《統一暦1884年 帝国 ローゼフシルト男爵家》
人は死ぬ寸前に、大量の快楽物質を分泌し、幻覚を見ることがあるらしい。
どこで聞いた話だったかは覚えていない。医学書で読んだのか、酔った同僚の雑談だったのかも定かではない。だが、つい先ほどまで熊に押し潰されていたはずの男にとって、当面の説明としてはそれで充分だった。
目の前には見知らぬ女の顔があり、何事かを話しかけてくる。言葉は分からない。身体も動かない。伸ばそうとした腕の先には、驚くほど小さな手がついていた。
なるほど。なかなか凝った幻覚だ。
熊の毛皮より、柔らかい寝具の方がありがたい。少なくとも今度は、息ができる。彼は脳の最後の勤勉さを評価し、ひとまず寝ることにした。
ところが、目が覚めても女はいた。
腹が減れば乳を飲まされ、眠くなれば寝かされ、そうでなければ天井を眺める。自分の意思とは関係なく泣き声が出ることもあった。実に不便である。
日が昇り、沈み、また昇る。
女の耳飾りが変わった。窓辺の花も変わった。ある日には髭の男が顔を寄せてきて、その頬がちくちくした。
もっと気持ちのいい幻覚を見せられないのか。融通の利かない脳である。
文句を言おうとすると、男は赤ん坊が笑ったと思ったらしい。たいへん喜び、もう一度頬を寄せた。
サービスの方向性も、こちらの意思の読み取り方も、何もかも間違っている。
やがて彼は、自分が寝ている間にも洗濯物が増え、人が出入りし、女が疲れた顔をすることに気づいた。彼女が眠ってしまった時には、別の女が来て世話をした。誰もが彼のためだけに、都合よく動き続けてくれるわけではない。
数か月が過ぎる頃には、説明を変える必要があると確信した。
どうやら、現実である。
そして、どうやら、自分は生まれ直したらしい。
前世の部下が、そんな筋書きの小説について話していた。死んだ会社員が別の世界で生まれ直し、便利な能力を手に入れ、美人に囲まれて暮らす。確かライトノベルとかいう、たいへん景気のいい出版物だったはずだ。
詳しく聞いておけばよかった。
あの手の主人公も、最初はこうして、自分の鼻水を拭いてもらうところから始めるのだろうか。
彼の新しい名は、ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルト。
舌を噛みそうな長い名前だったが、周囲はジークと呼んだ。名の長さに見合うほどの大貴族ではなく、地方に土地を持つ男爵家の三男だという。
歩き、話し、文字を読めるようになるにつれて、世界の事情も少しずつ分かってきた。
ここは帝国。西にはフランソワ、東にはルーシーがあり、海の向こうには連合王国がある。地図には妙に見覚えのある陸地が並んでいたが、国境線は彼の知るものと随分違った。魔導なるものもある。領内を訪れた軍人が空へ浮いた時には、さすがにしばらく口を閉じられなかった。
いいではないか。今度は空まで飛べるらしい。
ただし、読み進めるうちに気になることも増えた。
この国の新聞は、軍備を増やせば平和が守られると言い、隣国が軍備を増やせば平和が脅かされると言っていた。地図の真ん中には、周囲の国からすれば、どう考えても放っておけない大きさの国家がある。それが自分の祖国だった。
工場がある。鉄道もある。人口も多い。おまけに、どちらの方角へ軍を出しても誰かの国にぶつかる。
便利な立地である。
戦争をする分には。
どうやらこの世界――いや、少なくとも帝国は、それほど頭をハッピーにして生きていける場所ではないようだった。
もっとも、家の中については話が違った。
四歳のある午後、母に庭へ出るよう誘われ、彼は読んでいた本を閉じた。
「本当は、続きを読みたいんじゃない?」
見抜かれた。
さて、どう答えるのが正解だろう。
「母上がお庭へ行かれるのでしたら」
「私は花を見るだけよ。ジークは読みたい?」
「……はい」
「じゃあ、お茶になったら呼びに来るわね」
母は出ていった。
彼は閉まった扉を見つめた。追いかけて謝るべきか迷っているうちに、母は侍女と楽しそうに話しながら窓の下を通り過ぎていった。
それだけだった。
夕食で叱られることもなかったし、翌日、本棚が片づけられることもなかった。
他にも色々と試した。
乗馬より読書をしたい。今日は甘い菓子がいい。その服は襟が苦しい。父と同じ趣味を持たなくてもよく、兄たちと違う意見を言っても、誰かが家から追い出されることはなかった。
ただし、夕食前に菓子を食べすぎた時には叱られた。
ここは、たいへん分かりやすい。
六歳で魔導適性が確認された時にも、父はまず、飛んでみたいかと聞いた。彼が頷くと、身体が育ってからだが、きちんと教えてもらえるようにしようと言った。
「その代わり、僕は何をすれば?」
「今は、先生の言うことを聞いて勉強することだな」
「それだけですか」
「それだけでは不満か?」
不満どころか、話がうますぎて怖かった。
父はその沈黙を、期待に応えようと緊張しているのだと解釈したらしい。小さな肩へ手を置き、そんなに気負わなくていいと励ましてくれた。
彼は礼を言った。
父は感激した。
どうにも、話が噛み合っていない。
そんな家に、よく遊びに来る女の子がいた。
ヘレーネ・フォン・リントベルク。
三つ年上で、栗色の髪を揺らして歩き、灰緑色の目をよく丸くする。軍人の家の娘で、将来は父のように帝国に仕えるのだと言っていた。彼女にも魔導適性があった。
初めは、年下の男の子の世話をするつもりだったらしい。
「分からない字があったら、聞いていいのよ」
「ありがとう。ところで、この手形割引についてなんだけど……」
「……もっと別の本を読みなさいよ」
翌日、彼女は自分の家から冒険小説を持ってきた。
何度も読み返した本らしく、途中の頁にジャムの跡があった。指摘すると、そこは面白くて食べているのを忘れたのだと説明し、それから慌てて、汚したのは弟だったかもしれないと言い直した。
「弟も、同じところで食べるのを忘れたんだね」
「そこは重要じゃないでしょう!」
読み終えると感想を聞きに来た。主人公が包囲を破る場面が好きらしい。彼が馬の飼料の不足を指摘すると、そんなことは聞いていないと怒った。
怒ると、頬が少し膨らむ。
そこで彼は、次の巻では主人公が途中で馬を買い替えたのかと、わざわざ聞いてみた。
実に、期待を裏切らない反応だった。
八歳の頃、父から婚約の話を聞かされた。
相手は、そのヘレーネだという。
「嫌なら、そう言っていい。まだ先方へ正式な返事はしていない」
彼は父の顔を見た。
そう言っておいて、断れば困る人間の名前が出てくるのだろうか。
「僕が断ると、リントベルク家とのお付き合いは?」
「変わらんよ。お前たちが結婚しなければ付き合えんほど、薄い仲ではない」
「ヘレーネが嫌だと言ったら?」
「もちろん、やめる。それは先方も同じだ」
父はそこで、何やら嬉しそうな顔をした。
「自分のことより、あの子の気持ちを考えたんだな」
違う。契約から降りられる条件を、両側とも確かめただけだ。
訂正する前に頭を撫でられたので、彼は黙っておいた。善人だと思われて困ることは、たぶんきっと恐らく、ない。
その次に来たヘレーネは、いつもより背筋が伸びていた。
「あなた、私が嫌がってないかって、聞いたんですって?」
「聞いたよ。嫌なら困るだろう」
「別に、嫌とは言ってないでしょう」
「それならよかった」
彼が本を開くと、ヘレーネはその上へ両手を置いた。
「……それだけ?」
「他に確認することがある?」
どうやら、あったらしい。
彼女はしばらく何かを待ち、それから、あなたは放っておくと本ばかり読むから、年上の私がしっかりしていないといけないのだと説明した。
「頼りにしているよ、お姉様」
「そういう時だけ、その呼び方をするんじゃないの」
口では怒りながら、彼女は本を閉じず、横へずらした。
そして隣に椅子を持ってきた。持参した刺繍を始めるつもりだったようだが、しばらくすると、肩越しに本を覗き込んでいた。
「それ、何のお話?」
「国が借金を返せなくなった話」
「……あなた、もっと楽しい本はないの?」
「この後、貸した側まで潰れるんだ。ここから面白いよ」
ヘレーネは呆れた。
しかし、国がどうやって借金をするのかは気になったらしく、その日はずっと隣にいた。
◇
統一暦1896年。
十二歳になったジークは、困っていた。
暇だったのである。
父の書斎にある本は、すべて読み終えた。歴史書も地理書も、農業経営の本も、古い旅行記も、誰が買ったのか分からない恋愛詩集まで読んだ。最後の一冊を本棚へ返した後には、さすがにしばらく、その前で立ち尽くした。
ヘレーネに相談すると、外へ出て遊べと言われた。
そういう話ではない。
士官学校には、もっと大きな図書室があるらしい。軍の刊行物も、魔導についての専門書も読める。実技を教える設備と人員まで揃っている。魔導士として軍に入るのであれば、何年も家で待つ理由は見当たらなかった。
両親は心配したが、彼が自分で調べ、入学に必要な条件を並べて説明すると、頭から駄目だとは言わなかった。
「そこまで、学びたいのか」
「はい。ぜひ」
嘘ではない。
暇を潰したいという、より切実な部分を省いただけだ。
適性、学力、身体の状態。必要な審査を受け、魔導士の特例として、入学が認められた。
帝国軍史上、最年少での士官学校入学である。
十二歳。
近隣の新聞にも載った。父はその紙面を額に入れ、母は制服の袖丈を心配し、本人は図書室の利用時間を確認した。
なお、この堂々たる記録は、後にターニャ・フォン・デグレチャフという六歳児によって、大幅に塗り替えられることになる。
一年や二年ではない。半分である。
十二歳で充分に驚いていた帝国軍には、まことに気の毒な話だった。
ただし、その常軌を逸した幼女は、まだ生まれてすらいない。
今のところ、神童の看板は彼だけのものだった。
同じ年、十五歳のヘレーネも入学した。
こちらは必要な試験を、きちんと受けていた。学科も実技も優秀だった。祝宴で親戚の一人に、ジークについていくのかと言われた時には、にこやかに訂正した。
「同じ学校へ行けるのは嬉しいです。でも、私だって自分の実力で合格したんですわ」
卓の下で、ジークの靴が踏まれた。
「僕は、まだ何も言ってないんだけど」
「笑ったでしょう」
目ざとい女である。
学校生活は、彼にとって申し分なく楽しかった。
まず、本が多い。教官へ質問すれば答えが返り、答えられなければ、誰が詳しいか教えてくれる。魔導で空を飛べる。演習では人を動かせる。少し話の持っていき方を変えるだけで、年上の同級生が実に気持ちよく働いてくれるのも面白かった。
ある時、資料室で二人の候補生が、どちらの戦史の知識が上かと言い争っていた。
彼は双方の得意な戦争を褒め、それぞれに、関係する記録を挙げてくれないかと頼んだ。
翌日には、二人分の参考文献一覧が揃っていた。互いに負けまいとして、巻数と頁までつけてある。
「便利だね。もう少し競ってもらえば、要約までつきそうだ」
「あなた、自分の調べものをさせたの?」
「二人とも、自主的に協力してくれたよ」
ヘレーネは彼の手元を見た。
一覧の横には、赤い鉛筆で、相手に見せると悔しがりそうな箇所へ印がつけてあった。
「それは何?」
「次に話を振るところ」
「楽しんでるでしょう」
「うん。とても」
隠す気がないのは、彼女に対する信頼の表れである。
ヘレーネの方は、そう好意的には受け取らなかった。
座学の成績は、神童の評判ほど立派ではなかった。
教範を暗記して、その通りに書けば点が取れる。分かってはいたが、退屈だった。納得できない設問には余計なことを書き、覚えるだけの箇所は後回しにした。結果、実技で教官を驚かせた少年は、教室でも別の意味で教官を驚かせた。
「どうしてこれが解けて、その隣を落とすのよ」
「隣は覚えてなかった」
「覚えなさいよ!」
ヘレーネは勉強会を開いた。
ジークは茶と菓子を用意した。
彼女はたいへん喜んだ。しかし、ジークも席につこうとすると、まず資料室に返してくるようにと、分厚い本を五冊渡した。
「それから、二人にお礼を言ってきなさい。あなたの一覧を作ってくれた二人に」
「……覚えていたのか」
「ええ。とても」
不愉快なことに、声色までよく似ていた。
実技では、彼が彼女に教えられることもあった。
地上での行軍演習の時、ジークは早々と到着点へ着き、後続を待っていた。経路は正しかったし、時間も短い。次に着いた者へ道の悪かった箇所を尋ねていると、遅れてヘレーネの班が現れた。
班員は全員揃っていた。
彼女は自分の装具のほかに、足を痛めた候補生の荷物を半分ほど持っていた。
「君なら、もっと早く着けただろう」
「班長だもの。私だけ着いて、どうするの?」
その日の講評で、教官も同じことを言った。
ジークの班は、最後の一人がまだ到着していなかった。
全員が規定の体力試験を通っている。この程度の速度なら問題ない。そう考えていたが、足の遅い者には遅い者なりに、装具の重さや疲れ方の違いがあったらしい。
「途中で一言、聞けばよかったのよ」
ヘレーネは、汗で張りついた前髪を払いながら言った。
問いかければ答えが返ってくるという、ごく単純なことを、彼は横着して省いていた。
翌週、彼は行軍中の小休止を増やし、重い装備を運ぶ役も途中で交代させた。先頭の到着は遅くなったが、班が揃うのは早くなった。
ヘレーネは得意そうだった。
「参考になった?」
「とても。使う人間の手入れは大事だ」
「言い方!」
彼女が怒るところまで含めて、なかなか有意義な演習だった。
もっとも、彼女が何でもできたわけではない。
外出日に、彼の襟が曲がっていると言って直してくれたことがある。近寄ってきた婚約者の外套は、釦が一つずつずれていた。
教えてやろうかとも思った。
だが、もう少し偉そうにしていてほしかったので、彼は黙っていた。
通りの窓に映った姿で気づいたヘレーネは、その後、かなり長い間、口を利いてくれなかった。
食事になれば、彼女は食前の祈りを欠かさなかった。
ジークは信仰を持たなかったが、その間くらいは待った。目を閉じているからといって、皿の菓子を取ったりはしない。
一度やって、目を開ける前に手首を掴まれたことがある。
あれには、無神論者の彼も少しばかり神秘を感じた。
◇
二年ほど過ぎた頃、彼は閲覧室で新聞を畳み、しみじみと言った。
「この国の外交担当者は、隣家に喧嘩を売る時だけ記憶を失う病気なのかな」
向かいで筆記をしていたヘレーネが顔を上げた。
「また何?」
「西で相手を怒らせた翌週に、東で怒らせる。海の向こうにも忘れず挨拶をする。実に公平だ。敵国の作り方を教える授業なら、満点をあげたい」
「少しは自分の国に敬意を払いなさいよ」
「払っているよ。国を守るために、こんなに軍隊が必要なんだから」
新聞の横へ地図を広げる。
彼女は嫌な顔をした。最近、彼が地図を広げると話が長くなることに気づいたらしい。
「帝国が強いから、周りが勝手に怖がっているんでしょう。こちらだけが悪いみたいに言わないで」
「うん。そこは正しい」
予想と違う返事だったらしく、ヘレーネは少し勢いを失った。
「帝国は大きい。工業も人口も、軍隊を養える税収もある。だから、一国で向き合いたい隣国は少ない。さて、相手はどうする?」
「……他の国と手を結ぶ」
「正解。そこで我が帝国は、包囲されたと腹を立てて、さらに兵隊を増やす。相手はますます一国では怖くなる。おめでとう。さっきまで仲が悪かった二つの国が、僕たちのために握手した」
彼はフランソワとルーシーを指で結んだ。
「なら、相手が手を結んでも勝てるだけ、強くなればいいでしょう」
「その費用は誰が出す?」
「それは……国家が」
「国庫は、毎朝金貨を産む鶏じゃない。陸軍を増やせば兵舎も鉄道も要るし、海軍を増やせば船だけじゃなく港も要る。全部払うなら税を増やすか、他を削るか、借金だ。君の家にも、今年から追加でどうぞって請求が来る」
ヘレーネは黙った。
実家の手紙には、領地の橋を直す費用の話があったからだ。
「その間、海の向こうの国は、僕たちと同じだけの陸軍を持たなくても、隣国に金を貸せる。もちろん、貸す側にも限度はある。でも、相手が破産するまで、こちらが先に破産しない保証はないね」
「だからといって、弱くなればいいわけではないでしょう?」
「もちろん。弱くなってから隣人の善意を祈るほど、僕は信心深くない」
「信心深い人だって、そんなことはしません」
そこは即座に返された。
彼は笑って頷いた。
「なら、軍隊があるうちに、敵を減らす努力も要る。ところが新聞は、相手が一つ譲るたび、もっと取れたはずだと騒ぐ。外交官が苦労して話をまとめても、後ろから台無しにする。失敗したら今度は、その外交官を軟弱者と呼べばいい。とても素敵な職場だね。僕なら初日に辞める」
ヘレーネは新聞を取った。
実際、そのようなことが書いてあった。
「……それでも、皆、この国をよくしようと思って」
「よくしようと思うだけなら、僕にもできる。君の射撃だって、祖国のために当てたいと思っただけでは、教官は命中扱いにしてくれないだろう?」
痛いところを突かれた。
彼女は、そういう教官なら自分が一番腹を立てると分かっていた。
「そんなに嫌なら、どうして士官学校に来たのよ」
「本が多いから」
「もう少し、まともな答えを用意しておきなさい!」
とうとう近くの席から振り返られた。
彼女は小さく頭を下げ、声を落とした。
「帝国を守りたいとは思わないの?」
「家もあるし、家族もいる。君もいる。なくなれば困るよ。だから、軍隊を増やして強気に出れば全部解決するって話を、あまり信用したくないんだ」
ヘレーネは、反論しかけた口を閉じた。
それから、なぜか地図の折り目を丁寧に伸ばし始めた。
「……そう。なら、最初からそう言えばいいのに」
「最初に言ったら、君、ここまで真面目に考えてくれた?」
彼女の手が止まった。
「わざと怒らせたの?」
「いや。途中から」
反論が一つずつなくなり、それでも納得したくない顔になる。あの瞬間が、彼は好きだった。普段は世話を焼こうとする相手なら、なおさらである。
ヘレーネは、彼の笑顔をしばらく見つめた。
そして地図の端に置かれた、白紙の束を手前へ引いた。
「なら、書きなさい」
「何を?」
「今の話。私に言うだけじゃ足りないでしょう。先生に読んでもらえばいいのよ」
ジークは少し考えた。
悪い話ではない。調べているうちに面白いことも増えていたし、教官たちがどんな顔をするか、見てみたくもあった。
最初の草稿は、数日でできた。
『我が帝国の隣人に対する甚だ迷惑な振る舞いについて』。
ヘレーネは題名を読んで、額に手を当てた。
「先生に喧嘩を売れとは言ってないわよ」
「正確だと思うんだけど」
「正確なら、ほかの言い方でも書けるでしょう!」
仕方なく書き直した。
『帝国によってもたらされる不安定な欧州秩序』。
「……中身は同じじゃない」
「言い方を変えろと言ったのは君だよ」
彼女は睨んだが、今度は最後まで読んだ。
帝国は、自国の枠内に収まるには強すぎる。しかし欧州全体を支配し、他国の対抗を封じ込めるほど強くはない。その半端な強大さが周囲を怯えさせ、周囲の備えが帝国を怯えさせる。軍備の増強と外交の失敗を重ねれば、どこかの紛争が、当事国だけでは止められない戦争へ広がる。
本文の余白には、ヘレーネの細かな字が増えた。
ここは何の資料か。この数字はいつのものか。この言い方では、帝国人は全員馬鹿だと言っているように読める。
最後の指摘に対し、ジークは、全員とは書いていないと返した。
そこにも線を引かれた。
「君、僕の論文を添削するのが好きになってない?」
「放っておくと、中身を読む前に先生から叱られるでしょう。そうなったら、どんなに良い内容でも、まともに読んでもらえなくなるわ」
そう言いながら、彼女は次の頁をめくった。
彼に腹を立てつつ、何が書かれているかはきちんと知りたいらしい。
最後の頁まで来ると、しばらく黙っていた。
「これ、もし戦争に勝ったら、どうなるの?」
「どんな勝ち方をするかによるよ」
「たとえば、敵を追い払って、賠償金を取って、領土も少し取ったら」
「その相手が、次も負けたいと思ってくれるなら助かるね」
彼女は唇を尖らせた。
「……また、軍備を増やすのね」
「失ったものを取り返したいだろうし、隣の国は前より大きくなった帝国を怖がる。こちらも、勝ったのに軍を減らせない。さっきの話の続きだ」
「じゃあ、一度勝っても終わらないじゃない」
「戦争は終わるよ。次の戦争の準備が始まるだけで」
ジークは、空になったカップへ手を伸ばした。
ヘレーネがそれを取り上げ、茶を注いだ。砂糖は入れてくれなかった。
「あなた、楽しそうに言うことじゃないでしょう」
「楽しくはないさ。面白くはあるけど」
「なお悪いわよ」
彼女は論文を揃えて、机に置いた。
「私、父が休暇で帰ってくるの、好きだったの。軍服を脱いで、弟たちと庭で遊んでくれて。帰る日の前の晩だけ、母が父の好きな料理をたくさん作るのよ」
彼は聞いていた。
「父の仕事は立派だと思うわ。私もそうなりたい。でも、戦争に勝っても次の戦争が来るんだったら、いつ落ち着いて家に帰れるの?」
彼女は茶器の取っ手を指で回した。
「こんなに先まで考えられるなら、その次をなくす方法まで考えてよ。皆が帰って、それからしばらく、ちゃんと家にいられる方法」
「ずいぶん大きな課題だね」
「帝国中の偉い人を馬鹿にしたんだもの。それくらい、やってみせなさい」
彼は笑った。
今のところ、そんな仕事を自分で背負う気はない。考えることは面白かったが、そのために何十年も働くとなれば、話は別である。
彼にとって今世はボーナスステージなのだ。
「提出期限は?」
「私が考えつく前」
「それなら、かなり余裕がありそうだ」
足を踏まれた。
知っていて言ったので、不満はなかった。
清書を終えた翌日、論文は教官の手に渡った。
ジークは呼び出された。質問に答え、根拠にした本を挙げ、別の教官も呼ばれ、結局、夕食ぎりぎりまで戻ってこなかった。
ヘレーネは廊下で待っていた。
彼の姿を見ると、まず顔を確かめた。
「どうだった?」
「もっと詳しく書けって」
彼女の顔が、ぱっと明るくなった。
「そう。よかったじゃない」
「君の余白の指摘まで褒めていたよ」
「それは……当然でしょう。あれだけ直したんだから」
嬉しいらしい。
彼はその顔を見て、わざと肩を落とした。
「でも、関税と軍事支出の資料を、もう少し集めないといけない。来週までに終わるかな」
「来週? それは一人じゃ……」
言いかけて、ヘレーネは止まった。
「あなた、今、私に手伝わせようとしたでしょ」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないわよ。その顔!」
失敗だった。
どうにも、この頃は見抜かれるのが早い。
ヘレーネは彼の持っていた紙束を取り上げ、必要な本の一覧へ目を走らせた。
「明日は私も課題があるから、午後だけよ」
「手伝ってくれるの?」
「あなたのためだけじゃありません。私も、気になるところがあるんです」
それから、指を一本立てた。
「終わったら、駅前のお店。林檎の焼き菓子と、クリームの載った方。両方」
「報酬を先に決めるとは、感心だね」
「誰のせいで覚えたと思っているの」
彼は声を出して笑った。
ヘレーネはまだ何か言いたそうだったが、夕食の時間だと気づき、早く歩くよう彼の袖を引いた。
「神童様でも、遅れたら片づけられるわよ」
「それは困る。帝国の将来より、まず僕の夕食だ」
「ほら、そういうところ!」
廊下を歩きながらも、彼女は紙束を返してくれなかった。
ジークも返せとは言わなかった。明日の午後に何を調べるか、隣で既に、彼女が話し始めていたからである。