《同日 北方軍管区司令官室》
カフェスペースの静寂と、冷めきったコーヒーの余韻を背にして、ローゼフシルトは大股で重厚な木製ドアの前へとたどり着いた。
ドアに掲げられたプレートには北方軍管区司令官の文字。コンコンと軽やかに4回ノックを鳴らし、返答を待たずに扉を開ける。
室内には、書類の山と電信の紙片が散乱していた。
その部屋の中心、特注サイズの巨大な革張り椅子の主――北方軍管区司令官、パウル・フォン・リンデンブルガー元帥は、羽織っていた軍服のボタンをいくつか外し、大口で葉巻を燻らせていた。
一八〇センチを超えるローゼフシルトが見上げるほどの巨躯と、圧倒的な威圧感。しかしその顔立ちには、老練な軍人特有の温和さと豪快な包容力が同居している。
「おや、ローゼフシルト大佐。カフェで美味い泥水でも飲んできた顔だな。徹夜の参謀殿が私の部屋に何の用だね?」
「失礼します、閣下。カフェの豆は最高品質のものです。泥水などと仰るとバリスタが泣きますよ」
ローゼフシルトはフッと口角を上げると、受話器を置き、机の上の書類を片付けている老元帥の前に進み出た。
「少々、面白い素材を見つけましてね」
「面白い素材? ほう、あのザ・ストリートから札束をふんだくってきた男が言う素材だ。新しい兵器か、それともどこかの石油油井か?」
「いえ、人間です。デグレチャフ少尉……先のノルデン上空で銀翼突撃賞を授与された、例の九歳の少女ですよ」
リンデンブルガーは太い眉を上げ、ハハハと腹から響くような大笑いを上げた。
「ああ、あの小さな英雄か! 報告書は読んだよ。単機で一個中隊を相手に死守してみせたというな。いやあ、軍医から聞いたが、あんな小さな体で全身ギプスだ。この丸太のような私の体に比べたら、まるで小枝のような娘だろうに、胆力だけは参謀本部の青二才連中より遥かに据わっておる」
元帥は自らの肥満気味で頑丈な胴体をポンと手で叩き、笑い飛ばした。豪胆そのものの立ち振る舞いだが、その鋭い眼光はローゼフシルトの真意を探っている。
「で? その小枝のような少女が、どうして君の琴線に触れたのかね」
「ただの英雄ではありませんよ、閣下。その小枝のような少女は年齢抜きにしても優秀です。感情を排し合理的で理論的な考えができる素晴らしい組織人です。しかも時代を先取りした優れた思想を持っている。将来の参謀本部を背負って立つ逸材になりましょう」
「ほう……君がそこまで買いかぶるとは珍しい。まあ良い、見込みがあるなら後方でしっかり育てるさ。もっとも、まずはあの傷を治させることが先決だがな」
リンデンブルガーは葉巻の煙を深く吐き出し、表情を少しだけ引き締めた。元帥としての顔に戻った証拠だった。
「ところで大佐、雑談はここまでだ。参謀本部から通達があってな」
「通達、でございますか」
「ああ。貴様と仲の悪い守旧派の連中中心に参謀本部が動き出した。西方方面軍から主要な魔導大隊および歩兵師団をこちら――北方へと転進させ、この協商連合の小バカどもを一気にひき潰す気だ」
リンデンブルガーは大柄な体を乗り出し、極めて気さくな口調で、しかし軍令の重みを込めて言った。
「というわけでだ、ローゼフシルト大佐。受け入れの準備を進めてくれ。参謀本部の鉄道部も手伝ってくれるそうだ。西方からの鉄道ダイヤを組み直し、弾薬等々の手配を大至急で頼むぞ」
「……了解いたしました、元帥閣下。ただちに兵站ラインの再構築に入ります」
ローゼフシルトは即座に回礼した。
しかし、彼の脳内では、まったく別の高速な演算が開始されていた。
(参謀本部は、西方方面軍を北方に送る、だと……?)
ローゼフシルトの碧眼の奥で、冷ややかな暗火が点灯する。
参謀本部が打ったこの手、一見すると十分な練度を持った西方軍の圧倒的な物量による正攻法の撃滅作戦だが、致命的な穴が存在していた。
彼らは動員令を出していないのだ。
国家規模での総動員を避け、既存の常備軍(西方方面軍)を横持ちして北方に集中させるという判断。
(……愚かしい。参謀本部の守旧派どもは、未だにこの戦争を『ただの地域紛争』としか捉えていない)
西方の精鋭を北方へ引き抜けば、西のフランソワ共和国に対する牽制力が劇的に低下する。
そうならない為の軍管区制であり動員令だというのにも関わらず、守旧派連中と政治屋は日和って発令を取りやめた。
ローゼフシルトの記憶が正しければ、自身の元に動員令発令どうこうの情報は届いていない。
(西方方面軍を動かすのは予想していたが、動員して動かした兵員の穴埋めをしてからだと思っていたが……どうやら違うらしい)
共和国から見れば、帝国が北方に夢中になり、西側の防壁が手薄になった絶好の機会に見えるはずだ。参謀本部は対外的な影響、とりわけ他国の政治的欲望と連鎖反応をまったく考慮していない。
(動員令を出さずに事態を収めようなど、甘い。……だが)
ローゼフシルトの口元が、誰にも気づかれないほど微かに歪んだ。
(素晴らしいな)
この参謀本部の配慮のなさと見通しの甘さこそが、西の共和国をこの戦争の泥沼へと引きずり出す決定的な引き金となる。
帝国が自ら望まずとも、周辺国が勝手に誤認し、開戦の連鎖が始まるのだ。ローゼフシルトが考える新秩序までの構築の手順が勝手に組み上がっていく。
(守旧派の老害どもめ。内線の原則すら無視して、現状の事実認識すらできず、机上の平和論と局地戦の発想に縛られている)
参謀本部の現状に対する限界。
事態が泥沼化し、全欧州を巻き込む大戦へと発展した時、思考が硬直し意思決定機能が弱まっている守旧派に全軍の指揮権を握らせておくわけにはいかない。
自身、そしてゼートゥーアとルーデルドルフなどを含む将校の革新派の手によって、参謀本部の意思決定権を完全に掌握しなければならない。
戦争を始めるのは守旧派の愚かさで構わない。
だが、その戦争をコントロールし、帝国を操作するのは革新派でなければならない。
「どうした、ローゼフシルト? 難しそうな顔をして」
リンデンブルガーが不思議そうに尋ねてくる。
「いえ、何でもございません、元帥閣下」
ローゼフシルトは完璧な軍人の微笑みを貼り直し、胸を張った。
「西方軍の受け入れ、および兵站線の確保、至急取りかからせていただきます。帝国に栄光あれ」
「うむ、頼んだぞ!」
司令官室を辞し、静かに扉を閉めたローゼフシルトは、冷たい廊下を歩きながら暖かな窓の外を見た。
北方軍管区の窓の外には、快晴の空が広がっている。
その青空の向こうで、遠からず全欧州を飲み込む巨大な嵐が吹き荒れることを、ローゼフシルトは確信していた。
◇
1923年の7月、中央暦世界は地獄へいざなわれた。
帝国を中心に取り巻く欧州の緊張状態は、一つの政治的パフォーマンスから臨界点を超え、破滅的な結末へと収着した。
ノルデンにおける一過性の地域紛争は、参謀本部守旧派の思惑通りに収まることはなかった。
協商連合との交戦が本格化する中、参謀本部は事態を楽観視し、動員令の発令すら日和って取りやめた。その上で動員兵力たる中央方面軍を使わず西方方面軍を北方に転進させ、一気に協商連合を叩き潰すという、内線の原則すら無視した横持ちの兵力移動を決定したのである。
この前例も計画も研究もない無謀極まりない作戦行動で帝国軍の実務能力が破綻しなかった裏には、この10年で急激に拡大した巨大な軍事・インフラ基盤があった。
「……また守旧派の老害どもから泣きつきの電信か。打たれ弱いことだな」
北方軍管区司令部付属図書館の個室で、ローゼフシルトは冷めきったコーヒーを傍らに置き、電信の束を吐き捨てるようにテーブルへ放り投げた。
本来であれば、戦時体制への移行なしでの大規模な兵力移動は、即座に鉄道網の麻痺と武器弾薬の枯渇を引き起こすはずであった。しかし、帝国軍の兵站線は破綻一歩手前で踏ん張り、動き続けていた。
その秘密は、ローゼフシルトの提唱によって軍全体へと浸透した規格化輸送コンテナシステムにあった。
似たような研究としてはジェリカンがあったが、これはそれをはるかに越える規模であり、ついでにジェリカンも導入された。
すべての補給物資を一定規格の金属箱に収め、専用の貨車、トラック、クレーンを用いて積み替えの手間を極限まで削ぎ落とす。この画期的なシステムは守旧派にもその絶大な合理的価値を認められていたが、天文学的な初期投資コストが壁となっていた。そのため、過去2度にわたる4カ年計画と現在進行途中の第三次4カ年計画の中で、国家事業として十年かけて徐々に軍への導入が進められてきた経緯がある。
さらに、開戦直後であるにもかかわらず帝国軍に弾薬や物資の枯渇が存在しないのは、1913年に世界を襲った世界恐慌の際、ローゼフシルトの強い働きかけによって皇室と議会が策定した大規模公共投資政策のおかげであった。
当時、不況対策として発動された4カ年計画のもと、帝国全土にはアウトバーンと高速鉄道が敷き詰められ、都市にはビルディングが生えそろい、工場の拡大はとどまらず、あらゆる精錬プラントは大幅に拡大した。それと同時に、巨大な国有軍事工廠や標準化プラントが建設された。国家資本によって作られた膨大な生産基盤と備蓄網が、今まさに戦争の裏側で完璧に機能していたのである。
しかし、この圧倒的な物流と補給の成功は、思わぬ地政学的毒を撒き散らすこととなった。
帝国の防壁である西方軍が北方に移動し、西側の守りが手薄になったこと。そして帝国が動員令を出さずに腰が引けていること。常日頃から帝国に恐怖し、憎んできた隣国フランソワ共和国にとっては恐怖から解放される千載一遇の機会であった。
協商連合の小突き合いに端を発した火種は、共和国の動員とライン国境への進駐を引き起こし、全欧州を破滅の坂道へと突き落とし始めた。
◇
《中央暦1923年8月下旬 帝都ベルン 参謀本部》
怒号と悲鳴が飛び交う参謀本部の廊下を、作戦参謀次長のルーデルドルフ少将と、戦務参謀次長のゼートゥーア少将が並んで歩いていた。
守旧派が主導した無動員での西方軍北方転進は、当初こそ経済を心配する最高統帥府から受けが良かったが、共和国に致命的な隙を見せるという分かりきった大ポカを生み出した。その失態の責任を取り、最高統帥府からの激怒を買った守旧派の主要将校たちは、言い訳の猶予すら与えられず次々と更迭、予備役に回されていった。
自爆した老害どもが自ら去った後の参謀本部において、圧倒的な実務能力と先見性を持つゼートゥーアとルーデルドルフの革新派グループが、ごく自然に、そして必然的に意思決定の枢軸を握ることとなった。
「……酷い有様だ」
ゼートゥーアは眉間をもみほぐしながら、深く溜め息をついた。
「守旧派の無配慮が、引き起こす必要のない全面戦争を招いた」
「まったくだ」
ルーデルドルフも苦い顔で太い首を振った。
「老害どもの後始末を任される我々の身にもなってほしいものだ。作戦部隊の再配置と動員計画の修正……やることが山積みだぞ」
動員を後回しに行われた共和国からの攻撃に対し帝国はまともな対処ができなかった。
対共和国防衛のためのジークフリート線は次々に突破され、ワロンとザールラントは占領され低地工業地帯とライン工業地帯までの縦深を大幅に失った。
「しかし、過去の4カ年計画で導入されたあのコンテナという四角い箱と、整備された工廠群には助けられたな」
ルーデルドルフが手元の書類を見つめながら言った。
「導入当時は天文学的なコストには頭を抱えたが、聞き入れて正解だった。あれがなければこうも簡単に立て直せなかっただろう」
「ああ……」
ゼートゥーアは微かに苦笑を浮かべた。
ここ数日の業務は地獄のように忙しかったがそのかいあって共和国大陸軍の進撃をなんとか押しとどめることが出来た。
「西方国境の劣勢は、我々作戦部と戦務部が主導して立て直す。動員計画を即座に再策定し、ライン国境の防衛線を再構築するぞ」
「ああ、参謀本部の指揮権を我々革新派が握った以上、成功させねば次は我々の首がとぶからな」
二人はこれからさらに続く地獄を考えながら、寝食を忘れて作戦室へと消えていった。