帝国の領域の人口を計算しなおしたら、三千万人くらい増えました。
前の自分はポーランドあたりの人口を計算に加えていなかったようです。
人間には、一度に二か所で働けないという、国家にとって極めて不都合な性質がある。
工場の名簿に名前を書き、連隊の名簿にも同じ名前を書き込むことはできる。役所の書類というものは大変に便利であり、必要であれば、さらに別の名簿へその名前を加えることも可能だった。
だが、当人の身体は一つしかない。
旋盤の前に立たせれば塹壕にはおらず、塹壕へ入れれば旋盤が止まる。国家がどれほど偉大な理想を掲げようとも、この問題ばかりは、愛国心の強さでは解決しなかった。
統一暦一九二三年。
レガドニア協商連合との国境紛争に、フランソワ共和国の参戦が重なり、後に大戦争と呼ばれる戦火が本格的に燃え広がった時、帝国中枢が直面した難題の一つが、まさしくこれであった。
人がいない。
本土に一億五千万人もの人口を抱え、欧州の中央へ巨大な図体を横たえる国家の発言としては、甚だしく説得力に欠ける。
人口四千万人ほどの共和国が聞けば、嫌味か、あるいは何かの暗号だと思ったことだろう。
しかし、帝国の人事担当者と産業官僚にとって、それは冗談にできる話ではなかった。
共和国の攻撃を受け、ようやく本格的な動員に踏み切った帝国は、僅か一週間で二百万人の予備役を招集した。
もちろん、その全員が七日目に前線の塹壕へ入ったわけではない。各軍管区の集結地へ到着させ、装備を渡し、部隊の編成に組み込むところまでの話である。それでも、住民登録と予備役名簿、被服や兵器の備蓄、そして鉄道の運行計画が噛み合わなければ、到底なし得ない速度だった。
開戦の判断では盛大に転んだ帝国が、その後の立ち上がりだけは異様に速かったのは、平時から積み上げてきた制度と設備が、命令を待っていたからである。
ところが、その次が続かなかった。
共和国は二週間ほどで三百万人を集め、その後も徴集の範囲を広げ、対帝国戦争の終結までに八百万人近くを軍務へ送り込んだ。これに対し、帝国の同じ期間の動員は、常備軍を含めても五百万人ほどにとどまった。
どちらも戦争期間を通じた累計であり、同じ日に全員が銃を構えていたという意味ではない。それを踏まえても、本土人口に対する割合は、共和国がおよそ五人に一人、帝国は三十人に一人である。
数字だけを見れば、帝国の徴兵担当官が一斉に職場を放棄したようにしか見えない。
実際には、彼らは毎日出勤し、毎日猛烈に働き、毎日どこかの工場長と喧嘩をしていた。
その原因を追っていくと、統一暦一九一〇年代から矢継ぎ早に実施された四カ年計画へと行き着く。
帝国は、工場を造った。
本国のみならず、植民地にまで広げられた国家主導の開発事業と、さらには同盟国で進められた計画的な開発が、それらの工場から生み出される膨大な製品を飲み込んでいった。
工場へ電力を送るために発電所を造り、原料を届けるために鉄道を敷き、その鉄道を走る機関車を造るために、さらに工場を造った。農業機械と化学肥料の普及が農村から人を押し出すと、都市の建設現場と製造業が、押し出された分をそっくり飲み込んだ。
新しい機械は人間の仕事を減らしたが、機械を使って行う事業の方が、それ以上の勢いで増えていったのである。
農村には、まだ働き手が余っているはずだ。
そう言って地方へ赴いた役人は、ユンカーの農場で、以前なら何十人も並んで行っていた仕事を、数人と機械が片づけている光景を見せられた。
では、その何十人はどこへ行ったのか。
とっくに都市へ出て、貨車を造っていた。
女性を工場へ動員すればよいという意見にも、限度があった。
他国でも女性は農業や家業を支えていたが、帝国ではそれに加え、賃金を得て工場や事務所で働く女性が、戦前から大幅に増えていた。電機、繊維、食品加工、電話交換、経理。女性の就労は、戦争が始まったので初めて開けることのできる、都合の良い予備の引き出しではなかったのだ。
新たに働きに出てもらうにしても、子供を誰が預かり、病人を誰が看るのかという問題が残った。保育所の職員まで徴用しておいて、母親が工場へ来ないと怒るような愚行は、さすがに帝国の官僚にも理解できたし、理解できない者については、現場からの苦情が理解を助けた。
四カ年計画は、成功していた。
失業者を減らし、農村の不完全な就労を工業生産へ結びつけ、巨大な人口を、以前より遥かに効率よく働かせていた。
問題は、その成果を誇らしげに数えた後、軍の動員計画が、同じ人間をもう一度数えていたことである。
最初の二百万人は、平時に定めた順序で引き抜くことができた。
しかし、長期戦のための追加徴集を進めると、徴兵担当官の前には、重要産業への就業を理由とする猶予申請が山積みになった。
炭鉱夫、鉄道員、熟練旋盤工、発電所の運転員、農業機械の修理工。申請書に書かれた職業を片端から無視すれば、兵舎だけは賑やかになる。その代わり、新兵を運ぶ列車が減り、新兵の持つ小銃が届かなくなってしまう。
それでも、一億五千万人の国家が、五百万人以上を動員すること自体は可能だった。
必要だったのは、どの生産を縮め、どの生活を諦め、誰を訓練し直すのかを、政府が決めることである。
当時の帝国政府は、その決断を先送りした。
共和国は、農場や工場からさらに人を抜き、残された者の負担を増して軍を膨らませた。八百万人という数字の裏では、生産の停滞と、熟練工を軍から呼び戻す手間が生じていた。共和国人だけが、実は無性生殖が可能でクローン体を作れたわけではない。両国が、前線と後方へ払う代価の配分を違えていたのである。
北方と西方の敵を片づければ、戦争は終わる。
今この時期に民間の生産を大幅に削り、商業やサービス業を混乱させる必要はない。工場は増産し、国民は普段通りに働き、軍は与えられた兵力で早く勝つべきである。
実に結構な方針だった。最後の部分を命じられる軍人以外には。
帝国ではまだ、民間向けの自動車も、家具も、家電製品も造られ、都市の商店や飲食店も営業していた。国家の存亡を賭けた戦争だと言いながら、どこまで日常を戦争へ差し出すかについては、曖昧なままだったのである。
しかも、一部の企業は軍需に必要な工員を守るついでに、そうでもない従業員まで守った。大きな会社の猶予申請が通り、小さな修理工場の主人が連れていかれるような不均衡も、当然のように発生した。
この恐ろしく豊かな人手不足を準備した人物について、後にある関係者は、極めて簡潔な供述を残している。
『流石にそこまで考えていなかった』
某マイヤー何某という男である。
需要をつくり、工場を増やせば国力が増えるという判断は正しかった。工場から兵士を抜けば、その国力の一部が減るという計算が、別の部署へ置き去りにされていただけだった。
計画の成功と、計画者の無謬は、どうやら別の話であるらしい。
大戦争初期、帝国中枢が数万人の損害にさえ極めて敏感に反応した背景には、こうした事情があった。
戦死者の穴へ誰かを入れれば、その誰かが昨日までいた場所に、新しい穴が空く。負傷していずれ帰ってくる者にしても、治療中の数か月は、軍でも工場でも働けない。
大戦争初期の西部戦線で、帝国軍が歩兵の数的不利を、圧倒的な火砲と砲弾の消費によって埋め続けたのも、単なる火力信仰ではなかった。
後方に残した人間に弾を造らせ、前線へ送った人間をできるだけ生き残らせる。それが、この時期の帝国にとって、最も都合の良い国力の使い方だったのである。
そこへ、統一暦一九二四年、ダキアが突っ込んできた。
そして、死んだ。
ダキア側は帝国の背後へ刃を突き立てたつもりだったが、帝国側の認識では、背中の辺りで何かが転んだ程度の出来事であった。大軍を誇った公国は短期間で蹂躙され、首都ルテニアには帝国軍が入り、残された政府は講和条件の提示を待つ身となった。
帝国が以前から権利を主張していたジーベンビュルゲン*1のダキア領部分の割譲。
無謀な参戦を決めた公爵の退位と、帝国皇室につながる新公爵の受け入れ。
いずれも国家の運命を変える重大な要求だったが、交渉に同席した帝国の経済担当者が、ことさら熱心に説明を求めたのは、別の項目だった。
何人、働きに来られるのか。
帝国の皇帝と親戚関係にあった旧公爵の処遇より、農村から毎年どれだけ人を出せるのかという話に時間が割かれたのは、実に帝国らしい光景であった。
王侯は一人入れ替えれば済む。工員は、そうはいかない。
もっとも、ダキアの農村に余剰労働力があるというのは、百万人が畑の横で何もせず寝ているという意味ではなかった。
狭い土地へ多くの家族が張り付き、人力と家畜に頼って働き、農閑期には十分な仕事がない。その人間を収穫直前に引き抜けば、帝国へ送れるのは労働者と、翌年の飢饉だけになる。
そこで帝国は、脱穀機や播種機、共同利用する牽引車と修理部品を送り、耕地の利用を整理し、作業の順番を変えた。機械は渡しただけでは動かないため、燃料と整備員の手配まで必要になった。
帝国の役人にしてみれば、敗戦国を近代化するために戦勝国が忙しく働くという、なかなか腹立たしい仕事である。
それでも、収穫を維持したまま人を連れてこられるならば、勘定は合った。
復員兵、都市の失業者、農閑期の出稼ぎから始まった受け入れは、数年をかけて拡大した。統一暦一九二八年末には、帝国内で働くダキア人はおよそ百二十万人に達していた。
彼らは荷役や土木、農作業、工場の補助工程へ入り、経験を積んだ者から機械の扱いを覚えた。帝国の熟練工を、着いたばかりの農民とその日のうちに交換できるわけではなかったが、熟練工に荷物まで運ばせる必要は減った。
しかし、帝国はそれでも満足しなかった。
続いて降伏した協商連合は、別の形で、この人手不足を悪化させた。
鉄鉱石である。
講和条約には多額の賠償金が掲げられたが、帝国は、それを北方の軍港、飛行場、通信施設や周辺地域の長期使用と結びつけた。帝国が支払うべき租借料を、協商連合が支払うべき賠償金と毎年相殺する。協商連合は領土の主権を形式上保ち、帝国は長年にわたる基地の使用権を、現金を動かさず確保した。
双方の帳簿は大いに働いた。財布の方は、比較的静かだった。
そのうえで、鉄鉱石、銅鉱石、ボールベアリングなどの優先供給が定められた。
賠償への現物納付に充てる分と、帝国が代金を払って購入する分は分けられ、納付済みの鉱石について二度請求するようなことはしなかった。鉱山を破綻させれば、翌月から届くものがなくなるからである。
高品位の鉄鉱石については、年間一千万トン規模の供給枠が組まれ、北方の鉄道と内海航路を経て、帝国の製鉄所へ流れ込んだ。
もちろん、鉱山にも貨車にも限りはある。
だが、昨日まで原料不足を理由に増産を断っていた工場の前へ、次々に鉱石が積み上がっていけば、話は変わった。
炉を動かす交替要員が要る。コークスを造る人間が要る。鋼材を運ぶ人間も、増設した圧延機を扱う人間も要る。
工業界は北方の勝利を心から祝福し、徴募当局は、その祝賀の音に混じって届く追加の猶予申請を静かに眺めた。
勝つたびに、人が足りなくなる。
帝国という国は、どうも勝利の使い方に問題があった。
統一暦一九二五年、共和国の敗北は、その問題へ別の答えを与えた。
当初、外交官僚が祝杯とともに作り上げた講和原案は、実に壮麗なものだった。
賠償金、領土、植民地、艦艇、通商上の特権。共和国に残しておくのは、毎年それらを引き渡すための政府くらいでよい、とでも言わんばかりの内容である。
酔いの覚めた頭で読み直してもなお、その原案を維持しようとした者がいたことは、帝国外交の将来を考えるうえで大変に不安な事実であった。
だが、連合王国は降りなかった。
海の向こうで戦争が続くと分かるにつれ、共和国を永久に敵として監視するための費用が、原案の華々しい取り分を食い始めた。さらに翌年、連邦との戦争が始まると、講和後の実施協定まで見直さざるを得なくなった。
西で徴発を続け、その抵抗を抑えるために兵を残し、東では兵が足りないと叫ぶ。さすがにそれでは、何のために共和国を倒したのか分からない。
帝国は、取る物を選び直した。
アルザス・ロートリンゲンの係争地域と、従来の帝国領低地地方に接する共和国領フランドルニア*2は割譲させた。共和国は自ら中立を標榜したが、その国土には、条約で指定された経路を帝国軍と軍需物資が通過する権利が設定された。
外交文書では、これを穏当な言葉で飾った。
無害通行。
通過する軍隊から砲撃を受ける側に、その害の有無を尋ねる予定はなかった。
一方、莫大な賠償金の額面は残されたものの、現金による徴収には猶予や相殺措置が繰り返し適用され、実際に支払われる金額は次第に小さくなっていった。帝国が本当に欲しがったのは、共和国の農地から毎年届く食料だった。
穀物換算で年間二百万トンを通常年の最低基準とする拠出を、共和国政府の負担で手配させる。それとは別に追加購入の契約を結び、帝国は石炭、肥料、農業機械などを供給した。
共和国政府は自国の農民から作物を買い上げ、集荷と輸送を担った。帝国の兵士が各村へ乗り込んで小麦袋を探し回るより、その方が遥かに少ない人手で済む。
敗戦によって復員した者を畑へ戻すことも、その前提だった。昨日まで共和国軍を養っていた農業を立て直し、その一部を帝国へ向ける。講和の署名だけで収穫が増えるわけではなかった。
凶作時の減免と、種籾や翌年の作付けに必要な分を残す取り決めも設けられた。
寛大さだけで付いた条項ではない。来年の小麦まで今年食べてしまう国家は、翌年には小麦の代わりに蜂起の報告書を受け取るからである。
帝国人は、質素倹約を美徳とする。
しかし、美徳のために家畜用のカブラを煮込み、それを三度の食事にする覚悟まで持っていたわけではない。豚なら喜ぶかもしれないが、人間には勘弁してほしい食卓の典型例であった。
共和国からの供給は帝国農業を丸ごと代替するほどではなかったが、食料不足の地域を埋め、国内の農業と輸送に余裕を作るうえで、確かな意味を持った。
その取引を政治的に支えたのが、連合王国とイルドアである。
前者はケルセルメビークで共和国艦隊を撃ち、後者は共和国が倒れ込む混乱の中で領土を掠め取った。
帝国の宣伝担当者は、実に仕事がしやすかったことだろう。
自国が奪った土地については国境問題の解決と呼び、イルドアが奪った土地については火事場泥棒の卑劣な侵略とフランドルで叫べばよかったのだ。共和国人の帝国への憎悪が消えたわけではなかったが、昨日の同盟国への怒りを、それより手前に置くことには成功したのである。
帝国は、こうして自国の外へ働き手を求めた。
ダキアからは人を連れてきた。協商連合には鉱山と工場を動かさせ、共和国には畑を耕させた。
それでも、連邦との戦争が始まり、東方の鉄道と道路が底知れず人員を飲み込むようになると、足りないという結論だけが変わらず残った。
そして反攻作戦の成功は、その帝国の前へ、さらに大きな人口を差し出した。
統一暦一九二六年以降、帝国軍の進出した地域には、仕事の消えた人間が大勢いた。
工場の設備は東へ運び去られ、駅や発電所は壊れ、家を失った者が都市の周縁へ集まっていた。働く意思も経験もありながら、働く場所だけがない。
一方、その西では、働く場所を増やしすぎた国が、求人票を握り締めていた。
両者を結びつける事業は、軍政下での募集と避難民の移送から始まった。
統一暦一九二七年、ペトロブルクに帝政政府が復活すると、これらは帝国と帝政ルーシーの正式な労務協定へまとめられた。アレクセイロス三世の了承を得て、帝国内での就労と、そのための大規模な移住が拡張されたのである。
帝政政府にとっても、利点はあった。
仕事のない民を食べさせる負担が減り、労働者の送金が残された家族を支える。帰還した者が機械を扱う技術を持ち帰れば、復興にも役立つ。
だが、鉄道員も修理工も農民も、帝国へ送ってしまえば、自国には何も残らなくなる。
アレクセイロスは、自分の臣民を送り出す書類へ署名する代わりに、現地の復興と農業に必要な人員を残すこと、賃金と食料、宿舎を用意すること、契約が終われば帰還できることを要求した。
帝国へ居場所を求めた経験のある皇帝にとって、国外へ出した人間が、そのまま帳簿から消えてよいという話ではなかった。
アレクセイロスは自身の親友であり、帝国内に巨大な影響力を持つ人物に大丈夫か尋ねた。彼は『実際大丈夫。問題ない』と言った。
アレクセイロスは少し不安になった。
もっとも、条約へ書かれた待遇と、実際に各地で守られる待遇には、しばしば隔たりがあった。
純粋な志願者もいれば、自治体に課された割当てによって送り出された者もいた。自分で署名した契約書を持ちながら、地元に残れば飢えるという以外の選択肢がなかった者も、少なくない。
それでも輸送は続いた。
一度に数百万人を列車へ押し込んだのではない。受け入れる工場と農場を定め、複数の経路で何か月も何年も運び、途中で診療と給食を行い、到着先へ人を振り分ける。そのためだけでも、相当な数の鉄道員と事務員が必要だった。
人手不足を解消する仕事が、また人を要求したのである。
担当者は本気で、なぜ人は二つに分裂出来ないのか疑問に思った。
統一暦一九二八年末、帝国内で就業するルーシー人は、およそ二百八十万人に達した。同伴して移った子供や扶養家族などを含めれば、生活の場を帝国へ移した者は三百四十万人ほどになる。軍の管理下にある捕虜労働者は、この数字に含まない。
だが、三百四十万人が国境を越えれば、そのまま同数の帝国兵が増えるわけではなかった。
子供を働かせるわけにはいかないし、病人には治療が必要だった。言葉を教える者も、作業を指導する者も要る。職業を証明する書類を戦火で失った熟練工が、いつまでも単純作業へ回されることさえあった。
能力を見つけ、使える場所へ置くまでが、受け入れる側の仕事だったのである。
ある工場長は自称熟練工に本当に大丈夫か尋ねた。
彼は『ジッサイダイジョウブ。モンダイナイ』とたどたどしい帝国語で答えた。
工場長は少し不安になりながらもやらせてみると、自身には理解しがたい芸術品が生み出された。こうして、一人の自称熟練工の失敗によって、何の落ち度もないほかのルーシー人労働者まで、まとめて熟練工ではないことにされた。
一九二八年の新体制は、そこでようやく、帝国人と外国人、軍と工場の帳簿を、同じ机の上へ並べ始めた。
シュパーヤの戦時経済省は、企業全体を一括して保護する猶予を見直し、工程ごとに残すべき人間を調べた。民間向けの生産を縮め、重複した仕事をまとめ、他へ回せる者を訓練する。
アエハルトは、商店や食堂、保育所まで一律に潰せば、その利用者が働けなくなることを指摘した。シャルトは支払いを滞らせずに済む仕組みを用意したが、熟練工の養成に必要な年月までは短くできなかった。
軍は人が欲しいと言った。
工場も、農場も、鉄道も、全く同じことを言った。
そして東へ向かう軍用列車の傍らを、西へ向かう労働者の列車が走るようになった。
一方は、これから人間を必要とする工場へ。
もう一方は、人間が足りなくなる速度だけは、どんな工場にも負けない場所へ。
◇
《統一暦1929年1月下旬 ミエンスク東方 モスコー行き軍用列車》
窓の下へ、灰色の蒸気が低く流れていた。
雪に埋もれた停車場で、サラマンダー戦闘群の司令部要員を乗せた列車は、しばらく足を止めていた。先の区間で行われている線路の補修と、対向列車の到着が重なったらしい。
ターニャ・フォン・デグレチャフ少将は、膝に載せた書類へ目を落としながら、客車の暖房管が発する微かな音を聞いていた。
暖房は動いている。
屋根もある。
敵は撃ってこない。
移動中という理由で、今この瞬間だけは、どこかの将軍が地図を広げて突撃を要求することもできない。
軍用列車の遅延にも、評価すべき長所はあるらしい。
「少将閣下。あちらの列車ですが」
向かいに座っていたセレブリャコーフ大尉が、窓の方へ顔を向けた。
ちょうど、隣の線路へ別の列車が入ってきたところだった。
牽引する機関車の後ろに、古い旅客車が長く連なっている。
曇った窓という窓に、人影があった。座席に腰を下ろした者だけではない。通路に立ち、荷物を抱え、隣の人間の肩越しに外を覗く顔が重なっていた。
しかも、軍服ではない。
毛皮の帽子を被った男、色の褪せた頭巾の女、外套の袖が余っている子供。紐で縛った寝具が荷棚に押し込まれ、座席の下からは、鍋の柄らしい物が突き出している。
「随分、大勢乗っていますね。どこかで避難命令が出たのでしょうか」
「前線からの避難も混じっているだろうが、あれは西へ向かう労務輸送だろう。到着地別の札が出ている」
ターニャが顎で示すと、ヴィーシャは窓に近づいた。
車体の側面に、ライヒ語とルーシー語を併記した札が取り付けられている。大きな駅まで運び、そこで帝国内の行き先ごとに分ける編成らしかった。
「帝国の工場で働く人たち、ですか?」
「農場や鉄道へ行く者もいるだろうな。工場だけが人を欲しがっているわけではないからな」
「こんなに大勢……」
列車はゆっくりと止まった。
向こうの車内で、小さな子供が窓へ手をついた。手袋はなく、白く曇ったガラスには、小さな指の跡が五つ並んだ。
「子供まで連れていくのですね」
「家族を連れていく契約なのだろう」
言いながら、ターニャは書類を閉じた。
その問題は、彼女にとって理解の難しいものではなかった。
前世でも、会社が求める人材とは、履歴書に並んだ技能だけでできているわけではなかった。住む場所が要り、通勤の手段が要り、家庭の事情があった。
そうした物をすべて無視して配属の辞令だけ出せば、必要な能力が指定時刻に机の前へ現れると思っている管理職は、どこの世界にもいるらしい。
ターニャ曰く、存在何某はこれを無視し失敗するタイプであり、某マイヤー何某は無視してもなぜか成功させるタイプであった。
「家族が食べているかも分からない人間に、落ち着いて旋盤を回せと言っても無理がある。長く働かせるつもりなら、住居と生活をまとめて考える方が合理的だ」
「……そうですね」
いつものように素直に頷いた副官は、しかし、窓から目を離さなかった。
「私の家も、ルーシーから帝国へ来た家ですから。父たちが持ってきた物も、あんなに沢山ではなかったのだろうと思いまして」
ターニャは、副官の横顔を見た。
セレブリャコーフという姓と、その来歴を忘れていたわけではない。ただ、彼女にとってヴィーシャは、長年隣で飛び、書類を整え、時に信じ難い量の食事を平らげる、極めて有能な帝国軍人だった。
窓の向こうの人々と、同じ方向へ移ってきた家族の一人であるという事実は、普段の勤務には滅多に顔を出さない。
「家では、ルーシーの話をすることもあります。けれど、私が毎日使うのは帝国の言葉ですし、軍に入ってからは、こちらで覚えたことの方がずっと多くなりました」
ヴィーシャは少し笑った。
「それでも、駅であの言葉が聞こえると、知っている人がいるような気がするんです。誰も知り合いではないのに」
向こうの客車の扉が開き、腕章を着けた係員が降りてきた。
別の職員が押してきた台車には、蓋のついた大きな容器が載っている。乗客の何人かが手に手に食器を持って並び始め、列の端では、女が子供の外套の釦を留め直していた。
ヴィーシャは窓を少しだけ下げた。途端に冷たい空気が流れ込み、隣の列車から聞こえるルーシー語の話し声が、はっきりと耳に届くようになった。
大声で交わされるルーシー語を、ヴィーシャは自然に聞き取っているようだった。
「パンは、子供の分も別に受け取れると言っています」
「さすがに出来るだろう」
「あの方は、到着したら家族と分けられるのかと聞いていますね」
ターニャは、窓の外へ視線を戻した。
係員は紙束をめくり、何事か答えていた。列に並んだ男の顔から、緊張が消えたようには見えなかった。
「閣下。あの人たちは、自分で行くことを決めたのでしょうか?」
ヴィーシャの声は、小さかった。
ターニャはすぐには答えず、男が握っている、折り目だらけの紙へ目を留めた。
「それぞれだろうな。自分から募集所へ行った者もいれば、役所から行けと言われた者もいるだろう。家が焼け、仕事もなく、ここに残るよりはと乗った者もいるはずだ」
「……はい」
「あの男がどれなのかは、窓越しには分からん」
少なくとも、手に持った書類一枚で判断するつもりはなかった。
契約書には署名欄がある。署名をした人間が、そこへ至るまで何を失ったかを書く欄は、普通はない。
ヴィーシャは黙って頷いた。
その沈黙を埋めるように、隣の列車から子供の泣き声が聞こえてきた。
「帝国は、あの人たちが来れば、もう少し楽になるのでしょうか」
「なる。だが、着いたというだけでは足りん」
ターニャは、膝の上の書類を指で叩いた。
「例えば、あの中に機関車を修理できる者がいたとする。その男が来た時、言葉が通じないという理由で、何年も石炭の荷下ろしだけをさせていたらどうなる?」
「修理工が足りないまま、ですね」
「そうだ。人を増やしたと報告して満足する役人と、人が足りないと報告し続ける工場長ができる。二人とも嘘は言っていない。困ったことに、仕事もしていないがな……」
向こうの列車では、一人の若い男が、係員に書類を差し出して何かを説明していた。
鉛筆を取り出し、紙の裏へ線を引く。手振りを交え、何度も同じ言葉を繰り返す。その必死な様子は、先ほどのターニャの説明と妙に重なった。
「身元の確認は必要だ。仕事を教える時間も要る。だが、疑うだけで働かせず、その間も飯は食わせるとなれば、何のために連れてきたのか分からん」
「閣下なら、まず何を任せますか?」
「何ができるのかを聞くしかないだろ」
ごく当然の回答のつもりだった。
ところが、ヴィーシャは何故か、少し嬉しそうな顔をした。
「はい。閣下は、そうなさると思います」
妙な確信の籠った声音だった。
ターニャとしては、雇用する前に職歴と技能を確かめる程度の常識を述べたにすぎない。面接すら行わず人を配置する会社など、長期的には経営者ごと市場から退場すべきである。
問題は、国家には、その退場がなかなか起きないことであり、ターニャ的にも起きてもらったら困ることだった。
「ただし、私の部隊へ寄越されても困る。あの者たちは労働者として来たのだ。魔導適性があるというだけで軍が横取りでもすれば、労務協定を作った連中が理不尽なことに私のところに怒鳴り込んでくる」
「それは……困りますね」
ヴィーシャは苦笑した。
自分たちもまた、人手の足りない部署へ配属された人間であることを、よく知っている顔だった。
廊下で足音がした。
扉が開き、戦闘群参謀長、エリザーベト・エドゥアルド・フォン・ローゼフシルト中佐が顔を出した。外套の肩に、少しだけ雪が残っている。
「少将閣下。運行担当者によれば、間もなく発車できるそうです。モスコー到着は予定より三十分程度遅れる見込みですが、その後の行動には支障ありません」
「そうか。実に残念だ」
「はい?」
「……いや、支障がないのは結構だと言った」
ターニャは咳払いをして、書類を揃えた。
ヴィーシャが、口元へ手を当てている。
聞き違いを訂正するのも副官の仕事であるはずだったが、彼女は今のところ、その任務を遂行する気がないらしかった。
「何か、ご懸念でも?」
「人手不足について考えていたところだ。帝国は、北にも西にも東にも人を欲しがっている」
「我々への期待も大きいということでしょう」
エリザーベトは、当然のように答えた。
実に名門の出の人間らしい返答であった。
できれば、その期待を少し減らすことに家門の力を使ってもらいたい。
「少将閣下」
ヴィーシャが、向こうの窓を示した。
先ほどの子供が、こちらへ手を振っている。
帝国の軍服が面白かったのか、金髪の小柄な将官を見つけたのかは分からない。母親らしい女が慌ててその手を引こうとしたが、それより先に、ヴィーシャが小さく振り返した。
ターニャも、窓越しに軽く頷いた。
汽笛が鳴った。
停車場の職員が扉を確かめ、合図を送る。西行きの列車が先に動き出し、曇った窓の一つ一つが、ゆっくりと後方へ流れていった。
名前も、年齢も、技能も知らない人間たちだった。
彼らのうち誰かが、いずれ自分の部隊へ届く弾薬の箱を閉じるのかもしれない。誰かは機関車を直し、誰かは畑を耕し、あの子供は帝国の学校へ通うのだろう。
「あちらは、西ですね」
ヴィーシャが呟いた。
「ああ」
やがて、こちらの列車にも振動が伝わった。
連結器が順に引かれ、窓の外の給水塔が、ゆっくりと動き始める。
帝国には人が必要だった。
工場を動かす人間も、食料を運ぶ人間も、戦場で部隊を指揮する人間も。
そのことは、ターニャにもよく理解できる。
(理解はできる。だが、なぜ私が東行きの列車に乗らねばならんのだ!そこだけは断じて納得できん!)
暖かい客車の中で、ターニャは外套の襟を直した。
手元の命令書には、モスコーで補給と整備を済ませた後の予定まで、丁寧に記されていた。
北方戦区への転進。
ターニャはその一行を裏返し、まだ温かいコーヒーへ手を伸ばした。
向こうの子供が、新しい家で温かい夕食にありつければよいと思った。
自分の分については、今のうちに飲んでおくことにした。
某マイヤー何某はMMT論者です。
きっと完全雇用や経済拡大、持続可能な経済状況の確立の方に思考が偏っていたのでしょう。
彼の目的のためには生産力の拡大は必要事項でしたから、この結果は殆ど必然でしたね。
前話の経済回ではMMTとブリカスのところの戦時経済を参考にさせていただきました。
その前の帝国の戦時経済はカイザーヴィリーの帝国を参考にしています。
MMTって自分的には滅茶苦茶戦時経済的な考えに見えるんですよね。貨幣という仕組みを最大限活用して、国内の労働力や生産設備などの実物資源を動員し、完全雇用を目指す考え方なので。戦時経済が軍需生産のために国家の資源を総動員するのと、発想としてはかなり近い気がするんですよ。
ローゼフシルトの過去話いる?
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前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
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転生してからの話あくしろ
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男に興味ねぇからさっさと話進めろや!