「帝国軍の大攻勢、6月7日午前三時より開始される」
その極めて確度の高い極秘情報は、連邦の諜報網を通じてスタフカのテーブルにもたらされ、連邦軍の数百万の将兵に致命的な決断を強要した。
もし帝国の精鋭機甲師団によるヴァルシャワからの集中突破を許せば、防衛線は粉砕され、西部の主要地域が蹂躙される。ならば、敵が攻勢準備を整え、最も無防備になるその『直前』の喉首を噛み千切るしかない。
《統一暦1926年6月7日午前一時 ヴァルシャワ前面》
帝国軍の想定攻勢時刻の、わずか「二時間前」。ルーシー連邦軍は、自らの血肉を全てすり潰す覚悟の破砕攻撃を開始した。
先陣を切ったのは、空の決死隊であった。
赤色空軍は、一週間前より航空優勢を確保し、帝国の航空偵察の目を完全に塞ぐため、前線のパイロットのみならず、後方の訓練兵から飛行教官に至るまで、飛べる者を根こそぎかき集めてヴァルシャワ上空へと投入した。彼らは旧式の複葉機や性能の劣る戦闘機で、帝国の最新鋭機に文字通りの体当たりを敢行するほどの狂気を見せ、あらゆる犠牲を甘受して東の空を黒く塗りつぶした。
そして午前一時ちょうど。
連邦の最前線に集結した一万七〇〇〇門の野砲、重砲、カチューシャロケット砲が、一斉に火を噴いた。
通常の赤軍の攻勢であれば、数日間にわたって準備砲撃を行い、敵陣地を徹底的に破壊する。しかし今回は、帝国軍への奇襲効果を高めるため、砲撃はわずか三〇分間という極限まで凝縮された時間で切り上げられた。
「「「Ураaaaaaaaaaa!!」」」
砲煙が晴れるよりも早く、大地を揺るがす絶叫とともに、地平線を埋め尽くす赤い津波が帝国の防衛線へと殺到した。
今回の攻勢の主力として先頭を走るのは、第一次ヴァルシャワの戦いで壊滅した部隊と入れ替わる形で、極東シベリア方面から急遽列車で運び込まれた極東の精鋭八〇万人であった。
彼らは、ただの畑から徴兵された素人ではない。極東の過酷な環境下で、世界最強クラスの練度を誇る皇国軍と長年国境紛争を繰り返し、生き抜いてきた、文字通りの鍛え抜かれた兵士であった。
彼らに随伴するのは、連邦中からかき集められた二〇〇〇両のT-34中戦車とKV-1重戦車である。
わずか二時間後に「自分たちが攻勢をかける」つもりで前方に戦力を寄せて集結していた帝国軍にとって、この予期せぬタイミングでの猛烈な奇襲は、まさに致命傷であった。
「敵襲! 赤軍の総攻撃だ!! なぜ奴らが動いている!? 攻勢はこちらから仕掛けるはずではなかったのか!!」
浮足立った帝国軍の指揮系統は瞬時に麻痺し、有効な対策を全く打てないまま前線は崩壊した。
攻勢開始からわずか四時間後。ヴァルシャワ縦深陣地の第一陣を守備していた帝国第19軍は、極東精鋭部隊の容赦のない浸透戦術と、分厚い装甲を持つ重戦車の蹂躙によって文字通り『壊滅』した。
その撤退を支援するため、第二陣との間の縦深へ急行した第8軍も、圧倒的多数の赤軍兵力と、死を恐れぬ極東兵の猛攻を前に支えきれず、戦線を放棄して第19軍の残存兵とともに壊走を余儀なくされた。
赤軍の勢いは止まらない。彼らは息をつく暇すら与えない無停止攻勢を実行した。
攻勢開始からわずか二四時間後には、早くもヴァルシャワ防衛の要である第二陣の攻略が開始された。
第二陣に立て籠もる帝国軍も、必死の抵抗を試みた。対戦車砲が火を噴き、機関銃が赤軍兵士をなぎ倒す。しかし、極東で皇国軍の狂気的な白兵戦やゲリラ戦を経験してきた精鋭たちにとって、正規軍の整然とした防衛陣地など、攻略法を知り尽くした障害物に過ぎなかった。
極東兵たちは、死体の山を盾にして機関銃の射界を掻き潜り、対戦車砲の死角から肉薄し、手榴弾と火炎放射器で陣地を一つずつ確実に焼き払っていった。
半日後。前回の戦いと同じく、地形的に最も脆弱であったスタニスワブの防衛線が食い破られ、第二陣は完全に崩壊した。
さらに、第二陣と第三陣の間の広大な縦深地帯において、ヴァルシャワ市街を北から包囲しようと機動を開始した赤軍機甲軍を迎撃するため、防衛司令官デールモ上級大将は、自らの手持ちの「唯一の戦略予備」である二個機甲師団をついに派遣した。
ドプニン周辺の泥濘の平原で、双方合わせて二五〇〇両の戦車が真正面から激突した。
帝国軍の戦車乗りたちは、巧みな機動と正確な射撃で赤軍戦車を次々と撃破していった。しかし、赤軍は帝国の二倍以上の機甲戦力を持っており、何より恐ろしかったのは、戦車に随伴してくる極東の歩兵たちであった。
彼らは、味方の戦車が炎上しようとも、目の前の戦友が機関銃でハチの巣にされようと、全く怯むことなく、対戦車地雷や収束手榴弾を抱えて、泥の中を這いずりながら帝国の戦車へと肉薄攻撃を仕掛けてきたのだ。
かつて、このヴァルシャワの地で同胞をケッセルの底に叩き込んだ帝国の機甲師団は、この理不尽極まりない物量と狂気の肉薄攻撃の前に多大な損害を出し、ついに後退を余儀なくされた。
ヴァルシャワの防衛線は、今や風前の灯火となっていた。
◇
《同時刻 ヴァルシャワ市街地下 帝国軍防衛司令部》
「どういうことだ、ローゼフシルト准将!!」
地下司令部のコンクリートの壁が震えるほどの、デールモ上級大将の怒声が響き渡った。
彼の右目のモノクルの奥の瞳は、血走った激怒に燃え上がっており、手にした指揮棒で前線地図を激しく叩きつけた。
「我が軍の第一陣、第二陣が崩壊し、予備の機甲師団までもが押し戻されているのだぞ! だというのに、なぜ後方で待機しているはずの攻勢作戦用の主力を前線へ回さない!? 名目上の司令官はリンデンブルガー元帥だが、実質的な指揮と予備兵力の采配の全権を握っているのは貴様だろうが!!」
前線では、デールモの手足となって戦う防衛軍の兵士たちが、極東の精鋭を相手に次々と命を散らしている。だというのに、来るべき「大攻勢」のために後方に集結しているはずの莫大な帝国軍主力は、一向に援軍として動く気配がなかった。
デールモの痛烈な問い詰めに対し、壁際で優雅に腕を組んでいたローゼフシルト准将は、全く悪びれる様子もなく、どこか焦点の合わない目で白を切った。
「防衛線が抜かれた? 何を弱気なことを仰るのですか、デールモ閣下」
「なに?」
「帝国軍人たる者、決して退かぬという不屈の精神力と気合があれば、赤軍の戦車など素手でも叩き壊せるはずです。兵士たちの気合が足りないのです。ほら道端に木の枝が落ちているではありませんか、極東の国ではバンブーで飛行機を落とすと聞きます。皇帝陛下に忠誠を誓った帝国男児ならそのようなことも可能でしょう。もっと前線に檄を飛ばし、必勝の信念をもって突撃させなさい。要は根性です、精神力です」
「…………は?」
デールモは、あまりの言葉に呆然とし、怒りすら一瞬霧散してしまった。
それは、極東の島国の狂信的な将校が口走りそうな、狂気じみた時代遅れの精神論であった。常に冷徹な合理主義と兵站を重んじる帝国軍の、しかも最新鋭の兵器を次々と開発する財閥の総帥の口から出る言葉とは、到底思えなかったのだ。
「……本気で言っているのか?」
デールモは、底知れぬ落胆とともに低く呟いた。
「参謀本部の逸材、と聞いていたが……とんだ眉唾だったな。貴様のような精神論しか語れぬ無能に、これ以上の采配は任せておけん。私が直接、後方の軍集団へ連絡し、援軍を引きずり出してくる!」
デールモが通信機へ手を伸ばそうとした、その時である。
「さて、閣下」
ローゼフシルトの声音が、先ほどの狂人を装ったものから一変し、極北の氷のように冷たく、絶対的な知性を帯びたものへと切り替わった。
「もうそろそろ、赤軍の先頭部隊がこのヴァルシャワ市街に到達します。我々も、撤退しますよ」
通信機に手を伸ばしかけていたデールモは、ピタリと動きを止め、信じられないものを見る目でローゼフシルトを振り返った。
「……撤退だと? この帝国の東の心臓たるヴァルシャワを、放棄するというのか!?」
「ええ。放棄します」
「馬鹿なことを言うな! まだ後方には、攻勢作戦に投入予定だった何十万もの部隊と機甲師団があるはずだ! それを今すぐ動かせば、ここを死守できるだろうが!!」
激怒して詰め寄るデールモに対し、ローゼフシルトは肩の埃を払うように、極めて軽く言い放った。
「ああ、その主力部隊なら、もう移動しました」
「…………」
デールモは一瞬、世界から音が消えたかのように呆気に取られた。
数秒の沈黙。
そして、先ほどまで彼を支配していた激怒が、まるで嘘のように波を引いて消え去り……恐ろしいほどに静かな、しかし確信に満ちた声で問うた。
「……どこに?」
「軍機のため、お教えすることができません」
ローゼフシルトは、微かに口角を上げて微笑んだ。
その笑みを見た瞬間。デールモという稀代の防衛戦術家の頭脳の中で、全ての散らばっていたパズルのピースが完璧に噛み合った。
なぜ、連邦軍は帝国の攻勢予定時刻の直前に、これほどの大規模な破砕攻撃を仕掛けてきたのか。
なぜ、ローゼフシルトは手持ちの予備戦力を一切使おうとしなかったのか。
なぜ、後方に集結していたはずの大軍が、いつの間にか「どこか」へ消え去っているのか。
(……参謀本部の中で、私の与り知らぬところで、極秘作戦が進んでいる。連邦の攻勢時刻の情報すら、敵を誘い込むための餌……。私の率いるこのヴァルシャワ防衛軍は、赤軍の巨大な主力と極東の精鋭を、この一点に釘付けにするための生贄(囮)にされたのだ……!)
自分が、そして泥の中で死んでいった無数の部下たちが、全ては参謀本部の巨大な絵図の中で捨て駒として使われたのだという残酷な真実。
しかし、デールモの胸に去来したのは、恨みや絶望ではなく、軍人としての重く、冷たい覚悟であった。
「……そうか」
デールモは深く息を吐き出し、軍帽を深く被り直した。
そして、不満を飲み込み、何かを完全に納得したような表情で、ローゼフシルトを真っ直ぐに見据えた。
「……これだけ死んだのだ。無駄死ににはするな」
「ええ。ご安心を。彼らの流した血の何十倍もの血を、連邦に支払わせます」
デールモは頷くと、地下司令部で混乱している幕僚たちへ向けて、腹の底から怒鳴り声を上げた。
「何をしている貴様ら!! 荷物をまとめろ、機密書類は全て燃やせ! 総員、直ちにこの司令部を破棄し、西へ撤退する!! ヴァルシャワを放棄するぞ!!」
かくして、東部戦線の最大の要衝ヴァルシャワは、赤い津波の中に飲み込まれていったのである。
◇
《同時刻 帝都ベルン 帝国最高統帥府・御前会議室》
豪奢なシャンデリアが照らし出す大理石の会議室は、今まさに怒号とパニックの坩堝と化していた。
「どういうことだゼートゥーアとルーデルドルフ!! ヴァルシャワの第一陣、第二陣が突破されただと!? このままでは赤軍が帝国の領土へ雪崩れ込んでくるぞ!!」
「大攻勢をかけると豪語していたではないか! なぜ有効な反撃を行わんのだ!!」
軍の真の作戦を知らされていない内閣の閣僚たちや、一部の高級将官たちが、顔を真っ赤にしてテーブルを叩き、中央に座る二人の男――ゼートゥーア大将とルーデルドルフ大将を激しく糾弾していた。
しかし、糾弾されている二人は、周囲の喧騒など全く存在しないかのように、ゆったりとソファに深く腰掛け、最高級の葉巻の香りを楽しみながら静かに聞き流していた。
「答えんか、ゼートゥーア大将!! 予備兵力はどうした!!」
「軍機のため、お教えできません」
ゼートゥーアが極めて平坦な声でそう答えるたびに、閣僚たちの血圧は危険な領域まで跳ね上がっていった。
会議室の上座。豪奢な玉座に腰掛けている、帝国皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルト・ヴィクトール・アルベルト・フォン・プロシア(通称ヴィルヘルト二世)。
彼は、荒れ狂う閣僚たちと、泰然自若とする両大将の姿を、一切の感情を交えることなく、ただ静かに見下ろしていた。
また、普段であればこのような事態であれば、率先して唾を飛ばし、犬のように騒ぎ立てて批判するはずの宣伝相、アドルフ・ペルツルも、なぜか今日は腕を組んだまま、極めて不満そうな顔で押し黙っていた。
彼は事前に、ローゼフシルトから『少しだけ黙って見ていてくれ。後で、世界中をひれ伏させるほどの最高のプロパガンダ材料をプレゼントしよう』と、確約(裏工作)を受けていたからである。
会議とも言えない狂乱の舞踏会が始まり、一時間が経過した頃。
会議室の重厚な扉が慌ただしく開かれ、血相を変えた伝令将校が転がり込んできた。
「ほ、報告します!! ヴァルシャワ防衛軍、撤退を開始!! 東部の要衝、ヴァルシャワが……赤軍の手に落ちました!!」
その報告は、会議室に火薬庫の爆発のような完全なる沸騰をもたらした。
「ヴァルシャワが陥落しただとぉっ!?」
「おのれ! 貴様ら、帝国を滅ぼす気か!!」
「大逆罪だ! 全員首を括れ!!」
怒号と罵声が飛び交い、閣僚たちがゼートゥーアとルーデルドルフに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
だが、二人は全く動じなかった。ルーデルドルフは葉巻の灰をゆっくりと落とし、ゼートゥーアは懐中時計を取り出して時間を確認すると、静かに立ち上がった。
「……時間だな」
「うむ。ちょうどいい頃合いだ」
二人は軍帽を被り直すと、怒り狂う閣僚たちを一瞥し、極めて事務的な口調で言い放った。
「皆さんお分かりのように、現在、東部戦線はこのような切迫した情勢であります。ゆえに、我々参謀本部は極めて『忙しい』のです。……では、これにて失礼します」
「待て! 逃げる気か!!」
「陛下! あの無能どもを直ちに罷免してください!!」
立ち去ろうとする二人の背中へ向けて、なおも糾弾の声を張り上げる閣僚たち。
その醜い喧騒を。
「――静かにせよ」
上座に座るヴィルヘルト二世の、低く、しかし絶対的な威厳を持った一言が、完全に沈黙させた。
会議室の空気が凍りつく。
皇帝は、不満げに腕を組んでいるペルツルを一瞥した後、ドアに向かって歩き出していたゼートゥーアとルーデルドルフの背中へ向けて、静かに問いかけた。
「……帝国軍は。余の軍隊は、勝てるのだな?」
その問いに、ゼートゥーアは足を止め、振り返ることなく、しかし絶対の確信に満ちた声で答えた。
「ええ、陛下。……最後に立っているのは、我が軍です」
軍靴の足音が、会議室から遠ざかっていく。
連邦軍の八〇万の極東精鋭と二〇〇〇両の戦車をヴァルシャワという名の祭壇に誘い込み、完全に釘付けにした帝国軍。
参謀本部の三人が描き出した、人類史上最大規模の反攻作戦バルバロッサの巨大な罠が、今まさに、その恐るべき顎を閉じようとしていた。