世界に冠たる帝国よ永遠たれ   作:ちんすこー

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ウラヌス2

《統一暦1927年11月20日 東部戦線後方 キーウ 南方軍司令部》

 

「馬鹿な! ヨシフグラードからの撤退だと!? あの都市にはすでに十万以上の帝国の血が染み込んでいるのだぞ! これを放棄するなど、本国政府が許すはずがない!」

 

タバコの煙と狂騒、そしてパニックが支配するキーウの南方戦線司令部。

壁に広げられた巨大な作戦図の前で、参謀の一人が血走った目で叫んだ。南北からヨシフグラードの背後へ向けて伸びる不気味な二つの「赤い矢印」は、すでに帝国軍の脆弱な側面を完全に食い破り、戦線は文字通り崩壊の危機に瀕していた。

 

「本国の許可など待っている暇があるか、この無能どもが!」

 

怒号を響かせたのは、ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト中将であった。

彼は円卓に拳を叩きつけ、腰の抜けかけた将官たちを氷のような眼光で一瞥した。

 

「戦況図を見たまえ。敵はすでに我が軍の背後に回り込みつつある。今すぐ撤退命令を下し、東岸で孤立しつつある三十万の精鋭をドン川の西岸へ引き上げさせねば、彼らは巨大なケッセルの中で完全に消滅するのだぞ。面子や過去の英霊の顔色を窺って、今の三十万の命と南方戦線の命運を捨てる気か!」

 

ローゼフシルトの理路整然とした、しかし凄まじい圧力を伴う一喝に、参謀たちは言葉を詰まらせた。

北方のペトロブルク(レネングラード)で前任者を強引に更迭した彼の「実績」もあり、南部の将官たちは彼に強い反発と猜疑心を抱いていた。しかし、現実として戦線が崩壊している今、誰も対案を出すことはできなかった。

 

「……ローゼフシルト中将の言う通りだ」

 

重苦しい沈黙を破ったのは、南方軍司令官のバック元帥であった。

老元帥は深くため息をつき、自らの不甲斐なさを噛み殺すように目を閉じた。

 

「我々の見通しの甘さが、この最悪の事態を招いた。これ以上、将兵を無駄死にさせるわけにはいかん。……全軍に対し、ドン川西岸への全面撤退を命じる」

「元帥閣下!」

「黙れ!!……中将、貴官の迅速な判断に敬意を表する。貴官の戦闘群のおかげで戦線は辛うじて持ちこたえられている。貴官の手腕を見込んでこの絶望的な撤退戦の全指揮権を貴官に委ねたい。何としても、一人でも多くの将兵を西岸へ生還させてくれ」

 

バック元帥は、ローゼフシルトに撤退の全権を丸投げする形で認めた。

数日間にわたる大失態を受け、参謀本部は激怒。後日、バック元帥を含む東部戦線南翼の司令部人員の大部分が容赦なく更迭されることとなるが、今はとにかく、目の前の地獄をどうにかしなければならなかった。

 

「ご英断に感謝します、元帥閣下。直ちに手配を」

 

指揮権をもぎ取ったローゼフシルトは即座に踵を返し、通信室へと向かった。

彼の脳内ではすでに、冷酷なトリアージの計算が始まっていた。

 

 

◇

 

 

《11月21日~22日 ドン川東岸 渡河点周辺》

 

ドン川東岸の架橋地点は、文字通りこの世の地獄と化していた。

 

北部において、サラマンダー戦闘群が異常な戦果を挙げて南下する赤軍の三個軍を釘付けにし、北部の圧力が減少したことで南方でも現地の帝国軍が死に物狂いの遅滞戦闘を展開でき、どうにか赤軍の進撃速度を抑え込むことには成功していた。

だが、巨大な赤い津波から逃れようと、着の身着のままでドン川の架橋地点に殺到した十数万の帝国兵士たちが、極寒の雪原で巨大な渋滞を引き起こしていたのだ。

 

「押すな! 橋が落ちるぞ!!」

「対岸へ渡らせてくれ! 後ろから赤軍の戦車が来ているんだ!!」

 

凍りついたドン川に架けられた幾つかの仮設橋や舟橋は、人と車両の重みで今にも崩落しそうに軋んでいた。

前線の指揮官たちはパニックに陥り、手持ちの輸送ヘロコプターを何度も往復させたり、深刻な渋滞を起こしている架橋をどうにか少しずつ渡らせようと躍起になっていた。

しかし、このままでは撤退が完了する前に赤軍の砲弾が橋を吹き飛ばし、数十万の兵士が川を背にして全滅するのは火を見るより明らかであった。ヨシフグラード背面で形成されつつある包囲網を破るための反撃戦力を西岸に確保するためにも、この敗残兵の群れを迅速に後方へ送らねばならない。

 

この絶望的な渋滞の報告を受けたローゼフシルトは、司令部から極めて非情かつ冷酷な命令を下した。

 

『――人以外の全ての物資の破棄を命じる。重火器、戦車、ハーフトラック、トラックは当然のこと、小銃、弾薬、背嚢に至るまで、全てを東岸に置いていけ。命以外を持って橋を渡ることを固く禁ずる』

 

「な、なんだと!? 丸腰で撤退しろというのか!」

「馬鹿な! 戦車や大砲を捨てろだと!? 後ろからやって来るウォッカ野郎にどうやって抵抗すればいいんだ!!」

 

命令を受信した前線の将兵たちは耳を疑った。前線の軍人にとって武器は命そのものである。それを捨てろという命令は、彼らに強い拒否反応を起こした。

だが、ローゼフシルトの命令は完全な兵站学に基づいていた。

重装備や車両を橋から排除すれば、人間の渡れるペースは数十倍に跳ね上がる。さらに、重装備の移動のために確保されていた後方の開けたスペースに、大量の輸送機を強行着陸させることが可能になるのだ。

 

ローゼフシルトの厳命により、東岸にはおびただしい数の戦車や火砲が次々と爆破・遺棄されていった。そして、空いたスペースに絶え間なく飛来する輸送機が着陸し、丸腰の兵士たちをすし詰めにして次々と西岸へとピストン輸送し始めた。

 

さらにローゼフシルトは、無秩序な撤退の順番に強引なメスを入れた。

彼は部隊ごとに被害状況と残存戦力を細かく報告させ、撤退の順番を中隊規模で厳格化した。そして、まだ戦意と余力がある部隊には強制的に武器を持たせ、問答無用で赤軍の攻勢阻止を行っている殿部隊へ組み込むという鬼の処業に出た。

 

だが、ここで帝国南方軍の「悪しき文化」が壁となった。

ブラウ作戦以来、広大なルーシーの大地で進撃速度と戦術的優位を確保するため、南方軍は軍集団から果ては小隊に至るまでの戦闘単位で現地指揮官の自主的な意志(任務戦術)が極端に尊重されていた。上位組織からの指図は、作戦目標の策定と補給に関して以外、ほとんど機能していなかったのだ。

死地に飛び込めという理不尽な命令に対し、前線の部隊長たちは「我々の部隊はすでに限界だ」と命令を拒否する兆候を見せ始めた。

 

この緊急事態の最中にあって、非常に都合の悪い「独立独歩の文化」。

これに対し、ローゼフシルトが採った手段は、軍規による恫喝ではなく、実にしょうもない精神的な揺さぶりだった。

 

「……前線に送る輸送機に、手配しておいた『ブツ』を満載して送り込め」

 

西岸から東岸へと向かう輸送機のカーゴスペースに積まれていたのは、弾薬でも医療品でもなかった。

それは、大量の「ビール」と「上質なシュナップス」の木箱であった。

 

「おい見ろ! 酒だ! 本部から酒の配給だぞ!!」

 

極寒の地獄で死の恐怖に震えていた兵士たちの前に、山のような酒瓶が下ろされた。

ローゼフシルトは、この極限状態において最も人間の心を動かすのが、大義名分や軍規ではなく「アルコールの熱」であることを熟知していた。

 

『――この酒を飲み干し、赤軍の足を半日止めた部隊から優先的に特等席(輸送機)で西岸へ帰してやる。祖国のためではない。温かい暖炉と熱いコーヒーのために、もうひと踏ん張りしてこい!』

 

ローゼフシルトのふざけた、しかし不思議と腹の底に響く檄文と、強いアルコールによって恐怖を麻痺させた前線の部隊長たちは、一転して「やってやろうじゃないか!」と狂気を帯びた笑いを浮かべ、反転して赤軍の戦車群へと突撃を敢行した。

実質的に前線の意志を酒で買収するという前代未聞の暴挙により、ローゼフシルトは軍の厄介な文化を無理やり封じ込め、完璧な撤退統制を敷くことに成功したのである。

 

 

◇

 

 

《11月24日 ドン川西岸》

 

かくして、ローゼフシルトが撤退の指揮を執り始めてから四日後の11月24日。

ドン川東岸から、実に一九万人もの帝国軍将兵が、身一つになりながらも無事に西岸への撤退を完了させた。

さらに、北のピトムニク方面で絶望的な遅滞戦闘を繰り広げながら後退してきたターニャ・フォン・デグレチャフ大佐率いるサラマンダー戦闘群と、現地で再編された混成一個軍が、ドン川の主要な架橋地点の保持に成功。迫り来る赤軍を西岸から完全にシャットアウトし、将来の反攻の芽となる強固な橋頭堡を残すことに成功したのである。

 

しかし、すべてが救われたわけではなかった。

 

ドン川の橋頭堡から眼前、僅か十五キロ先のヨシフグラード前面。

撤退のタイミングが間に合わなかった、あるいは意図的に殿として残された友軍十万人が、完全に赤軍の二重の包囲網の底へと沈み、孤立してしまったのである。

 

彼らを解放するためには、赤軍の巨大な反転攻勢(ウラヌス作戦)に対する、さらなる反転攻勢が必要であった。

参謀本部が事前に編成を計画し、赤軍の攻勢が始まったと同時に組織化された救援部隊。エーリッヒ・フォン・モンシュタイン上級大将率いる新設のドン軍集団が、更迭された旧南方軍司令部を飲み込み、重厚な機甲戦力と共にドン川西岸に到着したのは、それから三日後の11月27日のことであった。

 

 

◇

 

 

《11月23日~27日 東部戦線南翼 広域戦況》

 

時計の針を少し戻す。

ドン軍集団という強大な機甲予備戦力が西岸へ向かっていることを察知した連邦赤軍のワーシレフスキー将軍は、11月23日の時点で直ちに「第二梯団」の投入を決断した。

彼はヨシフグラードの包囲網を固めるだけでなく、さらに広範な範囲での攻勢により、帝国の東部戦線南翼そのものを完全に破壊する大博打に打って出たのである。

 

しかし、その野心的な企ては、帝国の底力によって粉砕されることとなる。

 

ワーシレフスキーが左翼(南側)の攻勢に投入した兵力は、実に「十二個野戦軍」。

対する帝国側は、カフカース山脈の攻略を推し進めていた四個軍のうち、一個軍をヨシフグラード方面の救援に回し、残り「三個軍」となった右翼集団がこれと激突した。

およそ四倍近い部隊数、戦力比で見ても一・五倍以上の圧倒的優位を持っていた赤軍であったが、結果は赤軍の惨敗に終わった。

奇襲のパニックから立ち直り、強固な防衛線を敷いた帝国の精鋭部隊は、持ち前の高い練度と狂気的な火力網を発揮。カフカースの山裾に赤軍兵士の死体の山を築き上げ、この大突破を完全に阻止した。赤軍左翼の攻勢は、ここで完全に頓挫したのである。

 

一方、北側(右翼)の赤軍の攻勢も、ドン軍集団の素早い展開と、モスコー方面に展開する帝国東部中央軍集団からの強烈な側面圧力に晒され、進撃開始からわずか百キロの地点で全面的な停止を余儀なくされた。

 

かくして。

百五十万人という空前絶後の兵力を投じた連邦赤軍の「ウラヌス作戦」の帰趨は、広大なステップでの帝国軍の全面崩壊には至らず。

ヨシフグラードの前面と、ドン川の両岸という、戦略的に見れば極めて小さな領域での局地戦によって確定することが確実となったのである。

 

 

◇

 

 

《11月28日 ドン軍集団司令部 / 連邦赤軍最高司令部》

 

ドン軍集団の司令部に到着したモンシュタイン上級大将は、壁に掛けられた最新の戦況図を鋭い眼光で見つめていた。

 

同じ頃。

遥か東方の連邦赤軍最高司令部(スタフカ)において、ワーシレフスキー将軍もまた、全く同じ地図を机に広げ、赤鉛筆を握りしめていた。

 

両軍の最高峰の頭脳の視線は、地図上の一点――ドン川が大きくうねりながら蛇行し、不気味な形を形成している地域に釘付けになっていた。

 

カラチ=ナ=ドヌから、北のヴェルチャチイにかけてのドン川流域。

そこは、川の蛇行によって生み出された、巨大で歪なS字の突出部を形成していた。

 

東岸の包囲網の中に閉じ込められた十万の帝国軍。

西岸で反撃の牙を研ぐモンシュタインのドン軍集団。

そして、その間に横たわるドン川の架橋地点を死守するローゼフシルトとターニャのサラマンダー戦闘群と混成一個軍。

これら全てを取り囲み、完全にすり潰そうと圧力をかける百万の赤軍。

 

(……ここだ。ここが、この戦いの天王山となる)

 

モンシュタイン上級大将は、S字突出部を指でなぞりながら確信した。

帝国軍がこのドン川のS字を突破し、包囲網の友軍十万を救出(あるいは合流)、さらには赤軍戦力を破壊できるか。

 

(……ここで帝国軍を殲滅出来ねば、ウラヌスは失敗する。何としてもこのS字で帝国軍を圧殺し、包囲網の十万を殲滅し、南翼の背骨をへし折るのだ)

 

ワーシレフスキー将軍は、S字突出部を赤鉛筆で塗りつぶしながら確信した。

 

泥沼のヨシフグラード市街戦から始まったこの巨大な戦役は、いまやドン川周辺のS字突出部という極めて狭い領域に、数百万の命と国家の存亡を懸けた全エネルギーを凝縮させようとしていた。

氷点下の猛吹雪が吹き荒れる中、人類史上最大規模の「救出と殲滅の激突」の幕が、静かに切って落とされようとしていた。




補足ですが帝国と連邦では一個軍の定員が全然違います。
帝国の一個軍は8万人から12万人程度、連邦は3万人から6万人程度です。
連邦の場合は時期によって結構変わります。

ローゼフシルトの過去話いる?

  • 前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
  • 転生してからの話あくしろ
  • 男に興味ねぇからさっさと話進めろや!
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