世界に冠たる帝国よ永遠たれ   作:ちんすこー

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第一次モスコーの戦い4

《統一暦1926年11月下旬 東部戦線 ヴァジマ近郊 帝国装甲軍集団司令部》

 

作戦室の空気は、マイナス三〇度の外気よりも冷たく凍りついていた。

 

第一装甲軍の南部戦線が完全に崩壊しつつあるという絶望的な凶報が飛び込んできてから数十分。司令部内には、怒号と悲鳴にも似た無線交信の音声がひっきりなしに響き渡っていた。通信兵たちは血走った目で暗号文を解読し、参謀たちは戦況図に配置された駒を次々と絶望的な方向へと動かしていく。

 

そんな喧騒の渦の中心で、装甲軍集団参謀長ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト少将は、ただ一人、異様なほどの静けさを保ちながら巨大な地図を睨みつけていた。

 

(ジェーコブ元帥……。かつて西方で恐れられた幾多の名将たちと比べても、全く遜色がない。いや、この泥と氷に呪われたルーシーの地においては、彼ら以上か。さすがは西暦世界の化物と似た名前の持ち主だ……)

 

ローゼフシルトは、自らと優秀な帝国の将校たちを出し抜いた敵の最高司令官に対し、純粋な畏敬の念すら抱き始めていた。完璧な軍事合理性を逆手に取ったマスキロフカ。敵の主力が北部にあると完全に誤認させられた結果、第一装甲軍は腹の最も柔らかい部分を完全に無防備な状態で晒してしまったのである。

 

ローゼフシルトは、右頬の裂傷を軽く撫でて、極めて冷徹に現状を振り返った。

 

赤軍の主力である二つの戦車軍は、ノボモスコフスク前面に広がる森林地帯をすでに強引に突破しつつある。そこに配置された臨時の一個軍は、必死の抵抗を試みているが、今日中には完全にすり潰されて壊滅するだろう。

 

そして、その急場を救うために北部から急遽再展開を開始した戦略予備の一個機甲師団が到着するのは明日だ。だが、この師団が単独で到着したところで、数倍の戦力差を持つ赤軍の二個戦車軍の前に晒されれば、二日と経たずに壊滅することになる。さらにその後、北部から遅れて駆けつけてくる部隊も、前任者が消滅した直後の戦場に飛び込むことになり、次々と各個撃破の憂き目に遭う。

 

これが、現在第一装甲軍が陥っている「死の連鎖」であった。

 

(このままでは、第一装甲軍は文字通り完全に壊滅する。我が装甲軍集団の最大の矛が、ここでへし折られることになる……)

 

では、どうすればこの死の連鎖を断ち切ることができるのか。

 

答えは単純だ。後方から向かっている部隊が「同時に」戦場に到着し、どうにかまとまった規模の部隊として一挙に投入できれば、各個撃破を防ぎ、防御陣を敷いて敵の進撃を食い止めることができる。

 

だが、それは現状、物理的に不可能であった。

 

南方から二個戦車軍が突入したのと時を同じくして、モスコーの全前線において、赤軍による移動阻止のためと思われる一斉攻勢が開始されていたのだ。これにより、装甲軍集団の予備戦力は完全に枯渇。さらに、奇跡的に予備がいたとしても、第一装甲軍が壊滅するまでに介入できる距離に存在する部隊は皆無であった。

 

唯一の光明があるとすれば、トゥーラ北部の敵の攻勢が、実はただの欺瞞攻勢であったということだ。あの程度の戦力であれば、あと三日もあれば北部の安全を確保し、さらにもう一個の機甲師団を南部の迎撃に回すことができる。

 

だが、それも結局は「三日後」の話だ。その機甲師団が南部にたどり着く頃には、先の機甲師団たちはすでに赤軍の履帯の下で鉄屑と化しており、やはり各個撃破の餌食となるだけである。

 

(……では、どうするか? 撤退するか?)

 

ローゼフシルトの脳裏に、一つの冷酷な決断がよぎった。

 

第一装甲軍に全軍撤退を命じる。追撃を受けて膨大な損害を出すかもしれないが、主力である機甲部隊の中核戦力はある程度保全できる。そうすれば、第一装甲軍が文字通り「総崩れ」になり、消滅することだけはずっとマシだ。

 

だが、この氷点下の極寒の地において、一度でも撤退のボタンを押せばどうなるか。

 

士気は崩壊し、重火器の大半は雪に埋もれて放棄され、二度と前進する力は失われる。すなわち、この機を逃せば、帝国軍は「モスコーを永遠に落とせなくなる」のだ。

 

(それは駄目だ。ここで引けば、帝国は広大なルーシーの平原で果てしない消耗戦を強いられ、いずれ必ず敗北する。……ならばやはり、何としてでも赤軍主力の進撃を『遅滞』させ、後方からの戦力が同時に到着できるよう、時間を稼ぐしかない)

 

どうする? 一〇〇〇両の赤い鋼鉄の津波を、一体何を使って押し留める?

 

ローゼフシルトは、作戦図の上に引かれた無数の等高線と青い線(河川)を見つめ、極限まで思考を加速させた。

 

その時。

 

彼の灰色の脳細胞が、ある一つの地形的特徴と、気象条件の重なりに気づいた。

 

「……そうだ。これしかないッ!」

 

ローゼフシルトは、作戦机を強く叩いた。

 

 

 

 

《同日 トゥーラ戦域南方 ドゥヴナ》

 

ズヴォーロフの森での血みどろの防衛戦を辛うじて生き延び、前線の押し上げに合わせてドゥヴナの廃墟まで前進し、短い休息を取っていたサラマンダー戦闘団。

 

その臨時指揮所に、直属の上司であるローゼフシルト少将からの暗号化された緊急電が飛び込んできた。

 

『――サラマンダー戦闘団の魔導部隊は、ただちにトゥーラ戦域南部の要衝「ソヴィェツク」へ急行せよ。そして、進撃してくる赤軍主力の戦車群を、川底に突き落とせ』

 

その電文を受け取ったターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、ストーブで温めていた代用コーヒーの入ったマグカップを置き、大きく嘆息した。

 

「また無茶振りが来ましたか……。敵の主力戦車軍を一千両まるごと川底に沈めろ? 我が参謀長閣下は、部下をモーセか何かと勘違いしているのではないのかね?」

 

ターニャは皮肉げに唇を歪めたが、その瞳の奥には、確かな戦術的意図を理解した冷たい光が宿っていた。

 

「大隊、直ちに出撃準備!弾薬とやる気を準備しろ! 凍てつく寒空の下、暑い車内に押し込まれている赤軍の戦車乗りどもに、極上の寒中水泳を楽しんでもらうぞ!!」

 

ターニャの号令とともに、第二〇三航空魔導大隊の魔導士たちが、一斉に猛吹雪の空へと飛び立っていった。

 

 

 

 

《装甲軍集団司令部》

 

「……貴様が、デグレチャフ中佐の魔導部隊を使う決断を下したことは分かった」

 

装甲軍集団総司令官、ハインツ・ガデーリアン上級大将は、腕を組みながらローゼフシルトの提示した作戦図を睨みつけていた。

 

「あの部隊が、一騎当千の精鋭であることは疑いようがない。しかし、参謀長。現実問題として聞きたい。どうやってたかだか六〇人程度の魔導士で、一〇〇〇両を超える赤い鋼鉄の濁流を押し留めるのだね?」

 

ガデーリアンのもっともな疑問に対し、ローゼフシルトは指揮棒で地図上の一点を指し示した。

 

「地形的特性を使います、閣下。……赤軍主力は、大規模な機甲部隊です。彼らが現在の圧倒的な進撃速度を維持し、第一装甲軍の各個撃破を狙うのであれば、足を取られる森林地帯は可能な限り避けなくてはなりません」

 

ローゼフシルトの指揮棒が、ノボモスコフスクから北西へ向かって線を引く。

 

「そうすれば、彼らの通るルートは必然的に絞られます。ノボモスコフスクからキレーエフスクを抜け、そしてソヴィェツクへと至る街道です。もしこれ以外のルートを取ろうとすれば、大幅に南を迂回するか、トゥーラ市街周辺に展開している我が軍の一二万人の部隊が介入できる危険な森をずっと進まねばならず、速度が落ちて各個撃破が不可能となります」

「なるほど、敵は必ずソヴィェツクを通るということだな。だが、それがどうした?」

「ソヴィェツクの前面には、一本の川が横たわっています。ウパ川です」

 

ローゼフシルトの眼鏡の奥で、冷徹な光が閃いた。

 

「現在、マイナス三〇度の極寒により、ウパ川は完全に凍りつき、分厚い氷の板となっています。敵は進撃速度を最優先させるため、時間をかけてポンツーンを架橋するような真似はせず、そのまま氷上を戦車で通過しようとするはずです。……そこを、デグレチャフ中佐の魔導部隊に叩かせます」

 

ローゼフシルトは、気象データの書類をガデーリアンの前に置いた。

 

「都合の良いことに、先月の異常な雨季の影響で、ウパ川の水位は大幅に上がっており、川幅は通常時の数倍に広がったまま凍結しています。つまり、敵が氷上に乗った瞬間に足元の氷を粉砕してやれば、一度に膨大な数の赤軍戦車を、極寒の川底へと叩き落とすことができるのです」

 

その恐るべき発想に、周囲の参謀たちが息を呑んだ。

 

「だが、敵も無防備に渡河するわけがない」

 

ガデーリアンは厳しい顔で指摘した。

 

「情報によれば、連邦側の戦車軍の主力には、直掩として四個大隊もの魔導部隊が付随している。いかにデグレチャフ中佐とはいえ、六〇人で敵の魔導部隊の相手をしながら、同時に氷を割るための術式を構築するのは厳しかろう」

「ええ、その通りです。ですから、その障害は他が取り除きます。……現在、第一装甲軍の管轄下にある二個魔導大隊を、直ちにウパ川上空へ投入し、敵魔導部隊への迎撃と足止めを行わせます」

「な、なんだと!?」

 

ガデーリアンが目を見開いた。

 

帝国軍の組織体系、いわゆる任務戦術(アウフトラークス・タクティク)において、前線指揮官の裁量権は極めて大きく尊重されている。上位組織である装甲軍集団の参謀長が、下位の第一装甲軍が直轄している魔導部隊を、彼らの頭越しに直接引き抜いて別の任務に就かせるなど、明らかな越権行為であり、軍の命令系統を揺るがす大問題であった。

 

「ローゼフシルト、貴様! それがどれほどの軍紀違反か分かっているのか! ヘト大将が黙ってはいないぞ!」

「承知の上です。ですが、今この瞬間、あの戦車軍を止めなければ第一装甲軍は消滅します!聡明な ヘト大将ならきっとわかってくださるはずです。……閣下、どうかご決断を!」

 

ローゼフシルトの悲壮な決意を込めた瞳を見つめ返し、ガデーリアンは数秒間の沈黙の後、ニヤリと猛獣のような笑みを浮かべた。

 

「……フッ。お前がそこまで言うのなら、乗ってやろう。軍紀違反の責任は、総司令官であるこの私が引き受ける! 私が直接ヘトを怒鳴りつけてでも、第一装甲軍の二個大隊を引き抜いてやる!」

「感謝いたします、閣下!」

 

 

 

 

《トゥーラ南方 ウパ川近郊》

 

分厚い雪雲が垂れ込める、灰色の空。

その吹雪の舞う上空で、凄まじい閃光が飛び交っていた。

 

第一装甲軍所属の二個魔導大隊と、赤軍の四個魔導大隊による、血みどろの空中戦である。

だが、多勢は明らかに赤軍側にあり、帝国軍の魔導士たちは敵の猛攻を前に防戦一方となっていた。彼らの目的はあくまで敵魔導士の足止めであり、眼下の氷上へと迫る赤軍主力の戦車軍には、指一本触れることすらできていなかった。

 

そして、空の死闘を嘲笑うかのように。

無数のT−34中戦車とKV重戦車が、轟音とともにソヴィェツク前面のウパ川へと到達した。

 

「前衛小隊、渡河を開始しろ。氷の厚さを確認しろ!」

 

赤軍の戦車指揮官の命令を受け、数両のT−34が慎重に氷結したウパ川の上へと乗り出していった。

ミシミシという氷の軋む音が響くが、異常な寒波によって分厚く凍りついた氷の層は、三〇トン近い戦車の重量を完璧に支え切った。前衛小隊が何事もなく対岸へと到達したのを確認し、赤軍の指揮官は全軍に突撃を命じた。

 

「よし、氷の強度は十分だ! 全軍、前進! 時間を惜しめ、一気に渡り切れ!!」

 

轟音とともに、何百両という戦車の群れが、一斉にウパ川の氷上へと雪崩れ込んでいく。

戦車の車体や砲塔には、タンクデサントの歩兵たちが、防寒着に身を包み、寒さを紛らわすためのウォッカを煽りながら、鈴のようにびっしりと乗り込んでいた。

 

その赤い鋼鉄の濁流が、凍りついた川面を黒く埋め尽くしていく光景を。

ウパ川の対岸の土手、雪を被った森の陰から、じっと見つめているおよそ六〇の影があった。

 

「……中佐殿。敵の先頭が、川の中央を越えました。やりますか?」

 

白い冬季迷彩ポンチョを被ったヴァイス大尉が、逸る気持ちを抑えきれずに囁く。

だが、部隊の先頭に伏せているターニャは、双眼鏡から目を離さず、氷のように冷たい声で命じた。

 

「待て。まだだ。……もっと引きつけろ。一匹残らず、極寒の地獄へ叩き落としてやる」

 

ギリギリの判断。

赤軍の戦車群は、その数を増しながら氷上を埋め尽くしていく。エンジン音が地響きとなってターニャたちの腹の底を揺らす。

 

そして、戦車軍の先頭が川幅の六割を過ぎ、最も多くの戦車が氷上に乗った、まさにその絶好の瞬間。

 

「今だッ!!」

 

ターニャは跳ね起き、宝珠を極限まで輝かせながら、全大隊に向けて通信で叫んだ。

 

「第二〇三航空魔導大隊、目標、眼下の氷面! 全力で術式を展開しろ! ――七〇〇年前のペイパス湖の、先祖の仇を取ってやれ!!」

 

一二四二年、ペイパス湖の氷上において、騎士団がルーシの軍勢に氷を割られて冷たい湖底へと沈んだ『氷上の戦い』。

その七〇〇年越しの意趣返しとも言える命令に、帝国魔導士たちの口元に凶悪な笑みが浮かんだ。

 

「「「おおおおおォォォォォォッ!!」」」

 

対岸の森の中から、突如として六〇発もの最大出力の爆裂術式と光学術式が、川面の氷に向けて一斉に解き放たれた。

 

「なっ!? 敵の伏兵だ! 上空の魔導部隊は何をしている、迎撃しろ!!」

 

赤軍の戦車長が絶叫する。

異変に気づいた連邦側の魔導部隊が急降下しようとしたが、その瞬間、それまで防戦一方だった帝国の二個魔導大隊が死に物狂いで組み付き、これを完全に阻止した。

 

ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!

 

ウパ川の数キロにわたる範囲で、鼓膜を破るような大爆発が連続して巻き起こった。

爆炎が吹き荒れ、分厚い氷の層が悲鳴を上げて砕け散る。

 

「ひぃっ!? 氷が、氷が割れ――――」

 

戦車に乗っていたタンクデサントの歩兵たちの絶望の叫びは、直後に巻き起こった水柱の音にかき消された。

 

砕け散った氷のクレバスへと、無数のT−34やKV重戦車が、次々と頭から、あるいは側面から、まるでブラックホールに吸い込まれるように転落していく。

マイナス三〇度の外気よりもさらに致命的な、氷点下ギリギリの極寒の川水が、戦車のハッチから滝のように流れ込み、中にいる乗員たちを瞬時に凍死させ、溺死させていく。車体にしがみついていたタンクデサントの歩兵たちも、重い防寒着が水を吸って鉛のように重くなり、誰一人として岸へ泳ぎ着くことなく、川底へと沈んでいった。

 

「ついでだ、架橋用の機材を積んだトラックも叩き潰せ!」

 

ターニャの容赦ない追撃術式が、後方で待機していた赤軍の工兵部隊と架橋設備を次々と火ダルマに変えていく。

 

実に百両近い戦車と、それに付き添っていた大量の歩兵が、一瞬にしてウパ川の冷たい底へと沈んだ。そして何より、渡河ルートとなる氷が完全に粉砕され、架橋設備も破壊されたことで、赤軍の二個戦車軍は、この後ウパ川を渡るために膨大な時間を空しく消耗することが完全に確定したのである。

 

「任務完了! これより上空の空戦に介入し、友軍を援護する!」

 

ターニャの第二〇三航空魔導大隊は、そのまま上空のドッグファイトへと乱入。混乱する連邦側の魔導部隊の背後を突き、壊滅的な打撃を与えた。

その後、これ以上の貴重な魔導戦力の消耗を嫌った装甲軍集団司令部からの帰還命令を受け、ターニャたちは大打撃を受けた第一装甲軍の魔導大隊を伴って、悠々とドゥヴナの基地へと帰還していった。

 

 

 

 

《三日後 連邦軍モスコー防衛軍司令部》

 

「……事態は、最悪の状況に陥ったな」

 

カシーラの地下司令部で、ジェーコブ元帥は虚ろな目で戦況図を見つめていた。

結局、赤軍の二個戦車軍は、ターニャたちによって粉砕されたウパ川の氷を迂回し、新たな架橋設備をかき集めて渡河を完了させるまでに、丸一日以上の貴重な時間を空費してしまった。

 

そのたった一日の隙に、事態は完全に逆転した。

帝国軍は、後方から駆けつけた戦略予備の一個機甲師団を南部の戦線に到着させた。さらに、北部の攻勢がマスキロフカであり、実はたいした戦力ではないと悟った第一装甲軍は、即座に北部からもう一個の機甲師団を引き抜き、南部の迎撃へと回したのである。

 

二つの機甲師団が合流し、堅牢な対戦車防御陣地を構築した帝国軍。

そこに、時間をロスして焦りながら突っ込んできた赤軍の二個戦車軍。

結果は、火を見るよりも明らかであった。

 

個別の戦車の性能では赤軍が勝る部分もあったが、無線通信設備すら満足に積んでいない赤軍戦車部隊の連携不足と、総合的な戦術練度において、帝国軍は赤軍を完全に凌駕していた。

陣形を整え、完璧なキルゾーンを形成した帝国の八.八センチ砲と七.五センチ砲の前に、連邦の二個戦車軍の前進は完全に停止し、膨大な残骸の山を築き上げる結果となった。

 

さらに、帝国第一装甲軍の移動を阻止するためにモスコー全域で実施していた赤軍の総攻勢も、連日の部隊の損耗により、そろそろ限界が近づいてきていた。

あと一週間もすれば、予備兵力も弾薬も尽き、全ての攻勢を停止せざるを得ない状況であった。それまでに、足止めを食らった赤軍の二個戦車軍が、陣形を立て直した帝国第一装甲軍を突破できる見込みは、はっきり言ってゼロであった。

 

(……どうしてこうなった)

 

ジェーコブは、タバコを握り潰しながら歯噛みした。

ウパ川の氷さえ砕かれなければ、赤軍の二個戦車軍は到着したばかりの戦略予備の一個機甲師団をすりつぶし、その後急行してきたもう一個の機甲師団も完全に各個撃破できたはずだ。

さらに言えば。あのロリヤがあんな狂気的な冒険を行わず、NKVD一個軍が万全の状態で北部の偽装攻勢に参加していれば、帝国軍は北部に張り付けにされ、南部に二つ目の機甲師団が追加されることは絶対に無かった。

 

そうなっていれば、赤軍は第一装甲軍を撃破し、モスコーを救えていたはずなのだ。

 

だが、戦場に「もしも」は存在しない。

ジェーコブは、重い足取りで通信機へと向かい、専用の直通電話の受話器を手に取った。

 

相手は、スタフカのあるカイベジェフで、モスコー防衛の吉報を待つ同志書記長である。

数回のコール音の後、ジュガシヴィリの静かな声が聞こえた。

 

『……どうしました、同志ジェーコブ。良い知らせですか?』

 

ジェーコブは、大きく深呼吸をし、自らの命を天秤にかけるような覚悟で、単刀直入に告げた。

 

「書記長同志。……モスコーの放棄と、赤軍残存部隊の東方への撤退を要請いたします」

 

『…………』

 

受話器の向こうから、恐ろしいほどの沈黙が流れた。

永遠とも思える数秒の後、ジュガシヴィリは感情を完全に押し殺した声で尋ねた。

 

『……モスコーの防衛は、不可能なのですか?』

 

「はい。第一装甲軍の撃破に失敗しました。これ以上戦線を維持すれば、残存する防衛軍全てが包囲され、消滅します。……勝機は、完全に断たれました」

 

再び、重苦しい沈黙が降りた。

ジェーコブは、受話器を持つ手が冷たい汗で滑るのを感じながら、粛清の銃殺宣告を待った。

 

だが、ジュガシヴィリの口から紡がれたのは、予想外の言葉であった。

 

『……わかりました。撤退を許可します。兵力を温存し、次なる防衛線を構築しなさい。……これからも、祖国のために励んでください、ジェーコブ元帥』

 

「っ……! はっ! ありがたき幸せ……!」

 

ジェーコブは、受話器を置くと同時に、膝から崩れ落ちるようにして小さく安堵の息を吐き出した。

彼は生き延びた。そして、連邦の軍隊もまた、首の皮一枚で生き延びたのだ。

 

 

 

 

その後、モスコー周辺に展開していた赤軍は、まるで潮が引くように、一斉に東方への撤退を開始した。

 

ジェーコブ元帥はその類稀なる戦術眼を発揮し、撤退戦を的確に指示。帝国軍による苛烈な追撃と空爆を巧みに躱し続け、赤軍の主力をなんとか後方へと逃し続けた。

 

雪原での追撃と遅滞戦闘は長引いた。

一二月の上旬には、帝国第一装甲軍がついにトゥーラを完全に掌握。

そして一二月中旬からは、もはや少数の民兵や殿部隊しか残されていないモスコーの市街地に帝国軍が突入し、最後の掃討戦が開始された。

 

そして、運命の統一暦一九二六年、一二月二五日の夜。

天はかつての聖人を祝福してか、それとも帝国軍の成し遂げた快挙を祝福してか、連日の吹雪はこの聖なる日だけ止み、綺麗な星空を地上の帝国軍に見せつけた。

 

帝国の歩兵部隊と魔導大隊が、クレムリン宮殿を守護する最後の連邦軍大隊を完全に掃討した。

銃声が止み、静寂が戻った赤の広場。

クレムリンの最も高い尖塔から、これまで誇り高く翻っていた連邦の赤旗が静かに降ろされ……代わりに、勝者たる帝国の国旗が、冬の夜空に高々と翻った。

 

ここに、百万の血が流れたと言われる『第一次モスコーの戦い』は終結した。

秋津洲皇国と合州国の開戦によって世界が完全に二つに割れたこの月、帝国はついに、ルーシー連邦の心臓たる首都モスコーをその手に収めたのであった。

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