《東部戦線後方 サラマンダー戦闘群司令部》
ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ中尉――通称ヴィーシャには、誰にも譲れない強烈な自負がある。
それは、ライン戦線という地獄の釜の底で、まだ右も左も分からない新兵だった頃から、常にあの小さな悪魔――ターニャ・フォン・デグレチャフ准将(当時は少尉であったが)の背中を見続け、彼女を支え続けてきたという絶対的な誇りだ。
第二〇三航空魔導大隊が編成され、ダキア、オースフィヨルド、そして血みどろの東部戦線へと戦場を移していく中で、ヴィーシャは常にターニャの『一番近く』にいた。
世間一般の兵士や将官たちは、ターニャのことを「ラインの悪魔」だの「白銀の化物」だのと畏怖し、その冷徹な軍略と圧倒的な戦闘力ばかりに目を向ける。
だが、ヴィーシャには難しい軍略だとか、戦略的意図だとかはよく分からない。彼女が知っているのは、等身大の、そして少しばかり不器用な准将閣下の真の姿である。
(准将閣下は、厳格で、軍規に厳しくて、怒るととても怖いけれど……本当は誰よりも部下の命を大切にしてくださっている、優しいお方なんです)
徹夜の事務仕事で机に突っ伏して寝てしまった時、そっと毛布をかけてくれた小さな手。
戦闘団から戦死者が出た夜、誰にも見せないように一人で苦いコーヒーを飲みながら、顔を伏せて何か深刻な事を考えている横顔。
激務の合間に、配給の粗末なチョコレートを口に放り込み、幸せそうに頬を緩める、年相応の少女のような表情。
(准将閣下は、コーヒーと甘いものが大好きで、意外と可愛いところがあります。……そして、准将閣下のその二面性を完全に理解し、准将閣下の疲れを癒やす極上のコーヒーを淹れることができるのは、世界でただ一人、副官であるこの私だけです!)
そう。ターニャ・フォン・デグレチャフの変化に人一倍敏感であり、彼女の身の回りの世話を完璧にこなすことこそが、セレブリャコーフ中尉のレゾンデートルであり、アイデンティティであった。
だが。
ここ最近、ヴィーシャはそのアイデンティティを根本から揺るがす重大な危機が迫っていることを、ひしひしと感じていた。
いや、危機はすでに迫っているのではない。彼女の聖域のど真ん中に、土足で上がり込んできているのだ。
「……失礼いたします大佐殿。いえ、今は准将閣下とお呼びすべきですね! 本日分の軍集団司令部からの通達および、各装甲擲弾兵大隊の弾薬消費レポート、ならびに明日の作戦教書の素案をまとめ終わりました!」
司令部のテントに、銀の鈴を転がしたような、無駄に元気でハキハキとした声が響き渡る。
肩口で切り揃えられた黒髪と、透き通るような青い瞳。女性としては規格外の長身に、仕立ての良い軍服を完璧に着こなした女将校。
サラマンダー戦闘群の参謀長として赴任してきた、エリザーベト・エドゥアルド・フォン・ローゼフシルト少佐である。
「ご苦労、エリザ少佐。……相変わらず、仕事が早いな。どれ……うむ、完璧だ。修正の余地すらない」
執務机に向かっていたターニャが、エリザーベトの提出した分厚い書類の束に目を通し、感嘆の息を漏らす。
ヴィーシャは部屋の隅で、その光景をハンカチをギリィッと噛み締めながら見つめていた。
(なんなんですか、あの女は……! 参謀長としての仕事が有能なのは認めましょう。ですが、なぜ准将閣下にそれほど近いのですか!)
事の発端は、数日前に遡る。
ヨシフグラードの包囲網からの決死の脱出と、その後の連日の徹夜作業により、ターニャの疲労はピークに達していた。ヴィーシャは「今こそ私の出番!」とばかりに、准将閣下の疲労を回復させるべく、特製の濃いめのコーヒーを淹れる準備をしていた。
お湯の温度は九十度。豆の挽き具合は中細挽き。准将閣下が最も好む、苦味と酸味の絶妙なバランス。ヴィーシャが長年の経験で培った、まさに芸術的な一杯である。
『准将閣下、お疲れ様です。熱いコーヒーを……』
満面の笑みでカップを盆に乗せ、執務室に入ろうとしたヴィーシャの足が、入り口でピタリと止まった。
『大佐殿! 連日の激務、お疲れ様です! 僭越ながら、私がコーヒーを淹れさせていただきました!』
執務室の中では、すでにエリザーベトが、戦場には似つかわしくない優雅な所作でターニャの机にコーヒーカップを差し出していたのだ。
しかも、そのカップから立ち上る香りは、扉の前にいるヴィーシャの鼻腔をくすぐるほどに芳醇で、素人目(素人鼻?)にもそれが最高級の豆を完璧な温度で抽出したものであることが分かった。
『ん……? おお、すまないな。……ゴクリ。…………!!』
エリザーベトの淹れたコーヒーを一口飲んだターニャの目が、驚きに見開かれた。
『こ、これは……美味いな! 泥水のような代用コーヒーとは次元が違う。豆の品質もさることながら、この絶妙な抽出具合……。エリザ少佐、貴官の淹れるコーヒーは絶品だな』
『もったいないお言葉です! 父に頼み、個人的にアラビカ種のよい豆を取り寄せております。大佐殿のお口に合って何よりです!』
えへへ、と嬉しそうに身悶えする長身の参謀長。
そして、そのコーヒーを心底リラックスした表情で味わう、愛しき准将閣下。
カシャン、と。
扉の陰で、ヴィーシャの持っていた盆からカップが滑り落ちそうになり、慌てて受け止めた。
ヴィーシャの脳内には、まるでガラスが粉々に砕け散るような、強烈な衝撃が走っていた。
(あ……あああっ……! わ、私の……私の特権がぁぁぁッ!!)
それはまさに、長年連れ添った夫が、ぽっと出の若い(しかもスタイル抜群で金持ちの)女の作った手料理を食べて「お前の飯より美味いな」と微笑んでいるのを目撃してしまった妻のような、極めてドロドロとした彼女にとって未知の衝撃であった。
言ってしまえば脳が破壊されたと表現するほかないほどのダメージであった。
ヴィーシャの絶望は、このコーヒー事件だけにとどまらなかった。
ターニャの副官であるヴィーシャの仕事は、ターニャのスケジュール管理から、身の回りの細々とした世話まで多岐にわたる。
しかし、新任の参謀長であるはずのエリザーベトは、自分の激務であるはずの「一個師団規模の作戦立案や兵站管理」を恐ろしい速度で終わらせたかと思うと、空いた時間で副官の領域に嬉々として侵攻してくるのだ。
ある時は、ターニャの軍服のボタンがほつれているのを見つけるや否や。
『あっ! 准将閣下、軍服のボタンが取れかかっております! そのままでは帝国の威信に関わります、私が今すぐ修繕いたします!』
『え? いや、そんな雑用は……』
『裁縫には自信があるのです! シャッ、シャッ、シャッ!……はい、終わりました! ついでに襟のシワも完璧にアイロンがけしておきました!』
『お、おお……素早いな。助かるが……』
またある時は、ターニャが疲労で糖分を欲しているのを察知するや否や。
『准将閣下! 脳の疲労には糖分が一番です! ローゼフシルト家の専用機で、三州同盟の最高級チョコレートと、職人に作らせたバタークッキーを取り寄せておきました! さあ、どうぞ!』
『なっ……!? この戦時下に、本物のチョコレートだと!? エリザ少佐、もしや神とやらは貴官だったのか!』
(く、くそぅ……! くそぅっ!)
テントの隅で、ヴィーシャはハンカチの端を噛みちぎらんばかりの勢いでギリィッと引っ張っていた。
(なんで……なんで帝国随一の大財閥のお嬢様が、軍服の修繕やアイロンがけ、さらにお茶汲みのような雑用までプロ級に完璧なんですか! おかしいです! 普通、お嬢様なら「あら、お湯ってどうやって沸かすのかしら?」くらいであるべきじゃないんですか!!)
ヴィーシャの悔し涙交じりの心のツッコミは、極めて正論であった。
だが、悲しいかな。エリザーベトは、あのジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルトの娘である。帝王学だけでなく、あらゆる実務を完璧にこなすよう徹底的な英才教育を施されて育った彼女にとって、この程度の家事や雑用など、目隠しをしていても出来るレベルのイージーモードなのだ。
その異常なハイスペックが、なぜか敬愛するターニャの身の回りの世話という、恐らく父も全く予想だにしていないベクトルへフルスロットルで発揮されているのである。
あまりにもエリザーベトが世話を焼きたがる(というより、しゃしゃり出てくる)のを見かねて、ついにターニャ自身が口を開いた。
「……エリザ少佐。その、色々と気を遣ってくれるのはありがたいが」
「はいっ! なんでしょうか、閣下!」
「貴官は戦闘群の参謀長なのだぞ。一個師団規模に膨れ上がったこの部隊の兵站と作戦立案を一手に担う、極めて激務のポジションだ。私の身の回りの世話だとか、お茶の準備だとか、そういった雑事は……副官のセレブリャコーフ中尉がやってくれる。だから、貴官は自分の職務に専念し、空いた時間はしっかり休養を取ってくれ」
ターニャの言葉に、ヴィーシャの顔がパァッと明るくなった。
(じゅ、准将閣下……!!)
ヴィーシャは感動のあまり、その場で拝み倒しそうになった。
そうだ。准将閣下はちゃんと分かってくれている。私という副官の存在意義を、しっかりと認めてくれているのだ。
ヴィーシャは勝ち誇ったような、あるいは慈愛に満ちたドヤ顔で、長身のエリザーベトを見上げた。
「そういうことです、少佐殿。閣下のお世話は、長年付き従ってきたこの私が責任を持って行いますから、少佐殿は参謀のお仕事に……」
しかし。
エリザーベトは、ターニャの配慮とヴィーシャのドヤ顔を、透き通るような青い瞳で不思議そうに見つめ返し、全く空気を読まない満面の笑みで言い放った。
「いえ! 大丈夫です、閣下!」
「大丈夫、とは?」
「参謀長としての明日の作戦立案、各部隊の配置調整、兵站の割り振り、ならびに司令部への報告書作成は……全て一時間前に、完璧に終わらせておりますから!」
「……は?」
「ですので、私の業務には完全に空き時間ができております! その余ったリソースを使って、敬愛する准将閣下のお世話をさせていただくことに、軍規的にも戦術的にも、何の問題もありません!! むしろ、閣下のパフォーマンスを最大化することこそが、参謀長としての最大の任務であります!!」
ビシィッ! と、完璧な敬礼を決めるエリザーベト。
常軌を逸した処理速度で参謀としての激務を終わらせ、その余力を全て「ターニャの世話」という厄介オタク的活動に全振りするという論理であった。
「なっ……!?」
ヴィーシャは、怒りと悔しさでワナワナと震え、軍靴で床をダンダンッと踏み鳴らして地団駄を踏んだ。
(理屈じゃないんです! 早く仕事が終わったからって、私のテリトリーを侵食していい理由にはならないんです! 空気読んでください!!)
◇
そして、その日の午後。
ターニャが前線の視察に出かけ、司令部のテントにヴィーシャとエリザーベトが二人きりになった(実際には入り口の外に衛兵がいるが)タイミングで、ついにヴィーシャの我慢は限界点を突破した。
「……少佐殿。少し、よろしいでしょうか」
書類の整理をしていたエリザーベトの背中に向かって、ヴィーシャは極めて低く、ドスの効いた声で呼びかけた。
「はい? なんでしょうか、セレブリャコーフ中尉」
振り返ったエリザーベトの青い瞳には、一切の悪気がない。純粋無垢な(だからこそタチの悪い)表情であった。それがヴィーシャの導火線に完全に火をつけた。
「いくらなんでも、出しゃばりすぎです!!」
バンッ! と机を両手で叩き、ヴィーシャは身長差を無視してエリザーベトに食ってかかった。
「閣下の副官はこの私です! ライン戦線の頃から、ずっと閣下の背中を守り、閣下にお茶を淹れてきたのは私なんです!閣下のコーヒーの好みも、疲れている時の癖も、一番分かっているのは私なんです! 参謀長は、参謀長の仕事だけをして、副官の領域を荒らさないでください!!」
突然、普段は温厚なセレブリャコーフ中尉から牙を剥き出しにして抗議されたエリザーベトは、目を白黒させて混乱した。
「えっ? あ、あの……私、ただ准将閣下のお役に立ちたくて……その、閣下が少しでも快適に過ごせればと思って……」
「お役に立つなら、地図と睨めっこして作戦を考えていてください! お茶汲みや修繕は私の仕事です!!」
「うぅ……」
ヴィーシャの剣幕に押され、長身のエリザーベトがシュンと小さくなる。
しかし、彼女の父譲りのどこかネジの飛んだ論理的思考回路が、ここでショートを起こし、極めて狂った結論を弾き出した。
「……分かりました。セレブリャコーフ中尉の言う通りです」
エリザーベトは顔を上げ、真剣な表情で頷いた。
「確かに、参謀長という役職にありながら、副官の真似事をするのは軍の指揮系統と規律を乱す行為ですね。私の配慮が足りませんでした」
「……分かっていただけましたか」
「はい。……ですので、私は決心しました」
エリザーベトは、ヴィーシャの両手をガシッと握りしめ、キラキラと目を輝かせながら、大真面目な声で宣言した。
「私、今すぐ参謀本部へ電報を打ち、参謀長の職を辞して、准将閣下の『副官』への降格志願を提出いたします!!」
「……はあぁぁぁぁっ!?」
ヴィーシャの口から、素っ頓狂な叫び声が漏れた。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!? なんでそうなるんですか!」
「だって、参謀長だからお世話をしてはいけないのですよね? ならば、私が副官になれば、正々堂々と閣下のコーヒーを淹れて、軍服にアイロンをかけられるではありませんか! 職務など、閣下への愛(忠誠)に比べれば些末な問題です!」
「ちッ、違います! そういうことじゃないんです! 私の仕事を取るなと言っているんです!!」
「大丈夫です! 副官が二人いれば、二十四時間体制のシフトを組んで、片時も離れずに閣下を完璧にサポートできます! 素晴らしいアイデアだと思いませんか!?」
「全然思いません! おかしいんじゃないんですか貴女は! 大将閣下の娘が、少佐の階級で副官に降格なんて、参謀本部が許すわけないです!」
「父に頼めば、何とかしてくれます!」
「職権乱用の使い所がおかしいです!!」
ギャーギャーと、テントの中で取っ組み合い(口論)を始める二人。
そこへ、視察から戻ってきたターニャがテントの入り口をくぐってきた。
「……おい。外まで声が聞こえているぞ。一体何の騒ぎだ?」
「あっ! 准将閣下!」
ターニャの姿を見るなり、エリザーベトが犬のように尻尾を振って駆け寄る。
「閣下! 私、今から参謀長を辞めて、閣下の第二副官になります! これからは二十四時間体制で、閣下のすべてをお世話させていただきます!!」
「……は? エリザ少佐、貴官は突然、何を狂ったことを言っているんだ?」
「准将閣下! 違います、このポンコツ令嬢が勝手に言っているだけです! 准将閣下の副官は私一人で十分です!!」
「ヴィーシャまで……。ええい、少し落ち着け! 二人とも、私の頭痛の種を増やすな!!」
意味不明な降格志願を訴える厄介オタク(参謀長)と、既得権益(副官の座)を必死に死守しようとする古参副官。そして、全く状況が理解できずに胃を押さえる幼い将官。
司令部のテントの中は、完全に収拾のつかないカオス状態に陥っていた。
◇
「……おい、ノイマン」
司令部のテントの外。
騒がしい声が漏れ聞こえてくる入り口の近くで、寄りかかってタバコを吹かしていた第二〇三航空魔導大隊の古参、ケーニッヒ大尉が、呆れ返った顔で隣の同僚に声をかけた。
「ん?」
「あの財閥令嬢の参謀長殿……仕事はキレ者だが、頭のネジが数本、いや、数十本は飛んでるんじゃないか?」
「だろ」
ノイマン大尉は、ふぅと紫煙を吐き出しながら、やれやれと肩を竦めた。
「お偉い大将閣下の娘だろうが何だろうが、この戦闘群にまともな女はいないのさ。……准将閣下はバケ……おっと、おっかないし、セレブリャコーフ中尉も色々と……なんかおかしいしな」
「違いない。……くわばらくわばら、俺たちは巻き込まれないように、大人しく空を飛んでるとするか」
二人の古参魔導士は、テントの中から聞こえてくる「私は副官になります!」「絶対ダメです!」「ええい、二人とも一旦落ち着け!!」という痴話喧嘩のような怒号を子守唄代わりに、次の出撃までの束の間の休息を、呆れ顔で満喫するのであった。
ローゼフシルトの過去話いる?
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前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
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転生してからの話あくしろ
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男に興味ねぇからさっさと話進めろや!