そう言えば、いつの間にかルーズベルトじゃなくてローズベルトになってるんだよな。
《統一暦1926年7月上旬 合州国ワソントンDC ホワイトハウス》
合州国の首都、ワソントンDC。
ポトマック川から吹き込む湿った夏風が、緑豊かなローズガーデンの木々を揺らしていた。
世界の民主主義と資本主義の牙城であるホワイトハウスのウェストウィング。その心臓部たる大統領執務室――オーバルオフィスの空気は、外のうだるような暑さとは対照的に、エアコンディショナーと分厚い絨毯によって冷たく、そして重苦しく保たれていた。
部屋の中心には、歴代大統領から受け継がれてきたオーク材の巨大なレゾリュート・デスクが鎮座している。
そのデスクの奥で、車椅子に深く腰掛けた初老の男が、象牙のシガレットホルダーを咥えながら書類に目を通していた。
合州国大統領、ブルックリン・デラノ・ラーズベルトである。
「……ミスター・コノエとの大平洋平和会談は、来月か」
ラーズベルトは、手元の書類をデスクに置き、深く息を吐き出しながら言った。
デスクの前に立つ白髪の紳士――国務長官のコーデラ・アキは、銀縁眼鏡の位置を直し、弁護士上がり特有の理路整然とした口調で頷いた。
「ええ。ホノレレ*1の沖合での洋上会談を水面下で調整しております。ミスター・コノエ――皇国の総理大臣は生粋の非戦派であり、国内の強硬派を抑え込んででも、この会談にはかなり前向きな姿勢を示しているようです。これで、大平洋の平和が実現し、両国間の不要な緊張が緩和されることを祈っています」
「平和が実現するかどうかは、我々ではなく、皇国次第だろう」
ラーズベルトは、車椅子の肘掛けを指でトントンと叩きながら、シニカルに笑った。
「アキ長官。君も知っての通り、今や我が合州国の世論は完全に沸騰している。数ヶ月前、皇国の連中が重慶に超大型爆弾を落とし、支那の指導者たちを塵一つ残さず消し飛ばしたあの事件だ。あれ以来、議会も国民も、皇国という野蛮な極東の猿どもに対する『石油の全面禁輸』と『在米資産の完全凍結』を今すぐ実施せよと、私の耳元で毎日吠え立てている」
「……承知しております」
アキ長官は苦い顔をした。
「現在、大統領権限で対皇国制裁の議会審議を無理やり『凍結』させていますが、このままでは秋の中間選挙に響きます。国民は、我々のこの及び腰な対応に激怒していますから」
「それでも、だ」
ラーズベルトはシガレットホルダーを指に挟み、窓の外の青空を見つめた。
「こちらから和平の握手を望んで会談をセッティングしているのに、その裏で制裁のナイフを研ぐような真似は、我が合州国の美学に反する。それに……海の向こうの哀れな友人からの、懇願もあるからな」
ラーズベルトの言う友人とは、海を隔てた大西洋の向こう側で、帝国という巨獣に対して奮闘を続けているアルビオン連合王国のことであった。
合州国はこの年の三月、連合王国への無制限の軍事支援を可能にする『レンドリース法(武器貸与法)』を可決した。現在、合州国中の軍需工場がフル稼働し、莫大な兵器と弾薬、食糧が太西洋を渡っている。
だが、連合王国はすでに疲労の極致にあった。
『お願いだ、ミスタープレジデント。今、極東で皇国を暴発させて大平洋で戦争を起こされたら、我々には東洋艦隊も極東の植民地も維持する余力は残されていない。なんとしても、会談を成功させて皇国をなだめてくれ』
それが、連合王国首相チャーブルからの血を吐くような悲鳴であったのだ。
「しかし、あの皇国の連中のことだ。軍部の暴走はもはやお家芸のようなもの。会談中に、皇国のマッドな狂信者が、私の乗る船に爆弾でも落としてくるかもしれないぞ」
ラーズベルトが皮肉交じりのブラックなアメリカンジョークを飛ばすと、アキ長官は真面目な顔のまま首を横に振った。
「笑えませんよ、ミスタープレジデント。もしそのような事態になれば、大平洋は間違いなく血の海になります」
その時であった。
オーバルオフィスの重厚なマホガニーの扉が、ノックの音すらももどかしく乱暴に開け放たれた。
「ミスタープレジデント!!」
血相を変えて飛び込んできたのは、陸軍情報局の局長であった。彼はネクタイを緩め、額に滝のような汗をかいている。
大統領執務室における、あまりにも無作法な振る舞い。だが、局長の握りしめている赤い縁取りのファイルが、事態の異常性を物語っていた。
「どうした。国際情勢に大きな影響を与える情報でも入ったか?」
ラーズベルトが目を細めて問うと、情報局長は息を呑み、震える声で報告を始めた。
「……東部戦線からです。……帝国軍が、ルーシー連邦の主力を……根こそぎ、あの世に強制的に送り届けました」
「なんだと?」
アキ長官が驚きの声を上げた。
情報局長は、手元のファイルをデスクに置き、その凄惨な内容を口走った。
「帝国軍の二つの装甲軍が、ヴァルシャワからブラストにかけての広大な平原で、連邦軍を完全に包囲、殲滅しました。……罠だったのです。連邦の破砕攻撃すらも計算に入れた、悪魔のような二重包囲網です」
「損害は? 連邦はどれほど失ったのだ」
「……連邦の西方軍主力、ならびに極東から引き抜かれた精鋭部隊を含め、およそ三百万人以上がポケットの中で消滅。戦車や火砲の喪失も万を数えます。赤軍は……実質的に、壊滅しました。現在、連邦指導部はモスコーを放棄し、奥地への遷都の準備を開始したとのことです」
その報告を聞いた瞬間。
ラーズベルトの手から、象牙のシガレットホルダーがポロリと滑り落ち、レゾリュート・デスクの上に転がった。
「……まずい。それは、非常にまずいぞ」
ラーズベルトは、車椅子の背もたれに深く沈み込み、血の気を失った顔で頭を抱えた。
赤軍の壊滅。それは、合州国の描いていた大戦略――『連合王国と連邦に血を流させ、合州国の武器と資本で帝国を疲弊させる』という目論見が、根底から崩れ去ったことを意味していた。
もし、このまま連邦が崩壊し、帝国が旧大陸の覇権を完全に掌握してしまえば、無尽蔵の資源と生産力を手に入れ、全力を挙げて大西洋を越え、この合州国へと牙を剥くだろう。
「大統領……」
アキ長官が心配そうに声をかける。
「……少し、一人にしてくれ」
ラーズベルトは、目を閉じたまま手を振った。
「今後の戦略を、根本から組み直さねばならない。最悪の場合、我が国も直接の血を流す覚悟が……必要なのかもしれん」
大統領の沈痛な声に、アキ長官と情報局長は深く頭を下げ、足音を忍ばせてオーバルオフィスから退出した。
重厚な扉が閉ざされ、執務室には、車椅子に座るラーズベルト一人だけが残された。
◇
チク、タク、チク、タク。
壁に掛けられたアンティークの振り子時計の音だけが、静寂の部屋に響いていた。
ラーズベルトは両手で顔を覆い、合州国が直面するかつてない地政学的な悪夢について思考を巡らせていた。
その時である。
『チク…………タ、ク………………チ………………』
ふと、時計の音が、古いレコードの回転が止まるように、間延びして消えた。
「ん……?」
ラーズベルトは顔を上げた。
オーバルオフィスの窓から差し込んでいた初夏の太陽の光が、あり得ない角度で屈折し、部屋全体が不気味なセピア色に染まっている。
空中に漂っていた細かな埃が、完全に静止している。レゾリュート・デスクの上に落ちたシガレットホルダーから立ち昇っていた一筋の紫煙すらも、不自然な形に固まったまま微動だにしていなかった。
エアコンディショナーの微かな駆動音も、外を走る自動車の遠い喧騒も、ポトマック川の風の音も。世界から一切の『音』と『時間』が消滅していた。
「な、何だ……? 誰かいるのか?」
空気が、異様に重い。
肺が圧迫され、まるで深海に沈められたかのような絶対的な静寂と、生物の根源的な恐怖を呼び覚ますような威圧感が、空間そのものから滲み出していた。
車椅子の車輪を回そうとしたが、指一本、ピクリとも動かすことができない。
『ガガッ……ピーーーッ……ザザザザッ』
突然、静寂を切り裂くように、部屋の隅に置かれた真空管ラジオが、電源が入っていないにも関わらず耳障りなノイズを吐き出し始めた。
ダイヤルが勝手に回り、周波数が合わせられていく。
『――嘆かわしいことだ。被造物よ』
ラジオのスピーカーから、機械的なノイズ混じりの、およそ人間の発声器官を通していない『声』が響いた。
ラーズベルトの心臓が、恐怖で早鐘のように打つ。
続いて、執務室の棚に飾られていた合州国の象徴たる剥製の白頭鷲が、ギギギ……と軋む音を立ててその首を回し、濁ったガラス玉の目をラーズベルトへと向けた。
縫い合わされているはずの鋭い嘴が、パカ、パカと不気味に開閉する。
『――我は、幾度も奇跡を以て導きを与えんとした』
鳥の死骸から発せられたその声は、ラジオの声とは全く違う、ひび割れた老人のような声であった。
「あ……あ……」
ラーズベルトの理性的で現実主義的な精神が、目の前で起こる圧倒的な超常現象の連続に、悲鳴を上げて白濁しかける。
さらに、壁に掛けられていた初代大統領の巨大な肖像画。その油絵で描かれた唇が、絵の具を歪ませながら『物理的に』裂け、動き始めたのだ。
『――だが、東方の大地に巣食う悪魔は、神たる我の理を冒涜し、傲慢にも神の玉座を地に引き摺り下ろさんと牙を剥いている』
威厳に満ちた、合唱団のバリトンのような声。
声の主が、次々と部屋の中の無機物や死骸に乗り移りながら語りかけてきている。人間の脳の処理能力を完全に超越した、高次元の存在。
「き、君は……いや……貴方様は、もしかして、神なのか?」
ラーズベルトは、車椅子の上でガタガタと震えながら、喉から絞り出すように問うた。
その問いに対し。
部屋中の受話器がひとりでに持ち上がり、タイプライターのキーが勝手に乱舞し、ラジオがノイズを撒き散らし、白頭鷲の剥製が翼を広げ、初代大統領の絵画が眼球をギョロリと動かした。
オーバルオフィスに存在するあらゆる物が、無数の異なる声色を重ね合わせ、空間そのものを震わせるような恐るべき波動で、短く一言だけ答えた。
『――――――――左様』
とある怖いもの知らずの幼女が『存在X』と呼ぶ神は、恐怖にすくみ上がるラーズベルトを見下ろした。
『西方の指導者よ。貴様のその腐りかけた足。我が奇跡を以て、再び大地を踏み締める力を与えよう』
空中の光が屈折し、一本の黄金の触手のような光の筋が、ラーズベルトの不随となった両足に触れた。
その瞬間。数十年前にポリオに冒されて以来、一切の感覚を失い、動かすことのできなかったラーズベルトの両足の細胞が、神経が、筋肉が、爆発的な熱を帯びて再生していくのを感じた。
『我が奇跡をその身で知ったのならば、義務を果たせ。神に逆らう悪魔の国――帝国を討て。そして、その悪魔に与する極東の反逆者どもを、業火で浄化せよ。……我に逆らう者は、一人残らず絶滅させよ。これが、神の啓示である』
神の言葉が、ラーズベルトの脳髄に、魂の奥底に、焼け焦げた烙印のように刻み込まれていく。
人間の自由意志など、神という圧倒的な暴力の前には何の価値もない。
ラーズベルトの瞳から、理性と慈愛の光が急速に失われ、代わりに狂信という名の、神々しくも禍々しい異様な輝きが宿っていった。
◇
数時間後。
国務長官コーデラ・アキは、分厚いファイルの束を抱えながら、ホワイトハウスの西棟の廊下を早足で歩いていた。
彼の心には、拭い去れない不安と焦燥が渦巻いていた。帝国による赤軍の包囲殲滅という悪夢のような報せを受けてから、大統領は数時間もの間、誰も執務室に入れようとしない。
来月に迫った皇国との大平洋平和会談の調整、そして対帝国の新たな戦略構築。一分一秒を争う事態だというのに、どうしたというのか。
「……ミスタープレジデント。アキです。よろしいでしょうか」
オーバルオフィスの重厚な扉をノックする。
「開いているよ」
中から、ラーズベルトの声が響いた。
その声を聞いて、アキ長官はふと違和感を覚えた。いつも大統領が帯びている、疲労と重圧が混じった擦れ声ではない。まるで若者のようにハリがあり、あまりにも『清々しい』声だったからだ。
「失礼します」
ドアノブを回し、部屋に入る。
そして、アキ長官は持っていたファイル一式を、バサバサと床に落とした。
「――――なっ!?」
アキの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
レゾリュート・デスクの前に、ラーズベルト大統領が『立っていた』のだ。
下半身不随であり、車椅子なしでは移動はおろか、自力で立つことすら絶対に不可能なはずの男が。背筋をピンと伸ばし、自らの両足で大地をしっかりと踏み締めて、窓の外を眺めている。
「だ、大統領……? ま、まさか。どうやって……!」
アキは混乱の極致にあった。
ラーズベルトはゆっくりと振り返った。その顔は満面の笑みを浮かべていたが、その瞳は、まるでガラス玉のように虚ろで、それでいて異常な黄金色の光を放っていた。
「……貴方は、誰だ!?」
アキ長官の口から、無意識のうちに疑念の言葉が漏れた。姿形は間違いなくラーズベルトだが、彼から発せられる空気が、生気の抜けた狂人のそれであったからだ。
「まあ、驚くのも無理はない、マイフレンド」
ラーズベルトは、自分の足でゆっくりとアキへ近づき、その肩を優しくポンと叩いた。
「私は、神の祝福と啓示を受けたのだ。……奇跡は実在した。我々は、今日までなんて無知で、なんて傲慢だったのだろうか。我々は、大いなる存在の御心に従うための剣とならねばならない」
アキ長官は背筋に氷の刃をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
弁護士上がりで、冷徹な法と論理を信条とする彼にとって、理路整然とした大統領が突如としてオカルトじみたカルト宗教の信者のような妄言を吐き始めたことは、東部戦線の崩壊よりも遥かに恐ろしい事態であった。
「だ、大統領。お疲れで幻覚でも見ているのです。主治医を呼びましょう。……おい! 外の衛兵! 誰か来てくれ!!」
アキ長官は後ずさりしながら、廊下に向かって怒鳴った。
「おい!誰か!……誰かいないのか!!」
だが、誰も来ない。いつもなら即座に駆け込んでくるはずのシークレットサービスや海兵隊の衛兵たちの応答が、全くないのだ。
不気味な静寂がホワイトハウスを包み込んでいる。
アキが警戒して、狂気の笑みを浮かべる大統領を見つめ直した、その時。
ガシッ、と。
突然、アキの背後から、誰かの手が彼の右肩を強く掴んだ。
「ひっ!?」
悲鳴を上げて振り返る。
そこに立っていたのは、小太りで丸眼鏡をかけた男――財務次官補のハリー・ブラックであった。
「な、ブラック!? 君がなぜここに居る!?」
アキ長官は、驚きと同時に強い嫌悪感を顔に出した。
ハリー・ブラック。彼は財務省の人間でありながら、国務省にも属していないのにことあるごとに対皇国外交に口を出してくる、アキにとって極めて目障りな男であった。
「君は今の時間、財務省の緊急会議に出席しているはずだろう! なぜ大統領執務室に……」
アキが問い詰めようとしたが、ブラックの顔を見て言葉を失った。
ブラックの目は、ラーズベルトと全く同じだった。虚ろで、焦点が合っておらず、しかし内側から異様な狂信の光をギラギラと放っている。
「……我々は、神の啓示を受けたのです、アキ長官」
ブラックは、抑揚のない、まるでテープレコーダーのような声で喋り始めた。
「神に逆らう神敵――帝国を討てと。そして、その悪魔にそそのかされ、付き従う哀れな極東の者たちを、火の雨をもって悔い改めさせよ、と。……平和会談などという欺瞞は、もはや不要なのです。神の正義の鉄槌を下す時が来たのです」
「君も……一体何を言っているんだ!?」
アキ長官は、恐怖を振り払うようにブラックの両肩を掴み返し、激しく揺さぶった。
「目を覚ませ! 合州国の中枢で何を狂ったことを! ……ん?」
そこで、アキはある言葉に引っかかった。
『我々は』?
アキ長官は、ゆっくりとブラックの背後、執務室の開け放たれた扉の向こう、西棟の廊下へと視線を向けた。
「あ…………ぁ…………」
アキの喉から、声にならない乾いた音が漏れた。
廊下を埋め尽くすように、無数の人々が立っていた。
シークレットサービス、海兵隊の衛兵たち、陸軍長官、海軍長官、情報局長、大統領補佐官……。ホワイトハウスの中枢を担うあらゆる高官や軍人たちが、整然と、無言でそこに並んでいた。
彼らの瞳は、全員が例外なく、焦点の合わないガラス玉のように虚ろで、異様に光り輝いていた。
「な……なんだ、これは……」
アキ長官は、自分を取り囲む数多の「人間であったもの」の群れを前に、完全に理性が崩壊するのを感じた。
ホワイトハウスが。合州国という超大国の中枢が。
一瞬にして、巨大で、狂気に満ちた『十字軍』へと変貌してしまったのだ。
虚ろな目をした高官や衛兵たちが、一歩、また一歩とアキへ近づいてくる。
そして、彼らはまるで一つの巨大な生き物のように、全く同じトーン、同じタイミングで、一斉に口を開いた。
「「「「「「――神の御言葉を聞け」」」」」」
何十人もの声が完全に重なり合った、異様で不気味な合唱が、オーバルオフィスに響き渡った。
「う、うわあああああああああああああああああああっ!!!!」
合州国という名の巨大な戦争機構が、神という最悪の存在の手に完全に落ちた。
国務長官コーデラ・アキの恐怖と絶望の絶叫が、世界の破滅を告げるように、ワソントンの空へと虚しく吸い込まれていった。
そうだね、幼女戦記なら全ての黒幕は存在Xだね。