《統一暦1926年 7月下旬 東部戦線》
赤軍は消滅した。
第一次ヴァルシャワの戦い、そして先日の大包囲殲滅戦を経て、ルーシー連邦が誇った数百万の西方軍主力と極東精鋭部隊は、完全に物理的虚無へと還っていた。
連邦の防衛線にはもはや巨大な風穴が空いており、その先には首都モスコーへ至るまでの果てしない平原が、ただ無防備に横たわっている。
帝国軍参謀本部は、この千載一遇の好機を逃さなかった。
彼らは、対連邦の真の決定打となる『東方大電撃戦(バルバロッサの第二段階)』の発動を宣言した。
その攻勢の主力を任せられたのは、三つの装甲軍からなる巨大な『装甲軍集団』であった。彼らに与えられた作戦目的は唯一つ。赤軍が壊滅して空っぽになったルーシーの広大な大地を縦横無尽に駆け抜け、敵に息をつく暇すら与えずに首都モスコーを占領すること。
期限は『今年いっぱい』。恐るべき赤軍が再建される前に、巨大な赤い熊の心臓を抉り出すという至上命令である。
この大攻勢のために、帝国は、否、帝国を中心とする欧州全土から、文字通りあらゆる軍事力が結集された。
動員された将兵の数は、およそ四〇〇万人。
先陣を切る装甲軍集団だけで三〇〇〇両の最新鋭戦車と自走砲が配備され、後続の歩兵軍や同盟国軍にも二〇〇〇両が投入される。空からの苛烈な航空支援を行うべく、遠く地中海戦線や西方戦線を一時的に縮小してまでかき集められた六〇〇〇機の軍用機が空を黒く塗りつぶし、大地を揺るがす火砲は一万門に達した。
まさに、帝国の国家生命の全てを賭した、圧倒的な軍事力の顕現であった。
そして、この攻勢の絶対的な主役たる装甲軍集団の指揮官には、帝国軍内において「もはやこの男しかいない」と誰もが認める人物が任命されていた。
機動戦の権威にして、帝国装甲部隊の父と呼ばれる男――ハインツ・ガデーリアン上級大将である。
「素晴らしい……! ついに、私の理論が、我が装甲軍が、世界を制覇する時が来たのだ!」
東部戦線の前線に設けられた装甲軍集団司令部。
その真新しい執務室で、ガデーリアンはウキウキとした高揚感を隠しきれずにいた。
今回の作戦にあたり、彼の指揮する装甲軍は、前回の包囲戦の時とは少し編成を変えていた。補給線の維持と機動力のさらなる向上を目的として、各装甲軍から機甲師団と装甲擲弾兵師団が一個ずつ削られ、極めて筋肉質でコンパクトに最適化されていたのである。
それでも、一つの戦車師団には約三〇〇両の戦車や自走砲が配備されており、その破壊力と突破力は据え置き、いや、身軽になった分だけより鋭さを増していた。
「この編成ならば、無限に広がるルーシーの平原であろうと、モスコーまで全速力で駆け抜けることができる!」
ガデーリアンは上機嫌で司令部の作戦室へと足を踏み入れた。
だが、部屋に入った瞬間、彼は違和感を覚えた。
そこに集まっていた優秀な幕僚たちが、総司令官たる自分の姿を見ても、誰も嬉しそうな顔をしていないのだ。それどころか、全員が皆一様に、まるで通夜の席にでもいるかのように気まずく、胃を押さえるような渋い顔をしている。
(……どうしたのだ? なぜ皆、そんな顔をしている。そういえば、今回の私の『参謀長』が誰になるのか、直前になっても参謀本部から知らされていなかったな……)
ガデーリアンが訝しげに周囲を見回した、その時であった。
幕僚たちの輪が左右に割れ、奥から一人の男が歩み寄ってきた。
「――――っ」
ガデーリアンの足が、ピタリと止まった。
歩み寄ってきたのは、帝国最大の財閥総帥にして、参謀本部の異端児。
ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルトであった。
ローゼフシルトは、ガデーリアンの顔を見るなり、まるで道端で汚物でも踏みつけたかのような極めて嫌そうな顔を作り、極めて事務的に、かつ面倒くさそうに右手を上げて敬礼した。
「装甲軍集団の参謀長を務めることになった、ローゼフシルト少将であります。……『閣下』」
最後に取って付けたような、心にもない「閣下」という呼び方に、作戦室の空気が氷点下まで凍りついた。
ガデーリアンは、ローゼフシルトの顔を見た瞬間、先ほどまでの上機嫌が嘘のように顔色を失い、深く、それはもう心底から嫌そうな深いため息を吐き出した。
そして、わざと相手を見下すように、鼻で笑って言い返した。
「……ふん。よろしく頼むよ。……『准将』」
あえて階級を一つ間違えて呼ぶという、陰湿な嫌がらせ。
それに対し、ローゼフシルトの眉間からピキリと青筋が浮かび上がり、彼は少しキレ気味に、しかし冷ややかな声で即座に返答した。
「『少将』です。先日の作戦の功績で、昇進しましたので。上級大将閣下におかれましては、部下の階級もご存知ないようで」
「なんだと? 貴様、口の利き方に気をつ……」
バチバチバチッ!
二人の間に、目に見えるような高圧電流の火花が散り始めた。
周囲を取り囲む優秀な幕僚たちは、これから始まる地獄の日々を予感し、全員が顔を青くして自身の胃の辺りを苦しそうに押さえていた。
そして、その司令部の入り口付近で、密かにこの最悪の顔合わせを目撃していたもう一人。
直属の部下として呼び出されていたターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、絶望のあまり天を仰ぎ、重い、重すぎるため息を吐いていた。
(……終わっている。いくらなんでも、この二人の組み合わせは終わっている……!)
◇
時間を少し遡る。
帝都ベルン、帝国軍参謀本部のゼートゥーア上級大将の執務室。
「少し早めの誕生日プレゼントだ。好きに遊び給え」
赤軍殲滅の多大な功績により、大将から上級大将へと昇進を果たしたゼートゥーアは、ソファに座るターニャ(彼女も中佐へ昇進したばかりであった)へ向けて、一冊の分厚いファイルを放り投げた。
「誕生日、ですか……?」
ターニャは怪訝な顔をしながらファイルを開き、その中身を見て、文字通り目を剥いた。
それは、彼女が新たに指揮を任される『戦闘団(カンプフグルッペ)』の編成表であった。
現在の第二〇三航空魔導大隊を中核とし、さらに一個魔導中隊、一個戦車中隊、一個自走砲中隊、一個駆逐戦車中隊、そして一個装甲擲弾兵大隊から構成されるという、常軌を逸した贅沢な部隊編成。
高い機動力を持った装甲戦力と、上空からの魔導士による制圧火力を完全に統合した、まさに歩く暴力、あるいは機動する要塞とでも呼ぶべき「超火力・高機動部隊」であった。
「こ、こんな部隊をいただいてよろしいのでしょうか!?」
ターニャは、前世の軍事オタクとしての血が騒ぐのを感じつつも、同時に「これだけ巨大なオモチャを与えられるということは、それだけ最悪な戦場に放り込まれる」というサラリーマン的危機察知能力を全開にして震え上がった。
ゼートゥーアは、紫煙を吐き出しながら優しく微笑んだ。
「構わないとも。これから中佐には、これまで以上に沢山働いてもらう予定だからな。これくらい贅沢な火力がなければ、到底足りんよ」
「……ええ、喜んで行いましょう」
ターニャは内心で滝のような冷や汗を流しながら、軍人としての模範的な笑みを顔に貼り付けて答えた。
「では、早速仕事だ。貴官の戦闘団には、次期攻勢の主役たる装甲軍集団の『参謀長直属の火消し役』として、東方の最前線で遊撃任務に就いてもらう」
ゼートゥーアは、新しい辞令の書類をターニャへ差し出した。
「あそこにはローゼフシルト少将もいるから、分からないことがあれば彼に聞くといい。まあ、総司令官はあのガデーリアン上級大将だ。……二人の関係上、多少気まずいかもしれないが、上手く立ち回ってくれたまえ」
「ローゼフシルト」という、何かと自分をトラブルに巻き込む男の名前を聞いて、ターニャは露骨に嫌な顔をした。だが、それ以上にゼートゥーアの言葉の後半が気になった。
「……多少気まずい、とは? 閣下、私は前線にばかり居たので疎いのですが、その……お二人は不仲なのですか?」
ターニャが尋ねると、ゼートゥーアは意外そうな顔をした。
「なんだ中佐。いくら前線暮らしが長いとはいえ、あの二人の一件を知らんのか? 今や参謀本部どころか、帝国軍全体でもかなり有名な話だぞ」
ゼートゥーアが語り始めた二人の因縁は、ターニャの想像を遥かに超えるほど、知的であり、かつ「しょうもない」ものであった。
元々、ガデーリアンとローゼフシルトの二人は、機動戦や戦車運用を重視する者同士、極めて良好な関係にあったという。
しかし、ある『出版事件』が、二人の仲を決定的に引き裂いた。
ガデーリアンが帝国装甲部隊の教範として執筆し、後に世界的名著となる『戦車に注目せよ』。
実はこの本の執筆作業には、同志としてローゼフシルトも密かに参加していたのだ。ローゼフシルトは、自らの知識を総動員し、それはもう嬉々として張り切り、時間を見つけてはガデーリアンと共に徹夜で執筆活動と理論の構築を手伝った。
だが。
いざ刷り上がった完成版の書物を読んで、ローゼフシルトは驚愕し、そして激怒した。
自分が徹夜で書き記したはずの「機動戦の発達の歴史」に関する記述が、ほぼ全て削除されていたのだ。さらに、ローゼフシルトが個人的に心から尊敬し、戦車開発の黎明期において最重要人物だと熱弁していたオストマルクの先駆者ギュンター・ブルーサティンの名前が、本編に一切出てこなかったのである。
一方のガデーリアンからすれば、ローゼフシルトは「少し手と口を出してくれた熱心な後輩」程度の認識であった。
ガデーリアンは、「自身の機甲理論は、自分自身のたゆまぬ勉強と研究、そして実戦経験の成果であり、自分一人で作り上げてきたものである」と強烈に信じ込んでおり、他者の過去の歴史的功績を軽視するきらいがあったのだ。
「理論を完成させたのは私だ。過去の歴史家の名前など、実践的な教範には不要だ」と言い放つガデーリアンに対し、ローゼフシルトは「他者の歴史的積み重ねを無視する傲慢な剽窃者め!」とブチギレた。
二人の認識のズレは埋まることなく、大喧嘩に発展し、完全に仲違いをしてしまったのである。
「……まあ、そこまではまだ、学者や軍人の知的な対立として理解できる。問題はその後だ」
ゼートゥーアは、呆れたように葉巻の灰を落とした。
「二人はその後、顔を合わせるたびにいがみ合い、あろうことか『小学生のような悪戯』をお互いに仕掛け合うようになったのだ」
「……悪戯、ですか?」
「ああ。まずローゼフシルトが、ガデーリアンの愛用する葉巻の箱の中身をこっそりすり替えた。ガデーリアンが火をつけた瞬間、真っ黒な煤が爆発して彼の顔面を黒焦げにしたそうだ。ご丁寧に、箱の底には『ブルーサティンを読め』というメモが残されていたらしい」
「はぁ……」
「それに激怒したガデーリアンは報復として、夜中にローゼフシルトの執務室のドアノブと鍵穴に強力な工業用接着剤を流し込み、さらに窓の隙間から大量のヒキガエルを投げ込んだ。翌朝、ローゼフシルトの悲鳴が参謀本部に響き渡ったよ」
「……」
「極めつけは、先日の軍事パレードの前日だ。ローゼフシルトが仕立て屋を買収し、ガデーリアンの軍服のズボンの丈をこっそり数センチだけ短く仕立て直させた。結果、ガデーリアンは皇帝陛下の御前で、ツンツルテンの不格好なズボンで行進する羽目になり、顔を真っ赤にして怒り狂っていた」
ターニャは、こめかみをヒクヒクと引き攣らせながら、深い、深い溜息を吐いた。
「……閣下。あの、大変申し上げにくいのですが。……いい大人が、しかも帝国の将官ともあろう者たちが、そんなしょうもないことをやっているのですか?」
ターニャの冷ややかなツッコミに、ゼートゥーアはこらえきれずに大爆笑した。
「ハッハッハッ! 全くその通りだ! いやー、中佐に正論を言われると、同じ将官として非常に耳が痛いよ」
「笑い事ではありませんよ! そんな最悪な組み合わせの二人がトップに立つ司令部に、私が直属の部下として配属されるのですか!? 作戦行動に支障が出たらどうするおつもりですか!」
ターニャが深刻に抗議するが、ゼートゥーアは涙を拭いながら手を振った。
「まあ、案ずるな中佐。あの二人とも、こと『仕事』に関しては私情を挟まず、極めて冷徹に、真面目にやる連中だ。作戦に支障は出ない。心配いらんだろう」
(嘘だ! 絶対に嘘だ! あのローゼフシルトが私情を挟まないわけがない!)
ゼートゥーアの太鼓判など全く信用できず、ターニャの心には絶望的な不安だけが渦巻いていた。
◇
そして、現在。
装甲軍集団司令部の作戦室。
「直属の火消しを貰ったからといって、思い上がるなよ成り上がりが! 機甲戦のイロハも分からん素人は、黙って私の補給だけを担当していればいいのだ!」
「ほう? 素人とは聞き捨てなりませんな。あなたのその偏執的な突進癖のせいで伸び切る兵站を、過去のデータから完璧に計算して尻拭いをしてやるのが私の仕事ですが?」
「貴様ぁっ……!」
初顔合わせからわずか数分で、早くも司令部の真ん中で子供のような口喧嘩を始めている総司令官と参謀長。
その周囲では、帝国のエリートたる幕僚たちが、青ざめた顔で胃薬の瓶を回し飲みしている。
(……なんてことだ。前線で砲弾の雨を浴びるよりも恐ろしい戦場が、味方の司令部にあったとは……)
入り口の影で、真新しい戦闘団の指揮官章を胸につけたターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、自分の前世からの不運を呪いながら、重い足取りでその地獄の坩堝へと足を踏み入れるのだった。
ギュンター・ブルスティンですね。悲劇の人です。少し生まれるのが遅ければシコルスキーと同じ道を歩めたかもしれない天才です。
気になる人は自分で調べてみてください。