《中央暦1926年2月下旬 帝都ベルン 参謀本部》
重厚なオーク材の扉を背にして、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は深く、ひたすらに深い、地を這うような溜息を吐き出した。
肺から吐き出された二酸化炭素には、彼女が直前まで中にいた作戦参謀次長執務室の、ゼートゥーア中将が燻らせていた葉巻の臭いと、濃密すぎるほどのブラック労働の気配がたっぷりと混ざり込んでいた。
磨き上げられた大理石の廊下を歩くターニャの足取りは、まるで両足に鉛の重りでも括り付けられているかのように重かった。
それもそのはずである。彼女の脳内では、先ほど手渡されたばかりの「新たな命令書」の文面が、呪いのようにリフレインしていた。
『第二〇三航空魔導大隊は、これより東部国境へと展開。ルーシー連邦領内における軍の集結状況、ならびに兵站拠点の動向について、越境強行偵察を実施せよ』
(……正気か、参謀本部。いや、正気ではないからこその参謀本部か)
ターニャは軍帽のひさしを深く下げ、内心で毒づいた。
彼女はつい先日、南方大陸北部の激戦地、トゥブルクから帰還したばかりであった。ロメール中将という独断専行型の狂った指揮官の下で、敵の井戸とインフラを跡形もなく爆砕し、見事に勝利を収めた……のは良かった。しかしその代償として、自らも水不足の地獄に陥り、終わりの見えない乾パンと泥水だけの生活を強いられたのである。
パスタを茹でる水すらなく、シャワーを浴びることも叶わない、あの砂埃まみれの地獄。
ようやく帝都に帰還し、熱いシャワーと文明的な食事を堪能し、これでやっと後方での平穏な日々が戻ってくる……そう信じていた彼女のささやかな願いは、またしてもゼートゥーア中将の冷徹な一言によって打ち砕かれたのだ。
(連邦領内への越境強行偵察だと? 連邦が東部国境に戦力を集結させていてきな臭いのは百も承知だが、春前の連邦だぞ!? マイナスの極寒の空を飛んで、万が一撃墜でもされたら泥まみれでシベリエン送りではないか! 南方の灼熱地獄から、今度は極北の氷点下地獄へ直行しろと!? 労働基準監督署はどこだ! いや、そもそもこの国にはそんな素晴らしい機関は存在しなかった!!)
声に出せない絶叫を脳内で響かせながら、ターニャは眉間に深いシワを寄せて廊下を歩いていた。
その時である。
「おや、デグレチャフ少佐ではないか。ずいぶんと険しい顔をしているな。南方大陸からの帰還、ご苦労だったね」
不意に頭上から降ってきた洗練されたバリトンボイスに、ターニャはビクリと肩を震わせ、反射的に軍靴の踵を鳴らして完璧な敬礼の姿勢をとった。
「はっ! お疲れ様であります、ローゼフシルト准将閣下!」
彼女の目の前に立っていたのは、帝国軍参謀本部の重鎮にして、帝国最大のメガコンツェルンの一つローゼフシルト財閥の総帥、ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト准将であった。
身長百八十センチを超える長身、黒髪に碧眼、そして四十台であることを示す微かな白髪交じりの頭髪。右頬に刻まれた歴戦の傷跡が、彼の洗練された軍服姿に、実戦を潜り抜けてきた本物の武人としての凄みを添えている。
だが、今の彼から発せられているオーラは、前線の武人のそれでも、冷酷な参謀のそれでもなかった。どこか、人間を観察して楽しむような、人を食ったような余裕に満ちていた。
「少佐」
ローゼフシルトは、ターニャの頭頂部の少し上の空間にスッと平手をかざした。そして、その手を自分の胸元の高さと比べ、ふむ、と顎に手を当てて首を傾げた。
まるで、成長期の子供の背丈を柱の傷で測るかのような、軍の廊下で行うにはあまりにも不自然なジェスチャーである。
「……ローゼフシルト准将閣下。どうかしたのでしょうか……?」
ターニャは、ピキピキと頬の筋肉を引き攣らせながら、極めて作り物めいた笑みを浮かべて尋ねた。
「いや」
ローゼフシルトは真面目腐った顔で、しかし瞳の奥に明確な面白がりを隠すことなく言った。
「貴官はまだ成長期だろう? だが、前に会った時に比べて、思ったほど身長が伸びていないと思ってな。南方大陸の過酷な環境で、栄養状態が悪かったのではないかと心配になってね」
(この……ッ! メガコンツェルンの総帥で参謀本部の重鎮の男が、わざわざ廊下で一介の少佐を捕まえて身長煽りか! 暇なのか!? いや、暇なはずがない! ならばただの趣味か! 悪趣味にも程があるぞ!!)
ターニャの内心のボルテージが一瞬にして沸点に達したが、相手は雲の上の存在、泣く子も黙るローゼフシルト准将である。ここで噛み付けば、それこそどんな報復人事が待っているか分かったものではない。
ターニャは理性の防波堤を総動員し、ギリギリのところで軍人としての礼節を保った。
「ご心配には及びません、閣下。私の身長は、帝国軍人としての職務遂行および航空魔導士としての機動において、なんら支障をきたすものではありませんから。それに、小さな的の方が敵の弾に当たりにくいという利点もございます」
ターニャはこれ以上ないほどの事務的な早口でまくし立てた。
「それでは、私はこれより次なる任務の準備がございますので、これにて失礼させていただきます!」
踵を返し、逃げるように足早に廊下を去ろうとするターニャ。
だが、その小さな背中へ向けて、ローゼフシルトは悠然とした声を投げかけた。
「貴官らの南方大陸での活躍は聞いているぞ。ロメール中将の期待に応え、トゥブルクのインフラを見事に粉砕したそうだな。その労をねぎらって、私が個人的にご褒美を用意しておいた。戻るころには貴官の駐屯地に届いているはずだから、たっぷりと楽しんでくれたまえ」
ターニャは足を止めることなく、肩越しに振り返って言った。
「ええ! ありがとうございます!」
言葉だけは感謝に満ちていたが、その足取りはぷんぷんと怒気を孕んでおり、小動物が威嚇しながら逃げ去るような滑稽さがあった。ローゼフシルトはその後ろ姿を見送りながら、クックッと楽しげに喉の奥で笑うのであった。
◇
《同日午後 帝都郊外 第二〇三航空魔導大隊駐屯地》
「おおおおおおっ!! こ、これは……本物のコーヒーだ!! 代用コーヒーでも泥水でもない、本物の、芳醇な香りのするコーヒー豆じゃないか!!」
「こっちにはチョコレートがあるぞ! それも最高級のクーベルチュールだ! 南方大陸の砂まみれの乾パン地獄から、ついに我々は天国へと帰還したのだ!!」
「おい見ろ、上質なシュナップスに、年代物のワインまであるぞ! 神よ……いや、参謀本部に栄光あれ!!」
第二〇三航空魔導大隊の駐屯地に設けられた食堂兼レクリエーションルームは、まさに狂喜乱舞の渦に包まれていた。
ヴァイス副大隊長、グランツ少尉、ケーニッヒ少尉、ノイマン少尉をはじめとする大隊の面々が、山のように積まれた木箱を前にして、文字通りむせび泣いていたのである。
無理もない。彼らは南方大陸のトゥブルクにおいて、自分たちで井戸を完膚なきまでに破壊した結果、極度の水不足に陥り、毎日毎日、口の中の水分を根こそぎ奪い取るパサパサの乾パンと、わずかな配給の泥水のような代用コーヒーだけで命を繋いできたのだ。
夜な夜な「熱々のトマトソースを絡めたパスタ」の幻覚を見ては涙を流して目覚めるような日々を送ってきた彼らにとって、目の前に広げられた最高級の嗜好品の山は、まさに砂漠のオアシス、いや、神の奇跡そのものであった。
「ふむ……」
その狂乱の様子を少し離れた場所から腕を組んで眺めていたターニャは、木箱の側面に印字された意匠を見て、感心したように目を細めた。
木箱の側面に焼き印で押されているのは、剣と歯車、そして翼を模した重厚な紋章――帝国全土に網を張るメガコンツェルン、「ローゼフシルト財閥」の公式ロゴマークであった。
よく見れば、コーヒー豆の麻袋にも、チョコレートの包み紙にも、シュナップスの瓶のラベルにも、すべてローゼフシルト財閥傘下の企業の名前が記されている。
(兵士の胃袋を満たす嗜好品の流通網にまで、完全にローゼフシルトの資本が入っているというわけか。重工業や造船だけでなく、食品産業まで進出しているとは……まさに資本主義の鑑、恐るべき市場支配力だな)
ターニャは前世における日本のビジネスマンとしての視点から、その巨大な経済圏の構築能力に素直に感嘆した。
先ほど参謀本部の廊下で身長煽りを受けた怒りも、この見事な手回しの良さと物量の前では霧散しつつあった。
(あの男も、ただの嫌味な上司というわけではないらしい。部下の労をねぎらうために、自社の最高級品を惜しげもなく提供する。飴と鞭の使い分けが完璧だ。さすがは財閥の総帥といったところか。……よろしい、この極上のコーヒーとチョコレートで、これからの連邦への越境偵察という名の地獄への英気を養わせてもらうとしよう)
ターニャが気分良さげに微笑を浮かべていると、そこへ副官のヴィーシャが、両手で大事そうに一つの箱を抱えて小走りでやってきた。
「少佐殿!」
「どうした、ヴィーシャ。君も早くチョコレートを確保しておいた方がいいぞ。あの飢えた野獣どもにすべて食い尽くされる前にな」
「いえ、私の分はすでに確保済みです! それより、こちらをご覧ください。補給部隊の将校から、大隊向けの物資とは別に『これはローゼフシルト准将閣下より、大隊長殿個人への贈り物だ』と渡されたものです」
ヴィーシャが差し出したのは、他の無骨な木箱とは明らかに一線を画す、上質な銀色の包装紙に包まれ、深紅の美しいリボンがかけられた、辞書ほどの大きさの箱であった。
ターニャは目をパチクリと瞬かせた。
「私、個人へ……?」
(まさか……少し遅れたバレンタインのつもりか? いやいや、有り得ない。あの冷徹な合理主義の権化のような男が、一介の幼女に対してそんなロマンチックな真似をするはずがない。……となれば、なんだ? 嗜好品の中の特上品……例えば、極上のキューバ産シガーの詰め合わせか? それとも、年代物のヴィンテージ・コニャックか?)
前世の記憶がもたらすビジネスエリートとしての嗜好が、ターニャの胸を密かに高鳴らせた。
「なんだ、あの准将閣下も粋なところがあるじゃないか。どれ、開けてみよう」
ターニャは苦笑しながら、ヴィーシャから箱を受け取り、深紅のリボンをスルスルと解いた。そして、期待に胸を膨らませながら銀色の包装紙を破り、中の上質な化粧箱の蓋を開けた。
「…………」
箱の中身を見た瞬間、ターニャの思考は完全にフリーズした。
笑顔のまま、文字通り石像のように固まってしまったのである。
「少佐殿? どうかされましたか? 中身はなんでしたか?」
ヴィーシャが不思議そうに箱の中を覗き込む。
そこに入っていたのは、葉巻でも、コニャックでも、高級なチョコレートでもなかった。
無骨なアルミホイルのような銀色のパッケージで個包装された、長方形のブロック状の物体が、隙間なくぎっしりと詰め込まれていたのである。
パッケージの表面には、極太の無機質なフォントで、こう印字されていた。
『ローゼフシルト・フーズ謹製 完全栄養食~これ一つで一日に必要な栄養素を網羅!~』
「……か、かんぜん……えいようしょく……?」
ヴィーシャが戸惑ったように読み上げる。
ターニャの頬が、ピクピクと痙攣を引き起こした。
さらに、そのブロック状の物体の下に、ローゼフシルト家の立派な紋章が押された、分厚い封筒が一通敷かれているのを発見した。
ターニャは震える手でその封筒を手に取り、中から一葉の便箋を引き出した。
そこには、流麗で洗練された万年筆の文字で、次のような手紙が綴られていた。
『前略、デグレチャフ少佐。
南方大陸における貴官の献身的な働きに、心からの賛辞を贈る。
さて、先ほど参謀本部の廊下でお見受けした際、貴官はご自身の「身長の伸び悩み」について、多大なるコンプレックスと悩みを抱えておられるようにお見受けした。上官として、部下の心身の健康と成長を慮るのは当然の義務である。
ゆえに、貴官の成長をサポートすべく、我がローゼフシルト財閥傘下の食品工場が総力を結集して開発した新製品、完全栄養食ブロックを特別に贈らせてもらった。』
(……誰が身長にコンプレックスを抱えていると言った!! 貴様が勝手に測ってきたのだろうが!!)
ターニャの脳内で、理性のストッパーが悲鳴を上げ始めた。しかし、手紙の文面はさらに続く。
『ちなみに、この完全栄養食を製造している食品工場は、日頃から帝国軍の最前線に供給されている野戦用戦闘糧食を製造している工場である。つまり、栄養価とカロリー計算、および保存性に関しては、我が帝国軍の兵站部門のお墨付きというわけだ。安心したまえ。』
(なるほど、南方大陸で私が齧っていた乾パンを製造していたのもお前のところの工場か。……あの喉の水分を根こそぎ奪う悪魔の兵器を作り出した工場の新製品だと……!? 嫌な予感しかしないぞ!)
『この完全栄養食は、いずれ帝国の孤児院にいる貧しい子供たちや、占領地の栄養失調の子供たちへの救済物資としても大規模に提供する予定である。
ビタミン、ミネラル、タンパク質など、発育に必要な栄養素は完璧に計算されている。しかし、開発部の連中が栄養価と効率を追求しすぎた結果、「味が子供の口に合うかどうかが全く分からない」というマーケティング上の懸念が浮上してね。
そこで、帝国軍が誇る英雄であり、かつ「子供の姿」をしている貴官がテストケースとしてこれを実食し、成長を遂げたとあれば、これ以上のマーケティング効果はない。ぜひ、忌憚のない意見と試食レポートを提出してほしい。』
(テストマーケティングの実験台か!! 恩着せがましい手紙を送りつけておきながら、結局は自社の新製品開発のためのデータ収集目的ではないか! この血も涙もない資本主義の亡者め!)
ビジネスの手法としては極めて正しい。ターニャ自身、前世であれば「著名人を起用したテストマーケティングは効果的だ」と稟議書に判子を押していただろう。だが、自分がそのモルモットにされるとなれば話は別である。
ターニャはギリギリと歯ぎしりしながら、手紙の最後、追記の部分に目を落とした。そこには、さらに彼女の神経を逆撫でする一文が記されていた。
『追記:私と会話する際、貴官の背が小さすぎるせいで、常に見下ろさねばならず、私の首が酷く凝ってしまうのだ。早急に背を伸ばすように。
なお、貴官がこれから向かう東部国境の最前線にも、この完全栄養食を貴官の毎日分として補給線に乗せて送り届けるよう手配しておいた。感謝したまえ。
慈愛と人徳の権化ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト』
「…………ッ!!」
ターニャは、手にしていた上質な便箋を、怒りのあまりクシャクシャに丸め、床に叩きつけそうになった。
「あの男……あの男ぉぉぉ!! 余計なことをしやがって……!! 首が凝るだの、毎日分最前線に送りつけるだの、どこまで私をコケにすれば気が済むのだ!! チョコレートとコーヒーに浮かれていた私が馬鹿だった!!」
ターニャがワナワナと震えながら激怒する姿に、ヴィーシャはオロオロと視線を彷徨わせた。
「し、少佐殿! お気を確かに! そ、その完全栄養食とやら、もしご不要であれば、私が……」
「いや」
ターニャは深呼吸を一つし、瞬時に怒りを冷却して、極めて合理的な思考へと切り替えた。
「もらう。……癪だが、この男が栄養価は完璧だと断言している以上、本当に発育に効果がある可能性は高い。この幼女の身体という物理的ハンデを克服し、身長が少しでも伸びて生存確率と発言力が上がるのであれば、悪魔の差し金だろうと有難く貰っておく」
ターニャは箱の中から銀色のパッケージを一つ取り出し、ビリッと破いた。
中から出てきたのは、茶色とも灰色ともつかない、見るからに水分の少なそうなブロック状の固形物であった。かすかに、大豆とビタミン剤を混ぜ合わせたような、人工的で無機質な匂いが漂ってくる。
「……」
ターニャは意を決して、そのブロックに小さく齧り付いた。
ボキッ、という鈍い音が響く。
咀嚼する。
何度も、何度も噛む。
しかし、噛めば噛むほど、口の中の水分がスポンジのように吸収され、粘土のような食感の物体が口内に張り付いていく。味は、甘くもなく、しょっぱくもなく、ただひたすらに「栄養素を固めました」という自己主張だけが、粉っぽさとともに喉の奥へと滑り落ちていった。
「……少佐殿、お、お味の方は……?」
ヴィーシャが恐る恐る尋ねる。
ターニャは、虚無を見つめるような瞳でゆっくりと咀嚼を終え、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
そして、絞り出すような声で言った。
「……南方大陸の乾パンよりは、ギリギリ、マシだが……」
ターニャは手元の食べかけのブロックを見つめ、深いため息をついた。
「……占領地の子供がこれを食べたら、間違いなく絶望して泣くぞ。ローゼフシルト准将閣下には、『マーケティングの観点から言えば、味覚の改善は急務である。さもなくば暴動が起きる』とレポートを提出しておくとするか」
かくして、南方大陸の灼熱地獄から生還した第二〇三航空魔導大隊長ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、間髪入れずに極寒の東部国境へと送られる絶望とともに、毎日「味のしない完全栄養食」を齧り続けなければならないという、新たなる地獄へと足を踏み入れることとなったのである。