ベルモント・パークの朝霧が晴れ始めた10月初旬の早朝、三上光輝は静かに時計を見た。午前5時。今日はジョッキー・クラブゴールドカップの日だった。
「準備はいいか?」
声をかけたのはマイク・ジョンソン。いつものくたびれたチェック柄のジャケットに身を包み、クリップボードを抱えている。
「ああ」三上は短く答えた。
「今日のマウントガードの調子は上々らしい」マイクは資料を確認しながら言った。「特にベルモントのコースとの相性が良いと調教師も太鼓判を押していた」
三上は黙って頷いた。9月にウッドワードステークス(G1)を制してから、彼の評価は一段と高まっていた。「Versatile Rider from Japan」(日本からの多才な騎手)と現地メディアは呼び始めていた。
「今日のレースプランは?」マイクが尋ねた。
「コーナーまでは中団。最後の直線で外から差す」三上は淡々と答えた。「マウントガードは最初から飛ばすと終わりが甘くなる」
「なるほどな」マイクは頷いた。「昨日の追い切りを見る限り、この馬は最初のスピードを抑えることが肝心だ」
二人はトレーニングトラックを見つめながら、レースプランの詳細を詰めていった。
午後のジョッキー・クラブゴールドカップ(G1)。ニューヨークの秋空の下、ベルモント・パークは2万人を超える観客の熱気で包まれていた。1918年から続く伝統の一戦。マウントガードの馬主もヨーロッパから駆けつけ、スタンドに陣取っていた。
パドックではマウントガードの筋肉が秋の日差しを受けて輝いていた。三上は馬の目を見つめ、その瞳に映る決意を確かめるように静かに頭を撫でる。
「コンディションは完璧だ」調教師のトム・ウィルソンが三上に近づき、低く力強い声で言った。「昨日の追い切りでも上々の動きだった。あとは君の腕にかかっている」
三上は馬の耳元で何かを囁き、マウントガードは耳をピクリと動かした。二人の間に確かな信頼関係が見て取れる。
「あなたがウッドワードで見せた騎乗を、今日も期待しているよ」馬主のロバート・ハリスが声をかけた。
三上は静かに頷くだけだった。
誘導馬に導かれ、ゲートへ。14頭の出走馬の中で、マウントガードは7番ゲート。サラブレッドたちの筋肉が緊張で震える中、静かにゲートに収まる。
「発走5秒前」
三上は深く一呼吸。周囲の歓声も遠のき、彼の意識は馬と一体になっていた。
「発走!」
ゲート音とともに扉が開くと、14頭が一斉に飛び出す。しかし、マウントガードはゲート内でわずかに体勢を崩し、出遅れてしまった。
「マウントガード、出遅れました!」実況が叫ぶ。
三上は冷静さを崩さず、すぐに態勢を立て直す。第一コーナーまでの短い距離で、外から内へと進路を取り、無駄なエネルギーを使わずに中団の位置を確保した。
「マウントガード、出遅れを回復し、中団の位置につけました。先頭はキングメーカー、続いてダークナイト、ストームフロント」
ベルモントの広大な砂のコースで、先頭集団は猛烈なペースで飛ばしていく。第一コーナーを回り、バックストレッチに入ると、三上はマウントガードを内側に寄せ、砂の跳ね返りを最小限に抑えながら前の馬のすぐ後ろにつけた。
「ペースが上がります!キングメーカーが飛ばしていきます!」
時計を見ると、最初の800メートルは46秒2。例年より2秒以上速いペースだ。三上はそれを察し、マウントガードのエネルギーを温存するように手綱を調整する。
第三コーナーに差し掛かると、先頭集団には疲れの色が見え始めた。三上は内側から徐々に外へとポジションを移動させ、最後の直線に備える。
「マウントガード、外へ持ち出しました!三上騎手の動きに注目です!」
最後のコーナーを回り、直線2400フィートの長いホームストレッチに入る。三上はここぞとばかりに追い込みをかけた。鞭を使わず、手綱と足の合図だけでマウントガードに指示を出す。
馬は応え、長い脚を伸ばし始めた。次々と先行馬を捉えていく。
「マウントガード、外から脚を伸ばしてきました!次々と馬を捉えています!」
残り300メートルで5番手、残り200メートルで4番手と、着実に順位を上げていく。観客のどよめきが大きくなる。
「マウントガード、さらに伸びてきました!キングメーカーとダークナイトを捉えるか!」
残り100メートル、三上は手綱を整え、マウントガードの最後の力を引き出そうとする。馬は懸命に応え、さらに脚を伸ばした。
4番手、そして3番手へ。しかし、先頭のキングメーカーと2番手のダークナイトとの差は縮まるものの、追いつくには至らない。
「キングメーカーが押し切りました!2着はダークナイト、3着にマウントガード!三上騎手、出遅れを克服しての3着でした!」
フィニッシュラインを越え、三上はマウントガードの首筋を優しく叩いた。出遅れなければ、もう少し前に行けたかもしれない。しかし、この馬は精一杯走ってくれた。
「3着か…」下馬後、マイクが近寄ってきた。「いい騎乗だったよ。出遅れがなければ…」
「いや、これが今日の彼の限界だ」三上は静かに答えた。「内枠の2頭が強かった」
その日の夕方、三上はホテルに戻り明日のチャンピオンステークス(G1)の作戦を練っていた。マイクがノックをして入ってきた。
「明日のオーロラスピリットだが、芝の状態が良くなさそうだ」マイクは心配そうに言った。「昨日の雨の影響が残っている」
「問題ない」三上は窓の外を見ながら言った。「彼は重い芝でも走れる。それにベルモントの芝は特殊だが、日本の馬場に似ている部分もある」
マイクは驚いた様子で三上を見た。「日本の馬場との共通点を見つけたのか?」
「ああ」三上は頷いた。「ターンの傾斜角度と、直線の長さが似ている」
マイクは感心した表情で頷いた。三上の観察眼の鋭さは、常に彼を驚かせた。
翌日のチャンピオンステークス(G1)。ベルモント・パークの芝コースは前日の雨の影響で重い状態だった。パドックでは各国のメディアが集まり、三上のウォーミングアップの様子を撮影している。
「この馬はターフに強いのか?」とあるイギリスの記者が三上に質問を投げかけた。
三上は答えず、オーロラスピリットの状態を丁寧に確認し続けた。栗毛の5歳馬は前走より筋肉がついたように見え、芝の重さにも動じない強さを感じさせた。
コース下見の際、三上は特に入念に芝の状態を確認した。靴を脱ぎ、素足で芝を踏んで感触を確かめる。その姿を見たベテランの調教師たちも驚きの表情を浮かべていた。
(この馬場なら外を回した方が良さそうだな、内側は特に重く、沈みやすい)
三上は静かに頷き、コースの各所に視線を走らせながら、レースのイメージを頭に描いていった。
「騎手の皆さん、乗馬準備を」
アナウンスが流れ、各馬のコネクションが最後の打ち合わせを行う。オーロラスピリットの調教師マイケル・トンプソンは三上にマップを見せながら説明した。
「芝の状態は各所で違う。特にここ、ここ、ここは避けた方がいい」
三上は静かに頷き、トンプソンの指示とコース確認で得た自分の感覚を照らし合わせていた。
パレードリングからの入場。観客の歓声が高まる中、オーロラスピリットは落ち着いた足取りでコースへと向かった。三上は馬の耳元で静かに話しかけ、これから始まるレースへの集中を促していた。
12頭が揃い、ゲートへ。三上とオーロラスピリットは5番ゲートに入る。
「Ladies and gentlemen, they're in the gate...」
場内アナウンスが響き、観客の声も静まる。
「発走!」
ゲートが開くと、オーロラスピリットは素早く飛び出した。三上は計画通り、中団よりやや後ろの位置を取りながらも、外側の比較的芝の状態が良い部分を選んで走る。
「オーロラスピリット、好発進!三上騎手は外めを進み、中団につけています。先頭はローヤルフラッシュ、2番手にケルティックキング、3番手にサンダーバード」
第一コーナーを回り、バックストレッチに入ると、先頭グループはペースを上げ始めた。重い芝のため、例年より遅いペースだが、馬たちには過酷な条件だった。
三上はオーロラスピリットのリズムを乱さないよう、絶妙な手綱さばきで馬を励ます。第二コーナーを過ぎる頃には7番手から5番手へと少しずつ順位を上げていた。
「オーロラスピリット、徐々に順位を上げています。三上騎手、絶妙なライディングで馬の力を温存しているようです!」
第三コーナーにさしかかると、先頭集団に変化が生じた。先頭を走っていたローヤルフラッシュが明らかにペースダウン。2番手のケルティックキングが先頭に立ち、後続の馬たちが一斉に詰め寄る。
三上はこの動きを見逃さず、オーロラスピリットを外側へとさらに持ち出した。馬場の状態が最も良い外の新しい芝部分を狙う作戦だ。
「三上騎手、大きく外に持ち出しました!周囲の騎手も驚いた様子です!」
最後のコーナーを回り、長い直線に入る。三上はオーロラスピリットに声をかけ、手綱と足の合図で馬を奮い立たせる。
オーロラスピリットの反応は素晴らしかった。重い芝の中でも力強いストライドで前へ前へと進む。4番手、3番手、そして残り300メートルで2番手へと上昇。
「オーロラスピリット、猛然と追い上げています!三上騎手、絶妙のコース取りで外から一気に差し上がる!」
残り200メートル、先頭のケルティックキングとの差はわずか半馬身。オーロラスピリットは疲れを見せずに迫る。
「オーロラスピリット、先頭に並びました!ケルティックキングも必死に応戦します!」
残り100メートル、三上は鞭を使わず、声と手綱だけでオーロラスピリットを励ます。馬は応え、残り50メートルで完全に先頭に立った。後方からサンダーバードが猛追するが、もはや届かない。
「オーロラスピリット、先頭!そのまま押し切ります!見事な騎乗で三上光輝騎手、チャンピオンステークスを制しました!二着はサンダーバード、三着にケルティックキング!」
フィニッシュラインを越え、三上はようやく表情を緩め、オーロラスピリットの首を叩いた。観客からは大きな拍手が沸き起こり、ベルモント・パークの芝コースに三上光輝の名が鮮烈に刻まれた瞬間だった。
「史上最高の騎乗だった!」ウイナーズサークルで、オーナーのロバート・ジョンソンが興奮した様子で三上の肩を叩いた。「馬場を完璧に読み、最高の走路を選んでいたね。これほどの重馬場マスターは見たことがない!」
多くのカメラフラッシュを浴びながら、三上は静かに頷くだけだった。しかし、その目には明らかな達成感と自信が宿っていた。彼の「馬の声を聞く」能力と直感が、この重要なG1レースでの勝利をもたらしたのだ。
翌日、三上はケンタッキー州のキーンランドに移動。クイーンエリザベスIIチャレンジカップステークス(G1)に騎乗するためだった。
「キーンランドの芝はベルモントとは全く異なる」マイクは車内で説明した。「より平坦で、ターンもゆるやか。速いタイムが出やすい」
三上は窓の外の景色を眺めながら聞いていた。アメリカの様々な競馬場での経験は、彼の騎手としての幅を広げていた。
キーンランドの緑鮮やかな芝コースは、アメリカ競馬の歴史と伝統を感じさせた。世界のエリート競走馬が集う名門レースであるクイーンエリザベスIIチャレンジカップステークス(G1)。ここでの三上の主戦馬はバレンシア号。血統書は一流だが、気性の難しさで知られる問題児だった。
入厩エリアで、三上はバレンシア号の馬房の前に立ち、じっと馬の様子を観察していた。気高い栗毛の牝馬は落ち着きなく馬房内を行ったり来たりしていた。
「彼女は並外れた才能があるが、集中力が続かない」調教師のマーク・キャンベルが溜め息とともに説明した。「特に周りの馬に過剰反応する。前走では発走直前にパニックになり、ゲートでも暴れた。才能はジェンティルダウン以来の逸材なのに…」
三上は静かに馬に近づき、バレンシア号の目をじっと見つめた。馬は最初、警戒心を見せたが、三上が差し出した手のひらの匂いを嗅ぐと、徐々に落ち着き始めた。
「理解した」三上は短く答えただけだったが、彼の目には何か特別な光が宿っていた。彼はバレンシア号の問題を見抜いたようだった。
「レース前のパドック練習をしておきたい」三上は珍しく自分から提案した。
「パドック練習?」キャンベルは驚いた様子だった。「本番直前の調整で余計なエネルギーを使わせたくないんだが…」
「必要だ」三上は静かだが断固とした口調で言った。「彼女の恐怖の源を知る必要がある」
キャンベルは不安げに眉をひそめたが、最終的には三上の判断を信頼することにした。
翌朝、通常の調教時間外に、三上はバレンシア号をパドックに連れ出した。他の馬がいない静かな環境で、彼は馬に様々な刺激を与えながら反応を観察した。
「分かった」やがて三上は呟いた。「彼女は視界が狭いんだ。後方や側面からの動きに過剰反応する」
キャンベルは感心した様子で頷いた。「そういうことか…だから周囲の馬に神経質になるんだな」
レース当日、キーンランドの美しいパドックには多くの観客が詰めかけていた。様々な国の強豪馬が揃う国際G1レース。バレンシア号はいつもなら神経質になるはずの状況だったが、三上の存在が彼女を落ち着かせているようだった。
三上はパドックでバレンシア号の目の高さまで身を低くし、静かに何かを囁きかけた。馬の耳がピクリと動き、明らかにリラックスした様子を見せる。
「驚いたよ」キャンベルは声を潜めて言った。「彼女、いつになく落ち着いているね。何を話したんだい?」
三上は答えなかったが、わずかに口角が緩んだ。
「Ladies and gentlemen, the horses are now on the track for the 38th running of the Queen Elizabeth II Challenge Cup Stakes...」
場内アナウンスが流れ、14頭の出走馬がコースに入場。バレンシア号は14番という最外枠だったが、三上はそれを気にする様子もなかった。
ゲートに向かう際、バレンシア号は周囲の馬に神経質になる様子を見せ始めたが、三上が静かに手綱を引くと、不思議と落ち着きを取り戻した。
「発走!」
ゲートが開くと、バレンシア号は驚くほどスムーズに飛び出した。三上は最外枠から内へと移動し、第一コーナーで無理なく中団の内側につけた。
「バレンシア号、好スタート!三上騎手、絶妙の位置取りで中団の内に!」
キーンランドの芝コースは平坦で、緑の絨毯のように美しい。先頭集団はリーシングレディ、サマーミスト、ブラックダイヤモンドの3頭。バレンシア号は6番手に位置し、三上は馬を周囲の刺激から守るように、内側の進路を確保していた。
「バレンシア号、落ち着いて中団を追走中。三上騎手の采配に注目です」
第二コーナーを回り、バックストレッチへ。三上はバレンシア号のリズムを乱さないよう、じっと我慢の騎乗を続けた。周囲の馬が少しずつポジションチェンジを始める中、三上は内側のポジションを維持し、バレンシア号を外の騒がしさから守り続けた。
第三コーナーに差し掛かると、先頭集団にも変化が。リーシングレディがペースダウンし、サマーミストが先頭に立つ。後方からも各馬が進出を始め、バレンシア号の周囲も騒がしくなってきた。
しかし、三上の手綱さばきは見事だった。バレンシア号の視界を安定させるように、絶妙な位置取りを維持する。
「バレンシア号、依然として中団を追走。三上騎手、騒がしい状況の中で冷静沈着な騎乗を見せています」
最後のコーナーを回り、いよいよ直線へ。三上は内側に空いたスペースを見逃さず、バレンシア号を内から差し始めた。馬は素晴らしく反応し、スムーズに加速する。
「バレンシア号、内から動きました!三上騎手、絶妙の差し時!」
バレンシア号の脚は素晴らしかった。瞬く間に5番手から3番手、2番手へと上昇し、残り150メートルで先頭に立った。
「バレンシア号、先頭に立ちました!三上騎手、素晴らしい判断で内から差し切り、そのまま押し切るか!」
しかし、最外枠からじっくりと脚を溜めたニュージーランドの名馬ウェリントン号が猛然と追い込んできた。残り50メートル、バレンシア号はまだ先頭。しかし、ウェリントン号の伸びはなお続く。
「ウェリントン号が迫ります!バレンシア号、粘れるか!?」
フィニッシュラインまであと15メートル。バレンシア号とウェリントン号は完全に並んだ。三上は最後の力を振り絞るようにバレンシア号を励ましたが、ウェリントン号のひと伸びが上回り、わずか首差で交わされた。
「ウェリントン号が勝利!バレンシア号は惜しくも2着!素晴らしいレースでした!」
下馬後、三上はバレンシア号の首を優しく撫でた。2着とはいえ、この気難しい馬の真の才能を引き出したことは大きな成果だった。
「惜しかったね」マイクが声をかけた。「でも、あの馬の実力を引き出したのは確かだ」
「次は勝てる」三上は静かに答えた。彼の目には確かな手応えが見えていた。
その夜のキーンランドのホテルで、三上はマイクと今後のスケジュールを確認していた。
「次はサンタアニタだな」マイクはカレンダーを見ながら言った。「サンタアニタスプリントチャンピオンシップ、そしてその後、日本への移動だ」
三上は静かに頷いた。カリフォルニア、そして太平洋を越えて日本へ。まさに「大陸間の挑戦」だった。
「体調管理は大丈夫か?」マイクが心配そうに尋ねた。「この数週間で東部、中部、西部、そして日本と飛び回ることになる」
「問題ない」三上は冷静に答えた。「クレーミングレース時代は、もっと過酷な日程だった」
マイクは苦笑した。「あの頃は若かったんだ。今は国際的なG1ジョッキーだぞ」
「だからこそ、しっかりと準備している」三上は真剣な眼差しで言った。「移動中の睡眠計画、時差調整のための食事、すべて管理している」
マイクは感心して三上を見つめた。若い頃のクレーミングレース騎手から、今や「国際G1ジョッキー」へと成長した三上。その成長の裏には、徹底したプロフェッショナリズムがあった。
「明朝の便でカリフォルニアへ向かう」マイクはスケジュールを確認した。「サンタアニタでのレースは23日。その後すぐに日本へ飛ぶことになる」
「了解した」三上は窓の外、夜のケンタッキーの景色を眺めながら答えた。
彼の心は既に次の挑戦へと向かっていた。異なるコース、異なる馬、そして異なる大陸。しかし、三上の「馬の声を聞く」能力は、それらの壁を越えて、彼を成功へと導いていた。
「今年の経験が、来年以降の基盤になる」三上は静かに呟いた。
マイクはその言葉の意味を理解し、頷いた。三上光輝の「二つの大陸を駆ける」挑戦は、まだ始まったばかりだった。