《統一暦1927年6月下旬 東部戦線南翼》
作戦開始の合図は、地平線を全て覆い尽くすかのような、七千門の火砲による一斉準備砲撃であった。
ドニャツクからクルスクに至る長大な前線において、帝国が総力を挙げて掻き集めた一二〇万の将兵と、六〇〇〇両の装甲戦力が、乾いたルーシーの夏の大地を蹴立てて一斉に進撃を開始した。
目標は、遥か数百キロ彼方のヴォルガ河畔の巨大都市『ヨシフグラード』と、南方のカフカース資源地帯。連邦の野戦軍を破壊するための巨大な春季大攻勢――『青作戦』の火蓋が、いよいよ切って落とされたのである。
「パンツァー・フォー! 止まるな! 敵の防衛線を食い破り、背後に回り込め!!」
広大なヒマワリ畑を蹂躙しながら、帝国の誇る機甲部隊が、幾筋もの鋼鉄の槍となって連邦赤軍の陣地へと突き刺さっていった。
作戦の立案段階において、帝国軍は「敵を誘引して事前にすり潰す」という目論見が外れ、完全に防備を固めた赤軍にゼロ歩目から突っ込まねばならないという不安を抱えていた。
だが、蓋を開けてみれば、帝国軍の進撃は異常とも言えるほどに順調であった。
その最大の理由は、帝国の誇る「狂気的な機械化」と「分厚い兵站」にあった。
歩兵たちは徒歩ではなく、無数のハーフトラックや軍用トラック、最新の歩兵戦闘車に搭乗して戦車にピタリと随伴していた。膨大な工業力を持つ帝国は、この青作戦のために文字通り湯水のように燃料と弾薬を前線へ送り込み続けていた。かつての装甲軍集団を悩ませていた「戦車の進撃速度に歩兵と補給が追いつかない」という致命的な弱点は、巨大な工業力によって増強された補給線と完全機械化によって見事に克服されていたのである。
さらに、モスコー陥落という事実が、連邦赤軍の指揮系統と士気に目に見えないヒビを入れていた。
「巨大な包囲陣を作れば側面が伸びて逆に食い破られる」という参謀本部の分析に基づき、帝国軍は巨大な装甲軍を細分化し、師団や旅団規模の戦闘団を無数に機動させた。彼らは赤軍の防衛線の隙間を縫うように浸透し、小規模な包囲網を何百、何千と形成しては、敵の連隊や大隊を次々と殲滅していった。
巨大な鉈ではなく、鋭利なヤスリで削り取る戦術。機動力で劣る赤軍の野戦部隊は、後退する間もなく背後を遮断され、次々と帝国の装甲の波に飲み込まれ、文字通り溶かされていった。
「素晴らしい……。赤軍はすでに限界だ。我々の前には、もはや広大な平原しか残されていないぞ!」
ドン川へ向けて土煙を上げる指揮車の中で、前線の将軍たちは無線越しに楽観的な笑い声を交わしていた。
作戦開始から一ヶ月。帝国軍はドン川の湾曲部を圧倒的な速度で突破し、そのまま作戦の第一段階の終着点であるヴォルガ河畔の巨大都市へと、その鋼鉄の牙を向けた。
だが、彼らは知らなかった。
その平原の果てに待ち受けているのが、人類史上最悪の『肉挽き機』であることを。
◇
《統一暦1927年8月 ヴォルガ河畔 ヨシフグラード》
『――一歩も下がるな! ヴォルガの向こうに、我々の土地はない!!』
その血を吐くような死守命令とともに、連邦の最高指導者の名を冠した巨大工業都市『ヨシフグラード』は、狂気の要塞へと変貌を遂げていた。
帝国軍の精鋭たる装甲部隊が、ヨシフグラードの市街地へと足を踏み入れた途端、それまでの平原での「華麗なる機動戦」の様相は完全に一変した。
空軍の爆撃と重砲によって徹底的に破壊され、見渡す限りの瓦礫の山と化した市街地。それは、帝国軍の最大の武器である機械化部隊の機動力を完全に無力化する、最悪の地形であった。
戦車は瓦礫に阻まれて身動きが取れず、一本の廃墟の通りを進むだけで、四方八方の建物の残骸から雨あられと対戦車ライフルや火炎瓶が降り注いだ。
「クソッ! 敵はどこだ!? どこから撃ってきている!」
「地下水道だ! 奴ら、地下水道を伝って我々の背後の瓦礫に湧き出してきやがる!!」
『赤い十月工場』や『トラクター工場』、そして市街を一望できる『ママイの丘』といった戦略的要衝を巡り、両軍は数メートル単位の血みどろの陣取り合戦を展開した。
昨日一万の血を流して奪った廃工場を、その夜には地下から湧き出した赤軍の決死隊によって奪い返される。部屋の右半分を帝国軍が占拠し、左半分を赤軍が占拠して、壁一枚を隔てて手榴弾を投げ合う。
兵士たちはこれを『ラッテンクリーク』と呼び、泥と血とコンクリートの粉塵に塗れながら、終わりの見えない白兵戦を強いられた。
「火砲と航空支援を要請しろ! 目の前の瓦礫を全て吹き飛ばせ!」
帝国軍は一日数万発という常軌を逸した砲弾を市街地に叩き込み続けた。
だが、どれだけ砲弾を撃ち込んでも、どれだけ爆弾の雨を降らせても、赤軍の抵抗は決して止まなかった。
彼らは背後を流れる巨大なヴォルガ川の対岸から、夜の闇に紛れて、次々と新たな兵士と物資を小舟で送り込み続けていたのである。補充される兵士たちの寿命は、市街地に入ってからわずか「数時間」と言われるほどの絶望的な消耗戦であったが、連邦は自らの血の最後の一滴まで流し尽くす覚悟で、この都市を固守し続けた。
御前会議でペルツル宣伝大臣が予言した『ルーシー人の異常なまでの防衛戦における狂気』が、最悪の形で的中したのである。
ヨシフグラードの戦線は、瓦礫の山の中で完全に停止した。帝国軍の精鋭たちは、圧倒的な火力と機械化の利点を封じられたまま、底なしの市街戦の泥沼へと引きずり込まれ、日々恐ろしい速度でその戦力を削り取られていった。
◇
《統一暦1927年9月 東部戦線南翼 カフカース方面》
ヨシフグラードの市街地で前線が完全に膠着したという報告を受け、帝都の参謀本部、特に作戦を立案したルーデルドルフ上級大将は、冷や汗を流しながら苦渋の決断を下した。
『――ヨシフグラードの完全制圧には固執するな。市街地に赤軍を押し込めたまま釘付けにし、我が軍の主力の主軸を、もう一つの作戦目標である「南方カフカースの資源地帯」へと転注せよ』
戦略目標の二兎を追う形となった帝国軍の南方部隊は、ヨシフグラードを半包囲した部隊を残し、残りの装甲戦力を一気に南へと向けた。
クバン平原を疾走した帝国軍は、ローストフ・ドナ・ドナを突破し、ついに連邦の巨大な油田地帯の一角であるマイコープへと到達した。
「油田だ! ついに我々はカフカースの黒い血脈に手が届いたぞ!」
疲労困憊の装甲兵たちは、黒くそびえ立つ油井の櫓を見て歓喜の声を上げた。
だが、その歓喜は数時間後には絶望へと変わった。
油田を明け渡して撤退した赤軍は、ただ逃げたわけではなかった。彼らは退却の直前、全ての油井の奥深くにコンクリートを流し込み、精製施設を徹底的に爆破して、完全なる使用不能の状態にしてから去っていたのである。
「クソッ……これでは一滴の油も掘り出せん!ロンディウムやワソントンの連中が喜ぶだけの、ただの焦土ではないか!」
資源を即座に利用するという帝国の淡い期待は打ち砕かれた。
それでも、作戦目標である「連邦からの資源地帯の分断」を達成するため、帝国軍はさらに南下し、巨大湖に面するパグー油田を目指して進撃を続けた。
だが、彼らの前に、大自然が創り出した絶対の壁が立ち塞がった。
標高五〇〇〇メートル級の峰々が連なる山脈である。
見渡す限りの平原での機動戦に特化して進化した帝国の機械化部隊にとって、道なき険しい山岳地帯は文字通りの鬼門であった。
戦車は細い山道で立ち往生し、巨大な巨砲も山肌に阻まれて仰角が取れず、ただの鉄の重しと化した。
そして、その険しい山の地形を熟知している連邦の山岳狙撃兵たちが、岩陰や崖の上から、身動きの取れない帝国の装甲部隊へ向けて雨あられと銃弾と手榴弾を浴びせかけてきた。
「前進不能! 先頭の戦車が炎上し、山道が完全に塞がれました!!」
「山頂から敵の山砲が撃ち下ろしてきます! 掩蔽壕すら掘れません!」
機動力を奪われ、細い山道で一列に並ばされた帝国軍は、赤軍の山岳部隊による容赦ないゲリラ戦の前に、無残に撃破されていった。
兵站線も完全に限界を迎えていた。増強された補給網であっても、帝都から数千キロも離れた、まともな道路さえないカフカースの山奥まで、毎日数千トンの燃料と弾薬を届け続けることは物理的に不可能であった。
かくして。
ヨシフグラードの血みどろの市街地と、山脈の険しい岩壁。
帝国軍が全精力を傾けて放った春季大攻勢は、この二つの巨大な壁の前で、完全にその進撃の足を停止させたのである。
◇
《統一暦1927年10月上旬 東部戦線北翼 レネングラード包囲網》
南方の炎熱と泥沼の地獄から遥か数千キロ北。
早くも冬の足音が近づき、白銀に染まり始めた北方戦線において、極寒の風が吹き荒れる前線司令部のテントの中に、一人の男の姿があった。
ローゼフシルト中将である。
彼は参謀本部での様々な任務の傍ら、自らの政治力と財閥のコネクションをフルに活用し、北方前線司令官であり、やたらと包囲網の維持に固執するネープ将軍を半ば強引に説き伏せ――実質的には本国へ追い返す形で――レネングラード包囲戦力の指揮権を見事にもぎ取っていた。
「……状況は極めて良好だ。我が軍の完全な勝利で幕を下ろすだろう」
ストーブの火で温めたコーヒーを啜りながら、ローゼフシルトは窓の外に広がる氷原と、その彼方にそびえる巨大な都市のシルエットを見据えていた。
帝政時代の首都であり、連邦第二の都市である『レネングラード』。
この都市は、すでに完全に「死」を待つだけの檻と化していた。
本来の歴史であれば、冬場に凍結したラドガ湖の上にトラックを走らせる『命の道』によって、僅かながらも都市への補給が維持され、レネングラードは九〇〇日間の包囲を耐え抜くこととなる。
だが、この世界においては、帝国軍がすでに首都モスコーを陥落させていた。連邦の中枢からの組織的な支援ルートは完全に断ち切られ、ラドガ湖の対岸すらも帝国軍とスオミ軍によって完全に制圧されていたのである。
命の道すら断たれた都市の内部は、想像を絶する飢餓地獄に陥っていた。
ネズミや土の混じった雪すらも食い尽くし、市民が道端で次々と餓死していくという、地獄すら生温い状況である。もはや都市の陥落は、力攻めをするまでもなく「時間の問題」であった。
さらに、このレネングラード攻略において、ローゼフシルトが手配した帝政ルーシー義勇軍が大挙して参戦していることも、戦況を決定づけていた。
アレクセイロス三世の御旗を掲げ、共産党の圧政から祖国を解放するという大義に燃える彼らの士気は、異常なほどに高かった。同じルーシー人同士の骨肉の争いではあるが、彼らは「我々がこの手で、かつての美しき帝都を赤の悪魔から取り戻すのだ」と、狂熱的なまでの熱意で市街の中心目指して進撃していた。
「陥落は一ヶ月以内。……問題は、その後だ」
ローゼフシルトは、手元にある分厚い書類の束をパラパラと捲りながら、深いため息をついた。
彼が頭を抱えていたのは、レネングラードを攻略する際の手間ではない。陥落した『後』、都市に残されているであろう百万を優に超える、骨と皮だけになった飢えた市民たちを「どうやって食わせるか」という途方もない難題であった。
占領軍としての義務もあるが、何より彼らを見殺しにすれば、帝政ルーシー義勇軍の士気と大義名分が完全に崩壊してしまう。
だが、ただでさえ南方での大攻勢で補給網が逼迫している現在、百万の民間人を養うための食糧を北方へ回す余裕など、帝国軍には一切存在しなかった。
「……仕方がない。私が裏で手を回して製造させた『あれ』を、大規模にくれてやるしかないか」
ローゼフシルトは、自らが所有する財閥の食品部門――『ローゼフシルト・フーズ』が開発した、究極の兵站用食糧の名前を書類に書き込んだ。
『レーション・プロトタイプ3』。
かつて、ターニャを苦しませ、帝国空軍の教育隊にPTSDを発症させ、数々の将官たちを狂乱させた『完全栄養バー』の、三番目の試作品である。
ローゼフシルトは、この名前を書き込んだ瞬間、胃の奥底から酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じ、顔を顰めた。
(……思い出すだけでも吐き気がする。あの忌まわしい『プロトタイプ2』を、ルーシーの極寒のテントの中でガデーリアンと共に食わされた日のことを)
前線でガデーリアンが一口食べて火が点いたように絶叫し、インスタントコーヒーの粉と熱湯を直接口にぶち込んで中和しようとしたあの光景。そして自らも、その人知を超えた「味蕾の破壊者」たる味覚の暴力に耐えきれず、顔の表情筋を完全に死滅させたまま、角砂糖を十個まとめてバリバリと噛み砕いて現実逃避したあの地獄。
(それに比べれば、開発陣を半殺しにして味を改良させた今回の『プロトタイプ3』は、まだマシだ。……なにせ、「無味乾燥なチョーク」に「かすかな大豆の風味」が足されたのだからな。だが、カロリーと栄養価、そして水を含むと胃の中で限界まで膨張して満腹感を与えるという仕様は健在だ。餓死寸前の市民たちに配給するには、これ以上ない最適解だろう)
ローゼフシルトは、自らの決断にシニカルな笑みを浮かべ、配給計画書に承認のサインを書き入れた。
「閣下。……参謀本部より、南方戦線の状況に関する最新の報告書が届きました」
その時、通信将校がひどく強張った顔でテントに入ってきて、一通の封筒を差し出した。
ローゼフシルトはサインペンを置き、封を切ってその報告書に目を通した。
そして、数分後。
彼の顔から、シニカルな笑みがスッと消え失せた。
報告書に記されていたのは、ヨシフグラードの市街戦における血みどろの泥沼化。戦死者数の急激なグラフの跳ね上がり。
そして、南方カフカース山脈の壁に阻まれ、戦線が完全に停止したという、作戦の物理的破綻を告げる凶報であった。
「……ヨシフグラードで膠着。カフカースで停止。……目標の達成率は、良くて三割といったところか」
御前会議でルーデルドルフが言った「半分も達成できれば御の字」という予測すらも、ルーシーの大地と人間の狂気は容赦なく下回ってきたのだ。
戦略的な主導権を握るために行った出血の強要が、逆に帝国軍自身の首を致命的に絞め上げつつある。西暦世界のブラウ作戦の失敗のロジックが、この世界においても、まるで呪いのように帝国軍にまとわりついていた。
「……これは、マズいな」
ローゼフシルトは、手元の報告書をストーブの火に投げ入れた。
炎に包まれて黒く丸まっていく紙片を見つめながら、彼は帝国の未来に立ち込める、これまでで最大にして最悪の暗雲をはっきりと予感していた。
「二週間。あと二週間でレネングラードを落とそう。そろそろやって来る頃合いだろう……赤い津波が」
ローゼフシルトは西暦世界でドイツを完膚なきまでに叩き潰した赤い津波を思い浮かべ、憂鬱そうにつぶやいた。
今年の決着は近いのかもしれない。