感想を見る限り皆さん核が大好物のようなので投下します。
《統一暦1927年4月下旬 協商連合北部 リカン山脈奥地》
山を削り落とすかのような猛吹雪が、視界の全てを白銀の絶望へと塗り潰していた。
気温はマイナス二五度。肺腑を凍てつかせる極寒の気流が渦巻く中、険しい渓谷の断崖に張り付くようにして聳え立つ巨大な近代建築があった。
帝国が協商連合を従属させたのち、その豊富な水力発電能力と清冽な山水を利用して極秘裏に稼働させていた化学複合施設――『ヴァマラク重水素濃縮工場』である。
垂直に切り立ったフィヨルドの岩肌、高さ百メートルの崖の上に鎮座するその工場は、地上からの接近を完全に拒絶する天然の天険に守られていた。唯一の進入路である吊り橋には帝国の警備兵が重機関銃を据え、周囲には対空陣地が幾重にも張り巡らされている。
だが、この「不落の要塞」へ向けて、猛吹雪の暗闇を切り裂きながら音もなく降下してくる影の群れがあった。
「高度よし。全機、光学迷彩術式および熱源遮蔽術式を最大出力で維持せよ。……これより、我らは神の領域を侵す悪魔の工房を破壊する」
雪交じりの無線機から流れる、抑揚を削ぎ落とした指揮官の囁き。
冬季迷彩服に身を包み、最新鋭の消音型演算宝珠を胸元で微かに脈動させているのは、潜水艦によって運ばれてきたアルビオン王立陸軍に所属する一個増強魔導大隊であった。
彼らに下された勅命はただ一つ。「帝国の手による『太陽の火』の完成を、いかなる犠牲を払ってでも阻止せよ」。
太西洋を渡る補給線を締め上げられ、本土爆撃すらも期待するような戦果を上げられない連合王国にとって、帝国の核開発疑惑は喉首に突きつけられた冷たい刃そのものであった。情報部のサー・アーサー・シンクレアが血の滲むような諜報戦の末に突き止めたこの重水素工場こそ、帝国が開発を進めている未知の戦略兵器における「最大のチョークポイント」であると確信されていたのである。
「風速二五メートル、視界五〇。帝国軍の警戒レーダーは、この猛吹雪と谷底の乱気流で完全に盲目となっている。……突入せよ!」
合図とともに、数十の魔導士たちが鳥が翼をすぼめるように、断崖絶壁の隙間を縫って急降下した。
彼らは正面の吊り橋を完全に無視し、工場の真下、水力発電用の巨大な水圧鉄管が走る急斜面へと直接滑り込んだ。
警備兵が異変に気づいた時には、すでに勝負は決していた。
プシュッ、プシュッという消音小銃の微かな発射音とともに、工場の外縁を見回っていた帝国の警備兵たちが次々と雪の上へ崩れ落ちる。魔導士たちは一切の喚声を上げず、機械のような無駄のない動きで工場の地下搬入口の分厚い鉄扉を融解術式で焼き切った。
「目標区画、地下の高圧電解セル室だ。工場の全滅ではなく、電解濃縮装置の心臓部を確実に粉砕する。設置後三分で爆破。急げ!」
冷たいコンクリートの通路を駆け抜け、彼らは迷うことなく最深部のプラントへと到達した。
そこには、銀色の巨大な円筒状の電解槽が幾重にも立ち並び、何万ボルトもの電流が流れる低音の唸りを上げていた。これこそが、通常の水からわずか数千分の一の割合でしか得られない貴重な「重水」を、分子レベルで分離・濃縮するための心臓部であった。
魔導士たちは背負っていた成形炸薬を手際よく電解槽の連結パイプや高圧ポンプへと貼り付けていく。
「全てのセット完了!」
「信管作動、残り一八〇秒! 離脱するぞ!」
彼らが工場の換気ダクトから夜空へと飛び出した、まさにその瞬間であった。
ズズズ……と大地が底から震え、次の瞬間、ヴァマラクの地下深くから閃光が噴き上がった。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
鼓膜を破る大爆発とともに、数万トンのコンクリートと鉄骨が飴細工のように吹き飛び、工場の中心部が真っ赤な火柱となって雪雲を突き破った。次々と誘爆する高圧タンクの爆炎が、氷河の谷を白昼のように照らし出す。
「爆破! 重水濃縮プラント壊滅!!」
「任務成功だ! 総員、吹雪に紛れて集結地点へ脱出せよ!!」
炎上する要塞工場を眼下に見下ろしながら、アルビオンの魔導士たちは満足げに反転し、極寒の闇の中へと消え去っていった。
これで帝国の恐るべき太陽の火は、少なくとも数年の間、完全に凍結されるはずだ――彼らはそう確信し、祖国を救った栄光に胸を震わせていた。
◇
《翌日 帝都ベルン 参謀本部》
「協商連合北部のヴァマラク工場が……全滅だと!?」
「警備隊は何をしていた!……悪天候を突いて潜入されたなど言い訳にならんぞ!」
「重水の生産設備が吹き飛んだのだぞ! 計画はどうなる! 我が帝国の未来を握る戦略研究が、これで水泡に帰したではないか!!」
参謀本部の作戦会議室は、蜂の巣をつついたような大混乱に陥っていた。
壁一面の地図の前で将官たちが怒声を張り上げ、情報部の将校たちは青ざめた顔で書類の束を抱えて走り回っている。重水素工場が受けた壊滅的な打撃の報は、それほどまでに参謀本部の面々の肝を冷やしていた。
そんな狂乱の喧騒を、冷めた紅茶を一口すすりながら、冷ややかに眺めている男がいた。
ローゼフシルト中将である。
彼は騒ぎ立てる将官たちに声をかけることもなく、手帳を胸ポケットにしまうと、誰にも引き止められることなく静かに会議室を退出した。
赤絨毯が敷かれた長い廊下を下り、参謀本部の正面玄関を出ると、冷たい雨の降る車寄せに、一台の漆黒の高級車がエンジンを低く唸らせて待機していた。
車体には軍の記章も、財閥の紋章もない。ただ、漆黒の塗装と防弾ガラスの奥に、絶対的な国家権力の冷徹さを漂わせている。
ローゼフシルトが近づくと、運転席から降りてきた黒革の手袋をはめた男が、無言で最敬礼をし、後部座席のドアを恭しく開けた。
帝国国家保安警察の手配した車であった。
「……予定通りか?」
ローゼフシルトが乗り込みながら短く問うと、運転手の捜査官は表情一つ変えずに頷いた。
「はい、中将閣下。長官が市内の指定ホテルにて、お待ちでございます」
車は静かに発進し、本格的な灯火管制が敷かれた帝都の暗闇の中を、水すましのように滑らかに走り出した。
◇
《同日夜 帝都ベルン郊外 カイザーホーフ最上階特別室》
厳重な警備が敷かれたホテルのスイートルーム。
暖炉の中でパチパチと薪が爆ぜる音だけが、静謐な空間を満たしていた。
「外は随分と冷え込んできたようですね、ローゼフシルト中将閣下」
暖炉の前に置かれた革張りのソファから立ち上がり、優雅な仕草で一礼したのは、帝国国家保安警察の頂点に君臨する男――長官であった。
仕立ての良い純黒の制服に身を包んだその長身痩躯の姿は、まるで大理石の彫刻のように完璧であり、透き通るような青い瞳と整った鼻梁は、見る者に底知れぬ威圧感を与える。
「ああ、四月だというのに、まるでルーシーの冬の名残がここまで追いかけてきたかのような冷たさだよ」
ローゼフシルトはコートを従者に預け、ソファの向かい側に腰を下ろした。
「参謀本部の方々は、さぞかし温まっておられたのでしょう? ヴァマラクの
「ああ、それはもう。湯沸かし器のように頭から湯気を立てて、アルビオンへの報復を叫んでいるよ。おかげで会議室の室温だけは熱帯並みだった」
他愛のない世間話を交わしたところで、部屋に控えていた給仕が、最高級のオールド・サンドヒルのウイスキーのボトルを置き、音もなく退室していった。
重厚な扉が完全に閉ざされ、部屋が二人の完全な密室となった瞬間。
ローゼフシルトはグラスの氷を指先で揺らし、ふっと口元を歪めた。
「……今回も世話になったな。これで二度目だな、ハイドラー」
国家保安警察長官、ラインリヒ・ハイドラー。
『金髪の野獣』『鉄の心臓』と裏社会から恐れられ、国家のあらゆる暗部を取り仕切るこの冷酷な男は、ローゼフシルトからその名を呼ばれると、薄い唇を微かに吊り上げて、子供のように純粋な、しかし氷のように冷たい笑みを返した。
「私への礼など不要ですよ、閣下。全ては貴方の描いた完璧な台本通りに、役者たちが舞台の上で見事な喜劇を演じただけに過ぎませんから」
そう――昨夜、協商連合の奥地で起きたアルビオン軍による重水素工場の壊滅。
あの壮大なサボタージュ作戦の糸を裏で引き、敵の特殊部隊をあの山奥のプラントへと完璧に誘導したのは、他ならぬ帝国内部のこの二人であったのだ。
「サー・アーサー・シンクレア率いるアルビオン情報部の連中は、今頃ダウニング街で勝利の美酒に酔いしれていることでしょう」
長官は自らのグラスに黄金色の液体を満たしながら、淡々と言った。
「『帝国の原子力研究の権威たちは、核分裂連鎖反応を維持するための減速材として、黒鉛は不純物の問題から到底使用不可能であり、重水素以外に選択肢はないと結論づけた』……閣下からいただいたその極秘メモを、我が方を経由してアルビオンに掴ませた時、連中は疑うことすら忘れて飛びついてきましたよ」
「アルビオンの連中は優秀だからな」
ローゼフシルトは目を細めた。
「彼らの情報収集能力と分析力は世界一だ。だからこそ、小手先の隠蔽など通用しない。隠せば隠すほど、彼らは自慢の嗅覚で帝国の核開発の核心へと迫ってくる。……ならば、最初から『彼らが最も欲しがる正解』を差し出してやるのが、最上の防壁となる」
ローゼフシルトがこの恐るべき情報操作を仕掛けた背景には、彼が前世の西暦世界から持ち込んだ歴史の知識があった。
かつて西暦世界の第二次世界大戦において、ナチス・ドイツの核開発が致命的な遅れをとった最大の原因。それは、物理学者ヴァルター・ボーテによる実験の誤謬であった。ボーテは減速材として有望視されていた黒鉛の実験において、工業用黒鉛に含まれていた極微量の不純物を見落とし、「黒鉛は中性子を過大に吸収するため、減速材としては不適である」という誤った結論を下してしまったのだ。
その結果、ドイツは製造が極めて困難で高価な「重水」に執着せざるを得なくなり、そこを連合軍に見咎められてノルウェーの工場を爆破され、核開発の道を永遠に閉ざされることとなった。
ローゼフシルトはその歴史的経緯を、そっくりそのまま逆用したのである。
敵が「帝国は重水に依存している」と思い込んでいる限り、連合国の妨害工作の矛先は、常にあの山奥のダミー施設へと集中する。工場を一つ爆破させてやるだけで、アルビオンは「帝国の核計画を数年遅延させた」と安堵し、真の計画に対して完全に盲目となるのだ。
「今後も、帝国が重水素の再生産に血道を上げているという情報を、小出しに流し続けてくれ」
ローゼフシルトが命じると、長官は楽しそうに頷いた。
「お安い御用です。すでに、再建のための資材調達ルートや、偽の重水輸送計画の書類を、アルビオンのスパイが喜びそうな場所に配置させてあります」
ハイドラーの手腕には、ローゼフシルトも全幅の信頼を置いていた。
なぜなら、この男が敵を欺く情報工作において、世界史上でも類を見ない恐るべき『実績』をすでに叩き出していたからである。
――大戦争が始まる前、統一暦1920年代前半。
長官は、ローゼフシルトの指示のもと、ダキア公国のルートを経由してルーシー連邦の最高指導者ジュガシヴィリの元へ、極めて精巧に偽造された『機密文書』を送り届けた。
それは、「連邦赤軍の近代化を推進している軍の最高幹部たちが、帝国と内通し、クーデターによる政権転覆を企てている」という悪魔の偽情報であった。
猜疑心の塊であったジュガシヴィリは、その偽情報に完全に狂乱した。
結果として引き起こされたのが、赤軍の元帥や将軍、高級将校の実に八割以上を自らの手で銃殺・追放した、かの血みどろの『大粛清』である。
赤軍はこの粛清によって脳髄と背骨を自らへし折られ、組織的な指揮能力を完全に喪失。その大混乱があったからこそ、連邦は帝国に対する早期の参戦が不可能となり、帝国軍は西方での電撃戦に全力を注ぎ、現在の圧倒的な戦略的優位を確立することができたのだ。
あの大粛清を裏で演出し、数百万の赤軍を瓦解させた張本人こそが、目の前に座るこの長官であった。それに比べれば、アルビオンの特殊部隊を山奥のプラントへ誘い込むことなど、赤子の手をひねるよりも容易い遊戯に過ぎない。
「……しかし、閣下」
長官はグラスを傾け、氷を鳴らしながら、知的好奇心に満ちた瞳でローゼフシルトを見つめた。
「アーネンエルベのさらに奥、その最奥で行われている研究……。私のような門外漢にも分かるように、少しばかり講義をしていただいてもよろしいですか? なぜ、重水素をあっさりと捨て、黒鉛にこだわるのかを」
ローゼフシルトは苦笑し、ウィスキーに口をつけた。
「いいだろう。貴様には、帝国の暗部を仕切る者として、その全貌を把握しておく義務があるからな」
ローゼフシルトは、自らの前世の記憶――西暦世界の物理学とマンハッタン計画の知識を、この世界の文脈に落とし込みながら、静かに語り始めた。
「まず基本だ。原子爆弾とは、ウランなどの重い原子核に中性子が衝突し、核分裂を起こす際に生じる膨大な結合エネルギーを、一瞬で解放する兵器だ。原子核が分裂する際、平均して二から三個の新たな中性子が猛スピードで飛び出してくる。この飛び出してきた中性子が、隣にある別のウラン原子核にぶつかり、さらに分裂を引き起こす。これがネズミ算式に倍増していく現象を臨界連鎖反応と呼ぶ」
長官は黙って頷き、耳を傾けている。
「だが、ここに物理学的な壁が存在する。核分裂によって飛び出してくる中性子は、あまりにもスピードが速すぎるのだ。これを高速中性子と呼ぶ。ウラン原子核という極小の的に対して、高速中性子は弾丸のように速すぎて、衝突することなく素通りしてしまう確率が高い。原子核に効率よく捕獲され、連鎖反応を起こさせるためには、中性子のスピードを落としてやる必要がある。ピンポン球のように他の原子に何度もぶつけて運動エネルギーを奪い、熱運動と同等のスピードまで落としてやるのだ。この速度を落とした中性子を熱中性子と呼び、中性子を減速させるための物質を『減速材』と呼ぶ」
「なるほど」長官が相槌を打つ。
「その減速材として、重水素と黒鉛が争っていたわけですね」
「そうだ」
ローゼフシルトは頷いた。
「減速材に求められる条件は二つ。中性子のスピードを効率よく落とせること、そして減速材自身が中性子を吸収してしまわないことだ。中性子を吸い取られてしまえば、連鎖反応の火が消えてしまうからな。この点において、重水素は完璧な優等生だ。水素原子の二倍の質量を持ち、中性子をほとんど吸収しない。これを用いれば、最も効率よく連鎖反応を維持できる。だが――」
ローゼフシルトは冷笑を浮かべた。
「重水は、自然界の水の中にわずか0.015%しか存在しない。これを兵器級の原子炉を動かせる量まで濃縮するには、何百万トンもの水を電気分解し続ける途方もない電力と、巨大なプラントが必要になる。今回アルビオンが破壊したヴァマラクのように、水力発電の豊富な山奥に施設を固定せざるを得ず、防衛上も産業上も極めて脆弱なのだ」
「対して、黒鉛はどうか」ローゼフシルトは指を一本立てた。
「黒鉛は、地球上に無尽蔵に存在する。石炭や木炭からいくらでも作れ、コストは重水と比べればないも同然だ。工場の立地も選ばず、地下の安全なシェルターの中に巨大な原子炉をいくらでも建設できる。唯一の欠点は、天然の黒鉛に含まれる極微量の不純物……特にホウ素やカドミウムが、中性子を狂ったように吸収してしまうことだ。純度九九・九%の工業用黒鉛ですら、残りの〇・一%の不純物のせいで減速材としては機能しなくなる。頭の固い物理学者連中は、その不純物の存在に気づかず、『黒鉛は中性子を吸収しすぎるからダメだ』と匙を投げたのだ」
「ですが……閣下は、その解決策をご存じだった」
長官の目が、獲物を捉えた獣のように光った。
「ああ。私の財閥の化学部門と冶金研究所に、莫大な予算を注ぎ込ませて開発させたよ。高温で塩素ガスを用いて不純物を気化・除去する特殊な熱処理法だ。これにより、純度九九・九九九%以上の超高純度黒鉛の量産化に、帝国は世界で初めて成功した。物理学者たちが不可能と断じた黒鉛減速炉は、私の手によってすでに技術的完成を見ている」
「素晴らしい……」
長官は溜息を漏らし、心底からの感嘆を露わにした。
「ですが閣下。そもそも、減速材などという面倒なものを使わずに、最初から爆弾を作ることはできないのですか?」
「鋭いな、長官。実を言うと……できるのだよ」
ローゼフシルトは姿勢を正し、とある二つの核分裂性物質の違いについて語り始めた。
「天然のウラン鉱石の中に含まれるウランのうち、核分裂を起こす『ウラン235』は、わずか〇・七%しか存在しない。残りの九九・三%は、核分裂を起こしにくい『ウラン238』だ。
もし減速材を使わずに、高速中性子のままで瞬間的な爆発を引き起こそうとするならば……この〇・七%しか含まれていないウラン235だけを、力技で純度九〇%以上にまで濃縮しなければならない。ウラン235と238は化学的性質が全く同じ同位体だから、化学反応では分離できず、わずかな質量の差を利用したガス拡散法や電磁分離法といった、途方もない超巨大濃縮プラント群が必要になる」
ローゼフシルトは、前世のアメリカがテネシー州オークリッジに建設した、数万人を動員した巨大濃縮都市の光景を思い浮かべていた。
「合州国のような、大陸の富と無尽蔵の電力を湯水のように使える工業の化け物ならば、その力技が可能だろう。減速材など使わず、ウラン235の塊を二つぶつけるだけの単純な構造(ガンバレル型)で、実戦用の原爆を作り上げるはずだ。だが、我が帝国にはそんな資源の余裕はない。現在、帝国領内にあるウラン鉱山は限られており、世界有数のウラン産出量を誇る我が国の海外植民地からの航路は、合州国の参戦と制海権の喪失によって完全に閉ざされている。我々は、戦前にプールした貴重な備蓄ウランだけで、この大戦を戦い抜かねばならんのだ」
「ウランの節約……それが、黒鉛減速炉の目的なのですね」
「その通りだ」
ローゼフシルトは頷いた。
「天然ウランの大半を占めるウラン238は、ウラン235のようにすぐには核分裂しない。だが、黒鉛減速炉の中で熱中性子を照射し続けると、ウラン238は中性子を吸収し、ベータ崩壊を起こして、全く別の元素へと変異する。――元素番号九四、『プルトニウム239』だ」
長官の眉がピクリと動いた。
「このプルトニウム239は、ウラン235を遥かに凌ぐ核分裂性能を持つ、人工の悪魔だ。
そして何より決定的なのは、プルトニウムはウランとは『別の元素』だということだ。同位体分離のような狂気的な物理濃縮プラントは一切不要。硝酸に溶かして沈殿させるという、通常の化学的分離法だけで、純度一〇〇%の核分裂物質を抽出できるのだ。必要なウランの消費量は、ウラン235を直接濃縮する場合の数分の一で済む。黒鉛減速炉とは、エネルギーを得るための発電所ではない。ウラン238という燃えない石を、純度百パーセントの核爆薬(プルトニウム)へと変換するための、現代の錬金術の窯なのだよ」
「……錬金術の窯」
長官はその言葉の響きを反芻し、陶然とした笑みを浮かべた。
「では、我が帝国の核開発計画の全貌とは……」
「そうだ。帝国内の安全な地下要塞に建設された黒鉛減速炉で、黙々とプルトニウムを生産する。そして、精製されたプルトニウムを核爆発させるための『爆縮レンズ(インプロージョン方式)』の設計も、すでに最終段階に入っている。アルビオンが協商連合の山奥でダミーの重水工場を吹き飛ばして万歳三唱している間に、我々は最短ルートで、世界で最初の『プルトニウム原爆』をその手に握る」
ローゼフシルトは、自らの手の中に握られたグラスを見つめた。
帝国の核開発計画。その真の立案者であり、最大の資金提供者であり、そして技術的指導者。
それは名目上置かれている物理学者たちの委員会などではなく、他ならぬジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルトその人であった。
西暦世界の歴史という「絶対の正解」を持ち合わせている彼がいる限り、帝国の核技術研究が迷走したり、不毛な袋小路に迷い込む可能性は、物理的にも確率的にも万に一つも存在しないのだ。
「恐ろしい方だ、貴方は」
長官は、心底からゾッとするような、しかし至高の愉悦を湛えた笑みを浮かべて、ローゼフシルトにグラスを掲げた。
「味方の参謀本部すら完全に欺き、敵国の最高峰の情報機関を手玉に取り、世界の命運を自らの掌の上で転がしておられる。……私が貴方の味方で、本当によかったと心の底から思いますよ」
「買い被るな、長官。私はただのしがない愛国軍人に過ぎんよ」
ローゼフシルトは肩を竦め、長官のグラスにカチンと自らのグラスを合わせた。
「……原爆という神の火を手に入れようとしている男の台詞とは思えませんね」
「これを持つことでしか、合州国という怪物との間に『平和』を強制することはできんのだよ。……さて、長話が過ぎたな。私は明日も参謀本部で、重水工場の破壊に胸を痛める哀れな中将の役を演じねばならんのだ」
ローゼフシルトは残りのウィスキーを飲み干すと、ソファから立ち上がった。
長官も立ち上がり、深々と頭を垂れる。
「重水素の再建計画の予算書、明日の夕方までに参謀本部へ届くよう、手配しておきましょう。アルビオンのスパイたちが、狂喜乱舞してロンディウムへ打電するような、極上の偽造書類をね」
「頼むよ、ハイドラー。……ああ、それから」
部屋のドアノブに手をかけたローゼフシルトは、思い出したように振り返り、冷徹な目で長官を射抜いた。
「くれぐれも、前線でのパイロットごっこは自重したまえよ。貴様の代わりを見つけるのは、超高純度黒鉛を精製するよりも骨が折れるのだからな」
その言葉に、長官は一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くし、そして、悪魔のような美しい笑みを浮かべて答えた。
「……善処いたしましょう、ローゼフシルト中将」
帝都の冷たい雨の夜。
世界を欺く二人の怪物の密談は静かに幕を閉じ、歴史の歯車は、誰にも知られることのない漆黒のレールの上を、破滅と勝利の臨界点へ向けて加速していくのであった。
史実でもハイドリヒは偽情報を流し大粛清を拡大・加速させました。かの赤軍の至宝であり赤いナポレオンことトゥハチェフスキーを殺したのは実質的にこいつです。
統一暦世界でも連邦では大粛清は行われていたらしいですが、どのような規模なのか記述がないです。自分は西暦世界よりマシな規模だろうと解釈しました。なので初期の案ではジェーコブの代わりに赤いナポレオンを赤軍代表にしようと思っていましたが、それよりも金髪の野獣を出したかったので退場してもらいました。
これが等価交換です^^