ロサンゼルス国際空港。到着ロビーから現れた三上光輝の表情には、15時間のフライトによる疲労の色は見えなかった。天皇賞(秋)での勝利からわずか48時間。その興奮が冷めないうちに、彼は太平洋を越え、新たな挑戦に向かっていた。
「三上、こっちだ!」
馴染みのチェック柄ジャケットに身を包んだマイク・ジョンソンが、出口付近で手を振っていた。三上は軽く頷き、足早に近づいた。
「よく来たな」マイクは三上の肩を軽く叩き、「天皇賞、おめでとう。素晴らしい騎乗だった」
「ありがとう」三上は短く答えた。
ターミナルを出ると、カリフォルニアの乾いた空気が二人を迎えた。11月初旬のロサンゼルスは、日本の秋とは異なる独特の乾燥感があった。
「疲れたろう、体調はどうだ?」マイクは心配そうに尋ねた。
三上は窓の外の景色を眺めながら答えた。「問題ない。フライト中に十分な睡眠を取った」
マイクはドライブしながら、ブリーダーズカップの状況を説明し始めた。
「今年のブリーダーズカップはデルマー競馬場だ。『サーフアンドターフ』の愛称で知られる、
太平洋を望む美しいコースだよ」
三上は黙って聞いていた。デルマー競馬場——彼にとって初めての舞台だ。
「君の騎乗予定は全部で5レース。初日は3レース、2日目は2レース。各馬の状態も上々だ」マイクは続けた。「それと、日本からのメディア取材が殺到しているよ。特にBS11とNHKは特別取材を申し込んできている」
三上の表情がわずかに変わった。「菅原さんと山野さんか」
「ああ、その通り。彼女たちが来ているみたいだ」マイクは驚いた様子で尋ねた。
「知り合いなのか?」
「春の短期免許時代からの取材でね」三上は短く答えた。
車はハイウェイを北上し、約2時間後、サンディエゴ近郊のデルマーに到着した。太平洋を臨む丘の上に、白い建物が見えてきた。デルマー競馬場だ。
「ほら、見えてきたぞ」マイクが指さした。「太平洋に面した北米で最も美しい競馬場の一つさ」
確かにその風景は絵になった。青い海を背景に、白い建物と緑のコース。遠くには山々が連なり、まるで絵葉書のような景色だった。
競馬場に到着すると、すでに多くの関係者やメディアで賑わっていた。世界最高峰の競馬イベント、ブリーダーズカップの準備は着々と進んでいた。
「三上!」
声の方を振り向くと、エクイティ・レーシングのジェイソン・パークが笑顔で近づいてきた。「やってくれたね!天皇賞を制して、そのままブリーダーズカップだなんて。『二つの大陸を駆ける』というのは伊達じゃないな」
三上は静かに頷いた。パークの隣には、ネクストジェネレーション・ブラッドストックのサラ・コーエンも立っていた。
「あなたの天皇賞を見たわ」コーエンは真摯な表情で言った。
「素晴らしい騎乗だった。特に最後の直線での判断力は見事だったわ」
三上は二人に丁寧に礼を言った。夏のサラトガでの「サラトガ・スペシャリスト」と「若馬投資アドバイザー」としての関係は、今やより強固なものになっていた。
「まずは馬たちを見に行こう」マイクが提案した。「すでに全頭が入厩しているよ」
三人は頷き、厩舎エリアへと向かった。
デルマー競馬場のバックサイドは、世界各国から集まった競走馬で活気づいていた。アメリカ、イギリス、アイルランド、フランス、日本、オーストラリア——様々な国から最高峰の競走馬たちが集結していた。
最初に訪れたのは、エクイティ・レーシングの厩舎だった。
「ここにアクセレレーターがいる」パークが馬房を指さした。
「トラヴァーズでの2着以来、この舞台に向けて調整してきた。クラシックは世界最高峰の一戦だが、彼には十分なチャンスがある」
三上は静かに馬房の中を覗き込んだ。アクセレレーター——夏のサラトガでジム・ダンディステークス(G2)を制した3歳馬だ。サラトガ以来、三ヶ月ぶりの再会だった。
馬は三上を認めると、大きく鼻を鳴らした。三上は静かに馬に近づき、その首筋に手を置いた。
「彼は君に会えて喜んでいるようだ」パークが微笑んだ。
次に見たのは2歳馬のターフスター号。サンフォードステークス(G3)を制した若駒は、立派に成長していた。
「サンフォード以降も2戦2勝と無敗をキープしている」パークは誇らしげに言った。「ジュベナイルターフでも有力視されているよ」
ターフスター号も三上を覚えているようで、馬房の手前に来ると耳をピンと立てた。
続いて彼らはネクストジェネレーション・ブラッドストックの厩舎に向かった。
「スカイピーサーよ」コーエンが馬房を指した。「あなたが評価して私が購入した馬。メイデン勝ちしたあと、先月のチャンピオンズジュベナイルでも好走したわ」
スカイピーサーは少し神経質な様子だったが、三上の声を聞くと落ち着いた様子を見せた。
「彼は環境の変化に敏感です」三上は静かに言った。「でも、体調は良さそうだ」
「あなたの意見を聞けて安心したわ」コーエンは頷いた。「ジュベナイルは強敵揃いだけど、彼なら走れると思っているの」
次に彼らは別の厩舎エリアへと移動した。そこには日本からの遠征馬が収容されていた。
「マジェスティックムーン」
三上がその名を呼ぶと、馬房の中の青鹿毛の馬が顔を上げた。ディープインパクト産駒のこの馬は、三浦博厩舎から特別に依頼を受けて騎乗することになっていた。
「日本馬が近年、国際舞台で結果を残しているからね」マイクが言った。「アメリカのブックメーカーも侮れないと警戒しているよ」
三上はマジェスティックムーンの状態を慎重に確認した。長旅の疲れも見せず、落ち着いた様子の馬に安堵の表情を浮かべる。
最後に彼らはもう一頭の馬、エンライトンドのもとを訪れた。
「こちらは2歳牝馬のエンライトンド」パークが紹介した。「ジュベナイル・フィリーズに出走予定だ。君には初騎乗になるが、調教師から『三上なら馬の気持ちを理解してくれる』と特別にリクエストがあった」
三上は若い牝馬の目をじっと見つめた。そして静かに首筋を撫でながら、何かを囁きかけた。
エンライトンドは耳をピクリと動かし、穏やかな目で三上を見返した。
「素晴らしい馬だ」三上は静かに言った。
馬房を後にすると、マイクが言った。「明日の朝から調教だ。各馬との感覚を確かめておくといい」
三上は静かに頷いた。太平洋を挟んだ連戦。彼の「二つの大陸を駆ける」挑戦は、次のステージへと移っていた。
翌朝、デルマー競馬場は朝霧に包まれていた。午前5時、三上はすでにトラックサイドで準備を整えていた。時差の影響はあるはずだが、彼の動きは冴えていた。
「おはよう、体調はどうだ?」マイクが近づいてきた。
「問題ない」三上は短く答えた。アメリカと日本、14時間の時差にも関わらず、彼の体内時計は驚くほど正確に調整されていた。
この日、三上は5頭全ての馬に試乗し、感覚を確かめる予定だった。最初に騎乗したのはマジェスティックムーン。日本馬らしいスムーズな動きと反応の良さに、三上は満足の表情を浮かべた。続いてアクセレレーター、ターフスター号、スカイピーサー、そしてエンライトンドと順に騎乗していった。
調教を終えた三上に、世界中のメディアが殺到した。「二つの大陸を駆ける男」として、彼への注目度は一段と高まっていた。
「三上さん、天皇賞を勝ってわずか数日でブリーダーズカップに参戦する心境は?」
「日本とアメリカの競馬の違いをどう捉えていますか?」
「時差ボケの影響は?」
各国のジャーナリストからの質問が飛び交う中、三上は静かにそして丁寧に答えていった。彼の「氷の男」という評判に反して、この日の彼は穏やかで丁寧な対応を見せた。
「三上さん!」
振り向くと、BS11の菅原優華とNHKの山野みづきが近づいてきた。菅原は白のスーツに身を包み、プロフェッショナルな雰囲気を漂わせていた。山野は控えめなベージュのワンピースを着ており、その背後には複数のカメラクルーが控えていた。
「お久しぶりです」菅原が微笑んだ。「天皇賞、おめでとうございます。素晴らしい騎乗でした」
「私もNHK特集で拝見しました」山野も頭を下げた。「あの最後の直線での判断力は本当に見事でした」
三上は二人に丁寧に礼を言った。
「実は今回、特別にBS11とNHKの合同取材という形で来ています」菅原が説明した。「『二つの大陸を駆ける男・三上光輝』という特集企画なんです」
「もし可能であれば、明日の午後にお時間をいただけないでしょうか」山野が続けた。「私からは騎手としての精神面について、菅原さんからは技術面についてと、異なる切り口でお話を伺いたいと思っています」
三上は二人の熱意に少し驚きながらも、「分かりました」と静かに答えた。
彼らが立ち去った後、マイクが言った。「日本でも相当な注目を集めているんだな。他にも多くの日本メディアが来ているらしい」
「日本からの出走馬も多いからな」三上は静かに答えた。「それに、ここ数年、日本馬の国際舞台での活躍が目立つ」
実際、この日のデルマー競馬場には例年以上の日本メディアが集結していた。スポーツ紙、専門誌、テレビ局と、各メディアが三上の動向を追っていた。「ブルーダイヤモンド号とのG1三連勝」「天皇賞からブリーダーズカップへの挑戦」「二つの大陸を駆ける男」——様々な切り口で彼の挑戦が伝えられていた。
午後、三上はブリーダーズカップ関係者によるブリーフィングに参加した。主催者から各レースの注意事項やルール説明が丁寧に行われ、続いて各騎手との顔合わせとなった。
デイビッド・ブレイク、カルロス・メンデス、ジェームズ・キング——世界のトップジョッキーたちが集う中、三上の存在も注目を集めていた。
「三上、天皇賞での騎乗は見事だったよ」ベテラン騎手のブレイクが声をかけた。「日本とアメリカを行き来するなんて、時差ボケが大変だろう?」
三上は静かに礼を言った。
「俺なら無理だな、約1週間で太平洋を往復するなんて」イギリスの実力者キングも加わった。「特別な体調管理でもしているのか?」
「特別なことはしていません」三上は丁寧に答えた。「集中することが重要です」
夕方には、各国のメディアに向けた公式記者会見が行われた。壇上には主催者と並んで、ブリーダーズカップに参戦する主要な騎手たちが座っていた。三上もその一人だった。
「三上騎手、あなたは『International Specialist』と呼ばれるようになっています」アメリカのスポーツ記者が質問した。「日本とアメリカ、二つの異なる競馬文化を行き来する中で、最も難しいことは何ですか?」
三上は少し考え、静かに答えた。「馬との意思疎通です。どんな国でも、馬の言葉は同じ。それを理解できれば、どのコースでも対応できます」
その答えに、会場からは小さなどよめきが起きた。三上の「馬の声を聞く」能力は、アメリカでも伝説になりつつあった。
「日米の往復という過酷なスケジュールの中で、どのようにコンディションを維持していますか?」別の記者が尋ねた。
「適切な睡眠と食事管理です」三上は淡々と答えた。「そして何より、次の騎乗に集中することが大切です」
記者会見が終わり、三上がホテルに戻る準備をしていると、一人の男性が近づいてきた。三浦博厩舎の馬主関係者だった。
「三上さん、マジェスティックムーンを宜しくお願いします」男性は深々と頭を下げた。「三浦調教師も、三上さんならこの馬の力を最大限に引き出してくれると信頼しています」
三上は真摯に応じた。「全力を尽くします」
ホテルに戻る途中、車窓からデルマー競馬場を見ながら、三上は静かに思いを巡らせた。天皇賞から始まり、太平洋を越え、今度はブリーダーズカップ。そして、その後にはジャパンカップが待っている。「二つの大陸を駆ける」という言葉は、もはや彼のアイデンティティそのものになっていた。
ホテルの部屋に入ると、三上はすぐにレース映像の分析に取りかかった。デルマー競馬場での過去のレースを研究し、コースの特性を理解する。彼は夜遅くまで映像を見続け、各対戦馬の特徴を頭に刻み込んでいった。
ブリーダーズカップ前日。デルマー競馬場は最終調整に忙しい朝を迎えていた。三上は早朝から各馬の状態を確認し、最後の調教を終えていた。
「今日は最後のメディアデーだ」マイクが言った。「特に日本メディアとの約束があっただろう?」
三上は頷いた。午後には菅原と山野との特別インタビューが予定されていた。
昼食を終えた三上は、メディアセンターに向かった。そこには菅原と山野だけでなく、多くの日本メディアの記者やカメラマンが集まっていた。
「三上さん、こちらへどうぞ」スタッフが彼を誘導した。
スタジオセットが組まれた一角には、BS11とNHKのロゴが掲げられていた。菅原と山野が微笑みながら待っていた。
「よろしくお願いします」三上は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ」菅原が応じた。「では、BS11とNHKの特別企画『二つの大陸を駆ける男・三上光輝』を始めさせていただきます」
カメラが回り始めた。
「三上さん、まずは天皇賞からブリーダーズカップへの強行スケジュール。体調管理の秘訣を教えてください」菅原が最初の質問を投げかけた。
三上は落ち着いた口調で答えた。「特別なことはしていません。適切な睡眠と食事、そして集中力を保つことが大切です」
「『氷の男』と呼ばれる冷静さは、このような過酷なスケジュールでも変わりませんか?」山野が質問した。
「私にとっては自然なことです」三上は静かに答えた。「感情に流されず、馬と一体になることが重要です」
インタビューは30分ほど続き、技術面と精神面、両方の質問に三上は丁寧に答えていった。
「最後に、日本のファンへのメッセージをお願いします」菅原が言った。
「応援ありがとうございます」三上は真摯に答えた。
「明日からのブリーダーズカップ、そしてジャパンカップに向けて全力を尽くします。二つの大陸を駆ける挑戦を、見守っていただければ嬉しいです」
カメラが止まると、菅原が言った。「素晴らしいインタビューをありがとうございました。日本では三上さんの挑戦に大きな注目が集まっています」
「本当に素晴らしい特集になりそうです」山野も微笑んだ。「三上さんがこれだけ詳しく話してくださるのは珍しいと聞いていましたから」
三上は静かに頷いた。彼自身も気づいていたが、以前よりも言葉数が増えていた。「二つの大陸を駆ける」挑戦の中で、彼自身も少しずつ変化していたのだろう。
インタビュー後、三上はブリーダーズカップ前夜祭に出席した。世界各国の馬主、調教師、騎手が集まる豪華なイベントだった。
「三上、こちらへ」パークが手招きした。彼のテーブルには、コーエンや他の馬主たちが座っていた。
「明日は君の騎乗に大きな期待を寄せているよ」パークはグラスを掲げた。「特にターフスター号とアクセレレーター、二頭とも最高の状態だ」
「スカイピーサーも万全よ」コーエンが加わった。「あなたの目で選んだ馬だから、特別な思い入れがあるわ」
三上は静かに頷いた。彼の選択が多くの人々の期待に繋がっていることを、彼は強く感じていた。
会場の雰囲気は華やかで、国際色豊かだった。様々な言語が飛び交い、各国の伝統的な衣装を身にまとった人々も見られた。三上はそんな中でも静かに佇み、時折声をかけてくる人々と短い会話を交わすだけだった。
祝宴の後半、突然会場が静まり返った。ステージ上でブリーダーズカップの会長が演説を始めたのだ。
「皆さん、明日から始まるブリーダーズカップは、今年で39回目を迎えます。世界14カ国から馬と人が集まり、競馬の祭典を彩ります」
会長はさらに続けた。「今年は特に多くの国際的騎手が参戦し、競走馬の真のワールドチャンピオンシップにふさわしい陣容となりました。特筆すべきは、アメリカ競馬界で育った三上騎手。彼は日本の天皇賞から日本馬を連れて帰ってきた。国際的な活躍に期待しましょう」
スポットライトが三上に向けられた。場内の視線が一斉に彼に集まる。三上はゆっくりと立ち上がり、マイクの前に立った。
彼はしばらく沈黙し、そして静かに話し始めた。
「このような機会をいただき、感謝しています。明日からのレースでは、馬との絆を大切に、全力を尽くします」
短いスピーチだったが、会場からは温かい拍手が沸き起こった。三上の「二つの大陸を駆ける」挑戦は、国際的な競馬界からも敬意を持って迎えられていた。
夜も更け、祝宴が終わりに近づくと、三上は早々にホテルへと戻った。明日からのレースに向けて、最高のコンディションを整える必要があった。
ホテルの部屋で、彼は最後にもう一度レースのイメージトレーニングを行った。各馬との作戦、コースの特徴、想定される展開——すべてを頭の中で何度も繰り返した。
窓の外では、太平洋の波が静かに打ち寄せていた。遠く東の海の向こうには日本がある。三上は窓際に立ち、深呼吸をした。
「二つの大陸を駆ける」。それは単なるキャッチフレーズではなく、彼の騎手人生の真髄を表す言葉だった。明日から始まるブリーダーズカップでの挑戦は、その言葉に新たな意味を与えることになるだろう。
部屋の電気を消し、三上は静かに目を閉じた。彼の挑戦は、まだ始まったばかりだった。