《中央暦1923年9月中旬 フランソワ共和国大陸軍総司令部》
ライン川を越え、帝国のジークフリート線を突破してから約1ヶ月。
開戦当初、共和国全土を包み込んだ熱狂的な勝鬨は霧のように消え去り、総司令部の作戦室には重苦しい沈黙と、連日炊き出される薄いスープの臭気だけが淀んでいた。
「また停止だと……? ワロンとザールラントを押さえ、ライン工業地帯の鼻先まで踏み込みながら、なぜ足が止まる!?」
巨漢の総司令官、ジョフゼ・ジョフルル元帥が太い拳で作戦線を指し示し、卓上の大きな地図を激しく叩いた。
開戦と同時に打って出た電撃的な侵攻作戦は完璧なはずだった。帝国が動員令の発令を日和り、北方の協商連合との局地戦に目移りして西方国境をガラ空きにした、千載一遇の隙を突いたのだ。破竹の勢いで縦深を奪い取ったところまでは、歴史に刻まれるべき鮮やかな勝利であった。
しかし、ここ一週間、前線の推進軸はぴたりと凍りついている。
「総司令官、帝国軍の抵抗が日増しに苛烈を極めております……!」
顔色を蒼白にした作戦参謀が、最新の損害報告書を震える手で差し出した。
「混乱を極めていたはずの帝国の指揮系統ですが、西方国境において急速に組織的な防衛体制が構築されつつあります。兵力の再配置と後方からの予備兵力の到着が確認され、我が軍は再構築された防衛線と正面からぶつかり。各方面で被害が甚大化しております」
「馬鹿な! 敵の補給は北方に偏っていたはずだ! 我が方の電撃的侵攻に対し、後方からの補給が追いつくはずがない!」
「それが……帝国の戦時物流は、我々の予測を超越しています。各工廠からの即応能力、ならびに鉄道網の復旧および輸送システムの再建、共々異常なまでに迅速なのです。さらに――」
参謀は一瞬言葉を詰まらせ、恐る恐る言葉を継いだ。
「……空です。前線の制空権が、完全に逆転されつつあります」
ジョフルルの太い眉が、怒りで跳ね上がった。
「制空権だと!? 戯言を抜かすな! 開戦初日、航空魔導部隊と爆撃隊は、国境付近どころか我が方の爆撃機が届く限りの前線・中層飛行場をことごとく叩きのめしたはずだ! あの壊滅的打撃から、滑走路の復旧など未だに終わっているはずがない!」
「はい、確かに我が方が把握していた敵の前線飛行場群は、今なおまともに機能しておりません。……ですが、敵機は飛んで来ているのです」
「どこからだ! 陸に滑走路がないなら、空から生えてでも来たというのか!?」
「遥か遠くから……であります、閣下」
参謀は地図のさらに東、帝国深部、さらにはエスターライヒ*1や帝国領ダキア*2の境界付近にまで及ぶ広大な領域を指し示した。
「帝国の航空機は、我々の常識を遥かに超える驚異的な航続距離を有しております。我が方の航空機は、前線基地からピストン輸送で地上支援を行うもの。しかし敵の新型戦闘機は、我々の爆撃圏外であるはるか東方の後方基地から直接飛来し、そのまま我が軍の上空で長い滞空時間を保って戦闘を行っているのです」
ジョフルルは絶句した。
航空機の航続距離が遥かに長いということは、単に遠くから飛べるというだけの話ではない。
東方や南方の後方基地に分散配置された航空戦力を、前線飛行場の容量や滑走路の破壊状況に左右されることなく、たった一つの重要空域へと同時に「集中投入」できることを意味する。
航続距離の絶対的な差が、前線における局地的な圧倒を生み出していたのだ。
「……待て」
ジョフルルは頭を振った。
「仮に航続距離が伸びたところで、開戦初日に地上破壊した数百機に及ぶ帝国の機体はどうなった? 航空機の生産力など、そう簡単に湧いて出るものではない! 破壊された戦力が数週間で元通りになるはずがないのだ!」
「それについても……調査が進んでおります」
参謀の表情は絶望に満ちていた。
「帝国は開戦と同時に、全土の軍事工廠を24時間体制の全力稼働へと移行させました。しかしそれ以上に恐ろしいのは……帝国の巨大な民間自動車産業の動員です」
「自動車産業だと……?」
「はい。帝国傘下の巨大な自動車メーカー各社が一斉に軍事動員され、標準化された航空機用部品の大量生産を開始しました。高度に規格化されたパーツが高速鉄道とコンテナ網で全土の組立工場へ流れ込み、恐ろしい速度で代替機が前線へ送り出されています」
ジョフルル元帥は太い指で机の端を固く握りしめた。
帝国という巨大な国家の底力が、まともに総動員体制にすら移行していないというのに、不気味な歯車となって回転し始めているのを皮膚感覚で理解したからだ。
◇
《中央暦1919年 帝都ベルン郊外 ライヒスフーク航空技術研究所》
「正気ですか、ローゼフシルト中佐!?」
軍服の襟を緩めた若き技術者、クラート・タンケル博士は、目の前のデスクに広げられた要求仕様書を叩きつけるようにして叫んだ。
部屋の窓の外では、まだ複葉機や頼りない単葉機がパタパタと空を飛んでいる時代である。その静寂な研究所の応接室で、ローゼフシルトは最高級の葉巻をくゆらせながら、冷徹な碧眼で若い技師を見下ろしていた。
「私は常に正気だよ、タンケル博士。……何か不満でも?」
「不満どころの話ではありません! この要求スペックは物理的法則への挑戦です!」
タンケル博士は汗を拭いながら、仕様書の一行を指さした。
「我が社が提案している新型単葉戦闘機Fw190の基本設計は確かに自信作です。ですが……この航続距離の項目は何です!? 増槽タンケル込みで1,500キロメートルという我々の設計案すら、同僚からは大風呂敷を広げるなと笑われているのですよ!?」
ローゼフシルトはフッと口角を上げた。
「そんなに2500という数字が気に入らないのかね」
「そうですよ!!」
タンケル博士は飄々とした様子のローゼフシルトに向かってたまらず叫んだ。
「2,500!? 大佐、正気ですか!? 2,500キロといえば、帝都ベルンから飛び立ってロンディウムまで行って帰って来てもまだパリースィに行ける距離ですよ!? 戦闘機にそんな航続距離を持たせてどうするのです! 翼を全部燃料タンクにするおつもりですか! 重すぎて飛び立ちすらまともに行えません!」
「飛ばすのだよ、タンケル博士。どんな過酷な条件であってもな」
ローゼフシルトは立ち上がり、巨大な欧州地図の前へと歩み寄った。
「将来の総力戦において、前線の飛行場など開戦第一波の爆撃で真っ先に叩き潰される。前線基地に依存する航空戦力など無価値だ。我々に必要なのは、敵の爆撃圏外であるはるか後方、あるいはエスターライヒや帝国領ダキアの広大な安全地帯から直接飛び立ち、前線上空で延々と圧倒的な滞空時間を保って敵を撃滅できる鋼鉄の猛禽だ。航続距離は長ければ長いほど良い」
(連邦侵攻の際にはそれくらいなければ困る)
ローゼフシルトの隠れた言葉が後ろに続いた。
「ですが……そのためにはどれほどの馬力と燃料積載量が……!」
「エンジンなら用意する」
ローゼフシルトは淡々と言い放った。
そもそも、帝国の航空戦力が陸軍航空隊から独立空軍へと昇格し、国家予算の巨大なパイを割り当てられるようになった背景には、ローゼフシルトという男の陰の暗躍が存在していた。
数年前、保守的な陸軍守旧派や馬好きの貴族が「飛行機など騎兵の偵察の補助に過ぎん」「無駄飯喰らいの空飛ぶ玩具」と猛反発していた際、ローゼフシルトは莫大な財閥資金と政界・議会への過激な工作を多方面で展開した。
反対派議員たちのスキャンダルを握って黙らせ、新進気鋭の航空派議員たちへ潤沢な献金を送り、さらには空軍創設による産業波及効果を説いて議会を完全掌握。半ば力づくで空軍創設法案を通過させたのである。
帝国空軍の将兵や最高幹部たちにとって、ローゼフシルトは単なる一人の軍人ではなく、自分たちという組織を生み出し、莫大な予算をもぎ取ってくれた絶対的な恩人であった。彼が空軍の将来のためにこのエンジンと機体が必要だ。と言えば、空軍省の幹部たちは誰も頭が上がらず、二つ返事で予算と開発ラインを全開にしたのである。
「第一次4カ年計画を覚えているな? あの時、エスターライヒのシュヴァルツ製鉄と帝国領ダキアの精密機械プラントを統合し、低地工業地域の頑固な職人を札束でぶっ叩いて融合させた新型エンジンの初期ラインが完成しつつある。これにダイレクト・インジェクションと高高度用2段スーパーチャージャーを組み込む」
「な……直接噴射装置と2段チャージャー!?ていうかいつ2段スーパーチャージャーが帝国で実用化されたんです!?」
「2年前」
「2年前!?」
「ああ、とりあえず金と人を突っ込んで混ぜてたらできた」
タンケル博士の目が技術者としての驚愕で丸くなった。
「そうだな。粗悪な燃料であっても効率よくノッキングを防ぎ、2,000馬力オーバーの怪力を叩き出す。さらにだ、タンケル博士。機体構造には皇国と一緒に開発してる軽量高強度の特殊ジュラルミン合金を全面採用する。さらに主翼構造を中空の完全密閉式一体構造とし、主翼内部そのものを巨大なインテグラル・タンクとして使用するのだ」
「主翼内部を、すべて燃料庫に……!? それでは敵の機銃掃射を一発受けただけで爆発炎上します!」
「だからこそ、主翼下面とセルフシーリングゴム層の技術を完璧に仕上げろと言っているのだ。資金も、資材も、必要な人材も、空軍省とうちの財閥から無限に出してやる」
ローゼフシルトはタンケル博士の肩をポンと強く叩いた。その手は温かい励ましなどではなく、逃げ場を塞ぐ鉄の鎖のように重かった。
「クラート・タンケル博士。君は天才だ。だからこそ、これを形にできる。……2,500キロだ。一メートルたりとも妥協は許さんぞ」
絶望に打ちひしがれながらも、技術者としての血を滾らせたタンケル博士は、そこから不眠不休の地獄へと足を踏み入れることとなったのだった。
◇
《中央暦1923年9月中旬 ライン国境上空》
「敵機多数! 10時方向、雲の上から突っ込んでくるぞ! 旋回して回避せよ!」
フランソワ共和国空軍の精鋭、第3戦闘飛行隊の隊長が雑音の激しい無線機に向かって怒鳴り散らした。
彼らが駆るデヴォアティヌ D.520は、共和国が誇る最新鋭の単葉戦闘機だ。軽快な運動性と優れた上昇力により、開戦以来、帝国の複葉機や初期型単葉機を一方的に狩り取ってきた。
しかし、この日雲を破って舞い降りてきたのは、彼らが知る帝国の航空機とは根底から異なる化け物であった。
ドス黒いカウリングを突き出し、太い丸太のような力強い胴体を持つ不気味な単葉機群。
エンジン音すら違っていた。低音の地鳴りのような重低音を響かせ、信じがたい高速で直進してくる。
「かかったな! 旋回性能ならD.520が上だ!」
フランソワ機が即座に急旋回を打ち、敵機の背後を取ろうと操縦桿を限界まで引き絞る。
史実の空戦であれば、機体が旋回戦に入った瞬間に勝負は決まるはずだった。だが――
「なに……!? 引き離せないだと!?」
帝国の機体――フォッケウルフ Fw190は、急旋回など端から相手にしなかった。
圧倒的な馬力に任せて垂直に近く大空へ駆け上がり、圧倒的な速度エネルギーを保ったまま高度を取ると、反転して再び上空から襲いかかってきたのだ。
ズバババババッ!!
翼基部から放たれた4門の20mm機関砲の重厚な掃射が、フランソワ機を一瞬で粉砕した。火を噴き、主翼を吹き飛ばされたD.520が、空中分解しながらライン川の濁流へと落ちていく。
「バカな……! 敵機はどこから飛んできた!? この付近の帝国軍飛行場は爆撃隊が完全に破砕したはずだぞ!」
「わからない! 敵は戦闘開始からもう1時間以上もこの上空に居座り続けている! 燃料が切れる様子すらない!」
恐怖がフランソワ軍のパイロットたちを浸食していった。
撃ち落としても、避けても、上空には常にあの太い鼻先の鋼鉄の猛禽が目を光らせている。機体の性能差もさることながら、敵の異常な滞空時間が、共和国側の精神を削り取っていった。
――数日後、フランソワ共和国大陸軍総司令部。
「……総司令官、これが我々の情報部が撃墜機の残骸および捕獲された敵パイロットの尋問から弾き出した、帝国の最新鋭機フォッケウルフ Fw190 A-8/Nの推定性能諸元表であります」
参謀が青ざめた顔で一枚の書類を提出した。ジョフルル元帥はその紙を受け取り、眼光を走らせた。
【帝国軍最新鋭単座戦闘機:フォッケウルフ Fw190 A-8/N 性能諸元表】
項目
全幅 / 全長 10.51 m / 9.00 m
正規全備重量 4,400 kg(過荷重時:4,900 kg)
発動機 BMW 801D-2 統合空冷複列星型14気筒(MW50水メタノール噴射装置および高圧直接燃料噴射装置装備)
離昇最高出力 2,050 馬力(緊急出力時:2,250 馬力)
最高速度 685 km/h(高度6,600 m)/ 650 km/h(海面高度)
航続距離 1,550 km(社内標準燃料のみ)
2,680 km(翼下300L増槽×2、胴体下450L増槽×1装着時)
実用上昇限度 11,400 m
固定武装 20mm MG151/20 機関砲 × 4門(翼基部および主翼内)
13mm MG131 重機関銃 × 2門(機首上部)
特筆すべき構造的特徴
・全金属製モノコック構造とインテグラル・タンク:主翼構造自体を精密防漏ゴムで内張りした燃料タンク。異常に多い燃料積載量があると思われる。
・統合空冷エンジンパッケージ:冷却ファンをエンジン前部に直結させた独自のカウリング構造により、空冷特有の空気抵抗を極限まで削減されている。
・電動集中制御システム:動翼および脚の出し入れをすべて電動化。油圧漏れによる戦死を防止し、極めて堅牢と思われる。
ジョフルル元帥は、その数値を指でなぞりながら、冷や汗が顎を伝って落ちるのを感じた。
「航続距離……二千六百キロメートル超……。バカな、戦闘機の数値ではないぞ、これは爆撃機の数値だ……! 速度も我が国の最新鋭機を100キロ以上引き離している……!」
「はい。さらに恐ろしいのは、帝国の産業構造です」
参謀が震える声で補足する。
「帝国は1913年の世界恐慌の際、公共事業名目で自動車産業を急激に育成しました。数々の巨大自動車メーカーが、今や軍事工廠の傘下で、このフォッケウルフのパーツを自動車と同じ規格化ラインで大量生産しています。低地地域で精錬されたアルミが、エスターライヒのエンジン工場へ送られ、帝国領ダキアの組立工場で完成機となり、コンテナ輸送で前線へ届く……。彼らは帝国全土に散らばる工場群を完全に一つの工場として機能させているのです」
「……だから、撃ち落しても撃ち落としても、空から敵が尽きないのか」
ジョフルルは深く溜め息をついた。
しかしこの時、フランソワ共和国総司令部は重大な誤認に陥っていた。
実際のところ、帝国の航空戦力は実数において、未だ壊滅的打撃から完璧に回復していたわけではなかったのだ。
開戦初日に地上で撃破された機体数は膨大であり、自動車産業の動員と全土の軍事工廠が全力稼働を始めたとはいえ、前線に届いている新造機の絶対数は、共和国側の見積もりの半分にも満たなかった。
では、なぜ共和国軍は「帝国軍の航空戦力が完全に回復し、圧倒的な数が押し寄せてきている」と錯覚したのか?
それこそが、ローゼフシルトがかつて過酷な工作を経て空軍へ導入せしめ、タンケル博士に無理難題を突きつけて作らせた2,600キロメートルという欧州に似つかわしくない航続距離がもたらした最大の心理的・戦術的トリックであった。
一般的な戦闘機であれば、基地から離陸して前線に滞在できる時間はわずか20分から30分程度である。そのため、次々と交代の機体を飛び立たせなければ空域を維持できず、広大な前線をカバーするには圧倒的な「機体数」が必要となる。
しかし、2,600キロを超える航続距離を持つフォッケウルフ Fw190は、前線の上空に「数時間」にわたって居座り続けることができた。
さらに、遥か後方のたった一つの基地から飛び立った数個中隊が、前線の北から南まで、共和国軍が集中攻撃を仕掛けてくる空域へ自在に移動し、ピンポイントで「局地的な圧倒的多数」を作り出すことが可能だったのだ。
共和国軍パイロットから見れば、どこへ進撃しても、常に上空には頑丈で高速な帝国のFw190が待ち構えているように見えた。
ワロンでも、ザールラントでも、ライン川沿いでも、空を見上げればあの不気味な太い鼻先の猛禽が旋回している。
(バカな……帝国は一体何千機の新型機を揃えているのだ!? 我が軍は完全に空で包囲されている!)
前線の共和国兵士やパイロットたちが抱いたその恐怖と絶望の報告が、総司令部へ次々と上がってくる。
その結果、ジョフルル元帥をはじめとする大陸軍幹部は、「帝国の航空戦力はすでに完全に回復し、我が軍は圧倒的劣勢に転じた」と完全に誤認してしまったのである。
実際には、帝国軍のパイロットたちはショカコーラ片手に超長距離飛行と長い滞空時間による酷い疲労と戦いながら、少数で前線の空を駆け回り、必死に「圧倒的多数」の虚像を演じるパフォーマンスをさせられていたに過ぎないのだが。
「総司令官……作戦指示を」
参謀の声が、重苦しく作戦室に響く。
ジョフルル元帥は、地図の上に置かれた自軍のコマを見つめた。
ワロンとザールラントを占領し、ライン工業地帯の目前まで迫った我が軍。しかし、伸び切った補給線と、上空を覆いつくす「偽りの敵大空軍」の威圧感により、前線部隊の指揮官たちは完全に戦意を喪失し、身動きが取れなくなっていた。
「……全軍に進撃停止命令を打電せよ」
ジョフルルは、苦渋に満ちた声で絞り出した。
「各地区の進撃をただちに停止。占領地域において速やかに防衛陣地を構築させろ。……敵の航空戦力がこれほどまでに膨大かつ迅速に展開されている以上、これ以上の無謀な突出は、我が方の機械化部隊を空からの餌食にするだけだ」
「はっ……! ただちに進撃停止命令を発令します!」
参謀たちが慌ただしく電信室へと走っていく。
ジョフルル元帥は深々と椅子に背を預け、手元のフォッケウルフの性能表を握りつぶした。
ワロンとザールラントを切り取った快挙は、いまや大陸軍を過剰に伸び切った前線へと引きずり出し、泥沼の防衛戦へと固定化させる「底なしの沼」へと変貌していた。
「……一体、誰がこんな化け物のような航空機を、こんな戦術を仕組んだというのだ……」
ジョフルルの呟きは、誰に届くこともなく、作戦室の冷たい空気に溶けて消えた。
◇
《中央暦1923年10月上旬 ライン国境・前線陣地》
降りしきる冷たい雨の中、共和国の兵士たちは、泥まみれになりながらスコップでと土を掘り返していた。
「おい、冗談だろ……? ワロンを抜けた時は『来週にはベルンでビールが飲める』って言ってたじゃないか」
若い兵士が、濡れた軍服を震わせながら不満を漏らす。
「黙って掘れ」
老練な伍長が、冷めた煙草を咥えながら作業を続けた。
「空を見ろ。あの不気味なツラした帝国の戦闘機がまた旋回していやがる。俺たちが頭を出した瞬間に、20ミリの雨を降らせてくるぞ。進撃は終わりだ。ここから先は……泥の底で互いの首を絞め殺し合う時間だ」
見上げる空の向こう、雨雲の合間を抜けて、数機のFw190が低く重い排気音を響かせて通り過ぎていく。
参謀本部を掌握したゼートゥーアとルーデルドルフは、自分たちの手で動員と兵力再配置を完成させ、危機的だった西方国境の完全崩壊を食い止めた。
彼らもたまらず寝不足の目で安堵の息をついていることだろう。
そして、共和国軍はFw190の航続距離によって生み出された虚像に怯え、勝機を逸して自ら足を止めた。
両軍ともに、「これ以上の突出は危険だ」「まずは陣地を固め、長期的体制を整えよう」と考え、前線にはどこまでも続く塹壕線が構築され始めていた。
一度戦線が固定され、両国が国家の総力を挙げた陣地戦・消耗戦へと突入すれば、もはや「早期の講和」などという生ぬるい出口は失われる。互いに流した血の量が多すぎて、どちらかが完全に滅びるまで止められない悪夢の歯車が回り出す。。
雨の音と、遠くで響く砲声。
中央暦1923年10月。
全欧州を飲み込む巨大な総力戦の足音が、固まりつつある前線の泥土を、重々しく踏み鳴らし始めていた。