《中央暦1923年6月15日 帝国領ノルデン 帝国陸軍北方軍管区司令部》
レガドニア協商連合との地域紛争が開戦へと発展してから1週間、司令部内は無数の電信音、参謀たちの交錯する怒号、そして膨大な作戦書と被害報告の山に包み込まれていた。
しかし、その喧騒とは無縁のような区画があった。
北方軍管区司令部図書館、そこに併設されたカフェスペース。
帝国参謀本部の収まるビルディング以上の充実した蔵書と高品質な豆を揃えたこの施設は、2年程前に赴任してきたとある参謀が「将校および兵員の精神衛生維持と、高度な学術教養の涵養」という名目で膨大な予算をポケットマネーから出し、司令部に増設させた空間である。
図書館側とカフェとを隔てる壁はなく高級なカフェスペースには本の知性の臭いとコーヒーの芳醇な臭いが同席していた。その奥には、士官らが機密性の高い会談を行うための防音個室がいくつか並んでいる。
オープンキッチンに常駐するバリスタは慌ただしい軍人と同じ建築物にいるとは思えない程落ち着いた様子でコーヒーの抽出を行っていた。
「どうぞ」
髭にも髪にも白髪を生やしたバリスタの男はここではまず見ることのない小さなお客さんの前に少し不安そうに入れたてのコーヒーをそっと置いた。
「ありがとう。いい香りだ」
小さなお客さん、改め新人尉官ことターニャ・デグレチャフ少尉は、この世界に生まれてからこの方嗅いたことのない久方ぶりの素晴らしい出来のコーヒーに心を躍らせていた。
ターニャは早速一口含み瞠目した。
バリスタはキッチンで何かを作りながらニコニコと微笑んでその様子を見た。もはや、小さなお客さんはコーヒーを飲めるのか抽出しながら自己問答していたバリスタはここに居ない。
(素晴らしい香りだ。士官学校の向かいのいい加減なカフェの抽出のちの字も知らないようなバリスタが淹れたコーヒー風味の泥水とは雲泥の差だ。これぞ資本主義の香り!資本主義万歳!!)
「こちらもどうぞフロイライン」
「ん?これは……」
バリスタが気を利かせたのか、ターニャの前には黒いコーヒーの隣にホイップの白とアイスの乳白色とストロベリーの赤で出来た小さなパフェが並んだ。
ではいただこう。ターニャは右手に持つカップをカチャリと置き、小さなスプーンを持ち直した。
厚いギプスに覆われている左手と頬の絆創膏があると普通の動作も何となく痛々しく見えるな、とバリスタは思った。
バリスタの思ったことを感じ取ったのかターニャはギプスに覆われた左手、そして右側のカウンターに立て掛けられた松葉杖を見て苦笑して、パフェを一口含んだ。
(む⁉これは……甘いものには興味は無かったが、これならば世の女性が何故甘いものに目がないのか理解できるぞ。少し甘すぎるアイスはホイップで丁度良くなるようになっている。品種改良を重ねていないからか酸っぱすぎるイチゴはアイスと食べると素晴らしいハーモニーを奏でる!!)
外見は2桁いっていない金髪碧眼の美少女、いや美幼女。それが、地面に足も届かぬ椅子に座りニコニコとパフェを食べている様子を見て誰が思おうか。
彼女、否、彼は前世では現代日本のエリートサラリーマンであり、正当な理由(マジで正当)で解雇した部下に私怨(ガチ)で駅のホームから突き落とされ死の間際に神(w)を自称する存在Xを論破したら(主観)大戦間近の近代に女の孤児として転生させられたのだ。さらに、国が求める希少属性である魔導適正なぞが備わっている物だから否が応でも軍人にならざる終え合い運命にさせられた可哀想(主観)なやつである。
そんな可哀想なターニャがニコニコとパフェを食べていると左足からの鈍痛で顔を少し顰めた。
思い出すのは1週間前の出来事。
士官学校卒業直前の実地研修のこと。
帝国領ノルデンに対しレガドニア協商連合が越境し、帝国軍がこれを攻撃。その後双方ともなし崩し的に宣戦布告し戦争状態に陥った。
その時同地で待機させられていた士官学校卒業候補生たちは丁度いいと着弾観測を任された。
最初は何の妨害もなく空を飛んで楽に着弾観測を行っていた。あの時までは……
協商連合の魔導中隊が帝国側の迎撃ラインを突破し後方に浸透、野戦砲部隊が壊滅する危機となり、双方の直線上の空域にいた観測主の自分にスポットライトが向いたのだ。
一人に対して一個中隊、しかも司令部からはカップラーメンを作って食って片付けられる程の時間的猶予のある死守命令。
自爆の果てに死ぬ気で撃退して負傷したのだから後方ライフだ。と喜んだのも束の間、枕元に無慈悲にも置かれる銀翼突撃賞。ボロボロになりながら得たのは欲しくもない名誉と前線確定の切手だけだった。
(思い出したら腹が立ってきた!!おのれ存在Xめ!!)
ターニャは不思議そうな顔で自身を見るバリスタを見た。
何となく間抜けな顔に毒気が抜かれたターニャは気分転換にコーヒーの香りを楽しむことにした。
撃退と引き換えに負傷した脚は未だ完全には癒えていない。軍医からの歩行許可は出ているものの、不定期の皮膚の引きつりと鈍痛は続いていた。病室の天井をただ眺めるよりは、この静かなカフェで資料を読み込む方が幾分か有益であったが、彼女の意識は手元の書類ではなく、この施設を創り上げた男に向けられていた。
(ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト……)
ターニャは小さく吐息をついた。
最年少での士官学校入学(ターニャにより記録は塗り替えられたが)、ルーシー革命での先読み的功績、未来予知したとしか思えない天才的金融手腕。さらには、時代の先を行く数々の論文。男爵家の三男坊から軍高官で、さらに財閥の総帥というストレートでのハイパーエリート。
どれほど天賦の才に恵まれた人物であろうと、この世界の進歩スピードを単独で超越しているその動向には、過剰なまでの違和感が漂っていた。
(あの男も……私と同じく、異なる世界の記憶を持つ『転生者』なのではないか?)
確証はない。だが、歴史の先を見越しすぎた数々の行動は、ターニャの中で拭い去れない疑念となって渦巻いていた。
カツカツと足音が聞こえる。
一人の男が資料を片手にカフェの空間へと入って来た。
黒髪碧眼一八〇センチを超える巨躯。右頬にはルーシー革命のときに着いたらしい裂傷があった。
その傷は帝国将校が学生時代にメンズーアで付けて威張っているようなモノではなく銃弾などでえぐられた深い傷痕だった。
眉間に多少皺が寄せられている以外の皺は無く、頭のところところに生える白髪が彼の年齢を何となく教えてくれる。
ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト大佐。39歳。
連日の徹夜作業の終わりなのか、軍服の第一ボタンを外し、目元には薄い影を落としていたが、その瞳にはどこか人を食ったような余裕と、冴え渡る知性が同居していた。
ローゼフシルトは手にしていた資料から少し目を逸らしターニャを確認すると少し驚いた後小さな笑みを浮かべた。
「失礼するよ、えーと、デグレチャフ少尉だったかね。外の喧騒を離れて静かに思考を整理するには、ここが一番でね」
「……ローゼフシルト閣下」
ターニャは松葉杖に手をかけ、即座に姿勢を正そうとしたが、ローゼフシルトは大きな手を軽く振ってそれを制した。
「楽にしてくれたまえ。銀翼突撃賞持ちの負傷兵にそんなに畏まられてはこちらが困る、何より今の君は軍務の時間外だ」
「いえ、軍務外であろうと上官に対しては……」
「なるほど、そうであればこちらにも手がある」
「え、それは?」
130程度の身長のターニャに向かって180のローゼフシルトはずかずかと歩いて近づきターニャと顔の位置を合わせる。
「さて少尉、ついてきてもらうぞ」
「し、少々お待ちを……」
咄嗟の言葉にターニャは慌てて松葉杖を持とうとしてローゼフシルトの大きな手に遮られた。
「その必要はない。効率性のため私が少尉を抱きかかえよう」
「え?」
うお⁉とターニャは抱き上げられた。
ローゼフシルトはターニャを抱き上げるとヘタだけが置かれているパフェのなれのはてを一瞥し、バリスタを見て言った。
「君、少し少尉を借りていくぞ。少尉と私のコーヒー、あとその松葉杖を持ってきてくれ」
「は、はい。了解しました」
会話が終わるとローゼフシルトはターニャの上に資料を乗っけて士官用の個室に向かった。
◇
ローゼフシルトはコーヒーを一口すすり、心地よさそうに息を吐いた。
対面に座るターニャは目の前の熊のような大きな男が一体何を考えているのか皆目見当もつかなかった。
「怪我の具合はどうだね、少尉」
「はっ。軍医からは徒歩の許可をいただいております。帝国軍人として、一日も早い復帰を目指し、リハビリに励んでおります」
「模範的だな」
ローゼフシルトは苦笑を浮かべた。その眼差しはどこか柔らかく、しかし同時に、ターニャの皮膚の裏側まで透かし見るような鋭さを秘めていた。
「ノルデン上空における君の戦功報告書、実に興味深く読ませてもらったよ」
ローゼフシルトはソファの背もたれに深く寄りかかり、組み上げた足の上に手を置いた。
「単機で協商連合の一個魔導中隊を迎撃。後方の砲兵陣地を防衛すべく交戦を開始し、敵を撃退。自機は墜落・負傷するも生還。……銀翼突撃賞の授与は当然の果たすべき評価だな」
「恐縮です、閣下。私はただ、与えられた防衛任務を遂行したのみであります」
「ああ、分かっているとも。君の行動には一点の落ち度もない」
ローゼフシルトは静かな口調で言った。そこに侮蔑や揶揄のニュアンスは一切なかった。彼は目の前に座る九歳の少女を、一人の熟練した帝国軍将校として完全に尊重していた。
「前々から、君の存在には目を付けていたんだよ、デグレチャフ少尉」
ローゼフシルトは低く、どこか楽しげな声を漏らした。
「6歳での士官学校入学。そこにおける異様なまでに洗練された戦術論。そして今回の、完璧すぎる死線からの生還。……前々からおかしいと思っていた。この際だ聞いておこう」
ローゼフシルトは身を乗り出し、机の上に肘をついた。
「ターニャ・デグレチャフ少尉。君は何者だ?」
個室の中に、濃密な静寂が降り積もった。
防音壁に阻まれた部屋の中で、二人の視線が交錯する。
ターニャは脳内で高速の演算を行った。
ここでしらを切り通すか。それとも、相手の出方を探るために一定の踏み込みを見せるか。目の前の男、ローゼフシルト大佐は、すでに自分を「ただの子供」とも「ただの軍人」とも見ていない。
「……閣下」
ターニャは冷たく、研ぎ澄まされた低い声で問い返した。
「私がご質問にお答えする前に、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ほう? 構わないよ。何だね」
「今回の協商連合との紛争……司令部も参謀本部も、完全に後手に回っております。協商連合の大衆迎合主義政党が、国内の支持率稼ぎのために帝国領ノルデンへの進駐という無謀なパフォーマンスを行い、それを我が軍が侵攻と解釈して迎撃したことによって始まった……このくだらない紛争の連鎖を」
ローゼフシルトは青い瞳をわずかに細めた。
「帝国が誇る天才的理論家であるローゼフシルト閣下はどのように収めればよいとお考えになられますか」
ローゼフシルトは驚いた様子も見せず、ただ満足そうに口元を歪めた。
「ハハ、実に素晴らしい質問だ少尉」
ローゼフシルトはコーヒーカップを回しながら、淡々と語り始めた。
「協商連合のバカどもが選挙対策で軍を動かすそれ以前から、私はその事実を把握していた。参謀本部に情報を上げ、警告を発していれば、この紛争は局地的な外交問題として火消しできただろうね」
「なッ!」
ターニャはたまらず声を上げ瞠目した。
戦争に繋がるかも知れない危機を把握していながら握りつぶし戦争へと繋げたと目の前の男は何ともないように言ってみせたのだ。
「だがね、少尉。私はあえて沈黙を守り、紛争が燃え広がるのを黙認した」
「……何のためにですか」
「根本的な問題の解決のためさ」
ローゼフシルトの声音から柔らかさが消え、理論家としての冷徹な響きが満ちた。
「協商連合の小突き合いを今ここで収めたところで何になる? 帝国が欧州の中央に鎮座し、圧倒的な工業力、圧倒的な人口、圧倒的な資源量を持っているという事実がある限り、西のフランソワも、海のアルビオンも、東のルーシーも、永久に我が国に恐怖し、包囲網を組み続ける。フランソワは歴史的宿敵だ。ルーシーは欧州平原に強大な大陸国家は二つといらないと考えている。アルビオンは30km先の大国に震え慄きさらにそれが大海軍をもとうとしていることに激怒している。それに対し我が国も包囲されている現状に恐怖し、国家の強化で以て対抗しようとしている。このつまらん負の連鎖がいつまで続くと思うかね?我が国は一つの国家としては強すぎるし、周りが纏まっても強い。小さな火種を消して現状維持の平和を貪ることは、真なる平和の実現とは言えん。恐怖に覆われた平和は、ほんの小さなしょうもない出来事で崩壊する」
ローゼフシルトは静かに自らの右手を見つめた。
「戦争は地獄だ。だが、避けられない地獄であるならば、我が国の主導で、我が国にとって最も有利なタイミングで開幕させるべきだ。……協商連合が自ら火の中に飛び込んできたのだから、これを利用して北方の脅威を完全に排除し、欧州の秩序を書き換える足がかりにする。それが私の選択だ」
「……あまりにも、乱暴な地政学的賭けでは?」
「賭けではないよ」
ローゼフシルトは微かに口角を上げた。
「欧州各国は帝国があることに耐えられない、帝国は帝国がこうあることに耐えられない。この緊張状態は少し人類には刺激が強すぎる。いつしか人類が自身の手で自身を滅ぼせるようになる前に秩序を変える必要がある」
「世界最終戦争とでも仰るつもりでしょうか?」
ローゼフシルトは楽しそうに目を細めた。
「その通りだ」
ターニャの背筋に、冷たいものが走った。
「……ローゼフシルト閣下」
ターニャは手元の温もりを失ったコーヒーを見つめながら問いかけた。
「失礼ながら、そのような戦争が、どれほどの犠牲を生むか……お考えになったことはありますか」
「勿論だとも。覚悟している」
ローゼフシルトは即答した。一切の躊躇も、罪悪感の揺らぎもなかった。
「帝国側の犠牲者は軍民合わせて多くても1000万程で済むのではなかろうか。まあ、勝つとしてね」
「――っ!?」
ターニャの青い瞳が、大きく見開かれた。
一千万人。
敵国の犠牲者ではない。帝国側のしかも犠牲者だけで一千万人だ。
「……正気ですか、閣下。一千万人の国民の血を流すことが、貴方の仰る解決なのですか!?」
「正気だよ、デグレチャフ少尉」
ローゼフシルトはは穏やかに、しかし絶対に揺らがない鉄の意志を込めて答えた。
「帝国周辺各国は一度の戦いで帝国を解体しきれない。なら戦いはもう一度以上起きるだろう。しかし帝国は周辺を一度で制圧し新たな秩序を再建するだけの力を持つ国家の一つだ。ダラダラと二度も争うより一度で大量の血が流れた方が総量では少ないだろう」
ローゼフシルトは右頬の痛々しい傷痕を指でなぞった。
「帝国が真に救われる道は二つしかない。何者かの秩序のもと平伏するか、欧州の絶対王者になるかだ。私は後者を選ぶ。そのためのコストが1000万人なら、喜んでその支払いのサインをしよう」
(狂っている……!)
ターニャは心の中で、叫びにも似た戦慄を覚えた。
この男が見ているビジョンは、ターニャが望む前線からの脱出と平和な後方勤務とは正反対の、世界を巻き込む血の泥沼だ。
しかも、その狂気は無知から来るものではない。この男は、西暦世界の二度の大戦の悲惨さやドイツの陥った地獄をあらかじめ知っているかのように、そのリスクを織り込んだ上で一千万人の死を許容できると言っているのだ。
(知っている……? やはり、この男も……)
この男が提唱した現代的な論文、金融市場での異常な先見性、そして歴史の結末を知っているかのような地政学的思想。その全てが一つの結論を指示していた。
「……ローゼフシルト閣下」
ターニャは深く息を吸い、ローゼフシルトの同じ色の瞳を鋭く見つめ返した。
「貴方は……西暦の記憶をお持ちですね?」
ローゼフシルトの表情が、ピタリと止まった。
防音の個室の中に、落雷のような沈黙が落ちた。
ローゼフシルトは数秒間、ターニャの顔をじっと見つめていたが、やがてその口元が、今日一番の大きな、そしてどこか懐かしそうな笑みに歪んだ。
「……ハハハ。やはりそうか」
ローゼフシルトは背もたれに深く体重を預け、低く笑った。
「西暦、か。懐かしい響きだね。……デグレチャフ少尉、君も向こう側から来た口だな?」
「ええ」
ターニャは隠すことを諦め、冷静に頷いた。
「どうりで、だ」
ジークは感心したように深く首を振った。
「6歳の幼女が、士官学校に入学し、9歳でこんな議論ができ、魔導中隊をあしらい、生きて帰ってくるわけだ。前々からそうではないかと思っていたがやっぱりか」
「似たようなものです」
ターニャはそれ以上、前世の自らの詳細については語らなかった。ジークもまた、野暮な深追いはしなかった。
「いやあ、驚いたな」
ジークは楽しそうに右手をアゴに当てた。
「この世界に転生して39年。自分以外の転生者に会えるとは思っていなかったよ」
「……ローゼフシルト閣下」
ターニャは眉をひそめ、強い警戒感を隠さずに言った。
「貴方が転生者であるならば、なぜそれほど無謀な戦争を企てるのでしょうか? 史実におけるドイツの二度の破滅をご存知のはずです。」
「知っているさ、デグレチャフ少尉」
ジークは静かに言った。その瞳には、前世の歴史知識をすべて踏まえた上での、凄惨なまでのリアリズムが宿っていた。
「史実のドイツが敗れたのは、すべて国力の限界によるものだ」
「その通りかと」
「史実のドイツの粗鋼生産量をしっているか?占領地を含めておおよそ3000万t届かないらしい。帝国は現時点で5500万tだ。協商連合を制圧できれば、開戦で止まらざる終えなかったプラントが一斉に動き出す。そうすれば7000万tだ。1年後にはさらに1000万t増える予定だ」
「ですが、粗鋼だけでは何も……!」
「そうだ、だが人口は7000万人が1億2千万人、自動車生産台数35万台が280万台、アルミニウム精錬20万tが60万t、石油はイルドアのルカニア*1、ジャマーヒリーヤ*2さらに本国へ簡単に供給可能な中小の油田と人口石油を含めて平時の時点で年産5000万t。戦時には1億3千万tまで増産可能だ」
ターニャは小さく唾を飲み込んだ。
自身が転生し士官学校等を通してこの世界の帝国が西暦世界のドイツに比べて強大なのは知っていた。だが、改めて教えられるとその規模に眩暈がしてくる程のものであると改めて理解させられた。
欧州の中心に7割規模のアメリカがいると考えればそれがどれほど恐ろしいかよくわかる。
これだけ聞けば、帝国による欧州制圧は容易いと思ってしまうが……
「ですが、あまりにも地理が弱い……」
「そうだな」
ローゼフシルトはターニャの指摘をあっさり認めた。
なるほど協商連合と共和国は倒せるだろう。だが、海の先の連合王国は?
ドードバード海峡の幅は僅か30km。気合があれば人が泳いで渡れる距離。だが帝国にとってそれは無限に等しい距離だ。
では、連邦は?
文字通りコミーの縦深は無限だ。いくら攻めても野戦軍を破壊しきれない。さらにやつらはその縦深の奥地から無限のように軍を送り込んで来る。
かなたの合州国は?
これに関しては倒しようがない。一国だけ全く別のステージに立って向こうから一方的に焼夷弾を降らせてくる。
「そこはあれだ。運だ」
「へ?」
先程までのリアリスト然とした言葉とは裏腹に突然出て来るまさかの偶然頼み。
これには個室内の緊張感もたちまち散っていった。
「この39年間結構頑張ったんだ。なるだけ早く軍人初めて商売初めて、ザ・ストリート*3で稼いで、それを元手に帝国の産業強化に取り組んだ。非効率な契約形態を軍政内部から切壊し、頑固なマイスターを札束でしばき回し、これからの重要産業に大規模な投資をし、人材が逃げないよう囲い込んだ。そして気づいたらローゼフシルト財閥が出来ていた。軍は兵器の刷新や情報化が進み……ドクトリンの刷新は組織内力学の問題でうまくいっていないが……それでも帝国は強くなった。それも圧倒的に。だがそれでも勝てるかどうかは分からない。人名は尽くしたあとは天命を待つだけだ」
ローゼフシルトは右の拳を強く握りしめて言った。
ターニャはそれを聞き、疑問を持った。
「なぜ、閣下は、転生してから出会ったこの帝国にここまで尽くしているのでしょうか?もちろん私も軍人である以上、帝国に忠誠を誓っていますが、閣下程の熱量を持ち合わせていないように思います。一体その原動力はどこから……」
ローゼフシルトは拳の力を緩め、目を少し大きく開いてターニャの顔を見た。
そして、ああ、と納得したように答えた。
「デグレチャフ少尉、君がどういう思いで帝国のために働いているかは知らない。今から私が答えることは君からしたら帝国を冒とくしているように聞こえるかもしれない……まず……結論から言うと私に帝国を敬う気持ちは欠片も無い。今世は私にとってはボーナスステージのようなものだ。そこでやりたいことが帝国の秩序を打ち立てることだった。ただそれだけさ」
「例えそれで何千万という人が死んだとしてもですか……」
「ああ……」
カフェの個室にいやな沈黙が流れる。
「……まあ」
ローゼフシルトは不意に短く息を吐くと、時計に目をやった。
「徹夜明けの参謀が語るには、少し長くなりすぎたな。……あまり話し込んで、君の傷に障っても軍医に叱られる」
ローゼフシルトはソファからぬっと背を伸ばして立ち上がると、軍服のボタンを留め、乱れた襟元を整えた。
「そうか。今日はいい話ができた」
テーブルに置かれた書類を持ちあげるとローゼフシルトは壁の鍵をカチリと回し、防音扉をわずかに開けた。途端に、廊下の向こうから微かに司令部の喧騒と電信の音が部屋へと滑り込んできた。
「デグレチャフ少尉。早くそれを治したまえ。君のような人間は、これからの時代いくらいても足りないのだから」
ローゼフシルトはそれだけ言うと、特に返答を待つ風でもなく、軽やかな足取りで廊下へと出て行った。そのまま忙しなく兵士が行き交う司令部の喧騒の中へと、あっさりと姿を消してしまう。
まるで、嵐が通り過ぎたかのような唐突さだった。
一人取り残された個室の中で、ターニャは冷めきったコーヒーの黒い水面をただ見つめていた。
同じ現代社会からの転生者でありながら、目標のベクトルがあまりにも違いすぎる。
ターニャが望むのは、論理的な組織における自身の安全と、快適な後方で文明的な生活を送ることだ。
対してローゼフシルトが見ているのは、史実の知識と圧倒的な財力を足がかりに、幾千万の血をコストとして支払ってでも帝国による秩序構築を成し遂げるという、壮大で狂気的な、そして無責任な地政学的野望。
(あの男は危険すぎる。存在Xが私に信仰心を生やすためにこの世界に配置した、最悪のエネミーなのではないか……?)
ターニャは背筋に走る冷や汗を拭い、松葉杖をぐっと握り締めた。
あの男がこれから巻き起こそうとしている凄惨な地政学的暴風の中へ、自分まで巻き込まれてたまるものか。
どれほど世界が狂おうと、あの男が一千万人の犠牲を築き上げようと、自分は何としてでも生き残り、安全な後方勤務を手に入れてみせる。
ターニャは静かに個室を後にすると、快晴の空を悠々と飛ぶオジロワシを見上げ、深く息を吐き出すのだった。
(クソッたれの存在Xめ!!……)