世界に冠たる帝国よ永遠たれ   作:ちんすこー

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海洋帝国の焦燥

《中央暦1924年10月中旬 アルビオン連合王国 首都ロンディウム》

 

ドードーバード海峡を吹き抜ける極寒の湿った風が、アルビオン連合王国・首相官邸10番地の重厚な窓枠をかすかに震わせていた。

 

執務室の空気に満ちているのは、上質な葉巻の煙と、隠しきれない濃厚な焦燥感である。

 

「……アーサー。私は今朝、最高に不愉快な紅茶を飲んだ」

 

革張りのソファーに深く身を沈めたアルビオン首相、チャーブルは、太い葉巻を口に咥えたまま煙を天井へ吹き上げた。

 

「北方の我が親愛なる友人たち、協商連合が、ライオンの目を盗んで逃げ出すウサギのように、あっけなくホワイトフラッグを掲げたという報告のせいだ。我が情報部は、帝国の北方攻勢について何と言っていたのかね?」

 

対面に立つ連合王国秘密情報部局長、サー・アーサー・シンクレアは、一切の動揺を見せずに完璧なブリティッシュスマイルを浮かべてみせた。

 

「閣下、我が部の分析に不備はありませんでした。帝国が春季にザールラントで、夏季にはダキアで攻勢した時点で泥濘が広がる秋季、極寒の冬季での協商連合に対する攻勢はあり得ないものでした。……ただ一つ誤算があったとすれば、帝国がその泥濘が広がるはずの秋季でも攻勢を行い、理解不能な速度で協商連合を平らげたことです」

「軽妙なジョークだな、アーサー。だが残念なことに、私は今、議会で笑いを取るためのネタを探しているのではない。我が国が共和国と足並みを揃え、協商連合の戦線を支えるために義勇軍の派遣準備を進めていたことは知っているな? 輸送船団の手配を終え、兵員が港へ移動を開始したまさにその瞬間に、協商連合の政府が消滅したのだぞ」

 

チャーブルは葉巻を灰皿に叩きつけるように置いた。

 

「協商連合の北方戦線は、数ヶ月は持ちこたえるはずだったと言ったな。フランソワの陸軍と共に義勇軍を送り込み、帝国を南北から挟み撃ちにして疲弊させる……それが我が国の完璧なシナリオだったのだ。それが何だ? 義勇軍が船に乗る前に、敵は山脈を越え、協商連合の防衛線を紙くずのように破砕し、首都オスロドにまで雪崩れ込んだ。我々はただ、差し伸べようとした手を空中で虚しく漂わせることしかできなかったのだ」

 

傍らに控えていた連合王国参謀本部のスチールサイド将軍が、苦々しい表情で分厚い報告書を開いた。

 

「事態は深刻です、首相。協商連合から逃げ延びた将校や、現地に残っていた我が国の観戦武官からの断片的な報告を総合すると、帝国はこれまでの近代戦の常識を覆す新しい形態の攻勢を行った模様です」

「新しい形態だと?」

「ええ。これまでの戦争であれば、まず数日間にわたる準備砲撃を行い、それから歩兵が前進するのが鉄則でした。しかし、帝国軍は極めて高い機動力を持つ戦車や装甲車を集中投入し、我が方の義勇軍が到着する隙すら与えない速度で突破口を押し開き瞬く間に協商連合を制圧しました」

 

チャーブルの目が細められた。

 

チャーブルは立ち上がり、ゆっくりと部屋の壁に掛けられた巨大なヨーロッパ地図の前へと歩み寄った。

 

「よいか、諸君。アルビオンが歴史上、最も恐れてきたものは何か知っているか? フランソワのワインの不作でも、ルーシーが冬に熱波に襲われることでもない。ドードーバード海峡の対岸に、欧州大陸を統一した単一の巨大国家が誕生することだ。ダキアを瞬く間に平定し、協商連合をひき潰し、共和国を追い詰めている今の帝国は、まさに我が国の安全保障上の悪夢そのものだ。帝国が大陸を完全に掌握すれば、彼らはその莫大な工業力をすべて海洋へと向け始めるだろう」

「宣戦布告なさいますか、閣下?」

「ハッ、吐き気がする程つまらんジョークだ。我が国と帝国は直接の戦争状態にはない。それに、現時点でロイヤルネイビーと帝国海軍の戦力比は、拮抗しつつある。我が国の超ド級戦艦群に対し、帝国海軍もまた強大な洋上艦隊を擁しているのだ。今、直接の海上決戦に及べば、両者共倒れとなり、得をするのは太西洋の先の野蛮な植民地人だけだ」

 

チャーブルは不敵な笑みを浮かべ、太西洋と地中海を指でなぞった。

 

「アルビオンのやり方は昔から決まっている。直接拳を交えずとも、相手の首を締める方法はあるのだよ。……帝国という怪物の喉元にある、物流という管をな」

 

数日後。アルビオン連合王国は、直接の臨戦態勢ではなく、「中立航行の安全確保および国際法に基づく臨検」という名目を掲げ、暗に帝国への海上締め付けを開始した。

 

ジャーバラルタル海峡*1およびスワイズ運河*2、喜望峰といった世界の海上交通の要衝において、帝国籍の商船や、帝国へ向かう第三国の資材搬送船に対し、過剰なまでに厳重な安全点検を実施。通関手続きを故意に引き延ばし、数週間単位で港に留め置くという実質的な海上物流妨害に乗り出したのである。

 

さらに、ドーバー海峡や北海の公海上においても、アルビオン王立海軍の軽巡洋艦隊が違法物資の取り締まりと称して帝国商船の周りを威圧するように遊弋し始めた。

 

ロンディウムのシティでも帝国商船が使用せざる負えない海域の保険料が異常に高騰し、帝国の海上輸送網に打撃を加えた。

 

これは正式な宣戦布告でもなければ、無差別な臨検でもない。だが、軍の急激な再編と連続する大規模攻勢によって石油やゴム、稀少金属などの資源消費が激増していた帝国にとって、この陰湿な物流の停滞は確実な痛手となりつつあった。

 

 

 

 

《中央暦1924年12月上旬 帝都ベルン》

 

欧州全土に厚い雲に覆われ、寒々しい外に反し帝国参謀本部緊急合同会議室は、重苦しい熱気に包まれていた。

 

「アルビオンの紳士気取りどもめが! 検疫だの安全点検だのと抜かして、我が国の商船をスワイズ運河で3週間も足止めしている! 宣戦布告もしてこんくせに、実質的な経済封鎖を仕掛けてくるとは卑劣極まりない!!」

 

帝国海軍軍令部長、フォン・シャペー大将が激怒して重厚なオーク材の机を叩いた。

 

「陸軍としても看過できん」

 

参謀次長ルーデルドルフ中将も不機嫌極まりない顔で腕を組む。

 

「協商連合を退け、今まさにフランソワに対する最終攻勢の準備を進めているというのに、ガソリンやゴムといった戦略物資の輸入が遅れれば、我が方の計画全体に狂いが生じる」

 

ルーデルドルフが静かに煙草の煙を吐き出し、戦務参謀次長ゼートゥーア中将へ視線を送る。

 

「……ゼートゥーア。現在の帝国全体の戦略資源備蓄と、海の状況はどうなっているのだ?」

「芳しくないな」

 

ゼートゥーアは眼鏡を指で押し上げ、淡々と報告した。

 

「石油はある。ゴムもある。だが錫やその他の希少金属がない。アルビオンとの直接戦争を回避しつつ、我が方の物資輸送を正常化させる必要がある。しかし、我が海軍の主力艦隊を直接出撃させて圧力をかけようとすれば、向こうのロイヤルネイビーも主力戦艦群を出撃させ、最悪の場合、予期せぬ衝突から未準備のまま全面戦争へ突入する危険がある。双方の主力艦隊が睨み合う緊張状態の中での威嚇行為は、極めてリスクが高い」

「では、このままアルビオンの陰湿な嫌がらせを黙って指をくわえて見ているのか!?」

 

シャペー海軍大将の不満が爆発しかけたその時、末席に座っていた一人の若き将校が、静かに挙手をした。

 

「……失礼いたします。将軍方、お言葉ですが」

 

発言したのは、協商連合を破壊した北方攻勢の功績を受け准将に昇進した、ローゼフシルトであった。

 

「アルビオンと正面切って戦艦同士で睨み合う必要はありません。彼らが国際法と臨検という建前を使って我々の首を絞めようとしているのであれば、我々もまた建前と直接的な武力衝突を避けた牽制手段をもって応戦すべきです」

 

ルーデルドルフが眉をひそめる。

 

「何……? ローゼフシルト准将、具体的にどうするつもりだ?」

 

「アルビオンの真に恐れているのは、我が国が進める海洋進出と、大陸で進んでいるパワーバランスの崩壊です。それに介入したいアルビオンは未だ準備が整っていない。そして我々帝国も共和国打倒のための準備が必要です。この一点において我々は利害で一致しています。なれば、我々が示すべきは武力行使ではなく、我が国が持つ海洋における監視と対抗の意思です。……現在、配備が進んでおります長距離飛行が可能な海洋哨戒機、および潜水艦を、北海および公海上の訓練区画に広域配備いたします」

 

ローゼフシルトは手元の書類を滑らせた。

 

「これらは攻撃のためではなく、我が国の商船護衛とアルビオン軍艦の行動の完全な可視化のために使用します。上空から長距離哨戒機がアルビオンの巡洋艦の動きを常時監視、撮影し、その位置情報を即座に我が方の潜水艦隊や護衛艦へ共有する。彼らが我が商船に不当な妨害を行おうとすれば、常にカメラと潜水艦の照準が自分たちに向けられていることを知ることになります」

「直接撃沈するのではないのだな?」

 

ゼートゥーアが尋ねる。

 

「ええ。アルビオンと直接の開戦に至らぬよう、一発の砲弾も魚雷も撃ちません。しかし、彼らのコソコソとした嫌がらせをすべて白日の下に晒し、公海上での自由航行を力強く主張するのです。同時に、アルビオンがこれ以上関与を強めるならば、我が国には彼らの海上輸送網をいつでも監視下に置く潜在能力があるという沈黙の威圧を与えることになります」

 

シャぺー大将は煙草を消し、静かに頷いた。

 

「よし……アルビオンにこれ以上の介入は相応の代償を伴うと分からせ、時間を稼ぐ。陸上の西部戦線を終わらせるまでの間、海上の均衡を維持しよう」

 

 

 

 

数週間後。ロンディウムのチャーブル首相のもとに、王立海軍からの困惑に満ちた極秘報告が届いていた。

 

北海および大西洋の公海上において、アルビオンの巡洋艦隊が帝国商船に近づこうとするたび、雲上から見慣れぬ四発の巨大な帝国軍機が飛来し、一定の距離を保ちながら悠々と旋回を始めるようになったという。

 

さらに、海面下には、異常に静粛性と潜航時間を誇る帝国の新型潜水艦が配備された可能性が高いころが示唆され、王立海軍の動きをじっと見つめるように影を潜めているようだった。

 

撃ってくるとは限らない。だが、彼らは確実にこちらを見ている。そして、万が一直接の衝突が起きた場合、帝国側がどれほど緻密かつ組織的な連携で反撃してくるか、その片鱗を見せつけていた。

 

「……帝国は、我が国の狙いを完璧に理解しているな」

 

チャーブル首相は、冷え切った葉巻を指で捏ね回しながら苦笑した。

 

「彼らは直接の戦争を避けつつ、我が国の手口を静かに封じ込めてきた。……協商連合を一瞬で破砕したあの不可解な攻勢速度といい、陸でも海でも、帝国には随分と頭の回る奴がいるらしい」

「首相、どうなさいますか? 足止めをさらに強化しますか?」

 

シンクレア局長問いに対し、チャーブルは深く首を振った。

 

「これ以上刺激すれば、それこそ双方の主力艦隊が衝突する本物の戦争になる。我が国の狙いはあくまで時間を稼ぎ、フランソワを支え、帝国を疲弊させることだ。……今はこれ以上の無茶は控え、フランソワへの支援を強めよ」

 

アルビオンが仕掛けた不気味な足止め工作は、帝国との奇妙な利害の一致で双方ともに準備時間を得るに終わった。

 

しかし、大陸の天秤は刻一刻と帝国へと傾きつつあった。協商連合を砕き、アルビオンの威嚇すら退けた帝国の巨大な軍事機構は、いよいよ西の宿敵、フランソワ共和国との全面対決に向けて、その全重量を傾け始めていたのである。

*1
ジブラルタル海峡

*2
スエズ運河

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