夕陽に染まるサンタアニタパークの砂のコースを、一頭の馬が駆け抜けていった。
「フィニッシュ!ブレイジングスター、三上光輝騎手の見事な騎乗で勝利です!」
実況アナウンスが響き渡る中、三上は馬の首を優しく撫でた。10月23日、サンタアニタスプリントチャンピオンシップ(G2)で見事勝利を収めた彼の表情には、わずかな安堵の色が浮かんでいた。
パドックでは、マイク・ジョンソンが小さく拍手をしながら三上を迎えた。「素晴らしい騎乗だった」
「馬が良かったです」三上は静かに答えた。
「この勝利が、日本への手土産になったな」マイクは意味ありげに言った。彼らには次の計画があった。ここでのレースを終えたら、すぐに日本へ飛ぶのだ。
「さて、これで今日のレースは全て終了だ」マイクはスケジュール表を確認した。「予定通り、明日の夕方便でロサンゼルスから直接羽田行きの便に乗るぞ」
三上は静かに頷いた。10月25日に日本に戻り、10月31日の天皇賞(秋)に向けて準備をする。JRAの特例措置によってブルーダイヤモンド号に騎乗できることになっていた。
「荷物は?」三上が尋ねた。
「すでに空港に送ってある」マイクは効率よく答えた。「あとは最小限の手荷物だけで移動できる」
二人は更衣室へと向かった。アメリカでの最後のレースを終え、次の挑戦に向けて気持ちを切り替える時だった。
ロサンゼルス国際空港の出発ロビー。三上とマイクは簡素な手荷物だけを持って、チェックインカウンターへ向かっていた。
「ロサンゼルスから直行便で羽田まで約11時間だな」マイクは確認するように言った。「太平洋横断の長旅だが、体力的には大丈夫か?」
「問題ありません」三上は淡々と答えた。「クレーミングレース時代はもっと過酷でしたから」
マイクは小さく笑った。確かに、アメリカのクレーミングレース時代の三上は、時に一日で複数の競馬場を移動し、何レースも騎乗することもあった。それに比べれば、現在のスケジュールは物理的には楽なはずだ。しかし、精神的なプレッシャーはずっと大きい。G1ジョッキーとしての期待と責任を背負っているのだから。
「長時間フライトはしっかり休むんだぞ」マイクは心配そうに言った。「日本に着いたらすぐに天皇賞の準備に入るわけだからな」
三上は静かに頷くと、搭乗ゲートへと向かった。「直行便なら時差調整もしやすい」と小さく付け加えた。
10月25日、羽田国際空港。
三上は長いフライトの疲れも見せず、颯爽と到着ロビーに現れた。待ち構えていた桐谷修平が彼に気づき、手を振った。
「お帰り、三上」桐谷は微笑みながら迎えた。「フライトはどうだった?」
「問題なかったです。直行便だったので体への負担も少なめでした」三上は答えた。「すぐに栗東へ向かいたいです」
「そう言うと思ったよ。京急と新幹線の乗車券を用意してある」桐谷は頷いた。「栗東には夕方には到着できる。池田調教師からも連絡があった。ブルーダイヤモンド号の調子は良好とのことだ」
三上の目に、わずかな安堵の色が浮かんだ。長い旅の疲れも、愛馬の話題に触れた瞬間に消え去ったかのようだった。
「サンタアニタでの勝利、おめでとう」桐谷は駅のホームに向かいながら言った。「日本でも大きく報道されてるよ」
三上は黙って頷いた。彼のアメリカでの活躍は、日本での評価をさらに高めていた。「二つの大陸を駆ける男」としての彼の挑戦は、多くのファンの心を捉えていた。
「吉野さんからも連絡があった」桐谷は続けた。「天皇賞の作戦について打ち合わせがあるそうだ」
「わかりました」三上は車窓の景色を見つめながら答えた。日本の風景が、彼の心を静かに落ち着かせていた。
栗東トレーニングセンター。午後の陽光が厩舎に降り注ぐ中、三上はブルーダイヤモンド号と対面していた。
「久しぶり」
三上はゆっくりと馬に近づき、その首を優しく撫でた。ブルーダイヤモンド号は彼の声を聞くと耳をピクリと動かし、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「彼もあなたが恋しかったようだね」
池田泰寿調教師が微笑みながら近づいてきた。「状態は上々。天皇賞に向けて最高の仕上がりだ」
「調教の様子はいかがでしたか?」三上は専門家としての目で馬を見ながら尋ねた。
「芝1800メートルを5ハロン66秒4。ラスト1ハロン11秒8で余力十分」池田は満足げに答えた。「彼の脚はかつてないほど良い状態だ」
三上は静かに頷いた。
「少し乗ってみるか?」池田が提案した。「感覚を取り戻すのに良いだろう」
「お願いします」
三上は装具を整え、ブルーダイヤモンド号に跨った。馬場に出ると、二人は絶妙のコンビネーションを見せた。まるで長い別れなど無かったかのように。
「素晴らしい、呼吸が合っているな」池田は感心した様子で見ていた。「さすがだ」
周回を終え、厩舎に戻ってきた三上に、池田は尋ねた。「ロサンゼルスからの直行便だったそうだな。時差ボケの調整は?」
「少しありますが、管理できる範囲です」三上は答えた。「フライト中に十分休息を取りました」
池田はその言葉に安心したように見えたが、三上の顔をじっと見ていた。「無理はしないでくれ。この先のスケジュールはかなりハードだぞ」
三上は小さく頷くだけだった。彼は自分の体調管理には自信があった。クレーミングレース時代に培った耐久力と、精密な体調管理計画で、この過酷なスケジュールを乗り切る準備はできていた。
「吉野さんが午後5時に来る」池田は告げた。「天皇賞の最終打ち合わせをしよう」
桐谷が三上に近づき、小声で言った。「三上、天皇賞当日はJRAの特例騎乗日として、他にも数レース騎乗が決まっている。天皇賞の他に、3歳上1000万下、アルテミスステークス、そして天皇賞後にも500万下があるぞ」
三上は小さく頷いた。
「体調管理には気をつけてくれ」桐谷が心配そうに続けた。「特に時差調整は重要だぞ。ロサンゼルスと東京では16時間もの時差がある」
三上は静かに頷いた。彼には独自の調整法があった。今からの数日間、毎朝5時に起床し、午後9時に就寝する生活リズムを徹底する。食事も規則正しくとり、体内時計を日本時間に完全に合わせる。それに軽いジョギングと筋トレを組み合わせることで、パフォーマンスを最大化する。
「心配ありません」彼は静かに答えた。「直行便だったおかげで調整も早く済みそうです」
「ようこそ戻ってきた、三上」
ホライズンレーシングの代表、吉野誠一が厩舎事務所で三上を迎えた。彼の横には池田調教師と桐谷が座っていた。
「アメリカでの活躍、見事だったよ」吉野は微笑んだ。「今度は日本のG1で見せてもらおう」
「よろしくお願いします」三上は丁寧に答えた。
「さて、天皇賞の作戦だが」吉野はテーブルの上の出馬表を指さした。「最大のライバルはトキノジェネシス。宝塚記念では敗れたが、今回は東京2000メートル。展開次第だ」
池田が補足した。「今回の天皇賞は各国からの強豪も揃っています。特にフランスからのブリスターが要注意です」
三上は静かに出馬表に目を通した。実力馬が揃う一戦だ。
「ブルーダイヤモンドは6番ゲート」池田は続けた。「内過ぎず外過ぎず、理想的な枠だと思います」
「スタートはどうしましょうか?」三上が尋ねた。
「ブルーダイヤモンド号の持ち味を活かして、中団で脚を溜めてくれ」池田は答えた。「特にこの馬は最後の直線での伸びが素晴らしい。東京の長い直線が有利に働くはずだ」
三上は静かに頷いた。東京競馬場の芝2000メートルは、直線の長さが特徴だ。その特性を最大限に活かす作戦は理にかなっていた。
会議が終わり、三上がホテルに向かおうとしたとき、桐谷が声をかけた。
「三上、明日の朝も練習騎乗があるが、その後に一つお願いがある」
「何でしょうか?」
「BS11の『Winning Horses』で、菅原ちゃんがインタビューを希望しているよ」桐谷は言った。「アメリカでの活躍と、天皇賞への意気込みについて聞きたいとさ」
三上は一瞬考え、そして頷いた。「わかりました」
「ありがとう」桐谷は安堵の表情を見せた。「菅原ちゃんは春の短期免許時代から三上の騎乗スタイルについて深い関心を持っている。特にアメリカと日本でのスタイルの違いについて」
「彼女は競馬への理解が深いです」三上は静かに言った。「有意義な対話になると思います」
桐谷は少し驚いた様子だった。三上がこれほど相手を評価することは珍しかったからだ。
「ホテルに案内するよ」桐谷は話題を変えた。「しっかり休んでくれ」
翌朝、栗東トレーニングセンター。三上は朝一番の練習騎乗を終え、BS11の撮影クルーが待つ場所へと向かった。
「三上さん、お疲れ様です。久しぶりですね」
菅原優華が明るく挨拶した。白を基調としたドレスに身を包み、知的な雰囲気を漂わせていた。彼女は春先に三上のインタビューを何度か担当しており、その専門的な質問で三上の信頼を得ていた。
「お久しぶりです」三上は静かに応じた。
「改めて、サンタアニタでの勝利おめでとうございます」菅原は真摯な表情で言った。「最近のアメリカでの活躍について、いくつか専門的な質問をさせていただきたいのですが」
「どうぞ」
「まず、ベルモント・パークとキーンランドの馬場の違いについて感じたことはありますか?特に重馬場でのチャンピオンステークスでの騎乗は見事でした」
三上はわずかに顔を上げた。これは彼が興味を持つ質問だった。
「ベルモントは砂の深さに特徴があります」彼は珍しく詳しく答えた。「特に雨の後は内側が深くなりやすいです。チャンピオンステークスでは外を回る選択が正解でした」
「キーンランドは?」
「芝の質が異なります。日本の芝より短く刈られており、弾みが強いです。ターンも緩やかで、スピードが活きます」
菅原はメモを取りながら頷いた。「サラトガとサンタアニタの違いも気になります。特にダートコースの特性について」
「サラトガは『王者の墓場』と呼ばれる難コースです」三上は静かに答えた。「砂の粒子が細かく、深さもあります。特に最後の直線で多くの馬が失速します。一方、サンタアニタは砂が硬く、スピード勝負になりやすいです」
「なるほど」菅原は感心した様子だった。「アメリカの各競馬場への適応は難しいと思いますが、そこで三上さんが特に意識していることはありますか?」
「各馬場の特性を事前に調査し、初日は必ず朝練習で直接感触を確かめます」三上は実践的に答えた。「最も重要なのは『馬場の読み』です。特にレース中の馬場状態の変化に敏感になることが大切です」
「アメリカと日本での騎乗スタイルの違いについてもお聞きしたいです」菅原は真剣な表情で尋ねた。「特に鞭の使い方や手綱さばきに違いがあるとよく言われますが」
三上はわずかに考え、そして答えた。「アメリカでは鞭を頻繁に使う傾向にありますが、私は最小限にしています。代わりに脚と声で馬を励ます方法を取っています。手綱については、日本では繊細さが求められますが、アメリカでは力強さも必要です。両方のバランスを取ることが重要だと思います」
菅原は三上の言葉を丁寧にメモしていた。「最後に、多くのアメリカの騎手が『The Ice Man』という異名で三上さんを呼んでいます。これについてどう思われますか?」
三上の顔にわずかな笑みが浮かんだ。「名前は重要ではありません。結果だけが語るものだと思います」
「さすがです」菅原は微笑んだ。「視聴者へのメッセージをお願いします」
三上は一瞬考え、そして静かに言った。「天皇賞、全力で臨みます。ブルーダイヤモンド号との新たな挑戦、ぜひ見守ってください」
「貴重なお話をありがとうございました」菅原は丁寧に礼を言った。「成功を祈っています」
撮影が終わると、スタッフたちは機材を片付け始めた。三上が立ち去ろうとしたとき、菅原が声をかけた。
「三上さん、もう一つだけ質問してもいいですか?オフレコで」
三上は立ち止まり、彼女を見た。
「二つの大陸を駆けるというこの挑戦、本当はどう感じていますか?」彼女は真剣な表情で尋ねた。「体力的にも精神的にも大変なはずです」
三上は窓の外、朝の光に照らされる栗東の景色を見つめた。そして静かに微笑みながら答えた。
「これが私の道です。子供のころから、これを望んでいました」
菅原の目に驚きが浮かんだ。それは短い言葉だったが、三上の真摯な思いが感じられた。
「ありがとうございます」彼女は静かに頷いた。「天皇賞、応援しています」
三上は小さく頷き、次の予定へと向かった。6日後の天皇賞に向けて、彼の準備は着々と進んでいた。