《統一暦1927年2月 帝国 工業都市ヴォルフスブルク》
大戦争という巨大な怪物は、絶え間なく鉄と血と油を喰らい続ける底なしの胃袋を持っている。
前線においてどれほど優秀な将軍が天才的な作戦を立案し、どれほど精強な兵士が奮戦しようとも、彼らの手元に届く銃弾が尽き、戦車が動かなくなれば、その瞬間に軍隊はただの肉の壁へと成り下がる。すなわち、近代の総力戦において真の勝敗を決するのは、前線の勇猛さではなく、後方の『生産力』である。
そして今、帝国軍需生産のライン工業地帯に次ぐ心臓部たる巨大工業都市ヴォルフスブルクでは、その怪物の胃袋を満たすための狂気的な生産が、昼夜の区別なく行われていた。
「……信じられないね。いつ見ても、ここは神の作りたもうた魔法の箱か何かと錯覚してしまう」
巨大な工場のキャットウォークから、眼下に広がる途方もない規模の生産ラインを見下ろしながら、帝国軍需大臣アルバート・シュパーヤは深いため息を漏らした。
シュパーヤの眼下では、数万人の労働者たちが、緻密に計算されたコンベア・システムの上で、文字通り休むことなく手を動かしていた。そこでは、熟練の職人技はもはや必要とされていない。全ての部品は完全に規格化され、誰が組み立てても同じ品質になるように工程が極限まで細分化されていた。
その結果として生み出される生産ペースは、諸外国の軍需工場の工場長が見れば発狂しかねないほどの異常な数値を叩き出していた。
このヴォルフスブルクの工場群だけで、一時間に二機のペースで最新鋭の戦闘機がロールアウトし、一日に一〇〇〇台もの軍用トラックとハーフトラックが組み立てられ、そして一週間に一個大隊分の戦車が真新しい塗装を施されて貨車へと積み込まれていく。
まるで、無限に兵器が湧き出す泉であった。
そして、この帝国の膨大な戦時生産の中核を担い、ヴォルフスブルクという都市そのものを支配している巨大企業こそが、ローゼフシルト財閥の自動車部門――『フォルクスワーゲン』であった。
◇
フォルクスワーゲンという巨大な怪物の誕生を語るには、今から十六年前、統一暦1911年まで遡る。
当時、帝国のとある有力な自動車会社で技術部長を務め、天才設計者としてその名を轟かせていたフォルデウス・ポルシェ博士の執務室に、一人の男が乗り込んできた。
その男は、最近帝都で凄まじい速度で事業を拡大している新興財閥の総帥、ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルトであった。
「単刀直入に言おう、ポルシェ博士。私がこれから立ち上げる全く新しい自動車部門の、筆頭技師になってほしい」
ローゼフシルトはそう言うなり、ポルシェ博士の机の上に、ボストンバッグから取り出した途方もない額の札束を、文字通り山のようにおっ建ててみせた。
だが、根っからの技術屋であり、金よりも自らの理想を形にすることを愛していたポルシェ博士は、目の前の札束の山に全く動じなかった。
「お引き取り願おう。私は今、我が社の新しいスポーツカーのプロジェクトを指揮している。それを途中で投げ出すような真似は、技術者としての誇りが許さない」
ポルシェ博士は冷たく一蹴し、ローゼフシルトを追い返した。
通常であれば、これで交渉は決裂である。だが、ローゼフシルトは通常の人間ではなかった。
その翌週から、ローゼフシルトは度々、いや、執拗にポルシェ博士のもとを訪れるようになった。
朝、博士が出社しようとすると家の前にローゼフシルトが立っており、昼食を食べにレストランへ行けば向かいの席にローゼフシルトが座っており、夜、仕事帰りにパブに寄れば隣の席でローゼフシルトがビールを飲んでいた。
「しつこい! 君は私のストーカーか何かかね!」
ノイローゼ気味になったポルシェ博士が怒鳴ると、ローゼフシルトは事も無げに答えた。
「何を言うか。私は東洋の偉大な書物に記されている三顧の礼という崇高な習慣に従って、貴方のような天才を熱烈にスカウトしているだけだ」
生粋の西洋人であるポルシェ博士にとって、東洋の故事に書かれているサンコノレイなど知ったことではない。それに、すでに三回どころか三十回以上は余裕で訪ねてきている。それは三顧の礼ではなく、ただの悪質なつきまといであった。
その後もローゼフシルトの嫌がらせスレスレの熱烈な勧誘は続き、一年が経過した1912年の冬。
ついにその常軌を逸したしつこさと、ローゼフシルトが提示した「国民全員が買える、安価で頑丈な大衆車を作る」という壮大なビジョンに根負けし、ポルシェ博士は首を縦に振った。
そこから、フォルクスワーゲンの歴史は爆発的な加速を始める。
この財閥の自動車部門となる中核会社の名前は、ローゼフシルトによって『国民車(フォルクスワーゲン)』という、野望に満ち溢れた名が冠された。
当初、フォルクスワーゲンの出資者はローゼフシルト個人と彼の財閥のみであった。だが、1913年から帝国政府が主導して始まった第一次4ヵ年計画の波に乗り、ローゼフシルトは持ち前の政治力と弁舌をもって、政府中枢にこのプロジェクトを大々的に売り込んだのである。
「国家のインフラ整備と国民生活の向上には、国民車が不可欠である」と説き伏せ、見事に国からの莫大な出資を引き出すことに成功した。
そして、国とローゼフシルト財閥は、帝都から離れた何もない荒野の土地に、一から巨大な自動車工場と、労働者が住むための企業城下町を建設し始めた。
当初、この町の名前について、政府の役人が「歓喜力行団の車市」などという、プロパガンダ丸出しの何の面白味もない名前を提案してきた。
これを聞いたローゼフシルトは、「ネーミングセンスを母親の胎盤に置き忘れてきたのか、貴様らは」と役人を完膚なきまでに罵倒し、付近にあった古い城砦の名を取って『ヴォルフスブルク』と自ら命名。それがそのまま正式名称として定着した。
そして1918年。
フォルクスワーゲンの勃興の立役者であり、ポルシェ博士の技術の結晶である小型大衆車『タイプ1』――通称『ビートル(カブトムシ)』が誕生した。
この「ビートル」という愛称も、丸っこい外装を見たローゼフシルトが最初に言い出したものであり、いつの間にか公式名称としてカタログに載るようになった。
このビートルは、当時の帝国の他の自動車メーカーが作っていた高級で壊れやすい自動車とは一線を画していた。空冷水平対向エンジンをリアに積み、極寒の冬でも確実に始動し、大人四人が乗ってアウトバーンを時速一〇〇キロで巡航できる性能を持ちながら、価格は労働者の数ヶ月分の給料で買えるという、常識外れの安さであった。
ビートルは、瞬く間に帝国の自動車市場を席巻した。
その価格を実現させたのが、ローゼフシルトが導入した生産方式である。
当初、ローゼフシルトはどこから得たのか分からない知識をひけらかし、「必要なものを、必要な時に、必要な量だけ作る『ジャストインタイム方式』こそが至高である」と工場長たちに語っていた。
だが、現実は彼の予想を遥かに超えていた。当時の帝国は、政府主導によるアウトバーンの急速な整備や、都市部の再開発に伴う道幅の拡大、そして何より国民の所得の劇的な上昇により、モータリゼーションへの爆発的な過渡期にあったのだ。
作っても作っても、ビートルは飛ぶように売れた。ディーラーの前には予約待ちの市民が長蛇の列を作り、ジャストインタイムなどと悠長なことを言っている場合ではなくなった。
結局、工場はラインの増設に次ぐ増設を重ね、合州国の某T車の方式をさらに洗練させたような超大量生産方式へと自然とシフトしていったのである。
車の需要拡大に伴い、企業城下町であるヴォルフスブルクも無尽蔵に拡大していった。
広大な敷地に大量の工場群が立ち並び、巨大な煙突が煙を上げ、数万人の労働者が帝国民の「足」を生産し続けた。その結果、1923年の時点で、フォルクスワーゲンは帝国のみならず、世界中に存在するあらゆる自動車競合メーカーを完全に押し退け、年産一二〇万台という途轍もない生産量を見せつけた。第二位のメーカーにトリプルスコアの差をつける、文字通りの怪物企業へと成長し、その名に恥じないだけの実績を残したのである。
そして、その巨大な生産設備と洗練されたライン、そして何より大量生産のノウハウは、大戦争が勃発すると同時に、すぐさま軍需工場へと姿を変え、帝国軍の怒涛の快進撃を物理的に支える巨大な兵器廠となったのである。
◇
「……それにしても、まさか私が軍需大臣として、またもやこのバケモノのような工場を統括する立場になるとはね」
シュパーヤは、手すりに寄りかかりながら、自らの数奇な運命を振り返って苦笑した。
彼とローゼフシルトの出会いは、今から十二年前の統一暦1915年。帝都の薄暗いビアホールでの出来事からであった。
当時のシュパーヤは、元々は数学者を志していたが父親の反対で挫折し、建設家を志して大学で学んでいる最中の、政治には大して興味のない平凡な青年であった。
だが、友人に誘われてたまたま訪れたビアホールで、彼は運命と出会った。
そこでは、当時まだ泡沫政党であった政治団体の集会が開かれており、壇上では一人の男――ペルツルが、熱を帯びた演説を行っていた。
ペルツルの演説は、論理的というよりは感情に直接訴えかけるような、奇妙な引力を持っていた。シュパーヤは、自分でも理由が分からないまま、その演説に強い印象を受け、魂を揺さぶられた。
次の日も、シュパーヤはそのビアホールに通った。そこではペルツルの右腕であるガッペルスが、民衆を煽り立てるような扇動的な演説を行っていた。ガッペルスの狡猾で薄気味悪い話し方には強い不快感を覚えたが、それでもやはり、前日に見たペルツルの姿が頭から離れなかった。
そして数日の思案の後、シュパーヤはついに、ペルツルが率いる『帝国のための選択肢』という政党への入党届にサインをしたのである。
(そういえば、あの『帝国のための選択肢』とかいう、何となく政党っぽくない浮いた名前も、ローゼフシルト閣下が考案したものだったな……)
シュパーヤは、後になって知った事実を思い出しながら、小さく息を吐いた。
彼の人生が決定的に狂った(あるいは開花した)のは、入党したわずか三日後のことであった。
突然、彼の下宿のドアがノックされ、そこに立っていたのは、他ならぬ党首のペルツル本人であった。
「君に会いたいという人がいる。ついてきたまえ」
ペルツルはそれだけを言い、状況が理解できずに戸惑うシュパーヤを車に乗せ、帝都のとある高級ホテルの一室へと連れて行った。
そこに待っていたのが、ローゼフシルトであった。
重厚な革張りのソファに深く腰掛けたローゼフシルトは、葉巻の煙を燻らせながら、緊張して直立不動になっている若きシュパーヤを値踏みするように見つめ、口を開いた。
「君は、元数学者志望の、現建設家志望のアルバート・シュパーヤ君だね? 成績は優秀だが、少し頭が固いという評価のようだが」
シュパーヤは背筋が凍る思いがした。ただの一般の学生である自分の過去から現在の志望、さらには個人的な評価まで、目の前の男は完全に把握しているのだ。
何か恐ろしい組織に目をつけられたのではないか。シュパーヤが恐怖のあまり思わず正直に首を縦に振ると、ローゼフシルトは満足そうに、酷く邪悪な笑みを浮かべた。
「よし。君は今日から、うちの財閥の生産管理監督になってもらう」
「……はい?」
シュパーヤの口から、間抜けな声が漏れた。
建設家志望の学生に対して、いきなり大財閥の生産管理監督をやれというのである。意味が分からなかった。
「あ、あの……私はまだ学生ですし、経営や生産管理の経験など一切……。申し訳ありませんが、そのお話は……」
シュパーヤはちびりそうになるほどの恐怖を感じ、何とか断ってこの部屋から逃げ出そうと後ずさりした。
だが、その時にはすでに、ローゼフシルトが俊敏な動きでシュパーヤの背後に回り込み、彼の肩をガッチリと組んでいた。
「遠慮することはない! 君の頭脳と、構築への情熱は、必ず我が財閥の生産ラインを美しくデザインしてくれるはずだ! さあ、就職祝いだ、パーッと飲もうじゃないか!」
逃がさないとばかりに肩を掴まれたまま、シュパーヤはそのまま帝都でも一握りの特権階級しか入れないような滅茶苦茶高級なクラブへと連れ込まれた。
そこでは、シュパーヤがこれまで見たこともないような絶世の美女たちが次々と侍り、極上のワインとシャンパンが湯水のように注がれた。童貞同然の真面目な学生であったシュパーヤは、美女たちの甘い言葉とローゼフシルトの巧みな話術に完全にペースを呑まれ、べろべろに酔わされてしまった。
そして翌朝。
激しい頭痛とともに見知らぬ豪華なホテルのベッドで目を覚ましたシュパーヤは、サイドテーブルの上に置かれていた『ローゼフシルト財閥・生産管理最高責任者就任ならびに、終身雇用同意書』という、自らの血判とサインがバッチリと記された恐ろしい書類を見て、完全に退路を断たれたことを悟ったのである。
もはや逃げ場を失ったシュパーヤは、腹をくくり、大人しくローゼフシルト財閥の本社に出頭した。
そして、彼の中に眠っていた『合理化と管理の天才』としての才能が、ここで一気に開花することになる。
当時のローゼフシルト財閥は、総帥であるローゼフシルトの前世知識頼みによる急速すぎる事業の多角化(自動車、重工業、化学、食品など)により、組織構造が肥大化し、経営上色々と非効率的な部分が目立っていた。
ローゼフシルトから「好きにやっていい」と全権を渡されたシュパーヤは、元数学者志望らしい冷徹な計算と、建設家としての「無駄のない構造美」を追求し、財閥内の徹底的な改革を強行した。
重複する部署の統廃合、生産ラインの規格化、部品の共通化、不採算部門の容赦ない切り捨て。
幹部からの猛反発に遭いながらも、ローゼフシルトの後ろ盾を得たシュパーヤは冷酷に改革を推し進め、結果として、ローゼフシルト財閥の生産効率を数倍に跳ね上げた。彼の手腕により、財閥は帝国内で最大規模、最強の生産力を持つ組織へと完全に変貌を遂げたのである。シュパーヤはまさに、ローゼフシルト財閥拡大の最大の立役者であった。
そして、大戦争が勃発した後。
ローゼフシルト財閥で見せた彼の類稀なる管理手腕が高く評価され、総帥ローゼフシルトと、今や帝国宣伝大臣となったペルツルからの強い推薦(という名の強制)により、シュパーヤは内閣入りを果たし、軍需大臣という帝国戦時経済の最高責任者に就任することとなったのである。
◇
「……ローゼフシルト閣下。私の人生を滅茶苦茶にしてくれましたね。建設家になって、美しいオペラハウスでも設計したかったというのに」
シュパーヤは、眼下で流れ続ける軍用トラックのシャーシを見つめながら、冗談めかして毒づいた。
だが、彼の目には強い光が宿っていた。
東部戦線では、帝国軍がモスコーの奪取に成功したものの、後退したルーシー連邦赤軍はいまだ健在であり、広大な占領地ではパルチザンとの血みどろの治安戦が続いている。さらに、大平洋では皇国が合州国と開戦し、世界は完全に真っ二つに割れてしまった。
合州国という、帝国をも凌駕する理不尽な工業力を持つ怪物と、最終的な決戦を行う日は必ず来る。
「連邦の赤い濁流も、合州国の資本の暴力も、全てこの私が構築した生産の防波堤で食い止めてみせる。……帝国の工場は、決して止まらせはしない」
シュパーヤは、軍需大臣としての重責を自らの双肩に感じながら、不夜城のごとく稼働し続けるヴォルフスブルクの工場群に向けて、静かに、しかし確固たる決意を込めて宣言した。
鉄と油の匂いが立ち込めるこの巨大な空間こそが、彼が構築した、帝国の命運を握る最も美しく、最も恐ろしい前線であった。
ナチがいなかったらフォルクスワーゲンもなかった事に気付いたので書きました。