《統一暦1926年6月中旬》
この時、ルーシー連邦軍は東部戦線において圧倒的に優勢であった。
「帝国軍の攻勢予定時刻の二時間前」という絶妙なタイミングで開始された破砕攻撃は、連邦の指導部すら予想しなかったほどの凄まじい大戦果を挙げていた。
帝国の防衛線は次々と食い破られ、東部戦線の要衝ヴァルシャワはあっけなく陥落した。極東から急派された八〇万の精鋭と二〇〇〇両の戦車群は、撤退していく帝国軍の背中を追うように西へ西へと快進撃を続け、連邦の赤い旗は帝国の領土を次々と飲み込んでいった。
「偉大なる赤軍万歳!」
「帝国の反動主義者どもは、我々の恐るべき力の前に尻尾を巻いて逃げ出しているぞ!」
前線から次々と届けられる連戦連勝の報告に、モスコーのスタフカに居並ぶ将官たちは歓喜の声を上げ、勝利の美酒に酔いしれていた。彼らは完全に確信していた。「我々は勝ったのだ」と。
だが、ただ一人。
地図を睨みつけるジェーコブ元帥の顔には、歓喜の色は微塵もなく、代わりに滝のような冷や汗が流れていた。
(勝っている。あまりにも勝ち過ぎている。……出来過ぎなほどに)
ジェーコブの研ぎ澄まされた戦術的直感が、警鐘をガンガンと鳴らし続けていた。
おかしい。いくら奇襲が成功したとはいえ、あの第一次ヴァルシャワの戦いで悪鬼のような縦深防衛を見せた帝国軍が、これほど脆く、無秩序に崩壊するはずがない。
前線からの報告を詳細に分析すればするほど、不自然な点ばかりが浮き彫りになる。撃破したはずの帝国軍の戦車の残骸が少なすぎる。捕虜の数が合わない。
まるで、帝国軍は「敗走」しているのではなく、連邦軍を意図的に特定のポケットへと『誘い込んでいる(後退している)』ようにしか見えなかったのだ。
「……罠だ。連邦軍の主力は今、巨大なギロチンの下に自ら首を突っ込んでいる」
ジェーコブは青ざめた顔で立ち上がった。
突出した戦線の根元、すべての補給と指揮を統括する要衝サロニム*1に設置されている西部方面軍の前線司令部に、直ちに全軍の進撃停止と後退の命令を出さなければならない。
「通信手! 今すぐサロニムの司令部に繋げ! 第一級の緊急暗号通信だ!!」
ジェーコブのただならぬ剣幕に、通信将校は慌てて無線機と有線電話のダイヤルを回した。
しかし、数分後。通信将校は幽鬼のような顔でジェーコブを振り返った。
「げ、同志元帥……サロニム司令部との通信が、全く繋がりません」
「なんだと!? 混線か? それとも電波状況が悪いのか!」
「いえ……無線の応答がないだけでなく、有線電話の回線も完全に切断されています。サロニムは……沈黙しています!」
その報告を聞いた瞬間、ジェーコブは力なく椅子に崩れ落ちた。
連邦の心臓は、すでに冷酷なる刃によって深く抉り取られていたのだ。
◇
少し時間は戻る。
《サロニム郊外の針葉樹林》
その森は、底知れぬ静寂に包まれていた。
空を覆う分厚い雲が月明かりを遮る漆黒の闇の中、完全武装の兵士たちが、微動だにせず伏せている。
帝国軍第二〇三航空魔導大隊。
大隊長であるターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、泥と松葉にまみれながら、双眼鏡で数キロ先のサロニム市街地に設置された連邦軍前線司令部の明かりを睨みつけていた。
大隊の全員が、参謀本部からの『作戦開始』の合図を待っている。
(くそ、参謀本部め……またしても我々に、こんな貧乏くじを引かせおって)
ターニャは心の中で、自分たちをこの敵陣のド真ん中へ送り込んだ張本人である参謀本部とローゼフシルト准将に、盛大な悪態をついた。
泥の冷たさが軍服を通して肌を刺す中、彼女の意識は数週間前の帝都への帰還の旅へと遡っていった。
――第一次ヴァルシャワの戦いでの過酷な遅滞防御戦が終わり、大隊は再編と休養のために帝都ベルンへと向かう特別列車に乗っていた。
帝都まで残り二駅というあたりで、ターニャの乗る車両に、別の車両から一人の女尉官がツカツカと歩いてきた。
くすんだ赤っぽい金髪に、目尻が鋭い茶色い瞳をした、どこか気怠げな雰囲気の女尉官である。彼女は周囲の隊員たちがトランプに興じているのを確認すると、ターニャの隣に座り、無言で書類の入った手紙用の小さな封筒を差し出した。
「……これは?」
ターニャが小声で尋ねると、女尉官はターニャの耳元に顔を寄せた。
「ローゼフシルト准将閣下からです。誰も人目のない所で目を通すように、とのことです」
それだけを言い残すと、女尉官はさっさと立ち上がり、元来た車両へと戻っていった。
その日の夜。帝都の宿舎の自室で封筒を開封すると、中には最高級の便箋が一枚入っていた。
『話がある。明日の十四時に、私の屋敷まで来てほしい。――ローゼフシルト』
ご丁寧に、屋敷までの地図が記された案内状まで同封されている。
(やれやれ、せっかくの休日に上官からのお呼び出しか。家族経営の会社の社長並みに人使いが荒いことだ)
翌日、ターニャは貴重な休日を一日潰して、案内通りに帝都の高級住宅街にあるローゼフシルトの屋敷へと足を運んだ。
帝国最大の財閥総帥の居城。さぞや金ピカの成金趣味な洋館が出てくるかと思いきや、そこにあったのは驚くほど趣味の良い、歴史と威厳を感じさせる屋敷であった。
重厚な黒御影石と赤レンガで構成されたプロシアの伝統的なネオクラシカル様式の建築であり、広大な敷地を持ちながらも、華美な装飾は抑えられ、奥ゆかしい壮大さが漂っている。
門の前に立つ武装した私兵に名前を告げようとしたが、彼らはターニャの顔を見るなり、何も言わずに恭しく敬礼して重厚な鉄門を開いた。完全な顔パスである。
屋敷の中へ通されると、エントランスの吹き抜けのホールで、一人の婦人が出迎えてくれた。
上等なドレスに身を包んだ、おっとりとした雰囲気の美人である。くすんだ赤っぽい金髪と、優しげな垂れ目の茶色い瞳。先日列車で封筒を渡してきた女尉官に、顔の作りが随分と似ていた。
そして何より、ターニャの視線の高さの目の前には、コルセットで持ち上げられた途轍もなく豊満な『胸部装甲』がそびえ立っていた。
婦人はターニャを見ると少し驚いたようなしぐさをした後、直ぐに微笑んで言った。
「お待ちしておりました、デグレチャフ少佐。主人の執務室へご案内いたしますわ」
おっとりとした声で微笑む婦人――ローゼフシルト婦人の案内に従い、ターニャはふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩く。
屋敷の最奥。分厚いオーク材の扉の前に立つと、婦人はクスリと笑ってターニャにウインクをした。
「『あの部屋には軍機が詰まっているから』と、夫は妻である私も入れてくれないんですよ。少佐は入れてもらえるなんて……少し嫉妬してしまいますわ」
「はあ……恐縮です」
ターニャが曖昧に頷くと、扉が内側から開いた。
「入ってくれたまえ、少佐」
ローゼフシルトの執務室は、財閥総帥の部屋というよりは、狂気的な学者の研究室のようであった。
床には丸められた地図が転がり、マホガニーのデスクの上には、ターニャには見慣れた言語(日本語や英語)で書かれたメモ書きや、今の時代にはそぐわない兵器のスケッチが無造作に散乱している。正直、客を招き入れるような部屋ではない。
「散らかっていてすまないね。ここには、妻や使用人であっても『見られては困る知識』が多すぎて、掃除も自分でやっているものでね」
前世の知識を無防備に書き殴っていることを隠そうともしないローゼフシルトに、ターニャは内心でため息をついた。
「お気になさらず。ところで、先ほど案内してくださった奥方ですが……昨日列車で封筒を渡してきた方と、随分と似ておられましたね」
「ああ、あれは妻の妹でね。軍に親族がいるとなにぶん都合がいいからよく雑用をやってもらっているのさ。……それにしても、見たか? あの見事な胸部装甲を。アハトアハトの直撃すら弾き返すぞ」
ローゼフシルトがニヤリと下世話な笑みを浮かべてジョークを飛ばす。
「はあ……」
ターニャは、絶対零度の冷ややかな瞳でローゼフシルトを見つめ返した。中身はおっさん同士とはいえ、外見は40代の紳士と十一歳の幼女である。
「……まずったな。鉄板ネタ何だが……貴官の前では、ただのセクハラになってしまうか」
ゼートゥーア閣下も笑ってくれたのだが……、という小さな言葉をターニャは聞かなかったことにした。
ローゼフシルトは咳払いをし、散らかった机の上の地図をバサリと広げ、真剣な顔つきに切り替わった。
「本題に入ろう。――近日中に、連邦軍の大規模な攻勢がヴァルシャワ方面へと仕掛けられる」
「! なぜ、防衛ではなく攻勢を? 先日の戦いであれほどの損害を負ったのにもかかわらず!?」
「そうだな。我が軍は連邦に対する反攻作戦を立案している。だからこそ、連邦は我々の出鼻をくじくために破砕攻撃を仕掛けてくる。……私は、それをわざと受け入れ、前線を崩壊させて敵の主力をヴァルシャワの西へと誘い込む」
ターニャは息を呑んだ。
味方の防衛軍を囮にして、敵を袋地へ引きずり込む。文字通りの巨大な罠。
「そして、敵が十分に突出したタイミングで、北のティゲンホーフと南のフラフクから我が軍の主力を前進させ、数百万の赤軍を背後から挟み込む。人類史上最大規模の、二重包囲網の完成だ」
ローゼフシルトは、地図上のサロニムという都市をペンで強く叩いた。
「だが、この包囲を完璧なものにするためには、敵が罠に気づき、後退の決断を下す頭脳を粉砕する必要がある。貴官ら第二〇三航空魔導大隊への密命だ。連邦の攻勢が限界点に達した瞬間、サロニムに設置されている敵の前線司令部を急襲し、指揮系統と通信網を完全に物理的に切断しろ」
見事な斬首作戦。だが、ターニャには懸念があった。
「准将閣下。モスコー襲撃時はともかく、現在では連邦も対魔導の備えを構築しているはずです。司令部ほどの重要拠点に魔導戦力が配備されていれば、我々大隊単独での急襲は厳しいと思うのですが」
ターニャの極めて真っ当な指摘に、ローゼフシルトは鼻で笑った。
「その事については問題ない。貴官も知っての通り、連邦は革命の際、魔導関連の技術者や軍人を全てシルドべリア送りにして破壊した。そして今、慌ててそれを取り戻そうと、同盟国であるアルビオン連合王国に泣きついている最中だ」
「レンドリースですか」
「そうだ。だが、連合王国は自国分の防空戦力の整備だけで手一杯で、連邦まで手が回っていない。多少の旧式宝珠や教官が回されているようだが、情報によれば、それは全てモスコーやレネングラードの防空任務に張り付けられている。……つまり、サロニムを含む前線の空は、魔導士の完全なる『空白地帯』だ」
「……」
ターニャは、呆れ果てて肩を竦めた。自国の首を絞める粛清と、場当たり的な兵器の配分。
「まあ、コミーのことですからな。平常運転ですな」
「そういうことだ。頼んだぞ、少佐」
――回想から意識を引き戻すと、ターニャの首元にかけられた宝珠が、淡い光を明滅させた。
参謀本部からの暗号信号。真の主力の進撃開始を告げる号砲であった。
「……来たな」
ターニャは泥を払い、立ち上がった。
周囲の森から、泥だらけの迷彩服に身を包んだ第二〇三航空魔導大隊の精鋭たちが、次々と無言で立ち上がる。
「さて、諸君。参謀本部より、パーティーの招待状が届いた」
ターニャは、ゴーグルを取り付け、獰猛な笑みを浮かべた。
「我々に与えられたお仕事は、調子に乗って他人の家に土足で上がり込んできた赤い虫どもの『脳天』に、風穴を開けることだ。……目標、サロニム連邦軍前線司令部! 総員、飛翔!!」
「「「ヤー!!」」」
森の静寂が、四十八名の魔導士たちが放つ魔力の爆発音によって引き裂かれた。
木々の梢を蹴り飛ばし、大隊は漆黒の夜空へと一斉に舞い上がる。
数キロ先のサロニム市街。
豪華な建物を接収した連邦軍の前線司令部では、将校たちが次々と届く前線の勝利報告に湧き上がり、ウォッカのグラスを打ち鳴らしていた。
「素晴らしい! このままいけば、帝都陥落も夢ではないぞ!」
「同志書記長もさぞお喜びだろう!」
彼らは、頭上の空から死神が舞い降りてきていることに、全く気づいていなかった。レーダーもない、対魔導の警戒網もない。
上空僅か300メートル。
ターニャは、忌々しいもう一つの演算宝珠を起動し、司令部の屋上にそびえ立つ巨大な通信鉄塔へ向けて、右手をかざした。
「第二〇三航空魔導大隊、これよりお仕事の時間だ!」
大隊全員による、一斉の飽和攻撃。
空襲警報のサイレンが鳴り響くよりも早く、夜空から文字通りの『光の雨』が司令部へと降り注いだ。
ズガァァァァァァァァァァンッッ!!!!
上空からの爆裂術式が、建物の屋根を軽々とぶち破る。
物理的な防空網すら展開されていない無防備な司令部は、魔導士の火力の前に紙屑も同然であった。
「な、なんだ!? 何が起きた!!」
「空襲!? 敵機はどこだ!! ぎゃあああっ!!」
巨大な通信鉄塔が、術式の熱線によって飴のように溶断され、崩れ落ちる。
司令部の建物内にいた将校たちは、何が起きたのかすら理解できないまま、爆発の超高温と爆風に巻き込まれ、建物ごと蒸発し、吹き飛ばされていった。
「対空砲を撃て! 敵は空だ!!」
警備の兵士たちが叫ぶが、ターニャたちは対空砲の射角が届く前に急降下し、建物の周囲に配備されていた対空陣地を術式で的確に沈黙させていく。
「抵抗する者は全て挽肉にしろ! 施設は通信機一つ、書類一枚残すな! 全て灰燼に帰せ!!」
ターニャの無慈悲な命令が飛ぶ中、サロニムの連邦軍司令部は、ものの数分で木っ端微塵に消し飛んだ。
炎に包まれた残骸と、指揮官たちの肉片だけが残された。
これにて、ヴァルシャワ方面へ突出していた数百万の連邦軍は、完全に「頭脳」と「目」を失った。
指揮系統は完全に崩壊し、後退の命令を下す者も、前線の状況を把握する者もいなくなったのだ。
「任務完了。……さあ、赤い虫どもよ。ギロチンの刃が落ちる時間だ」
炎上するサロニムの街を見下ろしながら、ターニャは冷酷に呟いた。
バルバロッサの巨大な二重包囲網は、今、完全に逃げ場を失った連邦軍の首を、両側から容赦なく噛み砕こうとしていた。