ちょび髭の我が闘争がモデルです。
《後世、皇国で刊行された『吾輩の闘争 校訂・註解版』第一部より抜粋》
【編者凡例】
本書は、アドルフ・ペルツルの著作を、現存する書簡、軍務記録、関係者の証言等と対照したものである。本文中の「吾輩」は著者を、「ライヒ」は帝国を指す。原著の反復、叙述の前後不一致、過度に長い回想については、史料としての性質を損なわぬ範囲でそのまま残した。
括弧内の注は本版編者による。
◇
人間の生涯において、その時には最も苛酷な不幸と見えたものが、後になって、彼を本来進むべき道へ押し出した運命の手であったと知れることがある。むろん、これは何事をも成し遂げず、己の怠惰を運命の名によって飾る者に許された慰めではない。打撃を受け、しかもその打撃から何ものかを学び取った者だけが、過ぎ去った苦難の真の意味を理解し得るのである。
吾輩にとって、青年時代の芸術への憧憬は、そのような意味を持つものであった。
当時の吾輩は、建築の偉大さに心を奪われていた。広場に立つ時、そこに集まる人々の服装や、店先に積まれた商品の値段などは、ほとんど吾輩の注意を引かなかった。見るべきものは、その広場を取り囲む建物の秩序であり、柱廊の荘厳であり、遠くから歩み寄る者の視線を、ただ一つの高みへと導いてゆく構成の力であった。
かくのごときものを生み出す精神が、どうして小役人の机の背後で、書類の数を数えるために生まれてきたと言えようか。
吾輩は、自分が芸術家になることを疑わなかった。
美術学院の門を訪れた際にも、この確信は些かも揺らいでいなかった。彼らが吾輩の才能を、どのような言葉によって認めるか。それだけが問題であった。ところが、吾輩の前へ差し出されたのは、審査に必要な眼を持つ者には到底下せるはずのない、否定の判断だったのである。
今日であれば、吾輩はその意味を理解する。
既に完成された型を守ることに生涯を費やす人間に、その型を越えて生まれようとするものの価値が、分かるはずもなかったのだ。
(※入学審査には二度落ちている。二度目は提出作品による選考を通過できず、実技試験に進んでいない。原著ではこの二回の出来事が一つの挫折として語られ、その直後に国家の教育制度全般への批判が続く。入学を拒まれた事実は確認できるが、それが審査員の鑑識眼の不足によるものだったとする根拠はない。)
それでも、吾輩は容易に己の道を捨てなかった。
世に認められぬ者に残された最も卑しい誘惑は、認められないことを理由として、自分の信じる価値まで捨ててしまうことである。吾輩はそれを拒んだ。人々が見ることを望むものを描き、僅かな報酬を得、その報酬によって、再び描くための紙を買った。
児童のための書物に挿絵を描いたのも、この時期であった。
幼い者の心に最初の形を与える仕事を、吾輩は軽蔑しなかった。大人になってから百の講義を聞かせるより、幼年の心に一つの正しい姿を刻む方が、遥かに大きな意味を持つことがある。樹木は若いうちにこそ真っ直ぐ伸ばすべきであり、曲がり切った幹を前に、後から学者が議論を始めたところで遅いのである。
この仕事を通じて、吾輩は既に、芸術が人間の精神へ働きかける力を学びつつあった。
(※現存する仕事には、童話集の背景画、表紙の縁飾り、兎と菓子を扱った幼児向け冊子などがある。出版社からの注文状には「城を小さく、兎をもっと大きく」との修正指示が残っている。著者が返書で論じたのは幼児教育の原理ではなく、城の構図を変更する場合の追加報酬であったことも確認できる。)
貧窮は、吾輩にとって厳格な教師であった。
それは、何を食べるかという問いを、食べるものがあるかという問いに変えてしまう。暖かい部屋で貧困を論じる者には、この二つの問いの間に、いかに深い断絶が横たわっているか分からない。吾輩はその断絶の底に立ち、人間が尊厳を保つためには、尊厳について語る以上のものを必要とすることを知ったのである。
だが、母へ書く手紙に、この窮状をありのまま記すことはできなかった。
吾輩の前途を信じていた母に、世間の無理解まで負わせるわけにはいかなかったからである。
(※母はこの時も存命であり、病を乗り越えた後、息子に帰郷を勧める手紙を繰り返し送っている。著者は仕送りを求める際にも「近く大きな仕事がまとまる」と説明した。完全に帰る家を失っていたわけではない。成功を告げずに帰ることが、本人には耐え難かったものと思われる。)
《中略》
吾輩が知り合った一人の額縁商は、学院の教授たちとは違った種類の眼を持っていた。
彼はヘブル人であったが、吾輩の絵を前にして、民族の将来も芸術の本質も論じなかった。額に入れれば幾らで売れるか、次の週までに何枚描けるか、それを尋ねただけであった。初め、この態度は吾輩に少なからぬ不満を与えた。しかし、彼は絵を受け取ると、約束した金を支払ったのである。
芸術について雄弁に語りながら、一枚の絵も買わなかった者たちに比べれば、その沈黙こそ尊重に値するものであった。
彼の紹介によって、仕事は増えた。吾輩が好んで描いた街並みや公会堂は、家庭の壁を飾るものとして、相応の買い手を見いだしたのである。挿絵の仕事も続けた。吾輩はようやく、翌朝の食事より遠い将来について考える余裕を持った。
小さくとも、自分の仕事場を持つこと。
他人の寝返りや咳に煩わされず、一枚の絵へ向き合える場所を持つこと。
後に吾輩が、国民に家と仕事の必要を説いた時、その言葉の根には、何ものをも持たなかった時代の、この切実な願いがあったのである。
だが、金銭の取り扱いを委ねた一人の男によって、その願いは踏みにじられた。
販売と集金を引き受け、吾輩の代わりに客の間を歩いていたその男は、事業を広げるために預けた金と、受け取った売上とを携えて姿を消した。訪ねるべき住所は空であり、返事を待つべき手紙は戻ってきた。吾輩は、画紙の上に屋根を描くことはできても、自分の頭上に屋根を留めておくことさえできなくなったのである。
(※この販売人と、先に登場したヘブル人の額縁商は別人である。販売人はヘブル人ではなく、両者を混同した後世の通俗伝記は訂正を要する。額縁商は事件後も著者の絵を買っている。著者が失ったのは、貯金と当座の事業資金の大部分であった。「財産」という表現は誤りではないが、既に大規模な商会を所有していたという意味ではない。)
吾輩は、この出来事を単なる商取引上の失敗としては受け取らなかった。
誠実に働く者が、その誠実さのゆえに敗れ、他人の労働を奪う者が、手際のよさによって勝利する。このような社会を健全と呼ぶのであれば、健全という言葉そのものが、既に病んでいるのではなかったか。
絵を描く者には絵を描くことが求められる。ところが、その絵を売る者が金を持ち去った時には、絵を描く者に対して、なぜ金の管理まで心得ていなかったのかと問いが向けられるのである!
吾輩は、人間の悪意を知った。
それ以上に、その悪意の犠牲となった者へ、世間がいかに容易く説教を与えるかを知ったのである。
(※母の返書にも「どうして全部を渡してしまったのです」とある。著者はこの箇所を引用していない。)
ちょうどその頃、東方から届く知らせは、日ごとに重みを増していた。
ルーシーの革命は、一国の宮廷と政府の問題に留まらなかった。昨日まで秩序と見えたものが一夜にして崩れ、軍隊が割れ、町ごとに異なる旗が立った。新聞には議論が満ちていた。ある者は介入を求め、ある者は不介入を説き、またある者は、事態を充分に観察してから判断すべきだと言った。
だが、国家の運命に関わる時に、いつまでも観察者の席に座っていることが、一人の帝国人に許されるであろうか。
吾輩の胸中では、既に答えは定まっていた。
祖国が求めるならば、吾輩は筆を置こう。
祖国が必要とするならば、吾輩は銃を取ろう。
僅かな私事の成功や不成功によって、この決意が左右される余地はなかった。個人の不幸が、民族の義務に先立つはずはない。吾輩がそれまでに受けた苦難も、今や、より大きな奉仕へ向かうための準備として、初めてその位置を与えられたのである。
志願の書類に名を書いた時、吾輩は、ようやく己の生涯が正しい場所へ置かれたことを感じた。
(※志願は統一暦一八九九年。失踪した販売人について警察へ届け出てから、さほど日を置かずに行われている。直前の知人宛書簡には「ここにはもういたくない」「軍なら食事と寝床がある」と記される。一方、同時期の手紙に愛国的な記述もあるため、志願動機を生活苦だけに還元するのも適切ではない。ただし、生活苦を全く含まないとする著者の説明は、本人の手紙によって否定される。)
出発に際して、吾輩は母に、何も心配することはないと書いた。
国家のために務めを果たす息子を持つことは、一人の母にとっても誇りとなるはずであった。母の返事には不安が滲んでいたが、吾輩は、いずれ自分の行動がその不安を取り除くと信じていたのである。
(※母は靴下を送った。手紙では、名誉についてより、食事と足の手入れについて多く述べている。母親を安心させるためには、入隊より帰郷の方が確実であったと考えられる。)
《中略》
戦争は、遠くからこれを眺める者のために、都合よく形を整えてはくれない。
新聞の上では、部隊は整然と前進する。地図に引かれた矢印は、雨によって消えず、泥によって遅れず、配給の到着を待って道端へ腰を下ろすこともない。吾輩は兵士となって初めて、矢印の下にあるものを知った。濡れた靴を履いた足であり、眠る場所のない夜であり、命令を待ちながら冷えてゆく指である。
それでも兵は進んだ。
昨日まで見ず知らずであった者が、今日は同じ鍋から食べ、明日には、互いの命を預け合う。学校が長い年月をかけても教え得なかった共同の感覚を、軍隊は僅かな日々のうちに与えた。吾輩はその中に、議論によって分裂する社会とは異なる、国民の結合の姿を見たのである。
この確信は、撤退の日々にあっても失われなかった。
赤軍の攻勢が我々の正面を押し、隊列がサモレンスクの方向へ流れ始めた時、あらゆるものが道を奪い合った。砲も、馬車も、徒歩の兵も、故障した荷車も、その道を通らねばならなかった。後ろから来る砲声を聞きながら、前に詰まった車輪が動くのを待つ。勇気を持つことと、前へ進めることとは、まるで別の問題であった。
その中で、吾輩は足を負傷した。
痛みよりも先に、身体が思うように動かないという事実に驚いたことを覚えている。立ち上がろうとしても、足は吾輩の意志を受け付けなかった。傍らの兵が肩を貸し、別の兵が装具を外した。吾輩は後送される者の列に加えられ、やがて、負傷者を集めた納屋へ運び込まれたのである。
藁の匂いがあった。
人の呻き声があり、戸口を行き来する靴の音があった。
火がついたのは、それから後のことである。
初めは、誰かが外で何かを燃やしているのだと思った。ところが、戸口の向こうで人が叫び、煙が梁の下を流れ始めた。動ける者は外へ出た。衛生兵が一人を抱えて運び、引き返してまた一人を運んだ。吾輩も這って進もうとしたが、負傷した足が床の凹凸に触れるたび、眼の前が白くなった。
誰かを呼んだ。
呼んだつもりであった。
口を開くと、煙と熱が喉へ入ってきた。咳をするために吸った息が、次の咳を生んだ。天井を見上げることもできなくなり、吾輩は、顔を床へ押しつけていた。そこにも、澄んだ空気は残っていなかった。
その時、吾輩の上着を掴む手があった。
身体が引き起こされ、何者かの肩へ乗せられた。床が遠ざかったことを覚えている。火の明かりが眼の端を流れ、何かが大きな音を立てて崩れた。外へ出た瞬間の空は、ひどく明るく見えた。
吾輩は、もう一度息をしようとした。
それからのことは、覚えていない。
(※本章の撤退戦は統一暦一九〇〇年。救出自体は、後送に当たった衛生下士官の報告と一致する。著者を担ぎ出したのはローゼフシルト中尉である。ただし著者は、この時点で救助者の顔や氏名を確認していない。二人が互いを知る最初の対面は、その後の野戦病院となる。挿絵入りの普及版にある「炎の中で固く握手する二人」は、画家の創作である。)
後年、吾輩の声を聞いた人々は、その響きに、兵士としての歳月が刻まれていると言った。
それは正しかった。吾輩はルーシーの戦場で、以前の声を失ったのである。
(※著者の嗄れ声を毒瓦斯の後遺症とする記述があるが、当該負傷を記録した医務資料は煙の吸入と喉頭の損傷を挙げており、毒瓦斯による受傷ではない。納屋の火災で受けた傷が、その後も声に残った。なお、著者がこの声を政治的な武器として使うようになるのは、かなり後のことである。)
《中略》
野戦病院で吾輩を待っていた出会いについて語る時、今日なお、吾輩は運命の配剤という言葉を避けることができない。
一人の人間を理解するためには、その肩書が何行に及ぶかを見る必要はない。世間の眼が彼を見つけるより前に、また、彼自身の周囲へ成功を嗅ぎつけた者たちが集まるより前に、その人間が何を考え、いかに振る舞うかを見なければならない。
吾輩が知ったローゼフシルトは、まだそのような人間であった。
吾輩は看護婦から、自分を納屋から運び出した将校が、同じ病院にいると聞かされた。ぜひ礼を述べたいと伝えると、こちらからわざわざ探しに行くまでもなく、翌日の午後、その将校が吾輩の寝台の傍らへ来た。
右の頬を包帯で覆った、驚くほど若い将校だった。
少年と呼んでも差し支えない顔立ちである。しかし、その眼には、若さに伴う軽率な輝きがなかった。吾輩を見てから、枕元に置かれた水差しを確かめ、次に、負傷した足を覆う寝具へ眼を移した。その動きは静かであり、何かを確かめ終えるまで、彼は口を開かなかった。
「具合はどうだ」
吾輩は答えようとして、咳き込んだ。
中尉はすぐに手を上げた。
「喋らなくていい。礼なら、聞いたよ」
吾輩は枕元の紙へ、改めて礼を書いた。書き終えた紙を彼に向けると、中尉はそれを読み、一度だけ頷いた。
「……間に合ったのなら、それでいい」
不思議な言い方であった。
彼は吾輩を見ていたが、その言葉の後、ほんの僅かな間、吾輩の返事を待っているようには見えなかった。
しかし、その時の吾輩には、これこそ、自らの働きを誇ることを必要としない人間の態度に思われたのである。
(※この初対面に関する逐語記録は存在しない。本文の会話は、後年の著者による再構成である。ただし当時の書簡にも、救助者への謝意と、予想外に若い人物だったという驚きは記されている。この二点を疑う理由はない。)
彼がそこに留まっていたのは、一兵卒である吾輩のためだけではなかった。帝国の前途を憂う者が、その前途を担う兵士たちと、同じ苦痛の空気を吸おうとしていたのである。自らも傷を負いながら、彼は容易にこの病院を去ろうとはしなかった。
(※去ろうとしている。軍医への原隊復帰の申し出が残っている。頬の裂傷に加えて甚だしい疲労が認められ、司令部は撤退戦の功労に報いる休養として、当面の療養を命じた。本人の希望による慰問滞在ではない。原隊から書類を取り寄せた件でも、軍医に注意されている。)
それから、吾輩は何度か彼と話す機会を得た。
声が充分に戻るまでは、紙が役に立った。彼は吾輩が書き終えるのを待つことができる人間だった。途中で内容を決めつけ、分かったつもりで頷き、別の話へ移ることをしなかったのである。
吾輩が画家を志していたことを知ると、彼は手を見せるように言った。
指を曲げ、伸ばしてみせると、中尉は頷いた。
「そちらは、大丈夫らしいな」
足と喉のことばかり尋ねられていた吾輩は、その時、初めて、自分が再び絵を描けるのだということに気がついた。
吾輩は紙の余白に、窓から見える建物を描いた。
短い鉛筆で線を引く間、中尉は隣に腰を下ろしていた。軍隊のことを尋ねても、答えは短かった。吾輩が学院の話を始めた時には、少し長く耳を傾けた。
「君は、建物が好きなのだな」
吾輩は、その通りだと答えた。
都市の姿についてなら、いくらでも話すことができた。正面の装飾だけを真似た安普請がどれほど醜いか、広場と建物の高さが釣り合わなければ、いかに全体の印象が損なわれるか。まだ思うように出ない声で、吾輩は彼に説明した。
彼は時折、窓の外を見た。
その視線は、吾輩が描いた建物よりも、その手前を通る、負傷兵を乗せた車へと向けられていた。
「ここを出たら、また描くといい」
彼が言ったのは、それだけだった。
だが、その短い言葉の中に、吾輩は、損なわれた国民の力を再び立ち上がらせようとする精神を聞いたのである。
(※この勧めを受け、著者は実際に、復員後も画業によって生計を立てようとしている。当時の本人が、これを政治活動への勧誘として理解した形跡はない。中尉もまだ政治家への転身を勧めていない。紙の余白に残る建物の素描は、裏面が母宛の手紙であるため保存された。)
《中略》
中尉へ銀翼突撃章が授けられた時、吾輩は、その若さが何を意味するかを、改めて思い知らされた。
幾倍もの敵を前にして後衛に立ち、崩れようとする退路を支え、次々と部隊を後方へ通す。その間、自らも傷を負いながら、なお戦闘を続けたという。吾輩が、動かぬ車輪の後ろで、砲声に急かされながら順番を待っていた時、彼はその砲声に向かっていたのである。
授章を伝える将校の声が、病院の一室に響いた。
中尉は襟を整え、背を伸ばしてそれを聞いた。
吾輩は彼の顔を見ていた。
賞賛を受けた若者の顔に、当然浮かぶものと思っていた喜びは、そこにはなかった。笑えば頬の傷が痛むのかとも思った。しかし、式が終わり、座ることを許された後にも、その表情は変わらなかった。
「おめでとうございます、中尉殿」
吾輩がそう言うと、彼は少し間を置いて答えた。
「ありがとう」
箱の中へ、勲章が戻された。
蓋はすぐには閉じられなかった。
彼は何かを言おうとして、やめたようだった。吾輩は次の言葉を待ったが、やがて彼は蓋を閉じ、卓上の書類を、その箱の上へ重ねたのである。
今日、吾輩は、あの沈黙の中に、個人の栄誉に満足しない国家的精神の厳粛さを見ている。
(※銀翼突撃章の受章と、その対象となった撤退援護の戦功は確認できる。ここを著者の美化と一括して否定してはならない。多数の友軍が後衛の働きによって撤退できたのは事実である。一方、受章者が沈黙した理由については、著者の解釈以上の根拠は示されていない。本版も推測を加えない。)
彼は僅か十六歳だった。
十六年という年月だけで、人間がこのような眼を持つことができるのか。吾輩は、そのことを何度も考えた。彼の話には、若者が書物から借りてきた言葉を、借り物と悟られぬよう大声で振り回す、あの不愉快な軽薄さがなかった。
ある日、吾輩は、戦争が早く終わることを願うと言った。
中尉は頷いた。
「終わらせねばならんだろうな」
「そうなれば、ようやく皆、元の暮らしに戻れます」
彼は、すぐには答えなかった。
膝の上に置いた封筒の端を、親指で一度なぞった。
「……戻れる者は、戻った方がいい」
廊下で車輪の音がした。
吾輩は、それが通り過ぎるのを待ってから、また何か話したように思う。だが、その言葉は覚えていない。彼の答えも、もうなかった。
後になって吾輩は、この簡潔な応答に、戦争によって壊された生活を回復するという、国家の最も重大な課題が含まれていたことを理解したのである。
(※「後になって理解した」というこの箇所の記述は、当時から全てを理解していたとする本章末尾の主張とは一致しない。著者の解釈が変化した可能性と、後年の考えを過去の会話へ投影した可能性を、いずれも残しておく必要がある。)
病院では、兵士たちが様々な話をした。
配給、給与、家族からの手紙、戻った後の仕事。故郷に店を持つ者は店を案じ、農地を持つ者は畑を案じた。誰もが自分の不幸を話したが、それが他人の不幸と繋がっていることには、必ずしも気がついていなかった。
吾輩は、その繋がりを語ったのである。
初め、声は長く続かなかった。喉が痛み、言葉の途中で休まねばならなかった。しかし、吾輩が話し終えるのを待つ者がいた。一人が椅子を寄せると、別の一人も近づいてきた。吾輩は、聞き手がいる時には、言葉が自分一人のものではなくなるという経験を、そこで得たのである。
食事が冷えて届くという話から、吾輩は、兵士に犠牲を求めながら、その生活に心を配らぬ者たちへの批判へと進んだ。前線で命を預けることのできた者が、なぜ、後方では冷えた椀を前に黙っていなければならないのか。
兵たちは頷いた。
吾輩の言葉が、彼らの思っていたことに形を与えたからである。
離れた場所で、ローゼフシルトもそれを聞いていた。
「君が話すと、皆、耳を傾けるのだな」
彼は後でそう言った。
吾輩は、その眼が、吾輩自身もまだ充分に知り得ぬ力を見ていることを感じた。芸術家を求めていた青年の中に、国民へ語りかける者を見いだしたのは、彼が最初だったのである。
(※同じ病棟にいた兵士の回想にも、著者の話が人を集めたことは記される。ただし、この時の話題は主として食事と担当者への不満であり、国家改革についての綱領が論じられたわけではない。また、著者の話が続いたため、届いていた食事がさらに冷めたとも記される。看護婦は喉を休めるよう命じ、集まりを解散させたという。)
吾輩と彼との間には、既に、身分と年齢を越えた精神の結びつきが生まれていた。
一方は、己の力を発揮すべき場所を求めていた。
もう一方は、その力を国家のために用いることのできる眼を持っていた。
あの病院の小さな一室において、後のライヒを動かす二つの意志は、互いを認め合ったのである。
(※現存する当時の手紙に、これに相当する決意や約束はない。確認できるのは、命の恩人に対する感謝、年下の将校に対する感心、そして病院での交友である。二人が後年親しくなるからといって、この段階の関係まで後年と同じものにすることはできない。)
《中略》
やがて、吾輩が病院を移る日が来た。
中尉は廊下まで来た。右頬の包帯は以前より小さくなっており、その下から、まだ赤い傷の端が見えていた。吾輩は、傷のない顔を知らなかった。後年になっても彼の顔を思い出す時、まずそこへ眼が行くようになったのは、このためであろう。
吾輩は、何か役に立てることがあれば、必ず申し出てほしいと伝えた。
その時の吾輩には、与えられるものなど、ほとんど何もなかった。それでも、命を助けられた者として、この言葉だけは言わずに去ることができなかったのである。
彼は僅かに首を振った。
「母上には、手紙を書いたか」
「書きました」
「それならいい。次の病院の住所も、忘れずに知らせておけ」
吾輩は頷いた。
中尉も頷いた。
別れの言葉は、それほど長いものではなかった。
しかし、人間を結びつける真の約束は、必ずしも長い言葉を必要としない。吾輩は、病院の戸口を出た時、そこへ運び込まれた時とは別の人間となっていたのである。
吾輩は悟った。
この若者は、やがてライヒの重荷を、その双肩に担うであろう。
そして、彼がその重荷を担う時、吾輩の働くべき場所もまた、彼の傍らに見いだされるであろう。
それは曖昧な期待ではなかった。後年の成功を見てから、過去へ書き加えた予感でもなかった。この時、この場所において、吾輩は既に、彼の中に帝国の未来を見ていたのである。
(※後送後、母へ送った手紙の該当箇所は次の通り。「助けてくれた中尉はまだ十六だそうです。それで銀翼を貰ったのだから大したものです。話しているともっと年上のようです。親切にしてくれました。足がよくなれば、また絵の仕事を探せると思います」。帝国の将来については述べていない。なお、同じ手紙では、失踪した販売人が見つかったかどうかを尋ねている。人生の全てが新しい目的へ向けて整理されたようにはとても捉えられない。)
あの日以来、吾輩の精神は、彼によって示された道を歩み始めた。
生涯を決める覚醒は、人間に何度も訪れるものではない。吾輩にとって、その一度は、ルーシーの野戦病院において訪れたのである。
(※本書の後章、統一暦一九〇九年の再会を扱った箇所には、次の記述がある。
「吾輩はそれまで、自己の不遇を憤り、その憤りを語ることしか知らなかった。だが、少佐の言葉によって、初めて、自分の力を何のために用いるべきかを理解したのである。吾輩の精神は、この日を境として、全く新しい道を歩み始めた。生涯を決める覚醒は、人間に何度も訪れるものではない」
ほぼ同じ覚醒が、九年を隔てて二度訪れている。
一九〇九年の会合では、ローゼフシルトが政治活動を具体的に勧め、後援を申し出たことが、その後の資金と活動の記録によって裏づけられる。著者が政治へ進む上で決定的な影響を受けたのは、こちらである。野戦病院で出会った恩人が、国家を動かすための協力者となったのは、この時である。それは歴史的事実として確認できる。
著者は後者を明記しながら、前者も削除しなかった。
原著の売れ行きは芳しくなかった。宣伝の演壇であれば、同じ決意を二度聞かされても、その間の熱狂が矛盾を覆ったであろう。しかし、本を読む者は、数頁を戻るだけで、先ほども生涯が決まったことを確認できる。
編集者は反復箇所の整理を求めたそうだが、著者は、いずれも自分の生涯を理解する上で欠かせないと回答した。
かくして二度の覚醒は保存され、読者の忍耐が試されることとなった。原著が売れなかった理由を、国民の理解力にのみ求めた著者の見解には、賛成し難い。)
アドルフママ、乳がん治ってよかったね。
治ってなかったらお前の息子ダークサイドに墜ちてたからね。
次話からは一旦、ローゼフシルトの過去話に飛びます。
ローゼフシルトの過去話いる?
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前世まで赤裸々に見せろ!おら!!
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転生してからの話あくしろ
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男に興味ねぇからさっさと話進めろや!