《統一暦1928年6月上旬 リペツク=タンボフ間平原 サラマンダー戦闘群戦車大隊》
白く立ち込める毒ガスの霧が、分厚い防弾ガラスの向こう側で渦を巻いている。
本来であれば緑豊かな春の平原であるはずのこの地は、化学兵器の残留ガスと硝煙、そして自然発生した濃霧が混ざり合い、視界がわずか数メートルという最悪の暗海と化していた。
帝国軍サラマンダー戦闘群、戦車大隊第二中隊。
最新鋭主力戦車R-1 リンドヴルム改の車長席で、ミハイロ・ワットマン中尉は、分厚いゴム引きの防護服の中で、不快な汗が首筋を伝うのを感じていた。
「……クソッ。まるでゴムの棺桶だな」
巨大なフィルター付きのガスマスクのせいで、自身の吐息がガラスを曇らせる。
ワットマンの愛機であるリンドヴルムには、他の戦車にはないフロンガス式の大型冷房設備が搭載されており、車内の空気は冷え切っているはずだった。だが、この密閉された防護服を着込んでいる以上、皮膚呼吸すら阻害され、内側に熱と汗が篭り続ける。
喉が渇いても、水筒の水を飲むことすら許されない。ガスマスクを外せば、車体の隙間から微量に侵入してくる猛毒のタブンガスによって、数秒で神経系が破壊され始め死に至るからだ。
(我々リンドヴルムの乗員は、冷房があるだけまだマシだ。だが……冷房のないティーゲルやグライフに乗っている他部隊の戦友たちは、今頃この服の中で自分の汗で溺れかけているだろうな)
ワットマンは、見えぬ戦友たちへ深く同情した。
戦車のエンジンが発する灼熱と、それの逃げ道のない車内。冷房を持たない装甲車両の内部は、軽く五〇度を超えているはずだ。現に、他の部隊の戦車の無線を拾えば、熱中症で意識を失いかける戦車兵たちのうわ言や、嘔吐するような音が度々聞こえてきていた。
『――中隊各車へ。これより我が大隊は、第五機甲師団の右翼を圧迫している敵戦車軍の側面を突く』
インカムから、中隊長の声が響く。だが、ガスマスクのマイクを通したその声は、酷くくぐもっており、ノイズと混ざって極めて聞き取りづらかった。
「バルタザール、聞こえたか。徹甲弾(APFSDS)装填、砲身水平。目標はいつでも飛び出してくるぞ」
『ヤー。だが車長……ペリスコープが曇って、十メートル先すら怪しいですぜ』
砲手のバルタザール・ヴォル曹長が、苛立たしげに答えた。
通常であれば、ワットマンは車長用キューポラのハッチから上半身を乗り出し、自らの肉眼で全周を見渡して敵をいち早く発見する。だが、この毒ガスの海でハッチを開けることは即ち自殺を意味する。彼は車内に閉じ込められ、視界の狭いペリスコープの細いスリットから外を睨むしかなかった。
リンドヴルムの最大の武器である、数キロ先から行進間射撃で敵を抜くトランジスタ式弾道計算機も、この数十メートルしか視界のない濃霧の中では完全な無用の長物であった。
ここは、数値と計算で戦う現代戦の戦場ではない。霧の中からヌッと現れた敵を、どちらがコンマ一秒早く撃ち抜くかという、西部のガンマンのような早撃ち勝負の世界だ。
その時である。
ワットマンの研ぎ澄まされた戦車兵としての本能が、濃霧の向こう側に巨大な質量の気配を捉えた。
「……前方の霧が動いた。バルタザール、一時の方向! 距離八十!」
『見えません!』
「いいから砲塔を回せ!!」
防護服のせいで動きが鈍る中、バルタザールが反射的に砲塔旋回ハンドルを回す。
直後。ガス混じりの霧の壁を突き破って、巨大な太い丸太のような砲身を備えた、無骨な箱型の戦闘室が眼前に姿を現した。
赤軍の誇る重自走砲――ISU-152である。
距離、わずか十メートル。戦車戦において、これはゼロ距離に等しい。
ISU-152の152ミリ砲が、真っ直ぐにワットマンのリンドヴルムの車体正面を睨みつけた。
いかにリンドヴルムの拘束セラミック複合装甲が強靭であろうと、40キロを超える152ミリ榴弾の超質量を至近距離で受ければ、貫通せずとも凄まじい衝撃波で装甲内壁が剥離し、乗員は内臓を破裂させて死ぬ。
「操縦手、右へ回避! 急ブレーキ!」
ワットマンがインカムで絶叫する。操縦手が防護服の重い腕で必死に操向レバーを引き、リンドヴルムの56トンの巨体が横へスライドした。
直後、ISU-152が火を噴いた。巨大な152ミリ榴弾がリンドヴルムの側面を掠め、後方の泥濘で大爆発を起こす。
凄まじい爆風と泥の津波がリンドヴルムを打ち据え、56トンの巨体が木の葉のように横に浮き上がって叩きつけられた。
「撃てッ!」
脳震盪で視界が揺れる中、ISU-152が次弾の装填に手間取っている隙を突き、静止したリンドヴルムの55口径120ミリ滑腔砲が咆哮を上げた。
放たれたAPFSDS弾は、ISU-152の分厚い戦闘室正面装甲を恐るべき運動エネルギーで液状化させながら貫通。超高温のメタルジェットと装甲の破片が車内に吹き荒れ、内部の152ミリ砲弾を誘爆させ、巨大な箱型の車体を内側から粉々に吹き飛ばした。
「一両撃破! だが喜んでいる暇はないぞ、次が来る!」
ワットマンの警告通り、爆炎と霧の向こうから、地鳴りを立てて次々と赤軍の戦車群が姿を現した。
ISU-152の後続として、強固な楔形装甲を持つIS-3の群れが牙を剥いている。その周囲には、ガスマスクを被り、ゴムの外套を羽織った赤軍兵士たちが、対戦車手榴弾を握りしめて亡霊のように付き従っていた。
「右翼の3号車、側面を被弾! 燃えています!」
「5号車も152ミリの直撃を受けました! 砲塔が歪んで沈黙!」
無線から悲痛な声が響く。だが、燃え盛る戦車から後方ハッチを開けて飛び出した帝国戦車兵たちは、直後に赤軍歩兵の弾幕と濃密なタブンガスを吸い込み、痙攣しながら血を吹き出し死んでいった。
毒ガス下の戦場において、戦車の被弾と脱出は、すなわち地獄の苦しみの中での死を意味していた。
「前進停止! 操縦手、バックだ! 敵の射線をずらしながら、一両ずつ確実に仕留めるぞ!」
ワットマンの超人的な戦車指揮が、この絶望的な視界の中で神がかり的な冴えを見せ始めた。
彼はペリスコープのわずかな視界と、地面の震動、そして敵の砲身の向きを瞬時に計算し、操縦手とバルタザールへ的確すぎる指示を出し続けた。
「後退しつつ車体を斜めに向けろ! バルタザール、十一時の方向のT-34、撃て!」
ドゴォン!
「次、三時の方向、瓦礫の横のIS-3の履帯を切れ! 足を止めろ!」
ドガァァン!
防護服による動きの鈍さと、ガスマスクによる呼吸の苦しさ。通常であれば一発撃つごとに数秒の遅れが生じる極悪な環境下でありながら、ワットマンの車輌だけは、まるで一つの生き物のように阿吽の呼吸で動き、赤軍の戦車を次々とスクラップに変えていった。
だが、それでも。
「……数が多すぎる! 敵は一個戦車軍などという規模ではないぞ!」
ペリスコープ越しに見える赤い波は、撃破して燃え上がる残骸を盾にして、さらに無尽蔵に霧の中から湧き出し続けていた。
ワットマンは、リンドヴルムの装甲に敵の砲弾がカンカンと弾かれる不吉な音を聞きながら、圧倒的な物量の前に徐々に自軍が押し込まれつつあることを、肌で感じ取っていた。
◇
《同時刻 前線後方 サラマンダー戦闘群指揮車》
「……状況がおかしい」
装甲指揮車の内部で、ターニャ・フォン・デグレチャフ准将は、ガスマスクをずらして汗を拭いながら、目の前の広域戦況図を厳しい目つきで睨みつけていた。
さすがにこの地点では毒ガスもないが、気まぐれな天候で、死の煙が運ばれてこないとも限らない為、皆一応防護服を身に着けていた。
彼女の元には、前線で奮戦するワットマンたち戦車大隊や、装甲擲弾兵大隊から、ノイズ混じりの悲鳴のような報告が絶え間なく飛び込んできている。
『――第五機甲師団の右翼から応援要請! 敵の圧力が強すぎます! 我々の側面支援だけでは支えきれません!』
『第三中隊、押されています! 敵の152ミリ砲と重戦車が多すぎます!』
ターニャは、前線から送られてくる「敵戦車の撃破数」と「敵の増援規模」の数字を頭の中で高速で計算し、その結果に眉をひそめた。
「軍集団司令部の事前情報では、第五機甲師団を圧迫しているのは赤軍の一個戦車軍だったはずだ。だが、この接敵密度と、戦車大隊からの撃破報告の数を合わせれば……そんな生易しいものではない規模になる。ただの側面脅威ではない、これは赤軍の主力の波だ!」
ターニャは即座に決断を下した。
このまま正面から撃ち合えば、いかにリンドヴルムが強力であろうとも、防護服のペナルティと視界不良、そして圧倒的物量によって、サラマンダー戦闘群はすり潰される。
「作戦を変更する! 参謀長!」
「はい、大隊長殿!」
隣で同じくガスマスクを被ったエリザーベト少佐が背筋を伸ばす。
「前線の戦車大隊および装甲擲弾兵に伝達。これ以上の突撃を中止し、遅滞戦闘を行いながらポイントDまで全軍後退しろ! 敵の装甲部隊を我々に釣らせて、その地点へ誘い込むのだ!」
「ポイントD……自陣のさらに後方ですね。しかし、それでは赤軍に大きく突破口を許すことになりますが」
「構わん。敵は血の気を引かせて追ってくるはずだ。……その密集した頭上に、最高の雷を落としてやる」
ターニャは通信機をひっつかみ、OKW直属の観測隊と共に後方の安全地帯に陣取っているある部隊の指揮官へと周波数を合わせた。
「デグレチャフ准将だ。自走砲大隊長、聞こえるか」
『こちらサラマンダー戦闘群自走砲大隊。どうしました、指揮官閣下。我々は濃霧のせいで着弾観測ができず、VT信管も誤作動が怖くて使えず、完全に遊兵化して欠伸が出ているところですが』
「欠伸はそこまでだ。貴様らが暇を持て余している間に、前線の歩兵と戦車兵は毒ガスの中で血を吐いている。……今から、あらかじめ測量済みの座標に、敵の大部隊を誘導する。前線部隊がそこを通過した直後、貴様らの持つSpH-28 トールの全火力を、その一点に叩き込め」
無線越しの砲兵指揮官の声が、一瞬で歓喜に染まった。
『――了解しました。目標座標固定。MRSI(同時弾着射撃)プログラム、セット。……神の雷を、一秒の狂いもなくご指定の場所へお通ししましょう』
◇
「全車、後退! 撃ち合いは避けて、敵を釣れ!」
大隊長の号令に従い、サラマンダー戦闘群の戦車大隊は、次々と意味があるか怪しい発煙弾を焚きながら、後方へと反転を開始した。
それを「帝国軍が逃げ出した」と誤認した赤軍の装甲部隊は、狂喜のウラーを叫びながら、IS-3とT-34、ISUー152のエンジンを全開にして、霧の中を猛烈な勢いで追撃してきた。
赤軍の巨大な群れが、指定されたキルゾーンに完全に踏み込んだ、その時。
後方二十キロに展開していた、四十五両の『15cm自走榴弾砲 SpH-28 トール』が、一斉に天に向けてその太い砲身を向けた。
トランジスタ計算機が、気温、風速、装薬の燃焼速度を瞬時に計算し、最適な仰角を導き出す。
自動装填装置がガチャンと音を立てて155ミリ砲弾を装填し、砲が火を噴く。
ドォン!
だが、トールの真の恐怖はここからだ。
一発目を撃ち出した直後、砲身が自動でスッと仰角を下げ、装薬量を減らした二発目をわずか数秒後に発射する。さらに仰角を下げ、三発目を発射する。
一両の自走砲から、異なる軌道を描いて撃ち出された三発の巨大な榴弾が、空中で円を描くように飛び、そして。
ヒュルルルルルルルル……!!!
濃霧に包まれたポイントDの上空。
追撃に熱狂していた赤軍の戦車部隊の頭上に、四十五両のトールから放たれた百発以上の155ミリ榴弾が、文字通り「一秒の狂いもなく、全く同時に」降り注いだのである。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
それは砲撃というよりも、天変地異であった。
着弾の誤差ゼロ。逃げる暇など与えられない。
百発以上の榴弾が同時に爆発し、大地が波打ち、強烈な衝撃波が互いに干渉し合って爆発の威力を数倍に跳ね上げた。
分厚い装甲を誇っていたIS-3もISUー152も、頭上からの超質量による同時爆撃には耐えられず、装甲がひしゃげ、キャタピラが吹き飛び、戦車ごと宙を舞って鉄屑へと変わった。
追撃してきた赤軍の前衛部隊は、このたった一回のMRSIによる面制圧によって、文字通り一瞬にして蒸発したのである。
「今だ! 全車反転! 混乱した敵の側面に雪崩れ込め!!」
ターニャの号令とともに、後退していたサラマンダー戦闘群の戦車大隊含む装甲部隊が、一斉に反転して逆襲に転じた。
ワットマンのリンドヴルムを先頭に、帝国軍の強力な戦車群が、爆炎と硝煙でさらに視界がゼロとなった地獄の空間へと飛び込んでいく。
指揮系統も陣形も完全に崩壊し、生き残った赤軍の戦車たちは、側面から現れたリンドヴルムのAPFSDS弾によって次々と串刺しにされ、装甲擲弾兵のStg27による掃射で隨伴歩兵を刈り取られた。
「敵部隊、撤退を開始しました! 我々の反撃により、第五機甲師団を圧迫していた赤軍は完全に背を向けて潰走しています!」
ヴィーシャからの興奮した報告に、ターニャはガスマスクの中で深く息を吐き出した。
どうにか、自分たちの担当戦区の穴は塞いだ。赤軍の進撃の勢いは削ぐことができたはずだ。
だが。
次の日のこと、状況の確認で戦場の霧が晴れ、ついでに毒ガスの霧も晴れ、軍集団司令部の情報部から全軍の被害と「敵の実態」の集計データが送られてきた時。
サラマンダー戦闘群の司令部天幕は、水を打ったような静寂と絶望に包まれた。
「……大隊長殿。司令部からの報告によりますと」
ヴィーシャが、震える手で報告書を読み上げる。
「我々が相対し、そして現在リペツク周辺に展開している赤軍の装甲部隊は……一個戦車軍などという規模ではありませんでした。……判明しただけでも、第三、第七親衛、第一三戦車軍、および第二六、第三三機械化軍。……合わせて三個戦車軍と二個装甲軍から構成された大部隊です」
「なんだと……?」
ターニャは報告書をひったくり、その数字を睨みつけた。
自分たちが今、死に物狂いで押し返したのは、その巨大な赤い津波のほんの「波打ち際」に過ぎなかったのだ。
「……それに、もう一つ。報告があります」
ヴィーシャが、声を詰まらせながら続けた。
「我々が側面を支援するはずだった第五機甲師団ですが……我々が誘引作戦に成功するよりも早く、赤軍の本流に正面から呑み込まれました。……師団司令部は完全に蹂躙され、師団長含む司令部要員は戦死。稼働する戦車は数両のみで……事実上、第五機甲師団は壊滅。軍集団司令部は、同師団の部隊再建は不可能と判断し、残存兵力を他部隊へ吸収し、師団そのものを解体するとの決定を下しました」
天幕の中に、重苦しい沈黙が落ちた。
帝国の精鋭たる一個機甲師団が、わずか一日の戦闘で、師団長ごと消滅し、軍の編成表から完全に抹消されたのだ。
「……三個戦車軍に、二個装甲軍。しかも、それは奴らの一端にすぎない……対する我々は部隊の集結が十分でない」
ターニャは、眉を顰め深刻な顔を浮かべた。
窓の外、というか天幕の外には、焼け焦げた連邦の戦車の残骸と、赤軍兵士の死体が無数に転がる、泥濘の平原が広がっている。
「……神の火を落とし、毒の雨を降らせて、我々は優位に立ったつもりでいた。だが、連邦という赤い熊は、そんなものでは死なない。半分焼け焦げながらでも、こちらの喉笛を噛み千切ろうと無限に湧いてくる」
ターニャは、青い瞳に冷徹な覚悟の光を宿し、前線の地平線を睨み据えた。
「――この戦いは、文字通りの地獄になるな」
サラマンダー戦闘群の指揮官は、迫り来るさらなる衝突の予感に、深く、重い溜息を吐き出すのであった。
またこき使われる。と。
◇
《同時期 旧サラトフ》
東部戦線において最大規模の戦車戦がリペツク周辺で繰り広げられていた頃。
そこから遥か東、ヴォルガ川沿いの要衝サラトフの地には、赤軍の背後を完全に遮断するべく、一つの強大な軍団が到達していた。
老将アウグスト・フォン・マーケンダ元帥率いる特務軍集団である。
その規模はわずか二十万。数百万がぶつかり合う東部戦線全体から見れば、決して大きな軍団ではない。だが、この特務軍集団に所属する部隊は、歩兵の最後の一人に至るまで全てがトラックや装甲車に乗車し、高度に機械化・自動車化された完全なる機動部隊であった。
彼らは、OKW(とその裏にいるラグナロク委員会)からの厳命を帯びていた。
『――サラトフを早期に確保し、両岸を占領せよ。新兵器を用いた証拠とその実戦データを、連合国側に少しでも握らせてはならない』
赤軍の目と主力が完全にヴォロネジに向けられていたこと、そしてEMPと毒ガスによる大混乱の隙を突き、マーケンダ元帥は彼特有の神がかった強行軍を実施した。
一日平均一〇〇キロ以上という、機械化部隊の限界を極める速度で東へ爆進し、道中の僅かな赤軍守備隊をすり潰しながら、彼らはわずか三日で目標であるサラトフへと到達したのである。
「……到着しました、元帥閣下。ここが、サラトフの……はずです」
副官の震える声に促され、装甲指揮車から降り立ったマーケンダは、目の前に広がる光景に、言葉を完全に失った。
街がない。
かつて数十万人が暮らしていたはずの、交通の要衝たる大都市。それが、跡形もなく消え去っていた。
瓦礫の山が辛うじてある程度。建物を構成していたはずのレンガも鉄骨も、その全てが一瞬の超高温で蒸発し、吹き飛ばされ、ただ黒く焼け焦げた、なだらかなガラス質の荒野と文明の残骸が、見渡す限り地平線の彼方まで広がっていたのである。
「これが……OKWの言っていた『新型爆弾』の威力だというのか……」
マーケンダは、銀髪の髭を震わせながら、ゆっくりとガラス化した大地を歩き出した。
熱線から奇跡的に残った、分厚い石造りの銀行の壁の跡。
その壁の表面には、まるで写真を焼き付けたかのように、鮮明な『人間の影』が黒く焼き付いていた。爆発の瞬間、そこに立っていた人間が強烈な熱線を遮り、その直後に人間自身が蒸発したことによって残された、死の影であった。
その影の足元には、黒く焼け爛れ、半分溶けかかった子供用の三輪車が転がっていた。
「……神よ」
歴戦の老将であるマーケンダでさえ、その生々しくも静かすぎる地獄の痕跡に、息を呑むしかなかった。
彼らはこれまで、野戦において大砲や機関銃で何万もの命を奪ってきた。だが、それはあくまで「軍人同士の殺し合い」という土俵の上でのことであった。
しかし、この街で起きたことは違う。軍人も民間人も、老人も赤ん坊も関係なく、何の警告もなく、一瞬にして光の束で蒸発させられたのだ。
「閣下! 医療部隊から緊急の報告が!」
伝令が青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「爆心地から離れた郊外や、地下室で奇跡的に生き残った市民たちが多数発見されました。我々の医療部隊が直ちに保護し、治療に当たっているのですが……様子がおかしいのです!」
「おかしいとは、どういうことだ。火傷か? 負傷か?」
「いえ、外傷はほとんどありません。ですが……次々と、血を吐いて死んでいくのです!」
マーケンダは直ちに、野戦病院として設営された巨大なテント群へと足を運んだ。
テントの中に足を踏み入れた瞬間、そこは、戦場の野戦病院とは全く異質の、不気味で陰惨な空気に満ちていた。
ベッドに横たわる数百人の生存者たち。
彼らには、確かに目立った外傷や火傷の痕はない。だが、彼らの髪の毛は枕に無数に抜け落ち、皮膚には紫色の不気味な斑点が浮かび上がっていた。
彼らは高熱にうなされ、洗面器に黒い血を吐き出し、ただただ苦しみながら命を散らしていく。
「……軍医長! これは一体何の病だ! 毒ガスか!?」
マーケンダが胸倉を掴まんばかりの勢いで問うと、血塗れの白衣を着た軍医長は、絶望的な顔で首を横に振った。
「分かりません、閣下……。強いて原因と思われることがあるとすれば、奇跡的に生き残った市民たちは、三日前に降ってきた『黒い雨』を喉の渇きを癒すために飲んでいたようで……我々の持っている医学書には、このような症状は一切記されていません! 外傷はないのに、白血球が異常な速度で減少し、内臓の粘膜が壊死しています。まるで、目に見えない無数の極小の弾丸に、体の細胞全てを内側から撃ち抜かれたかのような……。輸血も、強心剤も、全く歯が立ちません。我々は、ただ彼らが死んでいくのを見ていることしかできないのです……!」
放射線障害。
被爆によってDNAを根本から破壊され、細胞分裂ができなくなった人間の末路。当時の医学では、その概念すら存在しなかった、完全なる『未知の死』であった。
マーケンダは、言葉を失い、ベッドの間をゆっくりと歩いた。
その時。
部屋の隅の小さな病床から、か細い声が聞こえた。
そこには、一人の幼女が横たわっていた。
年齢は9歳か10歳ほど。かつてともにダキアを征服した、あの小さな英雄と同じくらいの年頃の少女であった。
だが、その少女の金色の髪は無惨に抜け落ち、青白い肌には紫色の斑点が広がり、呼吸をするたびに苦しそうに胸を上下させていた。
少女は、立派な軍服を着たマーケンダの姿を見ると、焦点の合わない目で彼を見つめ、弱々しい声で何かを呟いた。
傍らにいたルーシー語の通訳が、涙ぐみながらその言葉をマーケンダに伝えた。
「『……おじさん。私、ちっとも痛いところはないの。でも、すごく苦しいの。……私、治るの?』……と、言っています」
マーケンダは、雷に打たれたように立ち尽くした。
歴戦の武勲を誇り、いかなる困難な戦場でも決して顔色を変えなかった誇り高き老元帥の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
彼は、手袋を外し、その大きな無骨な手で、少女の抜け落ちた頭を優しく、震えながら撫でた。
「……ああ、治るとも。すぐに良くなる。だから、安心して眠りなさい」
それは、帝国元帥として、そして一人の人間としてついた、最も悲しく、最も無力な嘘であった。
少女は、マーケンダの大きな手の温もりに安心したのか、微かに微笑み、そのまま静かに目を閉じて、二度と開くことはなかった。
マーケンダは、重い足取りでテントの外へと出た。
だが、そこで彼が目にしたのは、さらに彼の人間としての尊厳を逆撫でする、おぞましい光景であった。
軍の医療部隊とは別に、OKW(その裏にいるラグナロク委員会)から特務軍集団に同行させられていた特別研究チームの者たちが、テントの裏手で作業を行っていた。
彼らは分厚い防護服に身を包み、まるで機械のような無機質な動作で、たった今息を引き取ったばかりの市民の死体を解剖台に乗せ、臓器を取り出してはホルマリン漬けにしていた。
さらに別の研究員たちは、まだ息のある生存者の口を乱暴に開けて口腔内の壊死状況を写真に収め、見慣れぬ測定器を生存者の皮膚に当てては、何の感傷も持たずに淡々とノートに数値を書き込んでいる。そこには、苦しむ者を助けようという医療の意思は微塵もなく、ただモルモットを観察するような冷酷なデータ収集の作業があるだけであった。
「……貴様ら、何をしている!!」
マーケンダの堪忍袋の緒が完全に切れ、怒号がサラトフの廃墟に響き渡った。
彼は大股で研究チームに歩み寄ると、死体にメスを入れていたチーフ研究員の防護服の胸倉を、その剛腕で激しく締め上げた。
「まだ息のある者まで物扱いしおって! 治療が先だろうが! 貴様らには……貴様らには、人の心がないのか!!」
老元帥の激怒に触れれば、通常の兵士ならば恐れ慄いて平伏するはずだ。
だが、胸倉を掴まれた研究チームのチーフは、ガスマスクの分厚いガラス越しに、感情の完全に欠落した冷たい目でマーケンダを見つめ返した。
「お手を離してください、元帥閣下。……我々はOKW直属の特務班です。彼らに施す治療法など、最初から存在しません。彼らの細胞はすでに破壊されており、数日以内に全員死亡します」
チーフは、マーケンダの怒りなどどこ吹く風とばかりに、淡々と、ひたすらに事務的な声で答えた。
「何も驚き、嘆くことはありません。急性放射線障害による内臓粘膜の壊死、ならびに白血球の急減……この街の状況も、彼らの死に様も、すべて我々の『想定された範囲』ですので。……我々の任務は、この貴重な実験データを帝都に持ち帰ること。それ以上でも、以下でもありません」
「なっ……!?」
想定された範囲。
その言葉を聞いた瞬間、マーケンダは胸倉を掴んでいた手を力なく離し、数歩後ずさった。
彼らは、この地獄が起きることを初めから完璧に理解した上で、この兵器を街の真上に落としたというのか。罪なき子供が血を吐いて死んでいく姿を、単なる『想定されたデータ』として処理するために。
「……おお、神よ」
マーケンダは、黒い雨雲に覆われたサラトフの空を仰ぎ見た。
彼の背後には、数万の軍隊と、圧倒的な科学の力がある。だが、その力は一人の幼女の命を救うことすらできず、冷徹な計算の下に無差別に命を刈り取るためだけに存在していた。
「これが……これが、人に許された力だというのか……!」
老将の呆然とした、深く絶望に満ちた呻き声は、放射能に汚染された死の街の冷たい風に吹かれ、誰にも届くことなく虚しく消えていった。
ラグナロクの火は、敵軍の戦力を粉砕するのと同時に、それを使う人間たちの魂と尊厳をも、根本から焼き尽くそうとしていたのである。
久々のマーケンダの登場です。
元ネタのマッケンゼンが好きなので出したかったのですが、出す機会がなくて二度目の登場がここまで長引きました。
恐らく大半の人は覚えていないと思うので教えると、初回の登場は四話にあたる「ダキア消滅」です。ここでターニャと多少喋った程度でそれ以降は一切の登場シーンがありません。
サラトフに落とされたのはブースト型原子爆弾なので威力は400kt前後だと思います。
広島型原爆の約26.7倍、長崎型原爆の約19倍程度の威力です。
まだ現代的な大規模都市でもないサラトフでしたら一撃で木っ端みじんになる威力だと思います。
ローゼフシルトの過去話いる?
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前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
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転生してからの話あくしろ
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男に興味ねぇからさっさと話進めろや!