世界に冠たる帝国よ永遠たれ   作:ちんすこー

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序盤のお話は本編のちょっと前のお話です。
ターニャがモスコーに送り出される寸前です。


三話同時投稿です。


ローゼフシルト過去話
過去話:前世


《統一暦1929年1月中旬 帝国西部 ケルシュ大聖堂》

 

聖歌が終わっても、最後のひと声はまだ頭上にあった。

 

ケルシュの街は川霧の底に沈んでいた。薄暗い身廊へ、地上より一足早く朝を迎えた高窓から、光が降りてきた。

最初に金の輪が浮かんだ。次いで、その輪を戴く聖母の横顔が、瑠璃色の衣が、母の腕に抱かれた幼子の小さな踵が見えた。窓の前をゆっくりと乳香の煙が昇っていく。はるかな高みで、それが白金の色に透いた。

 

両腕を広げても抱えきれない石柱が、高みにゆくほど細く枝分かれし、はるかな頭上に石の天蓋を結んでいた。司祭が唱えた死者の名は、一人ずつ、あの光のうちに迎えられたのだろう。ここで膝をつく者には、そう信じてよい朝だった。

 

松葉杖が一本、床に倒れる。落とした兵士が小さくなっていると、前の席の老婦人が拾って握りを彼の手に返した。高窓を透過した同じ紅い光が、老婦人の白い指と兵士の灰色の袖口を染めていた。

 

ターニャ・フォン・デグレチャフ少将は、軍帽を胸に抱いて二人を見送った。

 

昨夏、兵隊でごった返していると聞いて敬遠したのが、少々惜しくなった。なるほど、これは朝のうちに来てみるものだ。あの小さな踵を透かすため、何種類のガラスを焼き、どれほど高い足場の上で、何人の職人が冬の寒さに指をかじかませたことだろう。

 

(信仰をお望みなら、少しはここの職人を見習いたまえ、存在X)

 

ここの職人たちは少なくとも、無神論者ターニャに自分から帽子を取らせるところまではやってのけた。

 

側廊の奥では、もう一人の無神論者が蝋燭に火を移していた。

西部方面総司令官、ローゼフシルト上級大将である。今朝は彼と、戦闘群の補充に貨車を何両回せるかという話をした。その帰りに誘われたのだ。

 

男は右の手袋を脱ぎ、細い蝋燭の芯に火がつくのを待った。献灯台に立てる手つきは、ずいぶんと慣れたものだった。

 

そこで、ふと、ターニャはかつて自身の心中に渦巻いていた疑念を聞いてみようと思った。

 

「閣下は、神をお信じでしたか」

「いや。いないと思っているよ。全知全能の神様が、この私に信じてほしいとお望みなら、何を見せれば納得するかぐらい、先方はご存じだろう?まあ、私はまだお誘いを受けていなくてね」

「それは何よりです」

 

本音が出た。ターニャの知る先方は、招待状を寄越す手間を省いて、直接人を送りつけるのだ。

 

「では、その灯はどなたに?」

「昔の仲間にね。信心深い人だったよ。小さな教会でも、見つけると私に帽子を預けて祈りに行った。待つのが嫌なら先へ行けと言うくせに、帽子は預けていくんだ」

「それでは、先へは行けませんな」

「一度行ったさ。帽子を持ったままね。あの時はえらく叱られた」

 

まだその声が耳に残っているらしい。彼は少し笑った。

 

「誰かが亡くなると、あの人はこうやって火を灯した。なら、あの人を弔う時ぐらいは、あの人の流儀でいいだろう。私にもその程度の分別はあるよ、少将」

 

彼の指が右頬の傷をなぞった。見覚えのある仕草だった。五年余り前、北方軍管区のカフェで、この男は、帝国の軍民一千万人が代価でも、その支払いに署名すると言った。コーヒーを飲むのも忘れていたあの時、彼はそこをなぞったのだ。

そこでターニャに好奇心が刺激された。好奇心は猫を殺すというが、ターニャは猫ではない。ゆえに、聞いてみることにした。

 

「閣下。初めてお会いした時、一千万人と仰った時にも、そこに手をやっておいででした。……今の方と、その傷に何か関わりが?」

 

ローゼフシルトは頬に触れていた手を下ろした。

 

「よく見ていたな、君は。……少し長い話になるぞ」

「列車まで、まだ時間がございます」

 

聖堂脇の控室に入り、彼は扉を閉めた。

 

「あの時は、なぜ帝国が戦うのかを話した。なぜ私がそこまで引き受ける気になったのか、そちらは君にも話していなかったね。……まあ、君になら、どちらの人生の話かで困らずに済むか」

 

軍帽を膝に置くと、ローゼフシルトは話し始めた。

 

「私の父は、自分の息子を一人返してもらう代わりに、そちらへ若者を何人差し出せばいいかと、大真面目に持ちかけたことがあるんだ」

「……男爵が、ですか?」

「いや。前の父の話だよ、少将」

 

 

◇

 

 

前世の父も、息子を可愛がってはいた。

 

母は彼を産んで間もなく亡くなったという。学校の参観日には父が時間を空けたし、風邪で寝込めば祖父が枕元で林檎を剥いた。孫が長い皮を見たいとせがめば、祖父は仕事の電話を待たせてでも、端から端まで一本に繋がるように林檎を剥いてやった。

 

その家は、祖父が戦後の物不足に乗じて財を成した資産家の家だった。倉庫を買い、土地を買い、荷を運ぶ会社を買った。父の代には、その家名が息子の友人の家庭にまで影響力を及ぼすほどになっていた。

 

中学生の頃、仲のいい級友の家に遊びに行ったことがある。二人で組んだ鉄道模型を、初めて走らせる約束だった。ところが玄関を開けてくれたのは、休日だというのに背広を着た級友の父親だった。客間には食べ切れないほどの菓子が並び、肝心の模型は食器棚の上に片づけてあった。

 

「お父上に、どうぞよろしくお伝えください」

 

帰り際、親子が揃って頭を下げた。翌週、級友は彼を名字で呼び、二度と模型の話をしなかった。

 

「何を言ったんです、あいつの家に」

「何も。勤め先の人に、うちのが世話になると伝えてもらっただけだ。親が挨拶もせずに子供を寄越したと思われたら、お前が困るだろう?」

 

困っている。今、まさに困っているのだ。

 

だが、言えば父は誤解を解いてやろうと先方を呼びつけかねない。以来、親しくなった相手の名ほど、家では伏せるようになった。

 

彼は国内でも指折りの大学で経済と経営を学び、海外の大学院で金融を専攻した。論文の数字がおかしければ教授は突き返す。根拠を持って反論すれば聞いてくれる。祖父に知らせる者もいない。夜中まで研究室に居残り、自分で間違いを見つけた日はひどく愉快だった。こういう仕事なら、一生続けてもいい。

 

帰国を祝う夕食の席で、祖父は上機嫌だった。

 

「春から本社に来い。よそで二年も三年も使われたって仕方がないだろう。向こうの銀行には、わしから断っておいた」

 

箸に挟んでいた刺身が醤油皿に落ちた。

 

その銀行には、大学の教員に紹介してもらい、自分で応募していた。先方と会う日はまだ家にさえ知らせていない。隣の父は、駅に近いところに部屋も用意したから通勤には便利だぞ、と言って飯を食っていた。

 

「……金融の仕事をしたいとは言ったよ。どこの会社に行くかまで頼んだ覚えはないが?」

「お前の腕を一番高く買っているところに決まったんだ。何が不満だ?」

 

いい仕事だ。金も出る。自分には恐らく向いている。だからこそ、腹が立って仕方がなかった。

 

あの研究室で夜を明かしていた時までが、二人の決めた席に収まるための下拵えにされてしまった。これで十年働いて、成果を上げたら、祖父はきっと「わしの言った通りだったろう」と喜ぶ。その時、自分も頭を下げて礼を言うのか。食器棚の上に模型を置いて、玄関で父親と並んで頭を下げた、あの友達のように。

 

今だって、腹を立てながら、どう答えれば祖父の機嫌を損ねず食事を終えられるかを考えている。あと十年この食卓に座ったら、そうやって選んだ答えを自分の意見だと思うようになる。

ぞっとした。

 

とはいえ、あの銀行に改めて頭を下げたところで、面接の前にはもう祖父の電話が入っている。家をとび出して他の会社に勤めたとして、父から連絡を受けた人事部長が、自分一人のために得意先との仲を悪くしてくれるだろうか。取引先の力関係は彼にも分かる。

官僚もだめだ。祖父や父が彼らのために、系列企業へ一体いくつの天下り先を用意しているか分からないほど、官界との関係が深かった。

 

そこでふと思いついた。

祖父が電話をかけても、一隊員の明日の配置までは変えられまい。彼が自衛隊を考えたきっかけは、それだった。

 

募集の窓口では、大学院まで出たのなら、幹部候補生の案内も持っていってはどうかと言われた。

 

「ありがとうございます。こちらで受けます」

 

彼が取ったのは、士として入隊する方の案内だった。

 

最初から人を指揮する席を目指せば、父はそれこそ喜んで、知り合いを探し始めるだろう。それに彼自身、一度くらい、誰も席を取っておいてくれないところで、自分がどれほど役に立つか知りたかった。仕事が人より遅ければ、自分が叱られる。その程度の当たり前を、彼は二十代の半ばにもなって、まだ手に入れたことがなかったのだ。

 

入隊したことを、家には後から知らせた。

 

演習帰りの晩、荷物が一箱足りず、泥だらけの班員が揃って車庫に戻った。彼が別の車に積んだのを忘れていたのだ。

 

「投資の計算ってのは難しいんだろ?」

「ええ、まあ」

「頼むから明日からは箱も数えられるようになれよ」

 

班長が湯を沸かした。遅くなったので、皆で並んでカップ麺をすすった。彼も笑って食った。翌朝からさっそく「あの箱はどっちの車だ、先生」とからかわれるようになったが、不思議なくらいそれが気にならなかった。失敗の後始末に父が電話をかけてくる心配も、祖父が班長を夕食に招く心配も、ここではいらなかった。

 

少なくとも、一年半はそうだった。

 

祖父が旧知の議員に「孫が帰りたがっている」と頼み込み、部隊に照会が来た。直属の上官は本人を呼んだ。

 

「辞めたいのか」

「いいえ。続けたいです」

「分かった。なら明日も普通に来い」

 

これで済んだ。営門の内側では、本当にそれだけで済んだのである。

休暇で帰った実家では、父が湯呑を片手に、とんでもない話をした。

 

「お前一人が抜けて人手が減るのを気にしているなら、こっちから志願者を何人か紹介すると言っておいた。これで帰ってこられるだろう」

「……誰が入りたいと言ったんです」

「それはこれから聞く。いいところだというのは、お前が一番よく知ってるじゃないか」

 

自衛隊はむろん断ったが、父は構わず取引先や自分の会社に話を回した。

 

翌日、学校への送り迎えをしてくれた運転手から電話が来た。息子は車の整備をやりたがっていて、専門学校の入学金も納めたという。何度も言い淀んでから、その人が訊いた。

 

「うちの子、断っても大丈夫でしょうか」

 

自分が残れば、この人は明日、父にそれを聞きに行く。父がにこやかに許したところで、来月の配車が変わるたび、この人は息子のせいかと案ずるだろう。彼はそういう大人を、子供の頃からうんざりするほど見てきた。

 

「大丈夫です。息子さんには、そのまま学校へ行ってもらってください」

 

電話を切ると、父の顔を殴りに行きたかった。代わりに彼がしたのは、白い紙を一枚、机に置くことだった。

 

退職願には「一身上の都合」と書いた。最後に署名した。上官に「これでいいんだな」と念を押され、彼は「はい」と答えた。父も祖父も、彼が自分の手で書いたその一枚に、たいへん満足した。

 

 

◇

 

 

系列企業に入るにあたって、彼は北海道勤務を希望した。本州の家から遠く、人手も足りない事業所を選んだ。山林を持ち、製材から運送まで手がける会社だった。

 

仕事にはすぐに馴染んだ。注文があっても運材車が足りず、材を届けられない。彼は土場へ出て、どこの客を何日待たせているか確かめた。彼が外へ出て人の話を聞くようになると、最初は会長の孫と呼んでいた現場の連中が、だんだん彼を名字で呼ぶようになった。それが少し嬉しかった。

 

取引先の猟師に連れられ、山を歩くことも覚えた。

 

一度、沢の向こうで水を飲む、立派な角の牡鹿を見送った。

撃つ時間は充分にあった。

 

「どうした。惜しいのをやったな」

 

連れにそう言われ、彼は笑って銃を下ろした。

 

惜しくはなかった。あいつは今晩もあの沢で水を飲み、明日の朝も草を食える。そうさせてやったのは俺だ。そう思った時の気分は、仕留めた時に少しも劣らなかった。

逃げようとした獲物が、自分の撃った弾で倒れる瞬間は、なお好きだった。誰かの一存で身の振り方を決められるのが、あれほど嫌だったのに。いざ決める側に回ると、こんなにも心地いい。

 

ふと父のことが頭に浮かんだ。腹の立つ話だが、なるほど、気持ちのいいものではある。

 

誰かに猟の面白さを尋ねられた時には、「山にいる間は気が楽でね」と答えておいた。さすがにそのまま伝えれば、ドン引きされるのは目に見ていたからだ。

世間知らずのボンボンと言われる彼にもその程度の分別はあった。

 

三十代も後半に差しかかった、ある年の一月のことである。

 

雪が深くなると、彼も鹿を獲りに山の奥へは入らなかった。吹き溜まりでは一歩ごとに腰まで沈む。そこを往復して、秋より肉の落ちた鹿を一頭引き出す苦労は、付き合い始めの頃に一度やって懲りていた。

彼を半ば無理やり連れて行った猟師を軽く恨む程度には、最悪な経験だった。

 

その冬、彼を呼び出したのは、近くの牧場で二晩続いた被害である。初めの晩には牛舎の戸が壊され、仔牛が一頭持っていかれた。翌晩には、戸を塞ぐ板を打っている最中にまた来たという。人が裏口から逃げ、朝になるともう一頭いなくなっていた。大きな前足の跡は、牧場裏の沢から彼の会社の土場へ続いていた。

 

「一月に、熊ですか?」

 

事務所の若い社員が聞き返した。

仮にも試される大地と呼ばれる北海道の冬は、文明に頼れる人間以上に、野生動物にとって過酷である。ヒグマも秋の間に蓄えた脂肪を頼りに冬眠し、この時期には滅多に姿を見せない。

 

「じゃあ、うちの牛は、何に持っていかれたんだ?」

 

牧場主が疲れた顔を上げた。

 

ヒグマがとうに冬眠穴に入っている時期だったが、その場の何人かには心当たりがあった。

穴持たずか、と猟師の一人が呟いた。ただ、足跡だけで、この熊がずっと起きていたのかまでは分からない。大正四年十二月、三毛別ではヒグマが二日続けて人家を襲い、七人が亡くなった。今朝の足跡は、牛舎を出てすぐ母屋の勝手口を横切っている。牧場主は子供を二人とも町の親類に預けた。

 

町の要請で、捕獲許可を受けた地元猟友会の班が出た。猟銃の所持許可と狩猟経験のある彼も、その一員に加わった。土場の作業は止め、運材車の運転手も事務所へ戻した。木材の搬出用に除雪してある取付道なら、牧場の裏手まで車で抜けられる。深雪に分け入る必要はなかった。

 

彼と古参の猟師が土場の端まで来た時、積んだ丸太の向こうで雪が落ちた。

 

除雪で寄せた雪の向こうに、小さな耳が二つ出た。次いで頭が、肩が現れた。立ち上がったのかと思ったが、それは本州のツキノワグマの感覚であり、実際のヒグマはまだ四つ足だった。

 

「……でかいな」

 

彼を初めて山へ連れていった男が、隣でそう洩らした。

 

熊がこちらを向いた。

 

最初の一発は、生きて帰るために撃った。弾は当たった。それでも熊は止まらず、彼は肩から雪に叩き込まれた。防寒着の下を温かいものが脇腹まで走った。息を吸おうとしても、半分しか入らない。

 

熊はそのまま土場を横切り、丸太の陰まで退いた。古参が詰所の戸を開けて叫んだ。

 

「こっちへ来い!あとはこっちでやる!」

 

近かった。何歩もいらない。戸の向こうには人も、無線もあった。

 

彼は膝をつき、立ち上がった。熊の背中が見えた。あれはこのまま、自分を置いて山へ帰るつもりだ。

 

待てよ。

 

殺されかけたのに、今は怖さより腹立ちの方が先に立った。俺をこんな目に遭わせて、お前の都合で終わりにするのか。いつの間にか口元が笑っていた。こんなに頭が冴えたのは何年ぶりだろう。

 

彼は詰所に背を向け、よろめく体でも確実に当たる距離まで歩いた。

 

丸太の端で熊が振り返った。彼が前へ出たせいで、古参は銃口を下げる。

 

熊が雪を蹴った。

彼はもう一度撃ち、熊の眼を狙って銃弾を叩き込んだ。

だが、数百キロにもなる巨体は、そう簡単に止まるわけもなく、銃声とほぼ同時に黒い体が胸にぶつかった。

 

頬に押しつけられた毛は硬かった。耳元で荒い息がしていた。巨体が脇の雪に沈み、その息が止んだ。猟師の手が彼の肩に触れた。

 

「……仕留めたか?」

「ああ。お前が仕留めたよ。……おい!こっちを見ろ――」

 

彼は満足そうに笑った。猟師が再び呼びかけた時には、もう返事はなかった。




ターニャ前世死因→首にした男からの熱烈な背中押しで駅のホームから線路へ華麗にダイブ、数百トンの鉄塊と情熱的なディープキスを交わしたエクストリーム通勤圧死。
ローゼフシルト前世死因→極寒の北海道で冬眠という常識をガン無視した巨大ヒグマと遭遇し、人類が数万年かけて克服したはずの食物連鎖を自主的に再履修しに行くアクロバティック自殺。

こいつらの前世はなるべく反対になるような構成にしてます。
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