中央暦1926年、欧州大陸が帝国の深緑に染め上げられた後のことである。
海を隔てて徹底抗戦を叫ぶアルビオン連合王国にとって、国家の生存を懸けた最大の弱点は食糧であった。島国であるアルビオンは、国民を食わせ、工場を動かすための莫大な穀物と冷凍肉を、南米のラプラタ連合*1からの輸入に大きく依存していた。
この南太西洋の大動脈であるラプラタ航路に、帝国海軍が目をつけないはずがなかった。
南方大陸南西部に位置する帝国の要衝、ラーデラッツ港*2。ここを母港とする帝国「太西洋艦隊」は、連合王国の商船団にとって文字通りの死神として君臨していた。
しかし、この時期の帝国の通商破壊戦は、後世に想像されるような無制限作戦ではなく、奇妙なほどに牧歌的かつ合法的なものであった。
帝国の水上艦隊は、何隻かの重巡洋艦や軽巡洋艦で構成される小さな遊撃部隊を組み、広大な海原で獲物を探す。連合王国の商船を発見すると、まず国際法に則り、丁重な警告信号を送るのだ。
『停船せよ。当方は帝国海軍である。これより臨検を行う』
商船が逃走を諦めて停船すると、帝国の将校が武装したカッターで乗り込み、積荷の目録をチェックする。穀物や肉などの戦時禁制品が確認されると、将校は極めて事務的かつ紳士的な態度で宣言する。
『積荷を没収、あるいは処分する。乗組員は直ちに自船の救命艇へ退避せよ。十分な水と食料、そして最寄りの陸地までの海図はこちらで提供する』
乗組員が安全に救命艇へ乗り移り、艦から十分に離れたことを確認した後、帝国艦はゆっくりと砲を向け、商船の喫水線に数発の砲弾を撃ち込んで確実かつ経済的に沈めるのである。場合によっては、帝国側が救命艇を陸地の近くまで曳航してやるという、戦時下とは思えないほどのサービス精神すら発揮された。
この「紳士的な海賊行為」は、アルビオンのプロパガンダ機関を大いに苛立たせた。乗組員を無惨に殺していれば「野蛮な帝国の悪逆非道」として国内や中立国を煽れたものを、あまりにも国際法を遵守して人命を保護するため、反帝国感情を煽る絶好の材料にならなかったのだ。
だが、プロパガンダがどう機能しようと、確実に食糧船は海の底へ進路を変えていく。アルビオンの肉の配給は日に日に減り、パンには不純物が混ざり始めた。
「このままでは、我が国は帝国軍と戦う前に餓死する」
ロンディウムのアドミラルティは、ついに重い腰を上げた。
本国艦隊から、強力な帝国大洋艦隊を牽制するための戦力を北海に残しつつも、南太西洋の「紳士的な死神」を完膚なきまでに撃滅するため、空母と戦艦を中核とする大規模な特別任務部隊を編成し、南下させたのである。
◇
《中央暦1926年2月 南太西洋》
この日も、帝国海軍の重巡洋艦二隻と軽巡洋艦・駆逐艦数隻からなる通商破壊用の小艦隊が、一隻の巨大な輸送船を停船させ、臨検作業を行っていた。
救命艇を下ろさせ、さあ沈めようと砲の照準を合わせていたまさにその時である。
「上空に機影! 双発の飛行艇です! 識別信号なし……連合王国の長距離哨戒機!」
見張員の切羽詰まった声が、重巡洋艦の艦橋に響いた。
分厚い雲の隙間から現れたのは、アルビオン軍のサンダーランド型飛行艇であった。彼らは帝国艦隊の上空を旋回しながら、発光信号と無線で絶え間なく本隊へ敵発見の報告を打ち続けている。
「見つかったか! 面倒なことになる前にズラかるぞ! 臨検隊を回収しろ! 機関最大戦速!」
帝国の小艦隊は、仕留め損なった輸送船を放置し、全速力でラーデラッツ港の方向へと逃走を開始した。
通商破壊部隊の鉄則は「決して敵の主力とまともに撃ち合わないこと」である。彼らの任務はあくまでシーレーンの攪乱であり、正規の艦隊決戦ではない。
しかし、事態は彼らの想定以上に悪化していた。
ラーデラッツ港の帝国大西洋艦隊司令部。
通信室から上がってきた暗号解読の報告書を叩きつけられ、艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッペル中将は、豊かな髭を蓄えた顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げていた。
「なんだと!? アルビオンの主力艦隊が、すでに我が方の小艦隊の退路を塞ぐ位置まで進出しているだと!?なぜ、そうなるまで分からなかった!?アルビオンの艦隊が出航したことは把握していただろう!」
ヒッペル中将は、帝国海軍の中でも一、二を争うほどの情熱家として知られていた。部下を家族のように愛し、味方の危機とあらば自ら先頭に立って助けに行く、絵に描いたような猛将である。
「敵の規模は空母二隻、戦艦三隻、巡洋戦艦一隻、水上機母艦一隻、その他重巡多数……! このままでは我が方の小艦隊が追いつかれ、全滅します!」
参謀が青ざめた顔で進言する。
アルビオン艦隊は、通商破壊部隊を本気で狩るために、圧倒的な戦力を南大西洋に差し向けていたのだ。
「見殺しにはできん! 出港だ! 大西洋艦隊の全艦艇を出撃させ、小艦隊を収容する!」
「お待ちください閣下! 我が艦隊には、旧式の弩級戦艦が二隻含まれております! 彼らの最大速力は二一ノット。連合王国の高速艦隊と遭遇すれば、足手まといになるどころか、逃げ切れません!」
「馬鹿者! 帝国海軍は味方を置き去りにせん! 最悪の場合(敵艦隊の速度が速く全面的な艦隊決戦にもつれ込む場合)を想定して出せる船はすべて出せ! 私が最前線で敵を食い止めている間に、鈍足の艦を逃がせばよいのだ!」
ヒッペル中将の烈火の如き号令により、ラーデラッツ港から帝国大西洋艦隊の主力が抜錨した。
小型空母二隻。
重巡洋艦四隻、軽巡洋艦六隻、駆逐艦一六隻。
旧式の弩級戦艦二隻。
そして――艦隊の先頭を切り裂くように進むのは、中央暦1920年に進水した最新鋭の超弩級高速戦艦『オットー』であった。
◇
一方、南大西洋上を突き進むアルビオン連合王国王立海軍・特別任務部隊。
その旗艦である重装甲空母の艦橋には、連合王国海軍においてある種の「歩く都市伝説」として恐れられている男、デイバット・バーディー中将が立っていた。
彼は氷のように冷酷な灰色の瞳と、彫りの深い蒼白な顔立ちをしていた。
彼に見つめられた者は、あまりの恐ろしさに蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまい、「あの目で見つめられるだけで心臓が止まる」と水兵たちの間で本気で囁かれているほどの男である。感情を一切表に出さずに皮肉を口にする彼は、熱血漢のヒッペルとはまさに対極に位置する指揮官であった。
「……帝国の太西洋艦隊主力が、ラーデラッツから出港したようです。逃走中の小艦隊と合流を図る構えかと」
幕僚の報告に、バーディーは冷たい潮風を浴びながら、ピクリとも表情を変えずに海を見つめていた。
「ご苦労なことだ。法律を重んじる帝国の紳士諸君は、仲間を見捨てることも法に反すると信じているらしい」
バーディーの唇が、わずかに皮肉な弧を描いた。
「結構なことだ。我が国の食卓からステーキと麦を奪った罪は重い。子ネズミを助けに来た親ネズミごと、すべて海の底へ沈めてやろう。……艦載機を発艦させよ。まずは空から、奴らの逃げ足を折ってやる」
◇
海上の天候は荒れ気味であり、南大西洋特有の分厚い雲が海面すれすれまで垂れ込めていた。
ヒッペル中将率いる帝国大西洋艦隊は、逃走してきた通商破壊用の小艦隊と無事に合流を果たした。しかし、喜んでいる暇はなかった。オットーの頂部に備え付けられた巨大な対空レーダーが、すでに無数の敵機影を捉えていたからだ。
「敵攻撃隊、接近中! 方位〇・九・〇、距離四万! 機数およそ四十!」
ヒッペルはオットーの艦橋から、どんよりとした空を見上げた。
「来たか! アルビオンの連中、ずいぶんと腹を立てているらしい! だが、ここで我々が足を止めて撃ち合えば、旧式戦艦どもが逃げ遅れる!」
ヒッペルは通信機をひっつかみ、全艦隊に怒号を飛ばした。
「これより本艦隊は遅滞戦闘へと移行する! 弩級戦艦二隻は、煙幕を展開しながら全速でラーデラッツへ後退せよ! オットー、空母二隻、および重巡戦隊は反転! 敵の足を止めるぞ!」
反転した殿部隊の頭上に、分厚い雲を抜けてアルビオン海軍の第一次攻撃隊――ソードフィッシュ雷撃機とホーカーハリケーン攻撃機の編隊が姿を現した。
彼らは、帝国の艦隊を一方的に空から叩き潰す算段であった。
しかし、彼らを待ち受けていたのは、帝国の小型空母から油圧カタパルトによって急速射出された、全金属製の最新鋭艦上戦闘機の群れであった。
「な、なんだあの速さは!? 帝国の艦載機だと!?」
「クソッ、上から来――」
空の戦いは、戦闘というよりも一方的な狩りであった。
帝国の艦載戦闘機は、圧倒的な速度と上昇力を活かしてアルビオン機の頭上を取り、二十ミリ機関砲の猛烈な火線を浴びせかけた。布張りの複葉雷撃機は次々と火だるまになり、回避行動をとる間もなく海面へと叩きつけられていく。
さらに、帝国艦隊の全艦艇に装備された対空レーダーと連動する高角砲が、雲の隙間から現れる敵機を正確に捉え、真っ黒な弾幕の壁を作り上げた。
アルビオンの一次攻撃隊は、帝国艦隊に一本の魚雷も命中させることなく、数機が至近弾となる水柱を上げたのみで、わずか二十分で完全に空から一掃された。
「……ほう。我が国の鳥たちは、帝国の防空網の前に大した仕事ができなかったか」
アルビオンの旗艦艦橋。バーディー中将は、帰還したわずかな生存機からの絶望的な報告を聞いても、その恐ろしい顔色を全く変えなかった。彼は懐中時計を取り出し、冷たい声で命じた。
「結構。空からの嫌がらせが通じないのなら、砲の殴り合いで決着をつけるのが王立海軍の伝統だ。敵は鈍足の戦艦を逃がすために足を止めている。全艦、三十ノットへ増速。敵艦隊を視界に捉え次第、一斉射撃を開始せよ」
◇
距離、三万四千メートル。
光学測距儀の限界を遥かに超え、最高倍率の双眼鏡でも互いのマストの先端すら見えない、濃霧と水平線の彼方。
殿の中核、高速戦艦オットーの艦橋では、砲術長がレーダー射撃管制装置のオシロスコープを瞬きもせずに見つめていた。
「FuMO、敵主力艦隊を完全捕捉。先頭の大型艦に照準。……測的完了。風向、風速、自艦の動揺、すべて入力完了」
砲術長の報告を受け、ヒッペル中将は獰猛な笑みを浮かべた。
「よし。アルビオンの連中に、帝国の技術力というやつを教えてやれ。主砲、斉射――撃てッ!」
オットーに搭載された、長砲身の40.6センチ52口径連装砲四基、計八門の巨砲が、一斉に火を噴いた。
凄まじい発砲炎が周囲の海面を眩いオレンジ色に染め上げ、暴風のような衝撃波が海水をすり鉢状に吹き飛ばす。放たれた超重量級の徹甲弾は、轟音とともに成層圏近くまで高く舞い上がり、長大な放物線を描いて飛翔した。
砲弾が空を飛んでいる時間は、優に一分を超えた。
アルビオンの巡洋戦艦の艦橋では、誰もがまだ見えない敵影を水平線に探していた。
「敵の姿は見えん! まだ射程外だ、距離を詰め――」
ヒュルルルルルルルル……!!!
空気を引き裂くような不気味な飛翔音が、分厚い雲の上から降り注いだ。
直後、巡洋戦艦の周囲の海面が、まるで海底火山が爆発したかのように隆起し、高さ百メートルに達する巨大な水柱が数本、天を衝くように立ち上がった。
ドッザァァァァァァァァァァッッ!!!
大量の海水が甲板に降り注ぎ、見張員たちが悲鳴を上げて転倒する。
「な……ッ!? 夾叉だと!?」
バーディー中将の周囲の幕僚たちが、顔を青ざめさせて絶叫した。
夾叉――砲弾が標的の手前と奥に同時に着弾すること。つまり、敵の狙いはすでに完璧に合っているという絶対的な死の宣告である。
「水平線の彼方からの、レーダー盲撃ちだと!? しかもこの距離の初弾から夾叉させるなど……帝国の砲術は魔法か何かか!?」
「騒ぐな」
幕僚たちの恐慌を、バーディーの低く冷たい声と、背筋が凍るような睨みが切り裂いた。
「いかにレーダーが優秀であろうと、三十キロ先の動く標的に初弾から命中させるような魔法の砲身はこの世に存在せん。だが、二斉射目、三斉射目となれば話は別だ。……回避運動を開始せよ。距離を詰めろ、撃ち返すのだ」
バーディーの超人的な精神力によって、アルビオン艦隊は崩壊を踏みとどまり、猛烈な回避運動を行いながら決死の突撃を開始した。
海戦の現実は、後世の映画で描かれるような百発百中のロマンチックなものではない。大自然の波、風、自艦の揺れ、そして砲身自体の散布界によって、いかに優秀なレーダー管制を用いようと、数万メートルの距離からの命中率は数パーセントに過ぎない。
オットーの主砲が、二斉射、三斉射と唸りを上げる。
アルビオン艦隊もようやく射程に捉え、15インチ砲や14インチ砲による応射を開始した。
海面には無数の巨大な水柱が立ち上がり、空気を震わせる発砲音と炸裂音が絶え間なく轟く。互いの砲弾が虚空を切り裂き、海を叩き続ける。数十分にも及ぶ、神経をすり減らすような泥臭い遠距離砲撃戦。
だが、その死のルーレットは、ついに当たりを引いた。
「目標に命中!! 敵巡洋戦艦の第二砲塔付近に直撃弾確認!!」
オットーの測距儀が、敵艦で発生した爆発の閃光を捉えた。
オットーの放った16インチ砲弾の一発が、猛烈な回避運動を行っていたアルビオンの巡洋戦艦の甲板装甲を突き破り、艦内部で炸裂したのである。
しかも、帝国が使用していたのは単なる炸薬ではない。独自の高性能火薬「帝国式特薬アルミナイズド・ヘキサナイト」であった。
ヘキサナイトにアルミニウム粉末を混合したこの悪魔の爆薬は、通常のTNT火薬を遥かに凌ぐ威力を持ち、炸裂と同時に数千度の超高温の火球を生み出す。アルミ粉末の燃焼が周囲の酸素を急激に奪いながら鋼鉄を瞬時に融解させ、破壊的な爆風圧と高熱を艦内の密閉空間に充満させるのだ。
「ぎゃああああああっ!!」
直撃を受けた巡洋戦艦の内部は、一瞬にして灼熱の地獄と化した。アルミナイズド・ヘキサナイトの爆炎は瞬く間に区画を焼き尽くし、弾薬庫の誘爆を誘発した。
数万トンの巨艦が、まるで火山の噴火のように内側から真っ二つに裂け、数百メートルの火柱を上げて一瞬にして轟沈したのである。
「よし!! 敵巡洋戦艦、轟沈!! ざまあみろ!!」
オットーの艦橋で、ヒッペル中将が拳を振り上げて快哉を叫んだ。
彼が率いる殿軍の重巡洋艦群も、オットーのレーダー諸元をデータリンクで共有し、猛烈な砲撃の雨を降らせてアルビオンの重巡洋艦一隻を大破させていた。
しかし、アルビオン艦隊も無策で撃たれているわけではなかった。
距離が一万八千メートルまで縮まり、彼らの猛烈な砲火がオットーの周囲を水柱で覆い尽くし始める。
ドガァァン!! と、オットーの舷側にアルビオンの14インチ砲弾が命中した。
「被弾! 右舷水線部!」
「被害報告急げ!」
「……浸水極小! 装甲にて完全に弾きました!」
帝国軍艦は、健軍以来の「重防御・生存性重視」の設計思想の極致である多重装甲と、異常なまでに細分化された水密区画を有している。オットーは数発の直撃弾を浴びても、微かに塗装を剥がし、副砲の一部を沈黙させた程度の被害で平然と砲撃を継続していた。
「あの化け物め……! 我々の砲弾が効いていないのか!」
アルビオンの水兵たちが絶望に顔を歪める中、バーディー中将だけは、その恐ろしい瞳でじっと炎を上げるオットーを睨み据えていた。
「撃ち続けろ。どれほど堅牢な城であろうと、弱点のない船などこの世には存在しない。鉄の巨獣を沈めるのは、いつも一本の小さな毒矢だと相場は決まっている」
◇
激闘から一時間が経過した。
「司令長官! 後方の旧式戦艦部隊および小艦隊から入電! 『無事、海域を離脱。ラーデラッツの沿岸防衛圏内に入った』とのことです!」
通信参謀の報告を聞き、ヒッペル中将は大きく息を吐き出した。
「よし! 我々の任務は完了だ! 一隻の味方も見捨てはしなかったぞ!」
ヒッペルは汗まみれの顔で笑い、周囲の幕僚たちを鼓舞した。
「これより本隊も撤退戦に移行する! 駆逐艦は煙幕を展開! 各艦、面舵一杯! 一気に敵との距離を引き離すぞ!」
オットーが、その優美な巨体を傾けながら、見事な回頭運動に入った。重巡洋艦もそれに従い、濃密な煙幕を張りながら離脱を図る。
目的は完全に達成された。あとは、この俊足の高速戦艦の足に任せて港へ帰り、極上のビールで祝杯を挙げるだけだった。
――バーディーの呟いた呪いのような言葉が、現実となるまでは。
撤退の回頭中。
アルビオンの戦艦から放たれた一発の14インチ砲弾が、オットーの分厚い主要装甲帯を大きく逸れ、艦尾の非装甲区画の境界線付近に、極めて浅い角度で飛び込んだ。
さらに不運なことに、その砲弾は海面で一度バウンドし、オットーの艦尾、スクリューシャフトと操舵室を繋ぐ極めて繊細な結合部へと直撃したのである。
ガァァァァンッッ!!!
オットーの艦体が、これまでにない嫌な震動を引き起こした。
「か、艦尾に被弾! 左舷外側スクリュー脱落!」
ダメージコントロール班の悲痛な絶叫が、艦橋に響き渡った。
「操舵機室、浸水! 主舵が……面舵一杯のまま、物理的に固定されました!!」
「なんだと……!?」
ヒッペルの血の気が引いた。
オットーの巨体が、意志に反して大きく右へと旋回を続ける。直進能力を完全に失い、海上で同じ円を描き続ける巨大な固定標的と化したのである。
帝国の軍艦は、その重装甲と引き換えに、艦尾構造の脆弱性という構造的欠陥を抱えていることが多かった。それが、この撤退の最も無防備な瞬間に、一万分の一の不運(ラッキーショット)によって露呈したのだ。
「……スクリューの回転数を左右で調整しろ! なんとか真っ直ぐ走らせられないか!」
「駄目です! 舵の固定角度がきつすぎます! 直進不可能です!」
ヒッペルは、円を描き続ける自艦の窓から、煙幕の向こうに迫りくるアルビオンの戦艦群の影を見た。
彼らは、手負いの獣を仕留めるべく、猛烈な勢いで距離を詰めてきている。
「……機関停止しろ。これ以上の機動は無意味だ」
ヒッペル中将は、静かに目を閉じて決断を下した。
「閣下……!」
「全艦へ通達。『本艦はこれより殿を務める。各艦は直ちにラーデラッツ港へ撤退せよ。通商破壊作戦の継続を至上命題とする』。……急げ! 我々が的になっている間に、空母と巡洋艦を逃がすのだ!」
動けなくなったオットーに対し、アルビオン艦隊は狂ったように砲弾と魚雷を集中させた。
しかし、オットーは死ななかった。
炎に包まれ、上部構造物が飴細工のように溶け落ち、舷側にいくつもの大穴を開けられながらも、オットーの砲塔は油圧が尽きるまで動き続け、最後まで16インチ砲の猛火を吐き出し続けた。
「撃て! 撃ち続けろ! 帝国の魂を見せてやれ!」
ヒッペルが炎に包まれた艦橋で叫び続ける中、オットーの最後の抵抗は凄まじかった。接近してきたアルビオンの戦艦一隻を撃沈し、重巡洋艦一隻に弾を叩き込んで大破炎上させ、駆逐艦一隻を海の底へと引きずり込んだ。
やがて、7本の魚雷と数十発の直撃弾を浴びたオットーは、ゆっくりと、その巨大な鉄の体を冷たい南大西洋の海面下へと沈めていった。
最後まで、その軍艦旗を降ろすことなく。
◇
「……沈みました。敵戦艦、沈没です。……敵の司令官も、艦と共に沈んだものと思われます」
アルビオンの旗艦艦橋で、副官が震える声で報告した。
歓声は上がらなかった。いや、上げられなかった。
「……勝ったとでも思っているのか、馬鹿者どもが」
バーディー中将の底冷えのする声が、艦橋を完全に凍りつかせた。
周囲の海を見渡せば、アルビオン艦隊の惨状は明白であった。
巡洋戦艦一隻轟沈、戦艦一隻沈没、戦艦一隻大破、重巡洋艦二隻大破、駆逐艦三隻沈没。航空隊は第一波が全滅。
対して、帝国の艦隊は高速戦艦一隻を失ったものの、通商破壊の主力である空母、弩級戦艦、巡洋艦部隊のすべては、オットーが稼いだ時間を利用して、煙幕の彼方へと無傷で逃げ去っていたのである。
「化け物を一匹殺すために、こちらの家を半壊させられただけだ。あれだけの手傷を負わせておきながら、敵の通商破壊網の息の根を止めることすらできなかった……。本国の食糧事情は、明日からも何も変わらんということだ。……敵艦の乗組員を救助せよ」
バーディーは冷たく吐き捨てると、ボロボロになった艦隊にその下手人たる乗組員を収容していった。
海戦の最終的結果。それは、連合王国が奇跡的なラッキーショットで敵の戦艦を沈めはしたものの、当初の戦略的目標を一切達成できず、圧倒的な損害を強いられた戦術的、戦略的敗北であった。
南太西洋の海には、明日からも帝国の死神たちが、紳士的な笑みを浮かべながら悠然と舞い続けるのである。
【参考資料 帝国海軍超弩級高速戦艦 オットー 諸元】
艦級 『アンゲリス』
艦名 『オットー』
就役年 中央暦1920年
満載排水量 45,500トン
全長 / 全幅 251.0 m / 36.0 m
最大速力 31.5 ノット
主砲 | 40.6cm (16インチ) 52口径 連装砲 4基(計8門)
副砲/高角砲 15cm連装砲 6基 / 10.5cm連装高角砲 8基
射撃管制 FuMO23(光学・電探統合型)
対空レーダー FuG23
使用弾薬 帝国式特薬アルミナイズド・ヘキサナイト改(高熱・高爆圧仕様)
装甲防御 ヴォータン鋼使用、傾斜装甲およびタートルバック方式重防御構造
最期:南太西洋海戦にて、艦尾舵機室への不運な被弾により操舵不能。味方の鈍足艦および通商破壊部隊を逃がすため単艦で盾となり、敵艦数隻を道連れにして海面下に没す。司令長官ヒッペル中将も運命を共にした。
戦艦が戦艦を沈めちゃった……