《中央暦1925年3月 帝国軍参謀本部 作戦会議室》
重苦しい煙草の煙と、焼き立ての珈琲の香りが混ざり合う参謀本部の作戦会議室。壁一面に掲げられた巨大な欧州全図の前で、帝国陸軍の意思決定体制を司る男たちが眉をひそめていた。
戦務参謀次長、ハンス・フォン・ゼートゥーア中将。
そして作戦参謀次長、クルト・フォン・ルーデルドルフ中将。
テーブルの上に広げられた巨大な作戦図には、何重もの青と赤の矢印、そして太い朱色で引かれた絶望的な「壁」が描かれていた。
「『回転ドア』作戦……か」
ルーデルドルフが太い指で地図の北西領域を叩き、吐き捨てるように言った。
「我が方の右翼を意図的に後退させ、罠と知らず乗り込んできた共和国野戦軍を自国領域に引きずり込む。そこへ地下坑道爆破と同時攻勢を仕掛け、包囲網を完成させる。……机上の理論としては美しい」
「だが、現実には機能せんよ」
ゼートゥーアは眼球の奥にある冷徹な計算機を動かすように、目を細めた。
「現状の情勢は我が軍の圧倒的優勢にある。協商連合の従属化、そして北方スオミの戦局によってルーシー連邦が粛清と軍の再編に狂乱、帝国の背面リスクは著しく激減した。我が空軍の戦闘機は共和国空軍を圧倒し、制空権は我が手の内にある。……あまりにも帝国が『勝ちすぎている』のだ」
「左様。有利すぎる絶対的強者が、わざわざ自陣を下げて手招きしたところで、狡猾な共和国の将校団がそれに乗るはずもない。誘引が成立せんのだな」
ルーデルドルフの溜息とともに、室内は重苦しい沈黙に包まれた。
帝国軍が西部の決戦において手詰まりを起こしている原因――それは、地図上のエルザス・ロレーゲン*1から北のドードーバード海峡に至るまで、大陸の国境線を覆い尽くすように築かれた巨大要塞群「マジノ線」であった。
フランソワ共和国が戦前から莫大な国費を投じて建造したこのべトン弾も通さぬ永久要塞群は、文字通り「絶対防御」の象徴であった。
地下数十メートルに張り巡らされた網の目のような鉄道網、重装甲で覆われた回転式多連装砲塔、独立した発電・空気清浄施設。通常の15cm重榴弾砲や24cm砲の集中打撃程度では、このコンクリートと鉄筋の化け物に掠り傷一つ負わせることはできない。
この鉄壁の防御線の影に隠れ、共和国軍は余裕を持って兵力と物資を蓄えている。帝国が正面突破を試みれば、壊滅的な出血を免れない。だが、正面突破を行わずに敵野戦軍を引きずり出し、野戦にて殲滅する手段が失われているのだ。
「打つ手なしか……。要塞の前面で敵の野戦軍を叩き潰さねば、我が国は消耗戦へと引きずり込まれるぞ」
その時、重厚なオーク材のドアがノックされ、二人の将校が室内に入ってきた。
一人は、精悍な顔つきの中に知性と冷徹な鋭さを宿したエーリッヒ・フォン・モンシュタイン中将。
もう一人は、北方戦線を片付け参謀本部に戻ってきたジーク・マイヤー・フォン・ローゼフシルト准将であった。
「中将閣下方。西部戦線における手詰まりを打破する、新たな作戦計画の策定が完了いたしました」
ローゼフシルトが胸を張り、参謀本部公式の朱印が押された極秘書類を木製机の上に広げた。
「作戦秘匿名称『黄色の場合(ファル・ゲルブ)』――通称、モンシュタインプランであります」
モンシュタイン中将が進み出で、指揮棒を手に持ち、欧州全図の前に立った。
「閣下、我が軍が『回転ドア』の呪縛から逃れられないのは、共和国の膨大な戦略予備とマジノ線に囚われているからです。ならば、敵の思考の盲点と、防衛線の『絶対的不可能区域』を突くほかありません」
モンシュタインは指揮棒の先で、作戦の第一段階を指し示してきた。
「まず、第一梯団が北方のワロン突出地へ強烈な打撃を加えます。目的は占領ではなく、敵の目を北方に固執させる『強力な撒き餌』です」
ルーデルドルフが眉をひそめる。
「ワロン突出地の前線には川幅の広いミヤーズ川*2が横たわっている。敵の猛烈な砲撃と機関銃陣地を前に、渡河作戦は困難を極めるぞ。歩兵の血の海になるのではないか?」
「懸念には及びません」
ローゼフシルトが静かに補足する。
「従来通りの渡河設営をすれば敵の標的になりますが、我が軍は輸送機を用いた空挺降下と機甲歩兵による速攻を組み合わせます。すでに制空権は我が方にあり、敵の警戒網をすり抜けて対岸と背後を即座に確保可能です」
ローゼフシルトは作戦資料を一枚めくった。
「さらに、我が軍の砲兵部隊は観測機と連動した最新の弾道計算手順を組み込んでおり、敵砲兵へ即座に同時着弾射撃を叩き込めます。急降下爆撃機による開口部作成と併せ、シュノーケルを装備させたグライフ中戦車の潜航渡河により、ミューズ川を一気に突破いたします」
「渡河を成功させた第一梯団がワロン突出地を奪還すると、続いて待機していた第二梯団が北方マジノ線へ総攻撃を開始します」
モンシュタインが指揮棒を動かす。
「共和国軍司令部はこれを帝国軍の『主力攻勢』と誤認するでしょう。当然、共和国は後方に控える百万人以上の戦略予備群を惜しみなく北方へ投入し、この開口部を塞ぎにかかります」
「……待て」ルーデルドルフが制した。
「第二梯団と、続く第三梯団を投入しても、百万の敵予備兵力で埋め尽くされた北方戦線では打通できん。パリースィへの道は塞がれるぞ」
「その通りです、ルーデルドルフ閣下」モンシュタインは静かに言った。
「だからこそ、第三梯団は北方へは向かいません」
「我が軍の真の主力を担う機甲師団で構成された第三梯団は、北上するのではなく――この『アルデンネの森』を強行突破して西進します」
指し示された緑色の地帯を見て、ゼートゥーアとルーデルドルフの顔色が変わった。
アルデンネ――起伏の激しい丘陵地帯と密林、狭隘な悪路が続く、軍事常識的に「機甲部隊の通行は不可能」とされてきた天然の要塞である。
「アルデンネを迂回した第三梯団は、北方戦域へ雪崩れ込み、北方へ誘引された共和国軍百数十万の『背後』を完全に遮断。大包囲網を完成させます!」
モンシュタインの言葉に力がこもる。
「そして、第三梯団がアルデンネを抜けると同時に、『衝撃と畏怖』を発動します。敵の対空警戒網や防衛陣地を完全に無効化するため、選抜された精鋭航空魔導部隊をV1型長距離ロケットの弾頭へ直接搭乗、積み込み、超高空から敵司令部へ直接降下・急襲させます」
「ロケットによる超高空からの物理挿入か……!」ゼートゥーアが呟く。
「はい。弾道飛行による予測不能の降下攻撃により、後方に点在する共和国軍最高司令部および通信中枢を即座に壊滅させます。頭脳を失った百万の敵軍は、何が起きたかも理解できぬまま、我々の機甲包囲網の中で右往左往する『無力な群れ』と化すでしょう。指揮系統の途絶と大包囲により有機的な軍事行動を封じた後、帝国軍戦略予備を含む全軍を怒涛の如く投入し――二週間以内に共和国全土を占領、制圧いたします」
会議室に静寂が満ちた。
二週間。それはあまりにも壮大で、あまりにも過激なタイムスケジュールであった。
「……二週間か」ゼートゥーアが静かに呟いた。
「ローゼフシルト准将。君が『二週間』という短い猶予に固執する理由は、単なる戦術的速断だけではないな?」
「お察しの通りでございます、ゼートゥーア閣下」
ローゼフシルトは表情を引き締めて頷いた。
「敵の本土を短期で壊滅させなければ、共和国政府および残存部隊は海を渡り、彼らの広大な海外植民地(南方大陸や極東の領土)へと逃亡します。そうなれば、彼らは海外領土を拠点に粘り強い『亡命政府としての抵抗戦』を継続するでしょう。我が国は終わりのない戦いに引きずり込まれます。奴らが逃げる暇すら与えず、本国で完全に息の根を止める。そのためには『二週間』というタイムリミットが絶対条件なのです」
ゼートゥーアは満足そうに小さく頷いた。この作戦が成功した暁には、残存する敵国領土および世界情勢の再編を行う『赤色の場合(ファル・ロット)』へと円滑に移行できるという計算が、彼の頭の中で瞬時に弾き出されていた。
しかし――ここでルーデルドルフ中将が、眉間に深いシワを寄せながら重い口を開いた。
「……内容は分かった。非常に素晴らしい作戦案だが、いささか絵に描いた餅が過ぎんか?」
ルーデルドルフはパイプの煙を静かに吐き出し、二人を鋭く睨みつけた。
「『アルデンネの森が通行不能』であるという現実と、『マジノ線を突破する術がない』という二つの致命的な問題を、どう解決するつもりだ?」
ルーデルドルフは地図上のアルデンネを指で叩いた。
「アルデンネの道幅を見ろ! 戦車一両が立ち往生すれば後続の数千両が立ち往生する狭路だ。補給線はどうする? おまけに、北方マジノ線が突破できなければ第二梯団は全滅し、敵を北方へ引きつけることすらできんぞ!」
その容赦ない指摘に対し、モンシュタイン中将は落ち着いた口調で答えた。
「ルーデルドルフ閣下。アルデンネの森は通行可能です。……すでに『実証済み』であります」
「なに……?」
「我が軍の工兵部隊は、半年前より演習名目でアルデンネ内部の迂回路の拡幅と地盤補強を進めてまいりました。また、主力となるグライフ中戦車は幅広の履帯と堅牢な駆動系を備えており、悪路での走破性は十分に確保されております」
モンシュタインは地図を指し示した。
「事前に入念な密行軍シミュレーションを重ねており、第三梯団全軍が36時間でアルデンネを通り抜ける動線はすでに完成しています」
「ぬう……そこまで手を打っていたか」
ルーデルドルフは唸り声を上げ、その周到な準備に納得せざるを得なかった。
「だが!」とルーデルドルフは重ねて問う。
「アルデンネが通れたとしても、北方マジノ線の要塞群を突破できねば第二梯団の『囮』が成立せん! あの厚いコンクリートと鋼鉄の巨砲陣地を、どうやって打ち破るというのだ!?」
すると、今度はローゼフシルト准将が静かに微笑んだ。
「要塞の破壊なら、十分に可能です。……ゼートゥーア閣下、ルーデルドルフ閣下。そのために、我々は『あれ』を作ったのではありませんか?」
「……『あれ』?」
ルーデルドルフが首を傾げたその瞬間、ゼートゥーアの目が大きく見開かれた。
「……まさか、ローゼフシルト。君は『あの話』を本気にしていたのか?」
「もちろんでございます、閣下」
ゼートゥーアは昔を懐かしむように遠い目になり、記憶の引き出しをひっくり返した。
◇
――時代は遡り、中央暦1921年。
当時、ゼートゥーアとルーデルドルフはまだ少将へ昇進する寸前の准将であり、ローゼフシルトは参謀本部の中佐でこれから大佐として北方に派遣される予定の頃であった。
当時の参謀本部の小会議室でも、二人はいずれ来るであろう共和国との決戦と、着々と建設が進むマジノ線要塞群の攻略法について頭を抱えていた。
「ダメだ! 陸軍が保有する最大の41cm列車砲をもってしても、マジノ線の地下陣地に直撃弾を与えるのは困難だ。着弾精度に限界がある」
当時のルーデルドルフ准将が、頭を抱えて唸っていた。
「かといって、歩兵に爆薬を持たせて肉迫させるのは自殺行為だな。要塞の相互トーチカ網に阻まれる」
ゼートゥーア准将も、冷えた珈琲をすすりながら眉をひそめていた。
その時、隅で資料を整理していたローゼフシルト中佐が、静かに手を挙げたのだ。
「閣下。帝国の中に、すでに『マジノ線を破壊可能な兵器』の基礎が存在するのではないでしょうか?」
「なに?」ルーデルドルフが身を乗り出した。
「そんなものが我が軍のどこにある?」
「陸軍ではありません」
ローゼフシルトは指を海の方角に向けた。
「海軍です。彼らは戦艦用に『厚い装甲を貫通させるための専用徹甲弾』を豊富に保有しております」
ゼートゥーアとルーデルドルフは顔を見合わせた。
「「海軍の16インチ超重徹甲弾……!」」
「左様です」ローゼフシルトは頷いた。
「巨大な戦艦の装甲を撃ち抜くための弾頭であれば、マジノ線のコンクリート地下天頂すら貫通し得る破壊力を持っています。問題は、それをいかに正確に要塞へ届けるかだけです」
「そうか……! 列車砲ではなく、高空の爆撃機から正確に投下すればいいのだな!」
ゼートゥーアが手帳にペンを走らせた。
「しかし中佐、高空から落とすだけでは風で外れるぞ!」
ルーデルドルフが指摘する。
「ならば、弾頭に滑空翼と誘導用の装置を取り付ければ済む話です」
ローゼフシルトの至極簡潔な提案に、二人の准将は感嘆した。
――回想から戻り、作戦会議室。
ローゼフシルトは一枚の仕様書を静かにテーブルの上に置いた。
「かつての着想を元に、極秘裏に手配を進めておいた兵器でございます」
【帝国空軍 超重型誘導滑空爆弾:SB-4000『フォルカン(隼)』 性能諸元表】
・ベース弾頭:帝国海軍 40.6cm(16インチ)91式超重徹甲弾(弾頭重量:約1.2トン)
・全備重量:約1.8トン(十字型スチール滑空翼・尾部操舵フィン装着)
誘導方式:
1. 初期・中期誘導:高高度重爆撃機からの投下後、気圧ジャイロによる自動滑空姿勢制御。
2. 終末誘導:投下機または誘導機からの「指向性赤外線レーザー」追従方式。
最大滑空距離:高度8,000mからの投下時、約35km。
威力・性能:
貫通力:強化コンクリート(鉄筋増加型)に対して最大4.5メートル貫通。
命中精度(CEP):目標の中心から半径3メートル以内。
特徴:超高空から高速で垂直落下し、地下深くに存在する要塞の指揮所や弾薬庫を直接貫通・爆砕する。
「……なるほど」
ゼートゥーアは満足そうに顎を撫で、諸元表を見つめた。
「海軍の徹甲弾頭と滑空誘導の組み合わせか。これならば、第二梯団の出撃とともに北方マジノ線の主要トーチカをピンポイントで無力化できるな」
「よし、これで懸念は潰れた!」
ルーデルドルフは太い拳を激しく机に叩きつけた。
「アルデンネの機甲迂回、誘導爆弾によるマジノ線破壊、そして北方への敵戦略予備引き込み……筋は通っている! これならいけるぞ!」
参謀たちの瞳に、確固たる決意の光が宿る。
「さて……」
ゼートゥーアは表情を引き締め、作戦図の「ある一点」に視線を落とした。
「作戦の全貌は固まった。最後に一つだけ確認しておかねばならん。……第三梯団のアルデンネ突破と同時に発動する『衝撃と畏怖』作戦。V1ロケットの弾頭に乗り込み、敵最高司令部へ直接降下して首を取ってくるという、この正気の沙汰とは思えん極めて重要な任務……投入するのは、どの部隊だ?」
ゼートゥーアが問うと、モンシュタインとローゼフシルトは同時に苦笑いを浮かべた。
「……ゼートゥーア閣下。わざわざお聞きになるまでもありませんでしょう」
ローゼフシルトが肩をすくめる。
「ロケットに詰め込まれて敵陣中央へ投げ込まれるという理不尽を飲み込み、なおかつ確実に敵司令部を潰して生還できる部隊など……我が軍に一つしか存在しません」
ゼートゥーア、ルーデルドルフ、ローゼフシルトの三人は、言葉を交わすことなく互いに顔を見合わせ、深く頷き合った。
「「「まあ……あの部隊しかありませんな(よね)」」」
◇
《同時刻 帝国西部戦線 第二〇三航空魔導大隊陣地》
「ハックショイッ……!!」
冷たい雨が打ちつける前線陣地の天幕の中で、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は盛大にくしゃみをした。
「……少佐殿、大丈夫ですか? 風邪でもお召しになりましたか?」
副官のヴィーシャが心配そうに、温かい代用コーヒーの入ったマグカップを差し出してくる。
「いや……なんでもない。ただ、急に背筋に恐ろしい悪寒が走っただけだ」
ターニャは鼻をすすり、マグカップを受け取ると、嫌そうに泥水のような液体を口に含んだ。
彼女の超人的な「リスク管理能力(サラリーマンの直感)」が、頭の中で激しい警報音を鳴らしていた。
(……おかしい。参謀本部が、また私に人間性を疑うような過密労働(ブラック案件)を押し付けようと画策している気がしてならん……)
ターニャは不吉な胸騒ぎを振り払うように頭を振ると、粗末な木製机の上に置かれた『黄色の場合』の事前動員通知書を、恨めしそうな目で見つめ直すのであった。
というわけで、第三帝国よろしく西方電撃戦で行きます。