デルマー競馬場に朝日が昇り始めた。11月5日、ブリーダーズカップ初日。三上光輝はすでに厩舎エリアで馬たちの最終確認を行っていた。午前5時。場内はまだ静かだが、世界最高峰の競走馬たちが集う場所特有の緊張感が漂っていた。
「準備はいいか?」
マイク・ジョンソンが朝露に濡れた芝生を踏みしめながら近づいてきた。
「ああ」三上は短く答えた。彼の目には、いつもの冷静さと同時に、わずかな期待の色も浮かんでいた。
今日の三上の騎乗予定は3レース。ジュベナイルターフでのターフスター号、ジュベナイル・フィリーズでのエンライトンド、そしてジュベナイルでのスカイピーサー。全て2歳馬のレースだ。
「朝の追い切りは最高だった」マイクは厩舎名簿を確認しながら言った。「特にターフスター号の反応は素晴らしい。パークも大いに期待している」
三上は静かに頷いた。ターフスター号------パークのエクイティ・レーシングが所有する2歳馬で、彼の「サラトガ・スペシャリスト」としての評価を高めた馬だ。今日のジュベナイルターフは、その続きとも言えるレースだった。
「日本からの取材陣も早くから来ているぞ」マイクが厩舎の外を指さした。
確かに、BS11やNHKをはじめ、多くの日本メディアが早朝からバックサイドに詰めかけていた。「二つの大陸を駆ける男」の挑戦に、日本中が注目していた。
時間が経つにつれ、競馬場は徐々に活気づいていった。開場から数時間後、デルマー競馬場は大勢の観客で埋め尽くされた。ブリーダーズカップという国際的な祭典に相応しい、華やかな雰囲気が場内を包み込んでいた。
「第一レース、ブリーダーズカップ・ジュベナイルターフの出走馬が入場します」
場内アナウンスが鳴り響き、パドックでは各馬のパレードが始まった。三上は騎手控室で最後の準備を整えていた。
「三上さん、ターフスター号頑張ってください!」
振り向くと、一角にいた菅原優華が手を振っていた。彼女の隣には山野みづきも立っていて、カメラクルーを引き連れている。
「ありがとうございます」三上は短く応じ、パドックへと向かった。
パドックでは、ターフスター号が落ち着いた様子で歩いていた。栗毛の2歳馬は小柄ながらも筋肉質で、目の輝きも良好だった。
「調子はいいぞ」パークが近づいてきた。「彼は緊張していない。これは良い兆候だ」
三上は静かにターフスター号の目を見つめた。馬も彼を認めると、大きく鼻を鳴らした。二人の間には、確かな信頼関係が築かれていた。
「もう一つの心配は、外国の競走馬たちだ」パークが続けた。「特にアイルランドのセレスティアルスターと、フランスのロワイヤルビジョンが強敵だ」
三上は無言で頷いた。彼の頭の中では、すでにレースのシミュレーションが何度も繰り返されていた。
「騎手の皆様、乗馬準備を」
アナウンスが流れ、三上はターフスター号に跨った。誘導馬に導かれながら、コースへと向かう。
「素晴らしい景色だな」
マイクの言葉通り、デルマー競馬場の風景は絵になった。太平洋を背景に広がる緑のコース。秋の陽光が芝生を照らし、まるで宝石のように輝いていた。
ターフスター号は13番ゲート。外目の枠だが、ジュベナイルターフの芝1マイルなら、スタート後に態勢を立て直す時間はある。三上は冷静に状況を分析していた。
ゲートに収まる各馬。三上はターフスター号の首を軽く叩き、静かに囁きかけた。「いつも通りに走ろう」
「Ladies and gentlemen, they're in the gate...」
場内が静まり返る。
「発走!」
ゲートが開き、14頭の2歳馬が一斉に飛び出した。ターフスター号は好発進。三上はすぐに中団の内側につけることに成功した。
「素晴らしいスタートです。ターフスター号、三上騎手は中団の内に位置取りました。先頭はセレスティアルスター、続いてロワイヤルビジョン、3番手にブライトフューチャーと続きます」
芝のコースは前日の雨の影響で少し重くなっていたが、ターフスター号は問題なく走っていた。第1コーナーを回り、バックストレッチに入ると、先頭集団はペースを上げ始めた。
三上はターフスター号のリズムを乱さないよう、丁寧に手綱をコントロールした。馬の息遣いを感じながら、絶妙の距離感で先頭集団を追走する。
「ターフスター号、三上騎手は依然として中団をキープ。先頭のセレスティアルスターがペースを上げました」
最後のコーナーに差し掛かると、展開が動いた。先頭のセレスティアルスターが失速し始め、2番手のロワイヤルビジョンが前に出た。三上はこの動きを見逃さず、外側に持ち出して脚を溜めた。
「ターフスター号、三上騎手が動きました!外から伸びてきています!」
最後の直線に入ると、ターフスター号のストライドが伸び始めた。三上は最小限の鞭使いで馬を励まし、絶妙のタイミングで加速。4番手、3番手と着実にポジションを上げていく。
「ターフスター号、猛然と追い上げています!残り200メートルで3番手、さらに上がって2番手に!」
残り100メートル、三上はターフスター号に最後の力を引き出すよう促した。馬は懸命に反応し、先頭のロワイヤルビジョンに迫る。
「ターフスター号とロワイヤルビジョン、接戦です!残り50メートル、並びました!最後の一歩、どちらが制するか!?」
最後の一瞬、三上はターフスター号の全エネルギーを解放するかのように、絶妙のバランスで騎乗。ロワイヤルビジョンとの鼻差の攻防を制し、ゴール前でわずかに先頭に立った。
「ターフスター号が制しました!わずかな差でロワイヤルビジョンを突き放し、三上騎手がジュベナイルターフを制覇!ブリーダーズカップ初日、初レースから見事な勝利です!」
三上は静かにターフスター号の首を撫でた。「よく頑張った」
下馬後、パークが歓喜の表情で駆け寄ってきた。「すごい競馬だったよ!完璧な騎乗だ!」
「彼は最後まで諦めなかった」三上は静かに言った。「真の勝負根性を持った馬だ」
「素晴らしい勝利だ!」パークは興奮を抑えられない様子だった。「大舞台で見せてくれたその騎乗術、君は本当に『Versatile Rider from Japan』だよ。どんな馬場でも結果を出せる万能騎手だ」
BS11のカメラが近づいてきた。菅原優華がマイクを持って立っていた。
「三上さん、ターフスター号のG1制覇、おめでとうございます!接戦を制した素晴らしい勝利でした。騎乗を振り返っていかがでしょうか?」
三上は冷静に答えた。「彼は最後まで頑張りました。コーナーからの手応えは良く、最後の直線では彼の持つ本来の力を発揮できたと思います。2歳馬ながら、勝負根性のある素晴らしい馬です」
「大レースでの2歳馬の勝利は難しいと言われていますが、ターフスター号の反応はいかがでしたか?」
「環境の変化にも動じず、冷静に走りました。今回の勝利は彼の将来にとって大きな自信になるでしょう」
簡潔ながらも的確な分析に、菅原は満足げに頷いた。「ありがとうございました。次のレースも頑張ってください」
三上は軽く頭を下げ、次の騎乗に向けて移動した。
「続いてのレースは、ブリーダーズカップ・ジュベナイル・フィリーズです」
第5レース、ブリーダーズカップ・ジュベナイル・フィリーズ。三上はエンライトンドに騎乗する。この2歳牝馬はエクイティ・レーシングの新星だが、評価は固まっておらず、オッズ30-1という低い人気で、まさに経験を積むという気持ちでの参戦だった。ブックメーカーたちは彼女に殆ど勝機を見出していなかった。
パドックでは、エンライトンドが少し神経質な様子を見せていた。小さな体格ながらも強い気性を持つこの牝馬は、初めての大舞台に緊張しているようだった。
三上は静かに馬に近づき、その首筋に手を置いた。エンライトンドは最初、驚いたように体を固くしたが、すぐに三上の存在を認めると落ち着きを取り戻した。
「彼女は臆病なんだ」調教師のリチャード・グリーンが説明した。
「でも、あなたの声を聞くと安心するみたいだね」
三上は静かに頷いた。彼は牝馬の耳元で何かを囁いた。エンライトンドはその言葉に反応し、耳をピクリと動かした。
「騎手の皆様、乗馬準備を」
三上はエンライトンドに跨り、コースへと向かった。この牝馬は10番ゲート。中盤のポジションは悪くないが、問題はスタートだった。彼女はゲート内で落ち着かない傾向があると聞いていた。
各馬がゲートに入ると、案の定、エンライトンドは少し暴れ始めた。三上は冷静に手綱をコントロールし、静かに声をかけ続けた。彼の落ち着いた態度が伝わったのか、エンライトンドは次第に静かになっていった。
「発走!」
ゲートが開き、各馬が飛び出す。エンライトンドはやや出遅れたが、大きく崩れることはなかった。三上はすぐに態勢を立て直し、後方からじっくりと脚を溜めることにした。
レースは予想通り、速いペースで展開。先頭の馬たちは互いを牽制しながら、ハイペースで飛ばしていった。三上はエンライトンドのリズムを大切に、後方から様子を見ていた。
最終コーナーに差し掛かると、先頭集団にほつれが生じ始めた。三上はここぞとばかりにエンライトンドを外に持ち出し、追い込みをかけた。
「エンライトンド、三上騎手が外から差してきました!後方からの追い込みです!」
残り200メートル、エンライトンドのストライドが伸び始めた。後方8番手から急激に順位を上げ、残り100メートルで4番手までのし上がる。
「エンライトンド、さらに伸びてきました!4番手まで上がってきています!」
しかし、先頭集団との差は最後まで縮まらず、エンライトンドは最終的に5着でフィニッシュ。期待よりも好成績だったが、三上の表情からは複雑な感情が窺えた。
下馬後、エクイティ・レーシングのパークが満面の笑みで迎えた。「素晴らしかった!オッズ30-1の大穴馬で5着だぞ!誰も期待していなかったのに!」
「伸びが良かった。もう少し早く仕掛けていれば、3着には入れたかもしれません」三上は静かに言った。
「いや、十分素晴らしいさ」パークは三上の肩を叩いた。「彼女は初めての大舞台だったが、あなたのおかげで落ち着いて走れた。これからが楽しみだよ」
一方、NHKの山野みづきが取材に訪れた。
「三上さん、エンライトンドの5着、予想以上の好走でしたね。この馬との騎乗について、どう感じましたか?」
三上は少し考えてから答えた。「彼女は繊細な馬です。環境の変化に敏感で、初めは緊張していました。でも、彼女には大きな可能性がある。今日の経験が、彼女の成長につながるでしょう」
「三上さんは『馬の声を聞く』能力で知られていますが、エンライトンドとの対話はどうでしたか?」
三上はわずかに表情を和らげた。「彼女は言葉よりも感情で話します。不安を感じると、すぐに伝わってくる。そんな彼女の気持ちを理解し、安心させることが今日の鍵でした」
「まるで人間の心理カウンセラーのようですね」山野が微笑んだ。
「馬も心を持っています」三上は静かに答えた。「それを理解することが、騎手の仕事です」
インタビューを終えると、三上は次のレース、ジュベナイルに向けて準備を始めた。スカイピーサーとの騎乗だ。
「第9レース、ブリーダーズカップ・ジュベナイルの出走馬がパドックに入場します」
ジュベナイルは2歳馬の頂点を決めるダートのレース。三上のスカイピーサーは、ネクストジェネレーション・ブラッドストックのサラ・コーエンが所有する栗毛の2歳馬だ。彼女にとって、このレースは特別な意味を持っていた。
「彼は私たちのプログラムの成果なの」コーエンはパドックで三上に語りかけた。「あなたの判断で購入した馬よ。周囲にいる馬たちは名門血統か数億円で取引された馬ばかり。ここまで来られただけで私は満足しているわ」
三上は静かに頷いた。スカイピーサーは、彼が「若馬投資アドバイザー」として評価し、コーエンが他の高額馬と比べればはるかに安価で購入を決断した馬だ。最初は神経質で自分の力を恐れていたこの馬が、三上の特別な調教で徐々に改善されてきた。今日のレースでは、少しでもこの馬の価値を高められるかが焦点だった。
「騎手の皆様、乗馬準備を」
三上はスカイピーサーに跨り、パレードリングからコースへと向かった。スカイピーサーは4番ゲート。好位置だが、問題は馬の気質だった。環境の変化に弱いスカイピーサーが、この大舞台でどこまで力を発揮できるか。
ゲートに入ると、スカイピーサーは少し落ち着きがなかった。三上は静かに手綱を整え、馬に安心感を与えるように努めた。
「発走!」
ゲートが開き、各馬が飛び出した。スカイピーサーはやや緩慢な出足だったが、三上はすぐに態勢を立て直し、中団に位置取った。
「スカイピーサー、三上騎手は中団の内側につけました。先頭はキングスレガシー、2番手にヴィクトリーコード、3番手にダイナミックフォースと続きます」
デルマーのダートは少し深く、馬たちにとって厳しいコンディションだった。先頭集団は速いペースで飛ばしていったが、三上はスカイピーサーのリズムを乱さないよう、慎重に手綱をコントロールした。
第3コーナーに差し掛かると、スカイピーサーのエンジンに火が入った。三上は絶妙のタイミングで外に持ち出し、追い込みをかけた。
「スカイピーサー、外から伸びてきました!三上騎手、絶妙のタイミングで仕掛けます!」
最後の直線に入ると、スカイピーサーは目に見えて加速した。中団の位置から次々と前の馬を捉え、残り200メートルで4番手、残り100メートルで3番手にまで上昇した。
「スカイピーサー、さらに伸びてきます!キングスレガシー、ヴィクトリーコードを捉えられるか!?」
しかし、最後の直線で先頭の2頭に迫ったものの、差は縮まりきらず。スカイピーサーは3着でフィニッシュした。
三上は肩で大きく息をしながら、スカイピーサーの首を優しく撫でた。「よく頑張った」
下馬後、コーエンが駆け寄ってきた。彼女の目には喜びの涙が光っていた。
「素晴らしかったわ!」コーエンは興奮した声で言った。「私の期待を上回る結果よ!あの名血馬や高額馬の中で3着に入るなんて!これで彼の価値は一気に上がったわ」
三上は静かに頷いた。「彼はまだ完全に力を出し切っていません。この経験が、次につながるでしょう」
「あなたの『馬の声を聞く』能力は本物だわ」コーエンは感激した様子で続けた。「安価で良い馬を見つけるあなたの直感は間違っていなかった。これからも一緒に、隠れた才能を持つ馬を見つけていきましょう」
BS11の菅原と、NHKの山野が合同で取材に訪れた。
「三上さん、スカイピーサーで3着入賞、おめでとうございます」菅原が切り出した。「このレースについて、技術的な観点からどう評価されますか?」
三上は冷静に答えた。「スタート後の位置取りが重要でした。内側からじっくりと脚を溜め、最後の直線で外に出して伸びる作戦が功を奏しました。最初の出足が良ければ、2着も可能だったかもしれません。」
レース終了後、三上はホテルへと戻った。太平洋に沈む夕日が、部屋の窓から見えた。
(今日のレースは上々だったが、明日2日目も大きなレースが控えている。一旦、頭を空にして、やるべきことをやって寝よう)
三上の気分転換のルーティンワーク。
ベッドの上で、長めのストレッチをこなすこと。息とともに様々な悩みや感情を吐き出す。
頭を空っぽにし、早く寝れることが三上の精神と体力の強さの一端であった。
体が温まった三上は早々に床に就き、静かに寝息をたてるのであった。