中央暦1925年8月。
欧州大陸におけるフランソワ完破という衝撃的な帝国の勝利は、地中海世界における勢力図を劇的に塗り替えることとなった。
帝国とイルドア王国は、戦前から緩やかな同盟関係にあり、いわゆる枢軸を形成していた。しかし、日和見主義であるイルドアは、フランソワ共和国という強国が健在であった間は、表立った軍事行動を控えていた。
だが、事態は一変した。フランソワがわずか十四日で崩壊し、欧州の覇権が完全に帝国の手に落ちた今、イルドアが中立を決め込むことはもはや不可能であった。
帝国参謀本部の狙いは明確であった。
海を隔てた最大の敵、アルビオン連合王国を屈服させるためには、彼らの生命線である海洋ネットワークを寸断しなければならない。その最重要目標こそが、南方大陸北部と中東を繋ぎ、アルビオン本国と彼らの巨大な東洋植民地を結ぶ大動脈――「スワイズ運河」の占領であった。
帝国は、同盟国イルドアに対して本格的な参戦を要求した。
イルドアが火事場泥棒的に切り取った旧フランソワ南部の領土支配を「帝国は完全黙認する」という甘いアメを差し出しつつ、背後には西部戦線で暇を持て余している数百万の帝国陸軍をチラつかせる鞭を用いた。イルドア王国はこれに顔を青くし受諾。ついにアルビオン連合王国への宣戦布告に踏み切ったのである。
同年9月。
イルドア王国軍は、南方大陸北部に広がるアルビオンの広大な植民地へと大規模な侵攻を開始した。目標はスワイズ運河までの打通である。
当初、このイルドア軍の進撃は順調に見えた。アルビオン軍の防衛線は手薄であり、イルドア軍は意気揚々と砂漠の海岸線を進んでいった。
だが、帝国参謀本部は同盟国イルドアの軍事的実力をこれっぽっちも信用していなかった。
「あのパスタ野郎どもが単独でスワイズを落とせるはずがない。早晩息切れを起こすだろう」
そう予見していた参謀本部は、イルドアの参戦前から、独自の軍団の錬成を進めていた。それが、西方電撃戦で第七師団を率いドードーバードまでばく進した機動戦の申し子であるロメール中将を司令官に据えた「南方大陸北方戦闘軍」である。
そして12月。参謀本部の予想通り、事態は暗転した。
本国からの増援と補給線を立て直したアルビオン連合王国・南方大陸軍が、満を持しての大規模な反転攻勢に打って出たのである。
強力なマチルダ歩兵戦車や装甲車を多数配備し、周到な兵站に支えられたアルビオン軍の前に、時代遅れの装備と貧弱な補給線しか持たないイルドア軍は瞬く間に粉砕された。彼らはパニックに陥って潰走し、帝国にとって地中海防衛の要衝となるはずだった港塞都市トゥブルクすらも、あっけなくアルビオン軍の手に落ちて失陥してしまったのである。
「助けてくれ! このままでは我が軍は南方大陸から海へ叩き落とされる!」
イルドアからの悲鳴のような救援要請が帝都に届いたまさにその時。
入念な砂漠戦の錬成を終えていたロメールの「南方大陸北方戦闘軍」が、まるでこの絶望的なタイミングを狙いすましたかのように、満を持して南方大陸へと上陸を果たしたのである。
そして、そのロメール中将が「広い砂漠で制空権と遊撃戦を制するためには、優秀な航空魔導部隊が必要だ」と参謀本部に強硬に要求した結果、白羽の矢が立ったのは――またしても、あの部隊であった。
◇
《中央暦1926年1月 南方大陸北部 帝国軍前線基地》
「……暑い。暑すぎる。そして、砂が不快だ。靴の中、軍服の隙間、果ては銃の機関部にまで入り込んでくる。誰だ、こんな灼熱の地獄に私を送り込んだのは。労働環境基準を完全に無視しているではないか」
容赦なく照りつける熱帯の太陽の下、気温は摂氏四十度を超えていた。
ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、焼けつくような砂漠のど真ん中で、天幕のわずかな日陰に身を隠しながら恨み言を吐き捨てていた。
彼女が率いる第二〇三航空魔導大隊は、数日前に輸送船と輸送機を乗り継いで、この南方大陸の不毛の地へと降り立ったばかりであった。
「少佐殿、水筒の水をどうぞ。……ですが、配給量が厳しく制限されているので、少しずつ飲んでくださいね」
顔を真っ赤にして汗だくになった副官のヴィーシャが、ぬるくなった泥水のような水が入った水筒を差し出してくる。
「ありがとう、ヴィーシャ。……ふぅ」
ターニャは一口だけ水を含み、口の中の砂を洗い流すようにして飲み込んだ。
(……まったく。V1ロケットの弾頭に積み込まれ敵司令部に叩きこまれたと思ったら、今度は砂漠で兵站無視の野戦とはな。ゼートゥーア閣下もルーデルドルフ閣下も、私の部隊を便利屋か何かと勘違いしているのではないか?)
本来であれば、パリースィ陥落の立役者として後方でのんびりと休暇でもとっているはずだったターニャの目論見は、脆くも崩れ去っていた。ロメール中将が参謀本部に泣きつき、即座に動かせる最も優秀な遊撃戦力として第二〇三航空魔導大隊が送り込まれたのである。
ただ、参謀本部としても、二〇三航空魔導部隊のような戦略的価値の塊である精鋭魔導部隊を、補給の乏しい南方戦線にいつまでも貼り付けておくつもりはなかった。そのため、彼女たちの派遣には『三ヶ月間限定の期限付き移譲』という厳格な条件が付けられていた。
「まあいい。三ヶ月間、適当に砂漠の上を飛んでイルドア軍の尻拭いをしてやれば、今度こそ帝都での優雅な後方勤務が待っているはずだ。安全第一、法令遵守で期間を満了するぞ」
ターニャが部下たちに訓示を垂れようとしたその時、背後から陽気で豪快な笑い声が響いた。
「わはははは!! よく来てくれたな、帝国軍が誇る最強の魔導大隊! 君たちのような精鋭を歓迎するぞ!」
猛烈な砂埃を巻き上げながら現れた装甲指揮車から、ゴーグルを首にかけ、日に焼けた精悍な顔つきの将官が飛び降りてきた。南方大陸北方戦闘軍司令官、ロメール中将その人である。
ターニャは即座に完璧な敬礼を張った。
「第二〇三航空魔導大隊長、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐であります! 本日より三ヶ月間、ロメール中将閣下の指揮下に入ることとなりました!」
「うむ! 堅苦しい挨拶は抜きにしよう少佐。君のフランソワでの活躍は聞いているぞ。ロケットで敵の司令部に突っ込むとは、実に私好みの機動戦だ!」
「はあ……(あれは機動戦と言えるのか……)」
ロメールは満足げに頷くと、指揮車のボンネットに広げた地図をバンと叩いた。
「さて少佐。現在、我が軍とイルドア軍の残存部隊は、アルビオン軍の防衛線の前で穴掘りをしている。だが、私はこんな砂漠の真ん中で塹壕を掘って睨み合うつもりは毛頭ない。敵が陣地を固め切る前に、機動力をもって一気に裏をかき、奪われたトゥブルクを奪還する!」
「……閣下。失礼ながら、参謀本部からの命令書には『現状の防衛線を維持し、イルドア軍の崩壊を防ぐこと』とありましたが。攻勢の許可は下りていないはずです」
ターニャは極めて官僚的に指摘した。彼女のサラリーマン的直感が、目の前の男から「規則違反の臭い」を強烈に感じ取っていた。
だが、ロメールは不敵に笑って言い放った。
「がはは! 参謀本部の連中は、欧州の地図を眺めて珈琲を飲んでいるだけだ。砂漠の戦争はスピードが命。本国の許可を待っていては、敵に鉄壁の陣地を作られてしまう。勝機がある時に打って出るのが現地指揮官の義務というものだ!」
(うわぁ……名前に見合う独断専行型の指揮官だな……)
ターニャは内心で頭を抱えた。前世であれば即刻左遷されるべきタイプの困った上司である。しかし、軍事的な合理性という点においては、ロメールの言うことにも一理あった。
アルビオン軍に防衛線を構築されれば、それを抜くために膨大な出血を強いられる。それならば、敵が体勢を整える前に奇襲を仕掛ける方が、被害は少なく済む。
「それに何より我々には『水』がない」
ロメールは水筒を振り、カラカラと虚しい音を立てた。
「我が軍の補給線は海を渡らねばならず、イルドアの輸送船はアルビオンの潜水艦に怯えてロクに物資を運んでこない。水も食料もギリギリだ。だが……アルビオン軍が占領しているトゥブルクには、豊富な地下水脈から水を汲み上げる多数の井戸と、それを稼働させる巨大な発電設備がある」
ロメールの瞳が、獲物を狙う狐のようにギラリと光った。
「ここを攻略できれば、我々の水不足も完全に解消されそうだな、なあ少佐?」
「……ええ、そうですな、閣下。敵の物資を頂戴できるのであれば、それに越したことはありません。私の部隊も、乾パンと泥水には辟易しておりますので」
「がははは! 話が早くて助かる! では、明朝未明をもって全軍に前進を命じる! 目標、トゥブルク!」
かくして、参謀本部の意向を完全に無視した、ロメール中将の独断による大攻勢が幕を開けたのである。
◇
ロメールの機動戦術は、まさに神懸かっていた。
彼は手持ちの戦車部隊と自動車化歩兵をたくみに操り、アルビオン軍の防衛線が存在しない砂漠の奥深く――いわゆる「道なき道」を大迂回して敵の側背を強襲した。
「敵襲! 帝国軍の戦車部隊が背後から……ぐわぁっ!」
アルビオン軍は完全に不意を突かれた。彼らの想定では、帝国軍は正面からぶつかってくるはずであり、しかも到着したばかりで補給の整っていない現状で攻勢に出るなどあり得ないと考えていたのだ。
ロメールの機甲部隊は、アルビオンの野戦軍を文字通り分断、包囲し、瞬く間にトゥブルクへと彼らを押し込めることに成功した。
「よし! トゥブルクを包囲したぞ!」
前線の指揮車で、ロメールは歓喜の声を上げた。
だが――彼の快進撃も、トゥブルクの強固な要塞線の前でついに停止を余儀なくされた。
「閣下! 敵はトゥブルク市街の周囲に、鉄条網と地雷原、そして強固なコンクリートトーチカ群を構築して立て籠もっています! 我々の戦車だけでは突破できません!」
「後続の野砲部隊と重砲部隊はまだ到着しないのか!?」
「我々の進撃速度が速すぎたため、砲兵部隊と歩兵の主力は未だ数十キロ後方です! 到着には数日を要します!」
参謀本部の許可も、ロジスティクスの計算も無視して突っ走った代償が、ここにきて露呈したのである。
トゥブルクを包囲したものの、敵の要塞を破るための「火力」が圧倒的に足りない。その間に、トゥブルク内のアルビオン軍は豊富な水と食料を頼りに、徹底抗戦の構えを見せていた。
「くそっ……! このままでは逆に我々が敵の航空機の餌食になる。一刻も早くあの要塞を落とさねば、補給の切れた我が軍は砂漠のど真ん中で干上がってしまうぞ……!」
焦るロメールの前に、ターニャが光学迷彩を解除して静かに降り立った。彼女もまた、連日の出撃と猛烈な暑さ、そして極度の水不足により、その思考は正常な平時のそれから大きく逸脱しつつあった。
「閣下。状況は芳しくないようですね」
ターニャの声はカラカラに乾いていた。
「少佐か。……あの一帯のトーチカを沈黙させなければ、我が方の戦車は一歩も進めん。だが、頼みの砲兵は砂漠の彼方だ。航空機による爆撃が必要だが……敵は航空魔導士部隊と戦闘機を多数防空に回している。通常の航空爆撃では、損害が増えるばかりだ」
ロメールは悔しげに地図を睨みつけた。
通常の軍事ドクトリンにおいて、航空機や魔導士は「稼働率と整備のローテーション」を維持するため、手持ちの戦力の三割程度を飛ばし、残りは地上で待機・整備させるのが常識である。さもなくば、翌日以降の作戦継続が不可能になるからだ。
しかし、水不足と猛暑で脳が茹で上がりつつあるロメールの脳裏に、ある狂気的なアイデアが閃いた。
「……少佐。現在、我が軍がこの空域で動かせる航空機と魔導士はどれくらいだ?」
「全機合わせれば、爆撃機、戦闘機込みで約三〇〇。それに私の第二〇三魔導大隊です。ですが、規定通り三割のローテーションを組むとなれば……」
「いいや、規定などクソ食らえだ」
ロメールは口角を吊り上げ、砂と汗にまみれた顔で獰猛な笑みを浮かべた。
「稼働可能な航空機を『すべて』出撃させろ。一機残らずだ」
「な……全機ですか!? 閣下、それは常軌を逸しています! 明日以降の作戦行動が完全に麻痺しますぞ!」
「明日などない! 今日、この数時間で決着をつけるのだ! 敵も我々がローテーションを組んで小出しにしてくると計算している。ならば、その計算を物理的な物量で叩き潰す!」
ロメールはターニャの両肩をガシッと掴んだ。
「全航空機を空へ上げ、敵の対空砲火と戦闘機部隊の目を完全に釘付けにする。この空のすべてを、たった二時間だけ我が方の手中に収めてみせる! だから少佐……君たちはその『圧倒的航空優勢』の傘の下で、敵の策源地へ侵入し、アルビオンの陣地を徹底的に叩いてくれ!」
その無茶苦茶だなギャンブルに、ターニャもまた、暑さで融けかかった脳のタガが外れ、悪魔的な光を帯びた青い瞳を細めた。
「……なるほど。……承知いたしました、ロメール閣下。第二〇三航空魔導大隊、これより敵策源地への『お掃除』を開始いたします」
◇
トゥブルクの上空は、まさに地獄の様相を呈していた。
「な、なんだあの数は!? 帝国軍の奴ら、手持ちの飛行機を全部飛ばしてきやがったのか!?」
アルビオン軍の防空指揮所はパニックに陥っていた。
空を埋め尽くさんばかりの帝国空軍の戦闘機と爆撃機が、一斉にトゥブルクの防空網へと襲いかかってきたのである。アルビオン軍の戦闘機部隊も迎撃に上がったが、数倍に達する圧倒的な物量の前に、瞬く間に空の主導権を奪われていった。
「空は任せたぞ、空軍の諸君。さあ、我々はお掃除の時間だ」
高度三千メートルの空域。
帝国の戦闘機群がアルビオンの航空機を蹴散らす中、ターニャ率いる第二〇三航空魔導大隊の四十八名は、光学迷彩を展開し、空の混乱に乗じてトゥブルクの市街地――敵の策源地深くへと侵入を果たしていた。
「大隊長殿、敵の航空魔導部隊が上がってきます! 数は約一個中隊!」
「馬鹿め、この混戦の中でまとまって上がってくるとは、的になりにきたようなものだ。各員、集束術式展開。……一撃で消し炭にしろ!」
ターニャの号令とともに、第二〇三の魔導士たちの演算宝珠が凶悪な輝きを放つ。
アルビオンの魔導士たちが帝国機の迎撃に気を取られていたその側面から、無音かつ超高速の魔導射撃が雨あられと降り注いだ。
防護殻を展開する暇すら与えられず、アルビオンの魔導士たちは次々と空中で爆散し、焼け焦げた肉塊となってトゥブルクの市街地へと墜落していった。わずか数分の交戦で、敵の魔導戦力は完全に無力化されたのである。
敵空戦力を一掃したターニャは、前線指揮所のロメールと無線を繋いだ。
「ロメール閣下、空の掃除は終わりました。しかし、地上のトーチカ群はどうしますか? 我々の術式だけで要塞全域を爆砕するのは魔力が持ちません」
前線で指揮車の無線機を握るロメールもまた、熱砂の照り返しと極度の喉の渇きにより、完全にハイテンションな思考状態に陥っていた。
『少佐! 先ほど捕らえたアルビオンの将校を締め上げたところ、重要な情報が得られたぞ!』
「情報?」
『トゥブルク市内に点在する『深井戸』の数は七箇所! さらに、それらのポンプを稼働させ、海水の淡水化施設を動かしている主発電所が港湾部の二箇所にあるらしい!』
ロメールは、乾いた唇を不気味に歪めた。
『トーチカの歩兵など無視しろ! 我々の目標はインフラだ! 敵を干上がらせるために、井戸を潰す!』
「なるほど、名案ですな閣下! 兵站を絶てば要塞は落ちる!」
ターニャもまた、暑さでおかしくなった脳で即座にその提案に賛同した。
『そうだ! 少佐、君の部隊で敵の井戸の真上へ移動しろ! そして術式を用いて、井戸をぶち壊せ!! ついでに発電所も跡形もなく吹き飛ばせ!!』
「了解いたしました閣下! 水源と電力を奪い、アルビオンの豚どもにこの灼熱地獄の真髄を味あわせてやりましょう!!」
もはや二人の間に「占領後の自分たちの水源」という概念は完全に欠落していた。ただただ、目の前の敵を最も効率よく無力化するという狂気的なまでの合理性だけが、茹で上がった彼らの脳を支配していたのである。
「第二〇三大隊に告ぐ! 目標は深井戸七箇所と港湾発電所二箇所! 全力で爆砕しろ!!」
ターニャの恐るべき命令が下った。
砂漠の都市における唯一の生命線、それは地下深くの水脈から水を汲み上げる深井戸である。アルビオン軍は井戸の周囲に土嚢を積み上げて守っていたが、「真上からの魔導貫通攻撃」など想定しているはずもなかった。
「ふふふ……近代戦におけるロジスティクスの重要性を、その身をもって味わうがいい!」
ターニャは演算宝珠を極限までオーバーロードさせ、巨大な光の槍を形成した。
そして、眼下に見える井戸の吸い上げ口の『ど真ん中』に向けて、急降下しながら術式を叩き込んだ。
ズドォォォォォン!!!
魔力によって指向性を持たされた爆発エネルギーは、井戸の縦穴を大砲の砲身のように伝わり、地下数十メートルにある水脈とポンプ機構を直接爆砕した。
周囲の地盤が崩落し、生命線であった井戸が完全に土砂で埋め尽くされる。
「第一目標、破壊完了! 続いて港湾部の発電施設を潰す! グランツ、ケーニッヒ、やれ!」
「はっ! 爆砕します!」
二〇三大隊の悪魔たちは、トゥブルクの空を縦横無尽に飛び回りながら、アルビオン軍の井戸を次々と埋め立て、港湾部の発電施設に雨あられと爆破術式を投下した。
煙突が折れ曲がり、巨大な発電タービンが炎に包まれて爆発する。
「な、なんだと!? 水源が潰された!? 発電所もやられただと!?」
地下の司令部で報告を受けたアルビオン軍の司令官は、顔面を蒼白にしてへたり込んだ。
砂漠における水の喪失は、すなわち「死」を意味する。
どれほど弾薬があろうと、どれほど強固なコンクリートトーチカがあろうと、兵士は水を飲まねば三日で狂い死ぬ。発電機が破壊されたことで、港の海水淡水化施設も沈黙し、無線設備すら満足に動かせなくなった。
これから占領する都市の水資源をこれ程躊躇いもなく破壊するということは帝国軍にはそれだけの余裕があるということの現れであると司令官は考えた。
「司令官閣下! 兵士たちの水筒はすでに空です! この猛暑の中、水がなければ部隊は半日と持ちません!」
「……終わりだ。帝国軍は、我々を戦わずして殺す気か……!」
同日夕刻。
水と希望を完全に絶たれたアルビオンのトゥブルク守備軍数万は、白旗を掲げてロメールの軍門に降った。
参謀本部の許可を持たない完全な独断専行であり、重砲すら持たない急造の包囲陣でありながら、ロメールの狂気的な賭けと、ターニャの無慈悲なインフラ破壊の完璧な連携により、防備の硬いトゥブルクは、わずか数日で陥落したのである。
◇
《同日夜 トゥブルク市街 帝国軍前線司令部》
「がははははは!! 見たか少佐! 我々の完璧な勝利だ!」
「ええ! 本当に素晴らしい作戦でしたな、ロメール閣下! アルビオンの連中が喉の渇きに耐えかねてゾロゾロと降伏してきた時の顔と言ったら……」
トゥブルク市内の、かつてアルビオン軍が使用していた豪奢な司令部の一室。
ロメール中将は、手に入れたばかりの最高級の葉巻を吹かしながら、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐も満面の笑みで祝杯(ただし中身はアルビオン軍から接収したわずかな配給水である)を上げていた。
夜の涼しい風にあたり、ようやく二人の茹で上がっていた脳の熱も引き始めていた。
「いやあ、君の部隊の動きは神憑っていた! 敵の井戸をピンポイントで真上からぶち抜くとは、まさに悪魔の発想だ! おかげで味方の損害を限りなく少なく抑えてトゥブルクを手に入れることができた!」
ロメールはターニャの肩をバンバンと叩いて上機嫌である。
「がはは! まったく最高の気分だ。砂だらけの野営はもうたくさんだからな。久々の文明的な市街地だ、今日はイルドアの兵士たちに彼ら自慢のパスタでもたっぷりと作らせようじゃないか! もちろん、アルビオンが残していった極上のワイン付きでな!少佐にはコーヒーをふるまわせよう!」
「ありがとうございます、閣下!」
ターニャもまた、久々の安全な市街地での休息に目を輝かせていた。
「パスタをたっぷりのお湯で茹でて、熱々のトマトソースを絡める。ああ、最高だ。それに、まずはこの砂埃にまみれた体を、たっぷりの水でシャワーを浴びて洗い流したいものですな! 勝利の後の水浴びほど素晴らしいものはありません!」
二人がこれから始まる優雅な市街地生活に思いを馳せ、がははと笑い合っていた、まさにその時である。
コンコン、と控えめにドアがノックされ、ロメールの副官と、ターニャの副官であるヴィーシャが、何とも言えない「死んだ魚のような目」をして入室してきた。
「お楽しみのところ申し訳ありません、ロメール閣下、大隊長殿……」
ヴィーシャが、手にした被害状況報告書を力なく差し出した。
その顔には、深い絶望が刻まれていた。
「おお、ヴィーシャか。どうした、イルドア兵にパスタの準備は命じてくれたか? ゆで汁にはたっぷりと塩を入れるように伝えてくれよ!」
ターニャが上機嫌で尋ねる。しかし、ヴィーシャは静かに首を横に振った。
「……あの、お二人方。大変申し上げにくいのですが……お二人方の立てた『完璧な作戦』の影響で、市内の深井戸は七箇所すべてが完全に爆砕、崩落し、短期間での復旧が不可能な状態となっております」
「……うん?」
「ついでに、港湾部の発電施設も跡形もなく吹き飛ばされたため、海水淡水化装置はおろか、市内の水道ポンプも一切動かすことができず、真水の生産が完全にストップしております」
ロメールとターニャの笑い声が、ピタリと止まった。
副官が、追い打ちをかけるように無慈悲な事実を告げた。
「つまり……現在、我々にはアルビオン軍の残していったわずかな備蓄水しかなく、パスタを茹でるためのお湯はおろか、シャワーを浴びる水すら一滴も残されておりません」
「なっ……」
「しばらくの間、全軍において『乾パンと少量の配給水のみ』の生活が継続されます。それと……数日後には、後方に置いてけぼりにしていた砲兵部隊と歩兵数万の増援がこのトゥブルクに到着しますので……水の無駄遣いは一切おやめください。アルビオン軍の捕虜数万人と残った市民の分も確保しなければならないので、むしろ野営時代より配給は減る見込みです」
シン……と、司令部の部屋の中に、砂漠の夜風よりも冷たい静寂が降り降りた。
敵の生命線を絶ち、水不足に陥れて降伏させる。
それは戦術としては、まさに百点満点の完璧な正解であった。
だが、極度の暑さと渇きでハイになっていた彼らは完全に忘れていたのだ。
敵の井戸をすべて破壊してしまえば、都市を占領した「自分たち」もまた、水を使えなくなるという、あまりにも当たり前の事実に。
「…………どうしてこうなった」
ターニャの口から、魂の抜けたような声が漏れた。
手元にあるコップ一杯の水すら、急に砂漠の黄金のように思えてくる。
「……少佐」
「……なんでしょう、閣下」
「パスタを茹でるには……大量の水が必要だったな」
「……ええ。おまけにシャワーを浴びるにも、水が必要です」
「…………」
「…………」
数秒の沈黙の後、トゥブルクの夜空に、二人の指揮官の悲痛な絶叫が響き渡った。
「「うわああああああああっっ!!! 私のパスタがああああああ!! シャワーがああああああっっ!!!」」
史上名高い「トゥブルク電撃戦」。
それは帝国軍に大いなる勝利をもたらした一方で、現地の兵士たちには「アルビオン軍以上に過酷な喉の渇きと、終わりの見えない乾パン地獄」をもたらしたという、何とも笑えないオチのつく伝説として、戦史に深く刻まれることとなったのである。