《中央暦1926年2月中旬 ルーシー連邦 ムルマンス》
世界を覆う戦火から遠く離れた極北の地、ルーシー連邦北西部の港湾都市ムルマンス。
一年を通して吹き込む暖風で海面が凍りつかないこの不凍港は、海を隔てたアルビオン連合王国からルーシー連邦へと至る、数少ない安全な外交、補給ルートの窓口であった。とはいえ、北極海から吹き付ける吹雪は容赦なく肌を刺し、分厚い外套すら易々と貫いて骨の髄まで冷え上がらせる。
アルビオン連合王国外相アントニー・イーデンスは、護衛の駆逐艦から吹き晒しの岸壁へと降り立ち、深々と吐息を漏らした。
白く濁った息は、彼の内面に渦巻く絶望的な疲労と焦燥をそのまま具現化したかのようだった。
「……イーデンス外相閣下。お出迎えの車が手配されております。モトロフ外務人民委員は、郊外のダーチャでお待ちです」
随行武官の言葉に、イーデンスは無言で頷き、黒塗りの公用車へと身を沈めた。
車窓を流れる凍てついた雪景色を眺めながら、イーデンスは自国がいま直面している、文字通りの「国家存亡の危機」を反芻せずにはいられなかった。
現在、アルビオン連合王国の戦局は、控えめに言っても破滅的であった。
頼みの綱であった南太西洋のラプラタ航路は、先日の大規模な海戦における戦術的、戦略的敗北により、依然として帝国海軍の死神たちの遊物となっている。本国への食糧供給は危機的状況に陥り、国民の配給は限界まで切り詰められていた。
さらに致命的なのは、海中からの見えざる脅威――帝国のUボート部隊による通商破壊網である。彼らの執拗な攻撃により、アルビオンは貴重な輸送船団のみならず戦艦二隻、空母一隻をはじめとする多数の貴重な主力艦艇を海の底へと引きずり込まれた。
陸の戦いもまた、悪夢そのものだ。
南方大陸北部に展開するアルビオン軍は、帝国から送り込まれた指揮官、ロメール中将の常軌を逸した電撃戦の前に連戦連敗を重ね、要衝トゥブルクを失陥後も後退を重ね、スワイズ運河の防衛線すら危うい状況にまで押し込まれている。
唯一、アルビオンが軍事的な優位を示せたのは地中海だけであった。
艦隊を大規模に増強し、イルドア南部の軍港に停泊中であったイルドア王国艦隊に対し、空母からの夜間雷撃を敢行。パスタ野郎自慢の戦艦群をボコボコにして海底に沈め、一時的な制海権の掌握には成功した。
だが、その優位も今や風前の灯火である。帝国が地中海沿岸に展開させた地中海航空艦隊の凄まじい航空優勢により、制海権は空からの爆撃と雷撃で封殺され、アルビオンの地中海シーレーンは首を絞め上げられつつあった。
これほどまでの劣勢を強いられている最大の要因は、帝国の「異常な国力の膨張」にある。
帝国は、共和国、協商連合、ダキア公国といった国々と立て続けに総力戦を殴り合ったはずである。常識的に考えれば、国力は疲弊し、国庫は空になり、兵器は枯渇しているはずだ。
だが、現実の帝国は1923年の開戦前夜よりも「遥かに強大」になっていた。
東の公国からは、豊富な石油資源を完全に自国の戦争機構へと組み込み、燃料状況を一層磐石にし。北の協商連合からは、良質な鉄鉱石や銅といった莫大な鉱物資源に加え、ボールベアリングなどの高精度の工作部品を無尽蔵に供給させている。
そして何より恐ろしいのが、敗戦国フランソワ共和国の完全なる同化である。共和国の広大な穀倉地帯は帝国の胃袋を満たし、その高度な工業力はすべて帝国の軍需工場へと転換された。
さらに、ケルセルメビークの悲劇によってアルビオンへの憎悪に燃える共和国国民は、今や帝国の最も忠実な狂信者と化していた。共和国政府はまだ正式な参戦こそ見送っているものの、帝国式の最新装備で武装した十万規模のフランソワ義勇軍が、ロメール軍団を支援すべく南方大陸へ派遣されることが内定しているという。
大陸全土の資源、食糧、工業力、そして人的資源を一つの巨大な「帝国という名の怪物」が飲み込み、アルビオンたった一国を圧殺しようとしているのだ。
「……もはや、連合王国の意地や誇りでどうにかなる盤面ではない」
イーデンスは、冷え切った革手袋を強く握りしめた。
この怪物に単独で立ち向かうことは不可能だ。アルビオンが生き残るための唯一の希望、それは欧州大陸の東に鎮座するもう一つの巨大な赤い怪物――ルーシー連邦を、対帝国戦争の泥沼に引きずり込むことだけであった。
◇
車がムルマンス郊外の鬱蒼とした針葉樹林の中を進み、厳重な警備に囲まれた瀟洒なダーチャへと到着した。
重厚な木扉を抜け、暖炉の火が赤々と燃える応接室へと通されたイーデンスを待っていたのは、丸眼鏡の奥に温和な笑みを浮かべた小柄な男――ルーシー連邦外務人民委員、ヴャチェスラフ・モトロフであった。
「ようこそ、はるばる氷の海を越えて連邦へ。イーデンス外相。外の寒さは厳しかったでしょう。さあ、まずは温かい紅茶と、良質なウォッカで体を温めてください」
モトロフは、まるで旧来の友人を迎える田舎の好々爺のような、極めて温厚で丁寧な口調でイーデンスを歓待した。
「感謝する、モトロフ外相。だが、生憎と我々にはウォッカに酔いしれている時間的猶予がない。早速だが、本題に入らせていただきたい」
イーデンスは勧められたグラスには口をつけず、単刀直入に切り出した。
「連邦は、いつ帝国に対して兵を挙げるのか。我が国はすでに、貴国が要求した最新の航空機エンジンの設計図、レーダー技術の基礎理論、ならびに膨大な産業機械の供与を約束通り実行している。そろそろ、貴国にも『同盟国としての義務』を果たしていただきたい」
イーデンスの言葉には、隠しきれない苛立ちと屈辱が滲んでいた。
この数ヶ月間、モトロフら連邦の外交陣は、アルビオンからの参戦要求に対して「参戦しようかな? しかし準備が……いや、するつもりはあるのですがね?」という、のらりくらりとした態度に終始してきた。
彼らはアルビオンの絶望的な足元を完全に見透かしており、帝国参戦への「手付金」として、アルビオンが国家機密としていた最先端の軍事技術や産業機械を次々と要求し、むしり取っていった。さらには、戦後における連邦の国境線の西側への大幅な拡大の確約すら、アルビオンに押し付けてきたのである。
アルビオンからすれば、共産主義という相容れないイデオロギーを持つ連邦へ自国の血肉を分け与えるなど、狂気の沙汰であった。だが、帝国という脅威の現実を前に、イーデンスたちはこの恐るべき恐喝に屈し、言われるがままに譲歩を重ねるしかなかった。
「まあまあ、そう焦らないでください、イーデンス外相」
モトロフは温和な笑みを全く崩さず、ソーサーに添えられたジャムを紅茶に溶かしながら、ゆっくりと語り始めた。
「我がルーシー連邦は、常にアルビオンとの偉大なる友情を尊重しております。ですがね、戦争というのはチェスの駒を動かすようにはいかないのです。相手はあの帝国ですよ? 我が国の労働者と農民の軍隊が、確実に勝利を収めるための『絶対的な準備』を整えるには、もう少しだけ……ええ、例えば、貴国が開発中の新型ソナーの技術供与と、北海方面における我が国の権益の事前承認などがあれば、より国内の意見もまとまりやすいのですがね」
(……この、底意地の悪い赤豚め!)
イーデンスは内心で激しく罵った。これ以上の譲歩は、大英帝国の戦後の国益を完全に連邦へ売り渡すに等しい。だが、断れば彼らは動かない。動かなければ、アルビオンは死ぬ。
イーデンスが目の前の温和な外相に殺意すら抱いていたその時。
彼には知り得ないルーシー連邦という国家の「冷徹な内情」が、モトロフの背後に分厚い壁として存在していた。
モトロフ個人の性格は、確かに温和で官僚的であった。しかし、彼の一挙手一投足、そしてこの冷酷極まりない外交的恐喝のすべては、モスコーのクレムリンに座する絶対権力者――同志書記長の鋼鉄の意志によって直接操作されているものであった。
ルーシー連邦もまた、決して現状を傍観して喜んでいるわけではなかった。
むしろ彼らは、アルビオン以上に「帝国という怪物」の存在に恐怖し、夜も眠れぬほどの危機感を抱いていた。連邦は前々から、帝国がいずれ東方へその牙を剥くであろうことを予見しており、いずれ訪れる帝国への先制攻撃を綿密に計画していたのである。
だが、連邦には動けない理由があった。
一つは、先に行われたスオミとの冬戦争において、帝国から極秘の物資支援を受けたスオミ軍の前に、連邦軍が数十万の死傷者を出すという大火傷を負い、その軍事的無能さを世界に晒してしまったこと。
もう一つは、同志書記長自身が推し進めた「大粛清」の嵐により、軍の優秀な将校層が根こそぎ消滅し、軍隊としての有機的な指揮系統が完全に麻痺していたことである。
スオミでの大敗と粛清による混乱。この状態で、あの無敵の帝国軍に戦いを挑めば、連邦は数週間でモスコーまで踏みにじられる。同志書記長はその冷酷な現実を誰よりも正確に理解していた。
だからこそ、彼らはアルビオンを盾として帝国と戦わせ、その間にアルビオンから最先端の技術と産業支援を極限まで吸い上げ、連邦軍を根本から近代化、再構築するための時間稼ぎをしていたのである。
『アルビオンには、最後の一兵まで帝国と戦ってもらわねば困る。だが、彼らが完全に敗北し、帝国の支配下に入ってしまえば……欧州の全資源を手にした帝国の全火力が、我が連邦へと向かってくる。それだけは絶対に避けねばならない』
同志書記長の計算機のような頭脳は、常に限界のラインを見極めていた。
そして今、中央暦1926年2月。
アルビオンの技術を吸収し、粛清のダメージからようやく組織としての体裁を取り戻し始めた連邦軍は、ついに「準備が整った」と判断を下したのである。これ以上アルビオンを見殺しにすれば、本当に彼らは崩壊してしまう。介入のタイミングは、まさに「今」しかなかった。
「……イーデンス外相」
モトロフは、手元の紅茶のカップを静かにソーサーへと戻した。
彼の目から、先程までの好々爺のような温和な光がスッと消え失せ、冷徹で機械的な、巨大な国家の意思を代弁する者の眼差しへと変わった。
「貴国の窮状と、これまでの誠意ある技術供与。そして何より、先ほど貴方が約束してくださった戦後の新たな国境線の確約について……同志書記長は、極めて高く評価しておられます」
イーデンスは息を呑んだ。
モトロフの言葉の響きが、劇的に変わったことを、熟練の外交官である彼は本能で悟った。
モトロフは立ち上がり、サイドテーブルに置かれていた純銀のボトルから、透明なウォッカを二つのグラスに並々と注いだ。そして、その一つをイーデンスの目の前へと差し出した。
「我がルーシー連邦は、恩義を忘れる国家ではありません。これまで連合王国から賜った多大なる産業・技術の恩に応え……そして、欧州を無断で我が物顔に闊歩する帝国という狂犬を躾けるため」
モトロフは、自身のグラスを高く掲げた。
「同志書記長の決断をお伝えします。我がルーシー連邦は、これより対帝国軍事作戦の発動を承認し、貴国と共に戦場に立つことを確約いたしましょう」
その言葉が応接室に響いた瞬間。
イーデンスの全身の力が、安堵とともに一気に抜け落ちそうになった。
どれほどの屈辱を舐め、どれほどの国益を切り売りしてきたか。そのすべてが、この一言を引き出すための苦行であったのだ。連合王国は、首の皮一枚で、絶望の淵から生還を果たしたのである。
「……感謝する、モトロフ外相。いや、同志よ」
イーデンスは震える手でウォッカのグラスを受け取り、立ち上がった。
「これで帝国という悪魔は、東西からの挟み撃ちという、歴史上いかなる国家も逃れられなかった死の罠へと落ちることになる。我々の勝利だ」
「ええ、ともに勝利を」
モトロフは温和な微笑みを再び浮かべ、グラスを合わせた。
チン、と硬質なガラスの音が、凍てつくムルマンスの夜に響いた。
それは、世界の歴史が決定的に「破滅の第二幕」へと移行した音でもあった。
アルビオンと連邦という、本来であれば決して相容れないはずの水と油が、帝国という共通の巨大な恐怖を前に手を結んだのだ。
イーデンスはウォッカを一気に飲み干しながら、喉を焼くアルコールの熱の中で、薄ら寒い予感に身を震わせていた。
帝国という悪魔を倒すために、ルーシー連邦という名の別の化け物を欧州の舞台へと引きずり込んでしまった。戦後、無傷で残ったこの赤い熊が、どのような要求を突きつけてくるのか。
だが、今は考えるまい。
イーデンスは自らにそう言い聞かせた。まずは明日を生き延びねば、戦後の世界など存在しないのだから。
中央暦1926年春。
東方の赤い巨人が、ついにその重い腰を上げた。
無敵の帝国が支配する欧州の大地に、一千万とも言われる連邦労農赤軍という名の赤い津波が、今まさに東部国境から雪崩れ込もうとしていたのである。
この作品で一番書きたいところまであと少しです。
連邦参戦するまで二話程挟む予定です。