《統一暦1929年2月上旬 キールセキ ローゼフシルト・カイザーリヒ・マリン造船所》
(素面なら、まともな人なんだけどな……)
来月の就役を控えた大型航空母艦『ブラバント』を見上げる上官の横顔に、若い海軍大尉は、そんな感想を抱いていた。
ギュンター・リュッチャンス大将。
帝国海軍航空本部総監であり、海軍内部では、功績と人格を別々に審査する必要性を実証した人物としても知られている。
大将である。
誤植ではない。人事局の担当者も、辞令を清書する前に二度確認した。
航空隊の拡張、搭乗員養成、艦載機の調達、新造空母の艤装と受領。いずれも並の将官なら一つで胃を壊す仕事を、彼は怒鳴りながら同時に進めていた。勤務評定だけを読めば、昇進させない理由が見当たらない。
会議の速記録まで読むと、いくつか見つかったが。
ただ、今の彼は静かだった。
冬の港には、鋼板を叩く音と、係留索の軋む音が重なっていた。艤装岸壁へ巨体を寄せた空母の舷側を、作業員たちが小さな影となって行き来している。艦橋に設置された電探の調整はまだ続いており、飛行甲板の一角には、射出機の試験に用いる器材が並んでいた。
全長二百七十九メートル。満載排水量四万二千五百トン。
遠くから眺めれば一枚の板に見える甲板の下へ、機関、弾薬庫、航空燃料、通信室、修理工場、そして約二千九百人の人間を詰め込む船だった。
「消火主管の区画遮断は、昨日の試験で確認したのか?」
「はい。二系統を同時に損傷した想定でも、残る配管から送水できています」
「図面の上だけの話ではないな?」
「実際に弁を閉じ、ポンプを切り替えました」
工廠の技術将校が答えると、リュッチャンスは頷いた。
「結構。航空燃料の遮断操作は、当直員にも繰り返させろ。試験官だけができても、戦闘中には役に立たん」
若い副官は、手帳へ指示を書き留めた。
正しい。非常に正しい。
艦の速力や搭載機数ばかりに目を向けず、損傷した後にも人と船を生かす仕組みを確かめる。軍服には皺一つなく、質問は簡潔で、報告を聞く態度にも隙がない。
この姿だけを見れば、帝国海軍が誇る名提督そのものであった。
なお、彼は酒を飲んでいない。
普段から、勤務中には飲まない。
副官の言う素面とは、空母による酩酊が、まだ始まっていない状態を指していた。
「航空隊の受け入れ準備は?」
「『ブラバント』の配属要員は陸上で訓練を継続中です。また、『ゲルマニア』の転換訓練については、今月中の所定課程修了を見込んでおります」
「ほう」
リュッチャンスの口角が動いた。
副官は、手帳を閉じるべきかどうか迷った。
「『グラーフ・ツェッペリン』、『ペーター・シュトラッサー』、『ドイッチュラント』に続き、『ゲルマニア』も揃うか」
「はい」
「その後ろに、この『ブラバント』が続く」
「予定通りであれば」
大将は、黒い手袋を嵌めた両手を、ゆっくりと開いた。
「いい甲板だ……」
副官は、ああ始まった、と思った。
「実にいい。無駄な主砲塔が一つもない。どこを見ても飛行機を置ける。これだ。軍艦とは、こうあるべきなのだ」
「閣下。艦首の作業区画には、まだ置けません」
「分かっておる。私は思想の話をしている」
思想を語る時の方が危険な人間というのは、確かに存在する。
副官は、近くに戦艦部隊の将校がいないことを確認した。流血沙汰を避けるためには極めて重要なプロセスであった。
帝国海軍が、この眺めを得るまでに支払った代価は、決して安くなかった。
開戦前から建造されていた艦を含め、旧来の航空母艦十四隻のうち、五隻が失われている。敵の攻撃で沈んだものが三隻、自ら海底へ送ったものが二隻。
戦艦の喪失は九隻。こちらも二隻の自沈を含む。
駆逐艦に至っては、戦没と自沈を合わせて六十隻が名簿から消えていた。
艦隊の編制表では、艦名に線を引けば済む。
だが、その線の下には、士官室で交わされた約束も、機関室で覚えた癖も、砲塔の中でしか通じない冗談もあった。沈んだ船から助かった者は、それらを持って別の艦へ移れたが、戻らなかった者の分については、誰も移してやることができなかった。
一九二五年の改訂Z計画承認時、リュッチャンスは海軍の大講堂で踊った。
予算書を掲げ、航空主兵の時代の到来を叫び、潜水艦隊と戦艦部隊の双方に対して、将官としては到底容認し難い語彙を披露した。
あの日の発言をすべて処罰すれば、彼の軍歴はその場で十回ほど終わっていたはずである。
しかし、予算の承認は艦隊の出現を意味しなかった。
鋼板を切り、船体を組み、機関を据え、配線を通し、飛行機を造り、それを洋上の飛行甲板へ無事に帰還させられる搭乗員を育てる。巨大な工業国の財布が開いても、造船台の上では一日に一日分の仕事しか進まない。
新しい海軍が育つまでの間、古い海軍が戦わなければならなかった。
その時間を、帝国は血で買った。
一九二六年二月、南太西洋。
高速戦艦『オットー』と、ヒッペル中将の最期が、その一つである。
同艦は追撃する連合王国艦隊の前へ立ちはだかり、友軍を逃がす時間を稼いだ。敵巡洋戦艦一隻が轟沈し、戦艦一隻が沈没、別の戦艦一隻と重巡洋艦二隻が大破した。駆逐艦三隻も海面から消え、襲いかかった最初の航空攻撃隊は壊滅した。
その戦果と引き換えに、『オットー』は戻らなかった。
海軍航空本部へ戦闘詳報が届いた時、リュッチャンスは長いこと黙っていたという。
大艦巨砲主義の時代は終わったと叫ぶ男の部下たちが、大口径砲を備えた一隻の戦艦に命を拾われたのである。
理論にとっては、大変に迷惑な事実であり、海軍軍人にとっては、忘れてはならない事実だった。
彼は、ヒッペル中将の写真へ一度敬礼し、戦訓を航空隊の教材へ入れるよう命じた。
そこを抜かした担当者には、普段とは違う低い声で、書き直しを命じたという。
だが、勇戦で稼げる時間にも、終わりはある。
翌一九二七年春、燃料と補給の道を絶たれた太西洋艦隊は、自沈という最後の命令を受けた。小型空母『オストゼー』と『ノルトゼー』も、その中に含まれていた。
敵の爆弾が飛行甲板を貫いたわけではない。
敵艦の砲弾に機関を砕かれたわけでもない。
まだ戦える船へ、自分たちの手で海水を入れた。
この報告を受けたリュッチャンスは、ほとんど発狂した。
「油だぞ!? 船がないのではない! 飛行機がないのでもない! 油が届かんから空母を沈めるだと!!」
燃料担当者は、油の所在と、その油を運ぶ航路が存在することは別の問題だと説明した。
説明は簡潔であり、事実を完璧に把握しており、極めて正しかった。
正しかったので、リュッチャンスはさらに怒った。
彼は給油船の手配を迫り、中立国経由の購入案を持ち込み、外交当局へ電話をかけ、最後には曳航の可能性まで尋ねた。
すべてが間に合わなかった。
以後、彼は空母の予算要求に、給油艦と工作艦の数字を必ず添えるようになった。
担当者が主役を増やすために補助艦を削ろうとすると、机の向こうから人間が出してよいとは思えない声がした。
美しい飛行甲板を海へ浮かべるためには、美しくない油槽船と油にまみれた整備員が必要だった。
彼はそれを嫌というほど思い知らされたのである。
そして一九二八年、ようやくスワイズの航路が復旧し始めると、海軍には新しい仕事が増えた。
七月以降、商船と補給船が東へ向かい、地中海艦隊の艦艇が、その先のバーラト洋へ出るようになった。航路が開いたという朗報は、敵潜水艦にとっても朗報だった。獲物が決まった道を通ってくれるのである。
八月、船団を上空から守っていた空母『シュペルバー』が、潜水艦の雷撃で失われた。
九月には東洋艦隊の『ゼーアドラー』が航空攻撃で沈み、十月には大型空母『フライア』が続いた。
三か月で三隻。
沈没の速報が届くたび、海軍航空本部の廊下を走る足音がした。
最初の一度は、職員が火災かと思った。
二度目からは、空母だと分かるようになった。
「生存者は何人だ!搭乗員は!?整備兵は!?救助艦の位置を寄越せ!代わりの甲板を用意しろ!商船改造でもよい、使える船を全部調べろ!」
リュッチャンスは怒鳴りながら、救援、補充、再編の書類を同時に進めた。
生還した航空隊を、空いているからという理由で別の仕事へばら撒こうとした人事担当者は、総監自らの訪問を受けた。
担当者はその日のうちに、航空隊のまとまりがいかに重要であるかを深く理解した。
その担当者は次の日からリュッチャンスを酷く恐れるようになったそうだが、真相は闇の中である。
戦艦についても、時代は容赦なく答えを示していた。
『ラデツキー』は南洋で航空魚雷を受けて沈み、『テューリンゲン』もバーラト洋の船団援護中に、空から来た敵に沈められた。
遠方の航空機を見つけ、戦闘機を差し向け、砲火を集中し、損傷を食い止める。そこまで含めて艦隊を作らなければ、装甲板の厚さだけでは艦底の穴を塞げない。
敵戦艦を航空攻撃で沈めたとの報告には、リュッチャンスは歓喜した。
「見たか!!これが航空戦だ!!水平線の向こうの主砲が、何を撃てたというのだ!!」
航空本部の者たちは拍手した。
戦果確認担当者はやたらと重複する撃沈報告を一つずつ確認し、同じ艦を二度沈めたことにしないよう、写真と報告書を突き合わせた。
友軍の戦艦が沈んだ時にも、彼の口から最初に出たのは、ほとんど同じ叫びだった。
「だから言ったではないか!!」
ただし、その後は違った。
リュッチャンスは、行方不明者の数字を読むと声を落とした。
航空援護の範囲と、直衛戦闘機の発進時刻を調べさせた。必要な時に味方の頭上へ飛行機を出せなかった理由を、自分の部下にも問いただした。
戦艦が航空攻撃に弱いという主張が正しくても、沈んだ戦艦が帝国のものであれば、海軍航空本部が祝杯を挙げてよい理由にはならなかった。
さすがの彼らも倫理的な配慮くらいはできたし、仮に祝杯を挙げようものなら、十六インチ砲弾が飛んでくるためであった。
誰しも、自分の命は惜しいものである。
理論の勝利を示す報告書へ、戦死した同僚の名前が付いてくる。
戦争は、彼のような男にさえ、喜び方の難しい証明を寄越した。
さらに厄介だったのが、潜水艦である。
帝国の潜水艦が敵戦艦を沈めた。
素晴らしい。
帝国の潜水艦が敵空母を沈めた。
戦果としては素晴らしいが、航空主兵論の演説中に大声で触れることは避けたい。
敵の潜水艦が帝国の空母を沈めた。
許されることではない。
以前、潜水艦隊を鉄のドブネズミ呼ばわりした男としては、顔の筋肉が忙しかった。
「潜水艦による空母撃沈は、航空主兵の否定ではない。対潜護衛の重要性を証明したものだ」
「私もそう思う」
デーナッツは、あっさりと頷いた。
「したがって、護衛空母と対潜航空隊を増やすべきである」
「それで我々の潜水艦建造予算まで持っていくのは、どういう理屈だ」
話が早すぎて、予算の書類を隠す時間がなかった。
もっとも、潜水艦隊の方も無傷で成果を得ていたわけではない。
一月末までに、撃沈、未帰還、自沈を合わせた喪失は五十八隻に達していた。太西洋艦隊と運命を共にした艇もあれば、最後の通信を送った後、二度と所在の分からなくなった艇もある。
出港時には桟橋で罵り合った連中が、帰港予定日を過ぎるとその艇の悪口を言わなくなった。
デーナッツの机には、戦果の報告と、連絡の途絶えた艇の一覧が同じ便で届いた。
リュッチャンスは、後者を読む時には、さすがに何も言わなかった。
言ったら魚雷管に詰められるのは目に見えていたためだ。
彼も命は惜しかったのである。
帝国海軍は傷ついた。
しかし、その傷口を数えるだけでは、この海の戦争を語ったことにはならない。
殴られた側も、大量の血を流していた。
連合王国の商船保有量は、開戦時の二千二百万総トンから、一九二七年には一千六百万総トンへ落ち込んでいた。新しい船を造り、外から船を集め、それでも六百万総トンが減ったのである。
帝国潜水艦隊が、一か月に七十万トン規模の船を沈めた時期もあった。これに対し、連合王国自身の月間建造量は十七万総トン程度。
造船所の工員が残業しても、帳尻の合わない勘定だった。
合州国もまた、同じ一九二七年の春までに、両洋を合わせて五百万総トンに及ぶ商船を失っていた。
これは艦隊決戦の絵画には描かれない損害だった。
沈んだ船には、次の艦を造る鉱石や、工場を動かす燃料や、遠い戦場で必要な砲弾が積まれていた。船だけを数えれば、その先で止まった仕事の分が抜け落ちる。
連合国は護衛艦を増やし、船団の出港をまとめ、航空機を海へ張り付けた。
商船を守るために巡洋艦を割き、必要とあれば戦艦や空母まで動かした。その高価な護衛自体が魚雷を受け、海底へ消えることもあった。
一隻の潜水艦を恐れて何隻もの船が航路を変え、何日も港で待つ。その時間まで含めれば、帝国海軍が敵から奪ったものは、撃沈一覧の数字より遥かに大きかった。
ただし、敵が二年前と同じ顔をして海へ出てくるわけではない。
船団の外には駆逐艦が付き、上には哨戒機が現れ、暗い夜の浮上を電探が見つけるようになった。潜水艦は沈めた後にも追われ、撃つ前に潜らされ、接敵できないまま帰港することも増えた。
高性能の新型艇が増えても、海軍の帳簿にある三百七十四隻を、同じ日に敵の船団へ差し向けることはできなかった。整備中の艇も、往路にある艇も、乗員を訓練している艇もある。実際に哨戒海域へ置ける数は、およそ九十から百十隻の間で動いていた。
そして、大平洋では合州国の新しい艦隊が育っていた。
皇国がその旧主力へ与えた壊滅的打撃も、永久の空白を保証しなかった。一九二八年八月のミッドウェー沖で、合州国は新鋭空母と高速戦艦を集め、電探と戦闘指揮所で航空戦を組み立ててみせた。
皇国は大型空母一隻、中型空母一隻を失った。合州国側も護衛空母を失い、エセックス級空母一隻が大破したものの、損傷艦は帰還した。
帝国の東洋艦隊が参戦していない海戦であっても、その戦訓を読まなくてよい理由にはならない。
敵も、航空機の使い方を覚えていた。
しかも、大量に造る方法まで知っていた。
帝国海軍が決戦を急いだのは、手柄が欲しいからだけではなかった。
今持っている優位を、いつまでも持ち続けられるとは考えていなかったのである。
岸壁の上で、リュッチャンスは手にした戦力表を開いた。
改訂Z計画。
大型空母八隻、軽空母十二隻、新型重巡洋艦十六隻、駆逐艦八十隻、補助艦四十隻。
潜水艦を別枠として、合計百五十六隻。
四年前には、議会と海軍の人間を興奮させるだけの紙の束だったが、今ではその大部分が水の上にあった。
一月末の時点で、大型空母六隻、軽空母十二隻、新型重巡十二隻、新型駆逐艦六十四隻が就役している。補給艦や工作艦も三十四隻が揃った。
無論、就役したばかりの艦を、直ちに敵の正面へ放り込むわけにはいかない。甲板へ初めて下りる搭乗員と、初めて航空機を止める着艦装置の操作員を、敵の爆撃下で初顔合わせさせるようなことは、さすがのリュッチャンスも許さなかった。
それでも、訓練を終えた艦が、毎月、前の列へ出てくる。
新型重巡は電探で得た情報を艦内でまとめ、直衛機と高角砲の射撃を結びつけた。駆逐艦は対空砲を動かしながら、水面下へ耳を澄ませた。洋上で油を渡す船が続き、前進泊地で機械を直す船も付いた。
空母の甲板だけを巨大にしても、艦隊にはならない。
かつてそのことを叫んでいた補給担当者たちは、最近、リュッチャンスから妙に親しげに肩を叩かれるようになり、別の意味で困っていた。
大型空母の三基の蒸気射出機と、斜めに延びた飛行甲板も、その一部だった。
着艦に失敗した機体を、前方に並べた次の攻撃隊へ突っ込ませず、もう一度空へ返す。着艦と発艦の作業を整理し、戻った飛行機へ燃料と弾薬を渡す。
八十四機を載せられるという数字以上に、その八十四機を何度働かせられるかが重要だった。
「飛ぶだけなら、鳥でもできる」
リュッチャンスは言った。
「爆弾を積んで飛び、敵を沈め、戻ってまた飛ぶ。それを一日で何回できるかだ」
副官は頷いた。
こういうことを言っている間は、やはり名将なのである。
もちろん、増えた軍艦が、すべて本国の岸壁に並んでいるわけではない。
南部の造船所で造られた『プロシア』と、軽空母『ジークムント』、『ジークルーネ』は、既に東洋へ着いていた。新型の護衛艦艇と補助艦を伴った第一陣、二十七隻である。
本国の将官が地図の上で艦名を動かしただけではない。専用の部品、弾薬、電探を直せる技術者まで、一緒に海を渡らせた。
古い東洋艦隊の空母三隻のうち、二隻は沈み、残る『ブリュンヒルト』も修理中だった。その前へ、新造空母三隻がようやく戦列を作った。
本国から見れば、主力を遠くへ抜かれたことになる。
現地から見れば、ようやく交代の来た当直だった。
『ヘルヴェティア』と『グートルーネ』を中核とする第二陣も、錬成と準備が済み次第、後へ続く。
地中海にはイルドアの大艦隊が存在した。パン派の帝国人はパスタを信用していなかったので、何もかも任せてよいとは思っていなかったが、少なくとも、帝国の最新空母を南の内海へ並べて眺めている余裕もなかった。
船団を守る艦を残し、遠方で擦り切れた艦隊へ、新しい艦を送る必要があった。
リュッチャンスは、その配分を承認している。
承認する時に、ペンを数本へし折っただけだった。
海軍全体では、旧式艦を含む航空母艦二十七隻が艦籍にあり、一月末の即応戦力は十九隻。そのうち本国で直ちに作戦へ使えるのは十五隻だった。
修理や訓練を終える艦が加わり、さらに『ブラバント』が就役する。
今度こそ、戦える。
今度こそ、海の向こうで戦争を続けている連中に、帝国の造船所が四年間、何をしていたのか見せてやれる。
「それで」
大将は、戦力表から顔を上げた。
「出撃の件は、どうなった」
副官は、手帳を開き直した。
できれば、その頁だけ風で飛んでいってほしかった。
「OKWより回答が来ております」
「うむ」
「艦隊主力を投入して決戦を求める現案については、時機尚早。引き続き錬成と準備を継続せよ、と」
冬の、欧州らしい湿った冷たい風が吹いた。
巨大な空母の舷側で、作業員が一人、こちらを見た。
「時機、尚早」
リュッチャンスは、丁寧に復唱した。
「はい」
「四年待った」
「はい」
「四年だぞ」
副官は、ここで、はい、と言う以外の軍務を与えられたいと思った。
◇
《統一暦1929年2月中旬 帝都ベルン 帝国軍最高司令部》
「元帥閣下。海軍は、敵艦隊に挑戦する用意が整っております」
エーリッヒ・レーザー上級大将の声は、低く、よく通った。
机の向こうには、ルーデルドルフ元帥とゼートゥーア元帥が座っている。
その傍らに置かれた海図には、想定される敵の出撃路と、帝国側の偵察線、陸上航空隊の援護範囲が描かれていた。
海軍は、ただ海へ出してほしいと泣きつきに来たわけではない。
攻撃対象を定め、敵が救援へ動いた場合の捕捉案を作り、給油と帰投の計画まで持参していた。
「敵も補充を進めております。こちらの戦力が揃うのを待つ間にも、向こうの造船所は動いています。半年後の方が有利だという保証はありません」
「その点には同意する」
ゼートゥーアは答えた。
「では、出撃をお認めいただけない理由を、改めてお聞かせ願えますか」
「その作戦で、敵主力が必ず出てくるという保証もないからだ」
レーザーの指が、海図の縁を押さえた。
「敵が出てこなければ、予定の目標を破壊します。敵主力を捕捉できない場合にも、作戦上の成果は得られるものと判断しております」
「そのために消費する燃料と航空隊、損傷艦の修理日数は?」
「別紙に、作戦期間ごとの見積もりを記載しております」
「読んだとも。その見積もりが妥当であっても、今は承認できん」
話が一周した。
これで三周目だった。
ルーデルドルフは、海軍の案を粗雑だと言わなかった。
むしろ、兵力の組み方と補給計画について、いくつかの点を評価した。
そのうえで、許可しなかった。
海軍側からすれば、欠点を指摘される方が、まだありがたかった。直せばよいからである。
よくできている、しかし駄目だ、というのは、議論をする者にとって、なかなか腹立たしい回答だった。
「恐れながら、港に置いておけば艦は失わずに済みますが、それだけでは戦争を終わらせることもできません」
「船団護衛も、対潜戦も、掃海も続けさせている」
「承知しております。そのうえで、主力を用いる時機について、お考えを伺っております」
「だから、その時機をこちらで選ぶと言っている」
ルーデルドルフの口調は、変わらなかった。
「我々は、海軍に勝ってほしい。さらに言えば、その勝利が戦争の結末を変える時に勝ってほしい」
「現段階での勝利では、戦争全体への寄与が不十分だとお考えでしょうか?」
「足りる形を用意している」
その言葉に、レーザーは目を細めた。
二人は、何かを知っている。
東方の消耗が厳しいというだけなら、ここまで言葉を選ぶ必要はないはずだ。海軍の燃料を削って陸軍へ回したいのなら、もっと早く、もっと不愉快な数字が出てくる。
ところが、新造艦の錬成用燃料は確保され、航空隊の補充にも優先順位が与えられていた。
準備は急がせる。
使うことだけは認めない。
北方の警戒任務も、艦艇を順に工廠へ入れる予定も、維持するよう求められていた。外から見える海軍の動きは、これまでと大きく変わらない。
その一方で、海軍航空本部から航法や通信の教官を西方へ出せという照会には、至急の印が押されていた。
船を使うなと言いながら、その船に乗せる人間の仕事だけ、妙に欲しがっている。
「差し支えない範囲で結構です。出撃を認めていただける時期の目安を、お示しいただけませんか」
「現段階では、具体的な期日は答えられない」
ゼートゥーアが静かに言った。
「だが、海軍を忘れているわけではない。それだけは約束しよう」
レーザーは一呼吸置いた。
「承知いたしました。艦隊の即応態勢は維持します。ただし、延期に伴う戦力比の変化については、引き続き報告させていただきます」
「そうしてくれ。我々もその報告を必要としているからな」
レーザーは、海図を畳ませた。
海軍軍人が欲しかったのは出撃命令であり、思い出してもらえるという約束ではなかった。
その不満を相手へ叩きつけない程度の分別は彼にもある。
仮にも、かつての空母信者の罵詈雑言に拳で返さなかった男である。
叩きつける役に向いた人間なら、海軍には別にいた。
その日の夕刻、海軍総司令部の一室には、あまり仲のよくない男たちが集まっていた。
戦艦のレーザー。
潜水艦のデーナッツ。
空母のリュッチャンス。
平時なら予算書を三つに裂く組み合わせだったが、今日は珍しく紙を裂く対象が別にあった。
「直接、ローゼフシルトに会う」
レーザーが言った。
室内の何人かが、目を上げた。
帝国の正式な戦争指導機構には、皇帝、国防省、OKWと、それぞれの席がある。
ただし、その椅子の配置だけを見ても、実際に誰がどの机へ手を伸ばせるかは分からない。
ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト上級大将は、その分かりにくい部分を、一人で大いに増やしている男だった。
海軍の新しい船を造る工場にも、飛行機を動かす機関にも、弾薬を運ぶ鉄道にも、彼の影がある。
そして本人は、会計帳簿の向こう側に座っているだけの男ではない。
必要とあれば自分で戦場へ出て、帳簿に載せた兵器より酷いことをして帰ってくる。
人間凶器という言葉を比喩として使えなくした、実に迷惑な上級大将だった。
「誰を送る?」
デーナッツが尋ねた。
レーザーは答えず、リュッチャンスを見た。
デーナッツも、同じ方向を見た。
参謀たちも見た。
「……何だ」
「貴官は彼と付き合いが長い」
「空母の話なら、誰よりも長い」
「今回も空母の話があるはずだ」
そう言われると、リュッチャンスには断る理由がなかった。
そもそも、この男が航空主兵論へ転向した原因を辿れば、若き日のローゼフシルトへ行き着く。
調査のために送り込んだ堅物の少将を、航空母艦に取り憑かれた何かへ変えて返したのは、あの男である。
作った者に、責任を取ってもらうべきだった。
「これは海軍を代表する交渉だ。個人的な喧嘩にはするな」
「無論だ。私を何だと思っておられる」
誰も答えなかった。
海軍の団結を優先したのである。
若い副官は、出張の随行者欄に自分の名前があることを見つけた。
つい先日まで、軍艦に乗ればよかった。
今度は、あの二人が同じ部屋にいるところへ入らなければならない。
機雷原には海図がある。
こちらには、それもなかった。
◇
《統一暦1929年2月中旬 パリースィ 西部方面総司令部》
「艦隊決戦を求める出撃について、閣下の支持を頂きたい」
「Neinだ」
即答だった。
応接室の壁時計が、二度、音を立てた。
リュッチャンスが持参した書類の表紙は、まだ開かれていない。
「……まだ説明しておらん」
「海軍がOKWへ出した案なら、読んだとも」
ローゼフシルトは机の脇へ積んだ書類の中から、見覚えのある綴りを持ち上げた。
余白には、いくつか書き込みがある。
若い副官は、自分が徹夜で作り直した給油計画の頁に、特に多くの文字があることに気づいた。
嫌な予感がした。
「陸上航空隊の援護圏から出る時刻と、敵に発見される想定時刻を、随分と都合よく離したな。これに関しては同じ組織人として深く感心したよ」
「発見が早い場合の分岐も付けている」
「それも読んだ。だから、まずこちらの質問をしよう。敵艦隊が出てこなかった場合、何日粘る?」
「状況による」
「別の言葉に言い換えれば、高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する……つまり無計画の行き当たりばったりか」
ローゼフシルトは、綴りを机へ置いた。
窓の外には、冬のパリースィがあった。
この国を叩き伏せた男が、その街を眺めながら、今は帝国海軍へ待てと言っている。
リュッチャンスにとっては、かなり我慢の要る眺めだった。
「我々は、戦果の見込みだけで出撃を求めているのではない」
声は、静かだった。
「敵は造っている。空母も、航空機も、護衛艦もだ。向こうの若い搭乗員は、今日も訓練している。こちらが一隻揃える間に、向こうも一隻揃える。今の優位が半年後にも残るとは限らん」
ローゼフシルトは、口を挟まなかった。
「兵は使えば減る。使わなくても、相手が増えれば、持っている価値は減る。私は、新造艦を無駄にしたいのではない。無駄になる前に使いたいのだ」
副官は、上官の背中を見た。
空母を眺めて恍惚としていた時とは違う。
飛行甲板を持つ船を造るためだけに、この男は四年間、走り回ってきたのではなかった。
「『オストゼー』も『ノルトゼー』も、最後には、自分たちで沈めた。『シュペルバー』には、十分な援護を集めてやれなかった。東洋からは、代わりの甲板を寄越せという報告が、今も来る」
リュッチャンスは、一度言葉を切った。
「全部を一度に救えとは言わん。だが、敵の主力を減らせば、他の海へ差し向けられる敵も減る。我々が今、働く意味はある」
「あるだろうな」
ローゼフシルトは頷いた。
「だからこそ、使いどころを選んでいる」
「OKWと同じ回答か」
「そうだ」
「何のために、あれだけの空母を造った!!」
ついに声が跳ねた。
副官は、反射的に卓上のコーヒーカップを見た。
「空母というのはな、港で眺めて楽しむものではない! 飛行機を飛ばし、敵を沈めるために造ったものだ!あの甲板に海鳥でも飼えと言うのか!!」
「貴官は、かなり眺めて楽しんでいると聞くが」
「それはそれだ!!」
否定はしなかった。
副官は否定して欲しかった。
ローゼフシルトは、片手を上げた。
「軍港の中へ閉じ込めて腐らせるつもりはないとも。訓練も、護衛も、必要な出撃も続けさせる。だが、主力をまとめて敵の都合を尋ねに行くことは認めん」
「敵がこちらの都合を待つとでも?」
「主導権を渡してやる気はない。こちらが選ぶ。敵艦隊が、逃げるだけでは済まん時をな」
リュッチャンスは、口を閉じた。
敵艦隊が退避すれば、帝国の勝ちになる。それだけなら、海軍も作戦案に書いている。
だが、この男は、逃げる敵をどう追うかという話をしていなかった。
ローゼフシルトは、机の引き出しから別の書類を出しかけ、少し考えて、それを戻した。
「今は話せない」
「海軍を使う話だろう?」
「だから、話せる段階になれば、海軍に話すさ」
「その時になって、三日で準備しろと言われても困るぞ」
「三日でできる仕事だとは思っていない。必要な準備には、既に手を付けさせている」
リュッチャンスの目が細くなった。
最近、海軍へ届く照会には、妙なものが混じっていた。
空軍基地を発進する部隊と、海軍の編隊が、洋上で集合するまでにどれだけの誤差が出るのか。
異なる無線機を使う部隊を、どう同じ管制へつなぐのか。
発進地へ戻れなくなった機体を、別の基地で受け入れるには何が必要か。
副官自身、その照会の回答を取りまとめていた。
飛行場の数が、妙に多かった。
海軍航空隊だけを各地へ分散配備するつもりなら、あれほど多くの欄は要らない。
「空軍へ教官を出せという話も、これか」
「そうだ。春から順に共同訓練を始める。最初は小さな編隊で構わん。海の上で集合し、味方を撃たず、戻って次の出撃をするところまでだ」
「それだけで敵艦を沈められると思われては困るぞ。洋上航法と対艦攻撃は別だ。先導機を一機付ければ、陸の爆撃隊がそのまま使えるわけではない」
「だから今から教官を出せと言っている」
リュッチャンスは、持参した綴りを見下ろした。
海軍の空母だけで何機を出せるか。その機数で、敵艦隊をどう攻撃するか。
自分たちは、そこから計画を組んでいた。
この机へは、別の軍種の計画も届いている。
「全隊が、予定の時刻に到着する保証はない」
「分かっているさ。遅れた隊を待つか、先に来た隊だけで攻撃するか、その判断も含めて訓練してもらう。私がここから、一機ずつ操縦するわけにはいかんからな」
副官は、まさか、とは思った。
だが、そのまさかを、冗談として笑ってよい相手ではないとも思った。
「それと、高速戦艦の砲術訓練だ。レーザー上級大将には、徹甲弾と榴弾の搭載比率、それから短時間に目標を切り替えた場合の射撃成績を出してもらいたい」
「……戦艦も使うのか」
「使えるものは使うだろ?」
「空母の話をしていたはずだが?」
「海軍の話じゃなかったのか?」
正論だった。
リュッチャンスは、正論にも腹の立つ種類があることを再確認した。
それでも、紙へ落とした視線は動かなかった。
戦艦の徹甲弾は、敵の厚い装甲を破るためにある。
では、わざわざ榴弾の比率まで尋ねるのは、何を撃たせるつもりなのか。
「……艦隊同士を戦わせて、それで終わりにする話ではないのだな」
リュッチャンスが言った。
ローゼフシルトは、答えなかった。
ただ、僅かに笑った。
副官は、その笑みを見て、背筋を伸ばした。
軍人が戦勝を語る時の顔は、これまでにも見ている。
あれは少し違う。
まだ誰も組み上げた姿を見ていない機械を、図面の上で動かしているような顔だった。
「航空隊の錬成を急いでくれ。だが、卒業の判定は甘くされると困る」
「分かっている」
「艦上の整備員もだ。補給船へ載せる予備部品は、機種ごとに揃えてくれ。足りない分は今のうちに出してくれたら、シュパーヤのところへ話を通す」
「予算は?」
「必要なものなら付けよう」
リュッチャンスの目に、危険な光が戻った。
「大型空母を、あと四隻——」
「今から起工する船の話はしていないぞ」
「二隻でもよい」
「聞いていたか?」
副官は、手帳のその行に書きかけた数字を消した。
少なくとも、大将の精神状態は普段通りだった。
ローゼフシルトは立ち上がり、部屋の奥へ歩いた。
壁には、大きな覆いを掛けた図面がある。机の上にも別の図面が広げられていたが、海軍の二人を通す前に、白い紙で大部分を隠したらしかった。
紙の端には、港湾の調査項目が見えていた。
許容喫水。曳船。排水ポンプ。応急修理。
出撃前の艦を揃えるためだけなら、今さら本国から遠い西方の港まで調べる必要はないはずだった。
副官は、読みかけていた視線を上げた。
この男は、艦隊をどこから出すかという話だけをしているのではない。
傷ついた船を、どこへ収めるかまで考えている。
「海軍には、ずいぶん待ってもらった」
窓の方を向いたまま、ローゼフシルトは言った。
「それは認めよう」
「認めるだけでなく、艦隊を動かす許可がほしいのだが」
「まあ、あと数か月もすれば役割は与える。それもとびっきりのを、な」
リュッチャンスは、すぐには答えなかった。
この男の言う、とびっきり、が何を意味するか。
それを判断するには、これまでの軍歴が、あまりにも参考になりすぎた。
共和国の国境要塞を壊し、敵の指揮系統を吹き飛ばし、誰も通れると思わなかった場所を通ってみせた男である。
彼が海軍へ与える役割が、敵艦を何隻か沈めて帰ってくる程度の話で済むとは、どうにも考えにくい。
「……艦隊は、戻ってこられるのだろうな」
リュッチャンスの声が、少し低くなった。
ローゼフシルトは振り返った。
「戻ってきてもらわねば困る」
副官の頭に、先ほど見えた港湾調査の項目が蘇った。
帰り道は考えてあるらしい。
それが同じ海を引き返す道ではないかもしれないことについては、安心するべきかどうか分からなかった。
だが、大将は笑った。
先ほどまでとは違う、静かな笑いだった。
「ならば、準備して待とう」
二人の将官は握手した。
若い副官は、キールセキの岸壁で、上官が素面であることに安堵した自分を思い出した。
どうやら、判断を誤っていたらしい。
この二人については、声を張り上げている時より、静かに話がまとまった時の方が、余程危険なのではないか。
退出の直前、リュッチャンスが足を止めた。
「ところで、空母をあと二隻という件だが――」
「帰れ」
廊下へ出た副官は、ようやく息を吐いた。
扉が閉まると、ローゼフシルトは机へ戻り、図面を覆っていた白い紙を退けた。
その下には、海軍の航路だけが描かれていたわけではなかった。
飛行場から延びる線があり、内陸の道路を辿る矢印がある。それぞれ別の組織が用意した予定表には、同じ時刻欄が設けられていた。
だが、開始の日付は、まだ空白だった。
必要な部隊を揃えることも、それを動かす順番を考えることもできる。
相手が、いつ、どこまで賭けてくるかについては、もう少し待たなければならなかった。
ローゼフシルトは鉛筆を置き、海軍航空本部へ送る教官派遣の要請書に署名した。
帝国海軍は、決戦を待ち望んでいた。
数か月後、その願いがどのような形で聞き届けられるのか。
海軍は、まだ知らなかった。
そろそろ、ローゼフシルト君の過去話を書かなければいけないですね。
ローゼフシルトの過去話いる?
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前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
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転生してからの話あくしろ
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男に興味ねぇからさっさと話進めろや!