かなりゲシュタポに染まってる特高っていう感じです。
《統一暦1926年6月下旬 帝都ベルン 中央駅》
巨大な鉄とガラスのアーチに覆われた帝都ベルンの中央駅は、蒸気機関車が吐き出す石炭の煙と、行き交う何万人もの群衆の熱気でむせ返るようだった。
その喧騒の中を、外套の襟を立て、目深に帽子を被った一人の男が、周囲を過剰なまでに警戒しながら足早に歩いていた。
帝国軍参謀本部所属、階級は中佐。
彼は今、背中に冷たい汗を流しながら、プラーク*1行きの列車の切符を握りしめていた。目的は、帝国を横断し、欧州南部の半島を経由して、最終的に新大陸へと亡命すること。
彼は「ユダ」であった。帝国軍の最高機密を、長年にわたり東方のルーシー連邦へと売り渡してきた、正真正銘の裏切り者である。
「……くそっ、なぜだ。なぜこんなことになった」
一等車のコンパートメントに滑り込み、窓際の席に腰を下ろすと、彼は震える手でハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
車体が重々しい軋み音を立てて動き出し、窓の外を流れる帝都の景色が徐々に速度を上げていく。それでも彼の心臓の早鐘は一向に治まらなかった。
彼自身、自分が祖国を売るような真似をするとは、若い頃には夢にも思っていなかった。
彼は由緒ある家柄に生まれ、ギムナジウムから陸軍幼年学校を経て、士官学校、そして陸軍大学校という、帝国軍人としてこれ以上ないほど完璧なエリートの王道を歩んできた秀才であった。軍の教範を完璧に暗記し、図上演習では常に最適解を導き出す、教官たちも認める極めて優秀な頭脳の持ち主だった。
そんな彼の人生の歯車を狂わせたのは、二つの要因だった。
一つは、士官学校在学中に勃発した『ルーシー革命』である。
当初、彼は皇帝を軟禁し、貴族を弾圧する赤軍の暴挙を「不義理で残虐な暴徒の集団」として激しく軽蔑していた。だが、情報将校の卵として敵国の情勢を分析し、革命の思想的背景である共産主義や社会主義の原典を読み漁るうちに、彼の冷徹な頭脳は、その歴史の必然性というロジックに奇妙な魅力を感じるようになっていった。
労働者の解放、階級の撤廃、そして完璧に計算された計画経済。それは、血筋やコネが幅を利かせる帝国の旧態依然とした社会構造よりも、遥かに理路整然とした「正しい人類の未来」のように思えたのだ。いつしか彼は、赤の思想に深く心酔していくようになっていた。
そしてもう一つの、最大の要因。
彼を共産主義の「平等の思想」へと決定的に傾倒させたのは、一人の男に対する強烈なコンプレックスであった。
――ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト。
士官学校時代、魔導士としての特権を利用して、僅か十二歳で飛び入り入学してきたあの忌々しい男。
ローゼフシルトの成績は、お世辞にも良いとは言えなかった。座学は常に平均以下。対して自分は、血の滲むような努力で常に首席争いをするトップエリートであった。
だが、教官や周囲の将校たちがチヤホヤしたのは、自分ではなくローゼフシルトの方であった。あいつの放つ突拍子もない発想力、奇抜な戦術眼、そして「神童」というブランド。自分がどれほど努力しても得られない天性のカリスマ性を、あの男は息をするように発揮していた。
極めつけは、士官学校を卒業した数年後である。
自分が実務と猛勉強の末、三年という歳月をかけてようやくの思いで入学を果たした陸軍大学校の教室に、なんと「ローゼフシルトがいた」のだ。
筆記試験など到底通るはずのないあの男は、ルーシー革命時の介入軍での武功を買われ、皇帝陛下から「何が欲しいか」と問われた際、「陸軍大学校に入りたい」と即答し、あろうことか『恩賞による推薦枠』で入学してきたのである。
(……ふざけるな。私があれほどの努力をして手に入れた椅子を、あいつはコネと要領の良さだけで手に入れたのだ!)
さらにその後、参謀本部入りを果たしたローゼフシルトは、著名な将官たちと軽口を叩き合う関係を築き、あろうことか軍人でありながら「財閥」まで築き上げて莫大な富と権力を手にした。
かつて自分が見下していたはずの落ちこぼれが、天を衝くような大樹へと成長していく姿を見せつけられ、中佐の心には真っ黒な嫉妬の炎が燃え盛った。
(私は嫉妬などしていない。ただ、あのような特権階級の存在を許す帝国のシステムが間違っているのだ。私は歴史の正しい側に立つ!)
彼はそう自分を正当化し、連邦の諜報機関であるNKVDとの接触を持った。
それからの彼の工作は完璧であった。参謀本部の奥深くで決定される極秘作戦、部隊の配置、兵器の生産状況。彼はあらゆる情報を暗号化してモスコーへと送り続けた。
先日のヴァルシャワ前面での戦いでも、彼は完璧な仕事をした。
第二陣の「スタニスワブの防衛線が地形的に脆弱である」というゼートゥーア中将の指摘を連邦に伝え、赤軍にピンポイントでの集中突破を成功させたのだ。
今回の帝国の反攻作戦においても、彼は連邦に「帝国がヴァルシャワから集中突破を図る」という確度の高い作戦案を流した。結果、連邦はその二時間前に大規模な破砕攻撃を仕掛け、八〇万の極東精鋭と二〇〇〇両の戦車が帝国の防衛線を食い破った。
(連邦は帝国に対し、圧倒的に優位に立ったはずだったのだ……!)
全ては順調だった。
作戦が成功し、帝国が敗れ去った暁には、彼は連邦から「旧体制を内部から崩壊させた最大の英雄」として迎え入れられ、相応の地位(軍の最高幹部か、人民委員のポスト)を与えられるはずだったのだ。
だが。
(……なぜ、失敗した)
車窓の風景が高速で流れていく中、中佐は震える手で顔を覆った。
彼の脳裏に、数日前のあの作戦会議室での、悪夢のような光景がフラッシュバックする。
『……そろそろ、諸君らにも知ってもらおう。本当の作戦を』
会議室のテーブルの端で、ローゼフシルトが不敵な笑みを浮かべて放ったあの一言。
そこから語られたのは、自分が連邦に流した「ヴァルシャワからの中央突破」という作戦が、そもそも連邦軍をヴァルシャワ方面へと誘き出すための『囮の偽情報』であったという、信じ難い真実であった。
そして北のティゲンホーフと南のフラフクから、撤退と誤認させるよう中央から移動した二つの巨大な装甲軍が進撃を開始したと知らされた瞬間、中佐は会議室の床に膝を突きそうになるほどの絶望と眩暈を味わった。
(看破されていた……。私が裏切っていることなど、あの男は、とっくに知っていたのだ……!)
それどころか、彼らは自分というスパイの存在を「逆利用」し、偽情報を最も確実なルートで連邦の最高指導部へと届けさせ、数百万の赤軍を最悪のケッセルの底へと自ら歩いていかせたのである。
自分は、歴史を動かす英雄などではなかった。ローゼフシルトという大天才の手のひらの上で、滑稽に踊らされていただけのピエロであったのだ。
「……はぁ、はぁ……」
過呼吸気味に息を荒げながら、中佐は顔を上げた。
その時、彼は唐突な「異変」に気がついた。
列車がベルン中央駅を出発した頃には、通路や他の席に大勢いたはずの一般客の姿が、どこにも見当たらないのだ。
そして、いつの間にか。
自分の向かいの席と、通路を挟んだ隣の席に、仕立ての良いスーツを着た屈強な男たちが三人、無言で座っていたのである。
「――――っ!?」
心臓が跳ね上がった。殺気など全くない。ただ、彼らの放つ絶対的な事務処理能力のような冷たい空気が、このコンパートメントを完全に支配していた。
「なぜ失敗したのかと、自問自答されているお顔ですね。中佐殿」
向かいに座っていた男が、手元の新聞から顔を上げ、氷のように冷たい声で言った。
「あ、貴様ら……!」
中佐は慌てて立ち上がり、懐の拳銃に手を伸ばそうとした。
だが、それより早く、隣に座っていた男の手が中佐の肩をガシッと掴み、凄まじい力で座席へと無理やり押さえつけた。
「お座りください。車内ではお静かに」
完全に退路を断たれた。窓の外は高速で流れる景色、周囲はプロの捜査官。逃げ場などどこにもなかった。
向かいの男は、新聞を丁寧に折りたたむと、中佐の目の前で手を開いた。
その手のひらには、いくらかの帝国紙幣と硬貨が乗せられていた。
「これを渡しておこうと思いましてね」
「な、なんだこれは……」
「プラークまでの『差額』ですよ。中佐殿。……誠に残念ですが、貴方には次の駅で降りて頂くことになりますので」
男の冷酷な宣告が、中佐の魂を完全に打ち砕いた。
自分が手配したと思っていた逃亡ルートすら、全ては彼ら「帝国国家保安警察」の掌の上であったのだ。
中佐が絶望に顔を歪めたその瞬間。
列車が次の駅への到着を告げる、長く、甲高い汽笛が、ベルンの青空に向かって虚しく鳴り響いた。
◇
《同日 帝都ベルン 帝国国家保安警察本部》
帝都の一角にそびえ立つ、重厚な石造りの建物。
その最上階にある執務室は、無駄な装飾の一切を排した、極めて機能的で冷え冷えとした空間であった。
黒光りする執務机の奥に座っているのは、帝国国家保安警察の頂点に君臨する男――長官である。
金髪に、透き通るような青い瞳。長身で、軍服を着こなすその姿は彫刻のように端正であったが、その鋭い鼻梁と、微塵の感情も読み取らせない冷たい眼差しは、彼が『金髪の野獣』あるいは『鉄の心臓を持つ男』と裏社会で恐れられている所以を如実に表していた。
長官は、机の上に置かれた一通の書類――先ほど特急列車の中で拘束された参謀本部の「ユダ」の調書に目を通すと、引き出しから赤いインクのスタンプを取り出し、迷いなく押し当てた。
バンッ。
書類の右上に、赤い文字で『ERLEDIGT』という印字が刻まれる。
それは、国家への反逆者に対する死刑宣告と同義であった。
「ご苦労様です」
長官は、書類をデスクの端に置き、目の前に直立不動で立つ黒服の部下へ向けて、少し甲高い声で労いの言葉をかけた。
「ありがとうございます」
部下は静かに一礼すると、少しだけ口元を緩めて言った。
「そう言えば、先ほど参謀本部から苦情が来ておりましたよ。『こういう害虫は、もっと早く、我々の手を煩わせる前にしっかり始末しておけ』と」
その言葉を聞いた長官は、薄い唇の端を吊り上げて冷笑した。
「そうですか。では、次からは『我々国家保安警察が、参謀本部の奥深くにいつでも自由に立ち入り、将官たちの私物を検閲する許可を出して頂けるのならば可能ですが』とでも、お答えください」
「ふふ、そう致します。……それと、もう一件。ローゼフシルト准将閣下からも、お言葉を頂いております」
その名前が出た瞬間、長官の端正な眉がピクリと動いた。
ローゼフシルト。
長官にとって、その男は単なる財閥の総帥や参謀本部の将官という枠に収まる存在ではなかった。
――統一暦1914年。
当時、海軍の若き通信将校であった彼は、ある痴情の縺れが原因で軍法会議にかけられ、不名誉除隊という形で海軍を解雇された。フェンシングやバイオリンを愛する誇り高きエリートであった彼にとって、それは人生の完全なる破滅を意味していた。
絶望に打ちひしがれる中、それでも愛想を尽かさずに付いてきてくれた恋人の勧めで、彼は新興のローゼフシルト財閥が募集していた「情報部門の新規人員」という求人に応募した。
書類選考を突破し、面接の部屋へ通された彼を待っていたのは、人事担当者ではなく、なぜか財閥総帥のローゼフシルト本人であった。
ローゼフシルトは、部屋に入ってきた彼の顔と書類を、まるで穴が開くほど、何か恐ろしい化け物でも見るかのような目で繰り返し見つめていた。
「……どうかしましたか?」
違和感を覚えて彼が話しかけようとしたところ、ローゼフシルトは突然パチンと指を鳴らし、こう言ったのだ。
「いや、君の能力はうちの会社では持て余す。……就活中なのだろう? もっと君の才能が輝く、いい仕事を紹介してやるよ」
そしてローゼフシルトから渡されたのは、当時陸軍で密かに進められていた「新設の情報課」への強力な推薦状であった。
何の因果か、海軍を不名誉除隊になった男が、財閥総帥の推薦で陸軍の暗部へと潜り込むことになったのである。
彼が配属された情報課は、数人のパートタイマーの女性と、タイプライターすらまともに揃っていない、机と椅子だけの埃っぽい小部屋であった。
だが、彼はそこで眠っていた己の「真の才能」を開花させた。
彼は一日一六時間という恐ろしい狂気の労働を自らに課し、全国の反体制派、スパイ、要注意人物の情報を徹底的に収集。手書きのカードインデックスを構築し、瞬く間にその弱小組織を、軍の意思決定を左右する完全な「情報機関」へと再編・拡大してのけたのである。
その功績が認められ、彼は情報組織のさらなる拡大における局長職を任された。
ローゼフシルトからの莫大な資金援助と最新の通信機材の提供を受け、彼の組織は陸軍のみならず、古巣の海軍、新設されたばかりの空軍の情報部をも飲み込み、挙句の果てには内務省の警察権力すらも統合した。
かくして、国家のあらゆる情報を握り、反逆者を狩る高等警察――『帝国国家保安警察』という独立した巨大な治安維持組織が完成したのである。
当初は、陸軍から出向してきた高官が長官を担い、彼自身は実務を取り仕切る副長官の立場であった。しかし、フランソワ共和国の参戦時に軍内の守旧派が一掃されると、それに属していた長官も更迭され、彼はそのまま自動的に長官の座へと就任した。
彼が今、この黒光りするデスクに座り、一億の臣民の生殺与奪の権を握る絶対的な権力者になれたのは、すべてあの面接の日に、彼を一目見て「国家の暗部」へと導いたローゼフシルトの采配があったからだ。
長官にとってローゼフシルトは、己を拾ってくれた絶対の恩人であり、同時に、自分の運命すらも盤上の駒として操っているのではないかと思わせる、底知れぬ怪物であった。
「……そうですか。閣下が、私になんと?」
長官が静かに問うと、部下は無表情のまま報告した。
「『ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐に関する、あらゆる身辺調査を直ちに止めるように』とのことです」
その報告を聞いた長官は、ふっと肩の力を抜き、微かに笑い声を漏らした。
「そうですか、そうですか。……ばれていましたか」
長官は、国家保安の観点から、そして純粋な個人的な知的好奇心から、第二〇三航空魔導大隊の大隊長について極秘裏に調査を進めていた。
僅か六歳で士官学校に入学し、九歳で初の実戦を経験して銀翼突撃章を獲得し、現在は最前線で悪魔のような戦果を上げ続けている幼女。
「あまりにも経歴が異常すぎる。一体どんな化け物なのかと興味が湧いて、一度直接会ってみたいと思っていたのですが……。そうですか、閣下が『手を出すな』と言うのなら、構いません」
長官は、デスクの一番下の引き出しの鍵を開け、中から『デグレチャフ』と記された分厚い調査ファイルを取り出した。
彼は自らマッチを擦ってファイルに火をつけると、背後にある暖炉の中へと無造作に放り投げた。パチパチと音を立てて、紙の束が灰へと変わっていく。
炎を眺めながら、長官は背後の部下へ振り返り、青い瞳を細めて問うた。
「……そうだ。私が極秘に進めていたその調査を、なぜ閣下が知っているのでしょうか?」
国家保安警察のトップである自らの秘密調査が漏れている。それは、この強固な組織の中枢にすら、ローゼフシルトの息のかかった者が入り込んでいることを意味していた。
だが、部下は一切の動揺を見せず、ただ肩を竦めた。
「さあ? 閣下は千里眼でもお持ちなのでしょう」
白々しいとぼけ方に、長官は再び薄く笑った。
「……そういうことにしておきましょう」
「それと」
部下は、退出の敬礼をする前に、思い出したように付け加えた。
「閣下から、もう一つ忠告を頂いております。長官ご自身による、前線での『パイロットごっこ』も、いい加減にやめるように、と」
長官は、軍の官僚組織の頂点に立ちながら、自らの闘争心を抑えきれず、時折身分を偽って最新鋭の戦闘機に乗り込み、前線で空中戦に参加するという極めて危険な趣味を持っていた。
国家の最高機密を全て知る男が、敵地で撃墜されて捕虜になるリスクなど、常軌を逸している。ローゼフシルトからの、至極真っ当な苦言であった。
だが、それを聞いた鉄の心臓を持つ長官は、子供のように無邪気な、しかし底知れぬ狂気を孕んだ笑みを浮かべて言い放った。
「ふふっ……。それは、出来ない相談ですね」
空の上の、純粋な生と死が交差する瞬間だけが、血のインクで書類にハンコを押し続ける彼にとって、唯一の『生きている実感』を得られる場所なのだから。
暖炉の中で燃え尽きるファイルの炎が、狂気の長官の冷たい横顔を、赤く照らし出していた。
なお、暫くあとで東部戦線の前線部隊から参謀本部に『撃墜された拍子に精神が壊れ、自分を保安警察の長官と名乗るパイロットを保護した』という電信が届くのだった。