングと「ネクストジェネレーション・ブラッドストック」の馬で。

 

夕方、サラトガダウンタウンのレストランの個室で、パークとコーエンは三上を囲んで祝杯を上げていた。

「これは完璧な週末だった」パークはワインを注ぎながら言った。「三上、君の7〜9月という滞在期間は、サラトガシーズンと完全に一致している。これは偶然じゃない」

コーエンも頷いた。「私の若馬投資サイクルとも完全に一致しているわ。春から夏に購入と初レース、そして君がいない間に経験を積ませて、翌年の夏には3歳馬として本格化」

「まるでこの三人の関係が運命づけられていたかのようね」彼女は笑った。

パークはグラスを掲げた。「我々三人の提携が生み出す価値は、個々の合計以上だ。エクイティ・レーシングのデータ分析、コーエンの獣医学的知見、そして三上の『馬の声を聞く』能力。この組み合わせは業界に革命を起こすかもしれない」

三上は静かにグラスを持ち上げた。彼の目には珍しい温かさが宿っていた。

「来週はスカイピアサーのメイデン戦ですね」彼は静かに言った。

「そうね。それとアクセレレーターのトラヴァーズ」コーエンが応じた。「スカイピアサーは特に楽しみよ。あなたの評価で購入して、あなたの特別調教で改善した馬だもの。もし成功すれば、あなたの能力の確かな証明になるわ」

「グレードレースと若馬育成の両立。これが三上光輝のサラトガだ」パークが笑顔で言った。

「サラトガ・スペシャリストと若馬投資アドバイザー」コーエンが付け加えた。「両方の役割を果たす三上の姿は、業界的にも前例がないわ」

三上は静かに頷いた。短い夏のアメリカ滞在だが、彼は最大限の成果を上げつつあった。そして何より、彼の特殊な能力を真に理解し、活用してくれるパートナーを見つけたことが、最大の収穫だったのかもしれない。

「アメリカでのブレイクスルー」「新たな才能の発見」。三上は心の中でこの夏の目標を再確認した。そして、その両方が既に実現しつつあることに、静かな喜びを感じていた。その一方で、彼は自分の評価が大きなビジネス判断に影響することの責任も、しっかりと自覚していた。

レストランを出る際、パークが三上に小さな箱を渡した。

「ささやかなプレゼントだ」彼は微笑んだ。「サラトガの伝統的な競馬場バッジ。創立1863年以来の歴史を持つ『王者の墓場』のシンボルだ」

三上は丁寧に受け取り、静かに礼を言った。

「サラトガ・スペシャリストとしての証だよ」パークは意味深に言った。「来年も、ここで会おう」

三上の表情には何の変化も見られなかったが、その心には確かな決意と、複雑な思いが交錯していた。彼の目標はJRA通年免許の取得。しかし同時に、このアメリカでの特別な役割も、彼の一部になりつつあった。

「二つの大陸を駆ける」という言葉が、彼の頭の中で新たな意味を帯び始めていた。

 

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