《中央暦1925年3月 帝国西部戦線 帝国陸軍軍第二〇三航空魔導大隊陣地》
湿り気と泥の匂いが立ち込める前線陣地の天幕の中、煤けた石油ストーブが頼りなく細い熱を吐き出していた。
「……うぐっ。相変わらず、泥水を煮詰めたような味がするな」
ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、無骨な金属製マグカップを口から遠ざけ、深いため息をついた。
代用コーヒー――という名の、炒った麦とドングリを怪しい香料で誤魔化した「帝国軍標準支給品」である。カフェインの「カ」の字も感じられないその泥水を、ターニャは不満気になめ回しながら、粗末な木製机の上に広げた帝国官報パルテノンに視線を落とした。
紙面の一面には、威勢の良い大きな活字が躍っている。
『我が軍、西部戦線にて敵要塞陣地を粉砕!』
『協商連合との新通商条約締結――北方の安定と資源獲得の確約』
プロパガンダ機関紙らしい、自画自賛に満ちた華々しい見出しだ。アルビオンの海上封鎖を無血で突っぱね、協商連合を完全に従属させた帝国の勢いは、いまや全欧州を震撼させていた。しかし、長年この軍隊という官僚組織に身を置くターニャにとって、こうした大見出しは「現場の泥臭さを隠すための化粧」に過ぎないことを熟知している。
だが、ターニャの鋭い観察眼は、紙面の最下部、広告枠のすぐ隣にある実に小さなベタ記事に留まった。
『北方の悲劇と屈辱的な手打ち――スオミ、ルーシー連邦の脅威に対し実質的勝利を堅持』
「ほう……?」
ターニャの薄い唇が、意地の悪い三日月型に歪んだ。
「あの共産主義の馬鹿どもが、北の小国相手に無様に泥を啜ったか」
記事の内容によれば、数ヶ月にわたって続いていたスオミとルーシー連邦との国境紛争――事実上の全面戦争――が、ようやく休戦協定という形で幕を閉じたのだという。
「ざまあみろ、共産主義の豚どもが。私有財産の否定と計画経済という名の誇大妄想に酔いしれた結果がこれだ。市場原理を無視した組織運営がいかに無能で、現場の生産性を著しく阻害するか、身をもって知るがいい」
ターニャは心底嬉しそうに罵倒を吐き捨てた。
極度の反共主義者であり、合理主義の信奉者である彼女にとって、ルーシー連邦という「個人の権利と経済合理性を踏みにじる国家」が赤恥をかいたというニュースは、どんな高級なカフェインよりも脳を覚醒させる特効薬であった。
「それにしても……帝国が裏で大量の魔導宝珠と弾薬、そして支援物資をスオミに横流ししていたとはいえ、あの赤い巨人を相手に一歩も引かずに叩きのめすとは。スオミの現場指揮官は、相当に優秀な管理能力を持っていると見える」
ターニャは残りの泥水コーヒーを飲み干すと、ふっと目を細めた。
「まあいい。共産主義者が自らの無能さで出血多量に陥ってくれるなら、我が軍にとってもこれ以上の安全保障はない。……もっとも、あの赤ブタどもがこの屈辱を素直に飲み込むとは思えんがね」
◇
この戦争の総決算を受けたルーシー連邦中央委員会および最高軍事会議の見解は、まさにこの一言に尽きた。
「「「どうしてこうなった……!?」」」
モスコーのクレムリン宮殿、重厚な赤絨毯が敷き詰められた会議室。
そこに集まった党幹部と将軍たちの顔は、例外なく死人のように蒼白であり、同時に激しい困惑と恐怖に震えていた。
数字の上では、この戦争は戦史に類を見ないほど「勝敗が最初から決まっている消化試合」のはずであった。
スオミの人口はわずか三四〇万人程度。対するルーシー連邦の人口は一億七〇〇〇万人を超えている。
何より、スオミと国境を接する連邦のレネングラード軍管区単体を見ても、その人口、工業生産力、そして動員可能兵力はスオミという国家全体の国力を遥かに凌駕していたのだ。
連邦上層部の見通しでは、連邦軍が国境を越えれば、スオミの政府は恐怖に慄き、数日……長くとも二週間で白旗を揚げるはずであった。
だが、現実に起きたのは、近代軍事史における最大の「惨劇」であった。
なぜ、勝てるはずの戦争で連邦軍はこれほどまでに無惨に叩きのめされたのか?
その最大の原因は、連邦上層部が犯した壊滅的なまでの「冬季戦への無理解」と、共産党内部の大粛清による将校団の質の低下にあった。
ハッキリ言って連邦の最高指導部は、極北の冬を完全にナメきっていた。
マイナス三〇度から四〇度にも達する猛烈な極寒の中、連邦軍の兵士たちに与えられたのは薄手の夏用被服と、粗悪な靴だけであった。燃料は寒さで凍りつき、戦車のエンジンは二度と始動せず、大砲の油圧系は固着し、歩兵の手指は銃を握ったまま壊死していった。
さらに、激しい猛吹雪は連邦軍が誇る圧倒的な航空戦力を完全に封殺した。飛行機は飛び立てず、飛んだところで視界ゼロの白銀の世界で味方を誤爆するのが関の山であった。
そして何より――補給線の途絶である。
スオミの深い原生林と深い雪に覆われた細い一本道に、連邦軍の膨大な車列と戦車隊が押し込められた。そこへスオミ軍が巧妙な奇襲を仕掛け、先頭と尾翼の車両を破壊して退路を断つ。
移動も旋回もできない連邦軍の長蛇の列は、極寒の森の中で孤立し、飢えと凍傷によって自滅していくモッティへと変貌したのである。
しかし、連邦軍にとって真の「悪夢」となったのは、自然の脅威だけではない。
スオミという国家が隠し持っていた、常識を遥かに超越した超人的魔導士たちの存在であった。
連邦には、魔導士が存在しない。
共産主義の唯物論的価値観に基づき、魔導という「説明のつかない個人的資質的特権」「反科学の象徴」を反革命的な異端として排除・粛清してしまっていたからだ。
魔導士を持たない連邦軍の歩兵と戦車隊にとって、極北の雪原を縦横無尽に駆け巡るスオミの魔導士たちは、姿なき「死神」そのものであった。
中でも、連邦兵たちを狂乱の恐怖へと叩き落とした一人の魔導士がいた。
連邦軍の将兵は、恐れを込めてその者をこう呼んだ。『白い死神』と。
吹雪が荒れ狂うレネングラード北方の原生林。
連邦軍の一個歩兵連隊が、寒さと飢えに震えながら、雪の中に彫った粗末な陣地に身を潜めていた。
「おい、先方の偵察隊はまだ戻らんのか……?」
「……分からん。通信も途絶えた。畜生、この寒さじゃ指の感覚すらない……」
兵士たちがガタガタと歯を鳴らしながら身を寄せ合っていた、その時である。
シュ・バッ――!!
無音。空気を引き裂くような微かな風切り音とともに、陣地の最前線にいた機関銃手の頭部が弾け飛んだ。
血飛沫が純白の雪を赤く染める。
「敵襲ーッ! 敵襲ーッ!!」
怒号が飛び交い、連邦兵たちがパニックに陥って銃を乱射する。だが、射撃すべき相手の姿はどこにもない。周囲に広がるのは、見渡す限りの白い雪原と静まり返った針葉樹林だけだ。
「どこだ!? どこから撃ってきている!?」
将校が双眼鏡を構えて雪原を捜索しようとした瞬間、その首が不自然な角度で吹き飛んだ。
光学照準器すら使わず、一切の魔導反応を極限まで減衰させた「隠蔽術式」――。
スオミの『白い死神』は、雪と完全に同化する真っ白なギリースーツを身に纏い、マイナス三〇度の雪の中に何時間も身を潜めて連邦軍の幹部や重火器手を正確に射殺していたのである。
しかも、その魔導射撃は常軌を逸していた。
通常、魔導士の射撃は演算宝珠による術式展開の光を伴う。しかし『白い死神』の射撃には、一切の光も、発砲音すら存在しない。ただ「死」だけが、何百メートルも離れた雪原から正確無比に飛来するのだ。
「ひ、ヒィッ……! 狙撃手だ! 隠れろ!」
連邦兵たちが身を隠そうと右往左往した瞬間、空中で微かな高周波の共鳴音が響いた。
上空――いや、全方位からであった。
『白い死神』は一人ではなかった。スオミの精鋭航空魔導小隊が、超低空飛行で樹木の隙間を縫うようにして迫っていたのだ。
帝国から密かに与えられた最新式の演算宝珠を胸に抱いたスオミの魔導士たちは、連邦軍の頭上から容赦のない集束爆破術式を雨あられと降らせた。
轟音と紅蓮の炎が極北の白銀を吹き飛ばす。
防寒装備もなく、対魔導装備すら持たない連邦軍の兵士たちは、反撃の機会すら与えられないまま、炎と雪の地獄の中で次々と爆殺されていった。
「助けてくれ! 悪魔だ! 北の悪魔が空から――」
悲鳴は爆炎の中に消えた。
連邦軍の一個連隊が、わずか数名の魔導士と『白い死神』の連携によって、小一時間で完全に壊滅させられた瞬間であった。
このような惨劇が、スオミ国境線の至る所で繰り返されたのである。
連邦軍の損害は膨れ上がり、死傷者は数十万の単位に達した。世界第二位の超大国が、人口わずか三〇〇万の小国相手に、文字通り血の海に沈んでいた。
しかし――戦争の現実は、あまりにも残酷であった。
中央暦1925年2月下旬。
度重なる大敗と世界的な大恥に狂乱したモスコーの最高指導部は、ついに「なりふり構わぬ正攻法」へと舵を切った。
効率も、兵士の命も、何もかもを無視した「絶対的物量」の投入である。
連邦軍は、レネングラード軍管区のみならず、全土からかき集めた数十万の増援部隊と、数千門の火砲、数百両の重戦車を国境線へと集中させた。
そして、スオミ軍が誇る堅固な防衛陣地、ナンベルヘイム線に対し、昼夜を問わない無差別の絨毯砲撃を開始したのである。
ドバババババババババッ……!!!!
天地を揺るがす地獄の連続砲撃が、数日間にわたってスオミの防衛線を叩き続けた。
どれほど優れた魔導士がいようとも、どれほど勇猛な歩兵がいようとも、空間そのものを焦土に変える絶対的な物量の前には限界があった。スオミ軍の物資と弾薬は底をつきかけ、兵士たちは連日の砲撃で疲弊しきっていた。
連邦軍は、自軍の兵士の屍を山と積み上げながら、波状攻撃を繰り返した。
一人倒れれば十人、十人倒れれば百人の兵士が、スオミ軍の機関銃の前に流し込まれる。
「進め!前進する者は模範的連邦市民だ!!後退する者は右派日和見修正主義の反革命だ!!即座に処刑する!」
後方に控える政治将校の督戦隊に背中を押され、連邦軍の人海戦術がナンベルヘイム線の一角を力ずくで食い破った。
スオミ軍には、もはやこの「肉の壁」を押し返すだけの予備兵力も弾薬も残されていなかった。
圧倒的な物量による判定勝ち――いや、泥まみれの力ずくによる突破。連邦軍は凄まじいまでの消耗と犠牲を払い、ようやくスオミ軍を撤退に追い込み、判定勝ちの休戦協定へと引きずり込んだのである。
◇
『休戦協定締結。スオミ、カルヤラ地峡を含む国土の約一割を連邦へ割譲』
モスコーのラジオは、あたかも大勝利を収めたかのように高らかにニュースを報じていた。
しかし、その声に歓喜する連邦市民は誰一人としていなかった。街には体のどこかを失った傷病兵があふれ、無数の戦死者公報が家庭へと届いていたからだ。この「勝利」のために支払われた代償は、あまりにも大きすぎた。
一方、国土の一割を力ずくで奪い取られたスオミの首都。
政府庁舎の漆黒の執務室で、スオミ軍最高司令官ナンベルヘイムは、沈痛な面持ちで窓の外を見つめていた。
街には、割譲地域から着の身着のままで避難してきた膨大な数の避難民があふれている。人々の顔には、屈辱と怒りが強く刻まれていた。
カツ、カツ、と静かな足音が部屋に響いた。
入ってきたのは、軍服の上から分厚いコートを羽織った、一人の小柄な人物であった。
その背には、戦場から持ち帰ったばかりの狙撃銃が担がれている。顔には未だ戦場の硝煙の匂いが残っていた。
「……司令官閣下。休戦の手続きが完了したとのこと、承知いたしました」
静かだが、鋼のように硬い声であった。
「すまない……君たち魔導士や現場の兵士たちが、あれほどの血を流して連邦を叩きのめしてくれたというのに。我が国の国力の限界だ。これ以上戦争を続ければ、スオミという民族そのものが消滅してしまう」
司令官は苦渋に満ちた声で頭を下げた。だが、若い魔導士――『白い死神』と呼ばれたその者は、静かに首を振った。
「謝る必要はありません、閣下。我々は負けていません。連邦の豚どもに、スオミの雪を血で染め上げさせてやりました。……そして、この休戦は単なる『一時停止』に過ぎません」
普段は口数の少ない彼が珍しく饒舌に言った。
魔導士の瞳には、激しい復讐の炎が宿っていた。
「ルーシー連邦に奪われた我々の故郷、カルヤラの地を……このまま奴らに与えておくつもりはありません」
司令官は顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、もちろんだ。奴らに貸しを作ったままにしておくわけにはいかん。……すでに帝国の参謀本部から、極密の連絡が入っている」
「帝国から……ですか」
「そうだ。帝国は西のフランソワとの決戦を終えた後、必ずやあの赤い怪物との全面対決へと舵を切る。彼らは我が国の精鋭ぞろいの陸軍と、君たちのような優秀な魔導士の力を極めて高く評価している。……我が国が奪われた国土を奪還し、連邦に本当の『トドメ』を刺すための支援を惜しまないと約束してくれた」
スオミ軍最高司令官は、机の上に広げられた欧州の全図――連邦の巨大な赤と、帝国の深緑が対峙する地図――の上に、力強く拳を叩きつけた。
「いまは雌伏の時だ。帝国からさらに強力な兵器を導入し、軍を再編する。連邦がこの無惨な傷を癒す前に……我々は帝国とともに、あの赤い巨人の喉元を食い破る」
窓の外では、極北の激しい吹雪が吹き荒れていた。
しかし、スオミの兵士たちの胸に燃え上がる復讐の炎は、どんな猛吹雪であっても消し去ることはできない。
奪われた国土を取り戻すその日まで。
スオミという小さくも強靭な獅子は、深緑の巨大な帝国と手を携え、静かに、そして確実に、次なる「雪辱の刻」を待ち続けているのであった。