平和をもたらす者
この広場に集まった人々は、生きるためにここへ来た。
――ルーアン空襲犠牲者追悼碑
◇
《統一暦1929年2月下旬 フランソワ共和国 ルーアン》
フランソワ共和国にとって、戦争とは既に一度負けたものだった。
帝国軍に国境を破られ、主力を包囲され、首都にまで敵兵が入ってきたあの敗戦は、国民の記憶から消えてはいない。家族の戻らなかった家も、片脚を失って帰ってきた父親のいる家もあったし、地図から削り取られた国土を眺めれば、今なお帝国への罵声が口をついて出た。
それでも、復員列車から降りた男たちは畑と工場へ戻り、閉じていた商店は鎧戸を開け、何年も戦争に振り回されてきた暮らしを、どうにか元の形へ戻そうとしていたのである。
その共和国が、今度は帝国と同じ側に立って参戦しているのだから、国際政治というものは、学校で教わる歴史の年表ほど親切にはできていない。
かつての友邦である連合王国は、ケルセルメビークで共和国艦隊に砲火を浴びせた。ロンディウムへ逃れたド・ルーゴ将軍は、海峡の向こうから自分こそが祖国を代表すると主張し、連合国は彼の自由フランソワを抱えて、現に共和国を統治する政府を認めようとはしなかった。
一方、昨日まで共和国軍を撃ち倒していた帝国は、講和条件を調整し、農産物を買い、石炭と肥料と機械を送り込んできた。
もちろん、慈善事業ではない。帝国には共和国の収穫と生産が必要であり、共和国政府には、国民を食べさせながら国家を立て直すための相手が必要だった。
互いの国歌を愛するようになるより先に、貨物列車の運行と銀行の決済が再開され、そうした毎日の取引が、講和条約の署名だけでは埋まらなかったものを少しずつ埋めていったのだ。
再軍備は進められ、義勇兵も送り出されたが、共和国はかつてのように、働ける男を片端から兵舎へ押し込んだわけではなかった。
帝国側も、受け取る小麦を減らしてまで共和国の農民に軍服を着せることには熱心ではない。新聞の一面では祖国の名誉が論じられていても、農村では翌年の種を選び、都市では工場の増産に合わせて下宿屋が部屋を貸していた。
ルーアンも、そうした暮らしを取り戻した都市の一つだった。
セーヌ河下流の河港と、パリースィから海峡沿岸へ向かう鉄道が交わるこの街では、朝から晩まで貨車の入れ替えが続いていた。
岸壁には荷役用の起重機が並び、河岸の倉庫には穀物や機械部品が積み上がり、機関車の修理工場からは鉄を打つ音と油の匂いが流れてくる。共和国の経済を支える貨物に混じって、帝国軍の車両や軍需品も運ばれていたが、線路の脇で暮らす人々にとって汽笛の数が増えることは、まず仕事が増えることを意味していた。
帝国軍の制服も見慣れないものではなくなっていた。駅の食堂には帝国語の品書きが置かれ、煙草屋の主人は、常連になった輸送兵のために好みの銘柄を取り置いていた。仲良く酒を飲む者もいれば、代金だけ受け取って口を利かない者もいたが、少なくとも街角で出会うたびに銃を向け合うような日々はとうの昔に終わっていたのである。
戦争が続いていることを、住民が忘れていたわけではない。駅には見送りの家族が集まり、学校では避難の説明が行われ、日没後には窓を覆うよう指示も出ていた。ただ、この街には、そしてフランソワ本土には、まだ、大規模な爆撃機の編隊が来たことがなかった。
防空壕の工事は予算と資材の都合で遅れ、地下室を指定しただけの避難所も多かったが、その不足を肌で知る機会はなかった。
帝国の空を襲った爆撃機が大損害を受けて戻るという報道は、共和国の新聞にも載っていた。帝国の厚い防空網と、自分たちの街を守る僅かな高射砲との違いまで、夕食の席で考える者は多くなかった。
その日も、河の上を漂っていた白い靄が夕闇へ溶ける頃には、家々の台所から湯気が上がっていた。
石畳の上を最後の荷車が軋みながら通り、パン屋の女主人が、戸口に立てていた看板を店の中へ引き込んだ。旧市街のガス灯には覆いが掛けられ、絞られた光が濡れた路面に細く落ちている。
仕事帰りの男たちは外套の襟を立てて歩き、窓の奥では、母親が食卓へスープ皿を並べていた。
河岸にいた港湾労働者が、最初に北西の空を見上げた。
低い唸りが、船の汽笛とも工場の機械音とも違う響きで頭上へ広がっていた。
薄闇の中には、幾つもの機影が重なって見えた。
先頭の一群が進んでも、その後ろから次の一群が現れ、河を渡る風に乗っていた音は、やがて地上の会話を聞き取りにくくするほど厚くなった。
警報のサイレンが鳴り始めると、店の戸口に出てきた者たちが一斉に顔を上げた。街路の先では警官が腕を振り、立ち止まる住民を地下室へ追い立てていたが、二階の窓から空を覗く顔はまだ残っていた。
ルーアンへ接近していたのは、合州国陸軍航空軍のB30A戦略爆撃機、愛称「ピースメーカー」だった。
その数は二百機を超えていた。
新型の四発機は暗くなりつつある空を埋め、機腹の爆弾倉を開いて、市街とその周辺へ進入していった。
十八時四十七分、操車場に隣接する倉庫が閃光の中に消えた。
屋根が持ち上がり、壁とともに崩れ落ちるのに続いて、並んでいた貨車が横倒しになる。少し遅れて衝撃が住宅街へ届き、食卓の上の皿が跳ね、窓を覆っていた厚い幕が、割れた硝子とともに室内へ吹き込んだ。椅子から転げ落ちた少女を母親が抱き起こした時、通りの向こうでも別の建物が崩れ、戸口から噴き出した埃が街灯を覆った。
まだ鍋を火から下ろそうとしていた女の手を、夫が掴んで階段へ引いた。料理店では、停電した客席へ給仕が蝋燭を運んでいた。しかし、二度目の爆発で廊下の床が抜け、給仕は蝋燭の灯りごと階下へ消えた。路上にいた馬が荷車を引いたまま暴れ出し、避難する人々の列へ突っ込んで、石畳の上に積荷を撒き散らした。
高射砲の音は爆発の合間に聞こえてきたが、家並みの向こうへ伸びる探照灯の光は、立ち上る煙に遮られ、地上からはその先を見ることができなかった。
操車場だけでなく、住宅街にも、商店の並ぶ通りにも火が上がった。屋根を貫いて落ちた焼夷弾が屋根裏で燃え、吹き飛ばされた窓や扉から風が入った。石造の外壁の内側では木の床と階段が燃え、火は乾いた梁を伝って隣の屋根へ伸びていく。
倒れたガス灯の根元から炎が噴き出し、石畳の割れ目から漏れたガスにも火がついた。
料理店へ引き込まれていた管は壁の崩落に引き裂かれ、半分だけ残った厨房の中で燃え続けていた。ガス会社の職員は供給を遮断するために走ったが、電話線は各所で切れ、遮断弁へ向かう道の一部は既に瓦礫に埋まっていた。
消防本部では、交換手が受話器を耳へ押しつけたまま、何度も同じ番地を聞き返していた。向こうからは人の声に混じって物の崩れる音が届き、途中で通話が切れると、すぐに別の回線が鳴った。出動先を書き込む地図には印が重なり、消防車を送り出した街路から、今度は車両が動けなくなったという伝令が戻ってきた。
水道管の破損が広がるにつれて消火栓の圧力は落ち、ホースを構えていた消防士の足元へ、濁った水が垂れるようになった。河水を使おうと岸壁へ向かった車両も、崩れた倉庫と避難民の列に遮られ、消防士たちはホースを引きずって先へ進もうとしたが、河岸へ出る通りは、既に倉庫から噴き出す炎に塞がれていた。
市街の上に黒い煙の柱が幾つも立ち、炎が大きくなるにつれて、地上では風が火災の方へ流れ込み始めた。
炎は次第に高さを増し、黒煙を巻き込みながら天へと立ち上った。そしてついには、かつて皇国の首都を襲った大地震の際にも発生し、市街を焼き払った火災旋風を生み出した。
街路を吹き抜ける風に看板が揺れ、破れた窓の幕が外へ引き出されたかと思うと、次には建物の内側へ激しく吸い込まれた。燃えさしが屋根を越え、火の手のなかった庭へ降り、そこから新しい煙が上がってゆく。
家を出た人々も、最初に選んだ道を引き返さなければならなくなった。炎の向こうから戻ってきた一団が、これから避難しようとする別の一団と衝突し、子供を抱えた母親が壁際へ押しつけられた。広い通りを目指した者は、そこで倒れた建物に進路を塞がれ、地下へ逃げ込んだ者は、階段を下りてくる煙のために再び外へ戻った。
郊外に駐屯していた帝国軍の輸送部隊へ救援要請が届いた時、南の空は低い雲の底まで赤く染まっていた。
兵士たちは積んでいた貨物を倉庫の前へ下ろし、代わりに毛布と担架と飲料水を放り込んだ。衛生車を加えた車列が営門を出ると、続いて鉄道工兵のトラックと、再編成中の歩兵部隊から集められた兵員が市街へ向かった。先頭の車両が郊外の民家を過ぎる頃には、運転席の風防へ細かな灰が当たり始めていた。
彼らは道路から瓦礫をどかし、家の下敷きになった住民を引き出し、荷台へ乗れる者から順に運んだ。負傷者を満載したトラックが郊外へ戻る一方、空になった車両が再び街へ入り、歩ける住民には街路の角に立った兵士が進む方向を示した。
ただし、彼らが受けていたのは野戦での救護と搬送の教育であり、都市規模の火災に対応する訓練ではない。帝国本土では、電探と迎撃機、高射砲が大編隊の侵入を繰り返し防いできた。空襲への備えはあっても、都市の広い範囲が同時に燃え、救助隊の進入先まで急速に危険へ変わる事態について、共和国駐屯部隊の末端まで教育が行き届いてはいなかった。
旧市街へ入った一隊は、道路の両側から落ちてくる瓦を避けながら、住民を教会前の広場へ誘導した。石畳の中央には噴水があり、燃え盛る周囲の家並みから距離を取ることができた。そこへ辿り着いた住民たちは、持ってきた鞄を足元へ置き、ようやく止まって息を整えることが出来た。
「ここで家族を確かめろ。歩けない者は手を上げて知らせてくれ。車は戻ってくるから、勝手に路地へ入るな」
軍曹の言葉を共和国語の分かる兵士が繰り返し、地元の警官も、笛を吹いて住民を広場の奥へ導いた。トラックが着くたびに負傷者を運び出したが、それ以上の人数が周囲の街路から流れ込んでいた。教会の扉の前には担架が並び、噴水の近くでは、母親とはぐれた子供を預かった女が、泣き声に負けないよう家族の名を呼んでいた。
広場へ通じる道の一つが塞がれた時、軍曹は別の出口を確かめに兵士を走らせた。その兵士が戻る前に、反対側から煙が押し寄せ、座っていた人々が咳をしながら立ち上がった。布を濡らして口を覆うよう指示が出され、住民たちは噴水の水盤に残っていた浅い水へ、ハンカチや上着を浸した。
街路の向こうでは、炎が建物の高さを越えていた。大きな火災へ流れ込む風が広場を横切り、教会前に張った救護用の布を引き剥がした。布は屋根から飛んできた燃焼物を受けて燃え上がり、手を伸ばした兵士の足元へ落ちた。
中央へ下がれという声と、広場から出ろという声が重なる。誰かが川へ行けと叫んだが、その道からは、先に出ていった住民が引き返してきていた。教会の壁際へ寄った人々の上には、熱で剥がれた石片が降り、抱き上げた子供を庇おうとした男がそのまま膝をついた。
火災の縁に生じた旋風が、燃える板と屋根の破片を巻き込みながら広場へ入り込んだ。風に足を取られた人々が倒れ、その上へ吹きつける煙の中で、兵士の持っていた誘導灯が見えなくなった。
噴水の周囲では、大人たちが子供を水盤の内側へ下ろしていた。石の縁に腕を掛けて身を乗り出し、水盤の底に伏せた子供の背中に、濡らした衣類を被せた。水盤へ入ろうとした幼い子を、灰色の軍服を着た兵士が両脇から持ち上げていた。
やがて教会の屋根が崩れ、広場の片側へ大量の火の粉が降った。噴水の周囲も、街路の入口も、巻き上がる灰と煙に包まれ、外側からその中を見ることはできなくなった。
他の地区でも、救援に入った部隊との連絡が途絶えていた。地下室へ下りた衛生兵が戻らず、後を追った兵士も煙の中に消えた。住民を迎えに行くと無線で告げたトラックは、その後応答しなくなり、郊外の集結所には、帰還予定の車両番号が消されないまま残った。
旧市街の教会では、木の屋根組みが燃え落ち、梁が突き崩した壁の上から鐘が落下した。窓を支えていた鉛の桟が溶け、支えを失った色硝子が砕けながら床へ落ちていった。熱に傷んだ石灰岩の彫刻は表面から剥がれ、聖人像の顔と指が欠け、その下へ屋根から滴った金属が固まっていった。
夜が明けても、焼け跡には煙が残っていた。
倒壊を免れた壁は窓のないまま立ち、時折、その一部が音を立てて崩れた。河岸には焼けた木材が漂い、岸壁の階段では煤に覆われた人々が毛布を被って座っていた。遠くで鐘に似た音がしたが、それは工兵が鉄材を叩いて、瓦礫の下へ呼びかける音だった。
教会前の広場へ捜索隊が辿り着いたのは、翌日の昼近くになってからだった。
噴水は水を失い、中央の飾り柱は途中から折れていた。水盤の内側には小さな子供の遺体が集中し、その周囲では大人の遺体が幾重にも重なっていた。
帝国軍の制服を着た者も、同じ場所から発見された。
広場へ住民を誘導した軍曹の身元は、部下が携行品と認識票を照合することで確認された。
後に広場と周辺の街路から収容された死者は、五百人を超えた。
生存者の証言と遺体の位置から、子供たちを水盤の中へ避難させようとしていたことは確認されたが、その場にいた人々の最後の行動を、順序立てて再現することはできなかった。
郊外の救護所では、運び込まれた負傷者が廊下と玄関まで埋めていた。夜のうちには自分の名を答えていた者が、朝には呼びかけへ反応しなくなり、受付の帳面から別の帳面へ氏名を写された。家族を捜す住民は、一つの施設を回り終えるたび、教えられた次の所在地へ歩いていった。
市庁舎へ寄せられる届出だけでは、全体の被害を把握することはできなかった。家族全員が亡くなった家には行方不明を届け出る者がおらず、旅行者や鉄道の交替要員、近郊から親族を訪ねていた者の所在も分からなかった。焼失した学校の学籍簿を写しから復元し、教区の記録を調べ、住民名簿と避難先からの連絡を照合する作業が続いた。
市域と周辺の被災地区を合わせた死者は、後の死亡認定を受けた行方不明者を含め、二万六千人余りに達した。負傷者は三万人を超え、住居を失った者は十万人以上に達した。救援に従事した帝国軍将兵も、二百人以上が死亡、あるいは行方不明とされた。
操車場と港湾は大きな損害を受け、列車は迂回し、荷役は停止した。その周囲には、貨物を運ぶために必要な施設だけでなく、商店も学校も、夕食を並べていた家も失われた街区が広がっていた。
その頃、海峡の向こうの飛行場では、帰還したB30Aの点検が進んでいた。整備員は発動機の覆いを外し、搭乗員は無線の不調や編隊維持、夜間の帰投時に起きた混乱について報告した。回収した記録は担当部署へ送られ、次の出撃までに改めるべき事項が書類へまとめられていった。
交通施設への打撃を記した作戦報告書には、それとは別の評価も添えられていた。
『新装備の集団運用に関し、有益なる実戦経験を得たり』
◇
《三日後 アルビオン連合王国 ロンディウム十番街 首相官邸》
ロンディウムの空は、朝から濡れた羊毛を被せたような色をしていた。細かな雨が首相官邸の窓を伝い、街灯の輪郭を滲ませている。厚い窓硝子の向こうでは自動車の警笛がくぐもって響き、執務室の中には、暖炉で燃える石炭の匂いと、何本目とも知れない葉巻の煙が淀んでいた。
ウィンストン・チャーブルは、重厚な机の前を行ったり来たりしていた。外した上着は椅子の背から半ばずり落ち、机上の紅茶は湯気を失ってから既に相当の時間が経っている。その隣には胃薬の小瓶と、まだ封を切られていないウイスキーが置かれ、どちらを先に使うべきかについて、首相の理性と本能が激しい議会審議を続けていた。
もっとも、窓際に佇むサー・アーサー・シンクレアに言わせれば、その議会はとうの昔に定足数を割っていた。首相は先ほどから、火の消えた葉巻を吸い、吸えないことに腹を立て、それを灰皿へ叩きつけては、また拾い上げるという行動を繰り返している。
「……アーサー卿。私は、連中に鉄道を止めろと言った。機関車と貨車を動かすな、と言ったのだ。フランソワ人を片端から奮い立たせ、徒歩で我々を殺しに来る気にさせろなどとは、一言も命じておらんぞ!あの成金のカウボーイどもは、外交上の問題にも爆弾倉の扉を開けて返事をするのか!?」
チャーブルが振り返ると、腹に押された懐中時計の鎖が腰の辺りで揺れた。アーサー卿は窓から静かに離れ、黒い革のファイルを机へ置いた。その手つきは、いかにも大切な品を扱う人間のものだったが、持ち主が大切にしているのは、紙の中身よりも、それを聞かされた首相がどのような顔をするかであるようにも見えた。
「少なくとも、向こうの返事はよく聞こえたようです。共和国の各地から、志願兵募集所へ人が集まっているとの報告が届いております。我々が上陸する頃には、駅で道を尋ねる手間も省けるでしょう。沿道の住民が、小銃を持って進むべき方向を教えてくれますから」
「歓迎される場所を一つくらい残しておけとは、誰も言わなかったのか!私は兵士を大陸へ送るのであって、村ごとに銃を向けられる巡礼団を仕立てるつもりはないのだぞ!」
首相の太い指が机を叩き、受け皿に載った銀の匙が跳ねた。アーサー卿は飛び散った冷たい紅茶から書類を避けると、白いハンカチで濡れた指先を丁寧に拭った。
「ですから、我が国は反対いたしました。民間人の被害、共和国世論への影響、近く行われる上陸作戦に伴う政治的負担。必要な懸念は、全て書面にございます。歴史家が首相の判断力を褒める材料には事欠きません。残念ながら、合州国の爆撃機を止める材料にはなりませんでしたが」
「歴史家に褒められる頃には、私はとっくに墓の下だ!今、私を助けられる人間の話をしろ。……まったく、同じ言語で抗議しているはずなのに、どうしてここまで話が通じんのだ」
「単語は同じでも、使い道が違うのでしょう。我々が『慎重な再考を求める』と書いた一節は、向こうでは『何かあった時に、こちらを責めないでくれ』という意味に読まれたようです。大変よく理解していると思いますよ。普段、我々が他国の抗議文を読む時と、ほとんど同じです」
チャーブルは、言い返しかけた口を閉じた。閉じたままでいるのも癪だったので、とうとうウイスキーの栓を抜いた。
連合王国が反対していたのは、共和国の交通網を攻撃すること自体ではない。帝国軍が鉄道を使って兵員と物資を送り続ける以上、将来の上陸に先立って、その働きを妨げる必要はあった。だが、都市を広範囲に焼き払う攻撃には、線路の修理日数だけでは計算できない代価がついてきた。
連合国は、現在の共和国政府を正統な政府と認めず、ロンディウムにいる自由フランソワを支援していた。共和国軍とは交戦しながら、その国民に対しては、いずれ我々が解放してやると宣伝している。
現政府への反感や帝国への恨みを利用するつもりなら、国民の側に、連合国を迎え入れる理由を残しておかなければならないはずなのだ。
そのために情報部が繋いできた細い糸を、合州国は大きな手でまとめて引き千切ったのである。
チャーブルは善良な人道主義者ではなかった。必要と判断すれば、他国の不幸に署名することもできるし、その署名に相応しい立派な説明を用意させることもできた。だからこそ、軍事上の成果を得たというだけで、その後に支払う勘定まで消えると思っている態度には、我慢がならなかったのだ。
「向こうの返事を、もう一度読んでみろ。あの、ひどく敬虔で、ひどく無責任な一節だ。私が聞き間違えたのでなければ、家を焼いた責任は、焼かれた側の政府にあるという話だったな」
アーサー卿は回答書の写しを取り出し、目を通してから、少しだけ顎を引いた。
「敵性政府の軍事活動を支える施設に対する攻撃は正当であり、民間人の被害は遺憾ながら、戦争を継続する敵側指導者に責任がある、と。なかなかよくできた文章です。我が外務省の昔の文書と並べれば、署名を隠してどちらがどちらか当てる余興に使えるでしょう」
「今度の外交晩餐会でやってみろ。正解者には私の胃薬をくれてやる。あいつらの言い分を最後まで聞いて平気で食事ができる人間なら、私より先に医者へ診せるべきだ」
チャーブルはグラスを傾け、強い酒を飲み下して顔をしかめた。暖炉の中で石炭が崩れ、赤い火が一度高く上がったが、その光を見ても、険しい眉間は緩まなかった。
「それで、なぜ今だったのだ。新型機を揃えて帝国本土へ向けるはずが、共和国の街へ押しかけた理由を聞かせろ。まさか、新しい玩具を買ってもらったので、帰り道で誰かを殴ってみたくなった、という話ではあるまいな」
「子供であれば、親が謝りに来るのですがね。今回は、実戦での習熟を兼ねた作戦です。B30Aと新しい支援装備をまとめて動かし、帰還後の整備と記録の回収まで含めて、部隊として何ができるかを確かめたかったのでしょう。帝国本土の上空へ送り込んでから不具合を見つけても、報告する搭乗員が残らない恐れがありますので」
B30Aは、合州国の工業力と技術を注ぎ込んだ新鋭機だった。だが、与圧室と遠隔銃塔を備えれば、帝国のジェット戦闘機が遠慮してくれるわけではない。電波機材を積み込んだ機体であっても、砲弾の破片が当たれば穴は開くし、発動機を失えば編隊から落伍した。
帝国本土へ本格的に向かう前に、直せる不備は直し、乗員と地上要員にも集団での運用を覚えさせたい。そのために、交通上の価値がありながら、帝国本土ほど強力な防空網には守られていない共和国の都市が選ばれたのである。
合州国側には軍事的な理由があり、その理由を裏づけるだけの破壊も記録された。だが、実戦経験を得るために支払われた代価は、合州国軍の損害表だけに載っているのではないのだ。
「……では、ルーアンは実習先だったというのか。試験場を造る土地なら、合州国には牛に食わせるほど余っているだろうに。他人の国へ出かけて、そこの住民に授業料まで払わせるとは、随分と立派な学校だな」
チャーブルの声が低くなった。葉巻を探して机へ伸ばした手は、灰皿の手前で止まり、そのまま報告書の端を押さえた。
アーサー卿は、開いていたファイルから視線を上げた。窓を叩く雨音が、短い沈黙の中で急にはっきり聞こえた。
「その実習で、帝国本土の防空網を突破できると証明されたわけでもありません。今回は帰ってこられた乗員が、次にも帰ってこられる保証はない。そこを区別する将校は合州国にもおりますが、大きな成功を宣伝したい連中は、帰還機の数と焼けた面積を先に見るでしょう」
「そして、もっとやれと叫ぶのだな。こちらの飛行場から、こちらの頭越しに決めた作戦へ出かけ、帰ってくれば、協力に感謝するなどと言いながら、私の机へ次の請求書を置いていく」
「よく御存じでいらっしゃる。まだお見せしておりませんが、滑走路拡張の費用見積りが届いております。機体が大きくなると、請求書まで立派になるようです」
首相は、今度こそ机の端から手を離し、革張りの椅子へ体を沈めた。
椅子が低く軋み、その音に重なるように、彼の口から長い呻き声が漏れた。
「紅茶を港へ捨てた連中が、他人に税金を払わせる側へ回った途端にこれだ。我々の植民地教育は、なんと見事に成功したことか。連中を褒めるために、独立記念日へ請求書の束でも贈ってやれ」
「祖国からの贈り物として、喜んで我が国の勘定へ付け替えるでしょう。先方は既に、親よりも商売が上手でいらっしゃいます」
アーサー卿は、丁寧に揃えた書類の束を、首相のグラスが届かない位置へ置いた。チャーブルがその動きを目で追うと、彼はわずかに口元を動かしただけで、次のファイルを開いた。
「では、共和国側の反応へ参りましょう。こちらは、我が国の出費を増やすものばかりではありません。ベルンの宣伝省などは、宣伝費を相当に節約できたはずです。合州国の納税者が、向こうの仕事まで引き受けてくれましたから」
「まだ続くのか……。以前のフルコースも、あの忌々しい朝食も、最後には私が消化不良を起こしただろう。たまには食後の茶だけを持ってくるという気遣いはできんのか、君は」
「本日は共和国の新聞ですので、紙だけなら腹の足しにもなりません。ご安心ください。読んでいただければ、食欲の方が先になくなります」
机に並べられた翻訳には、異なる新聞の名が記されていた。保守派の新聞、労働組合に近い新聞、地方の商業紙。普段なら政府の予算案一つを巡って罵り合う紙面が、ルーアンについては、よく似た見出しを掲げていた。
チャーブルは眼鏡を掛け、数枚をめくったところで手を止めた。そこには、彼が何年経っても聞かずに済ませたいと思っている港の名があった。
「ケルセルメビーク……。まったく、あの件を忘れさせるために、我々がどれほど気を遣ってきたと思っている。ワソントンのクソッたれどもは、人の傷口を探すのだけは天才だな。見つけるなり長靴の踵で踏みつけおった」
「踏まれたのが、我々の傷口だけならよかったのですがね。共和国の人々にとっては、港で殺された親族と、今回の空襲で失った親族の話です。ガッペルスが演壇で何か叫ぶ前に、彼ら自身が二つの事件を結びつけています。こちらから、今回は合州国の担当だと説明しても、請求先をたらい回しにされたと受け取られるでしょう」
言いながら、アーサー卿は一枚の写真を表へ向けた。焼けた街路で、帝国兵と共和国の消防士が担架を運んでいる写真だった。兵士の外套には大きな焼け焦げがあり、担架の脇を歩く女は、両手で毛布の端を押さえていた。
「共和国政府の備えを責める者もおります。救助隊の誘導を恨む遺族も、帝国へ近づいた結果だと非難する者もおりますが、それで我々への怒りが減るわけではありません。現地から逃れた住民が、自分で見たことを家族に話している。帝国の宣伝だと片づけるには、本物の証人が多すぎます」
チャーブルは写真を手に取ったが、すぐには何も言わなかった。グラスの底に残っていた酒を飲み切り、写真を机へ戻してから、押し殺した声で口を開いた。
「ド・ルーゴは何をしている。あの居候のラッパーに、祖国へ向けて口を利く資格が本当にあるというのなら、今こそ少しは役に立たせろ。軍帽を被った蓄音機を養うために、我が国が宿と放送局を提供しているのではないぞ」
「その蓄音機から、新しい原稿が届いております。冒頭で犠牲者を悼み、続いてペトン政府と帝国を非難し、最後に、自分こそが正統なフランソワの代表であると結んでいます。大変な一貫性です。祖国に何が起きても、話の着地点だけは一度も見失いません」
「あの馬鹿、自分の葬式でも棺桶の蓋を蹴り開けて、喪主から演説台を奪うつもりなのか!?我が祖国は不滅だと叫ぶ前に、せめて一度くらい、自分以外の人間が何を聞かされたいか考えさせろ!」
「ご本人は、祖国のためなら全てを捧げるとおっしゃっています。ただし、発言時間と正統政府の看板は除外されるようでして。この二つだけは、帝国軍がパリースィへ入った時にも、手放さずに海峡を渡ってこられました」
アーサー卿の声は、最後まで丁重だった。チャーブルは差し出された原稿を掴み、途中まで読むと、眉を吊り上げてそれを机へ放り出した。紙は滑走路の見積りの上に滑り込み、彼を苦しめる同盟国の問題が、机の上でも一つに重なった。
「弔意だけにさせろ。帝国を罵るのも、自分の銅像を建てる場所を探すのも、今日は止めさせろ。ルーアンの遺族へ、ワソントンに聞かせるための演説を押しつけるな。祖国のために何かしたいのなら、まず黙ることから始めてもらおう」
「承知しました。もっとも、彼にとっては占領された国土を取り返す話よりも、受け入れ難い要求かもしれません。先に合州国へ相談されると、こちらの仕事がまた一つ増えますが」
「ならば、相談する前にマイクを取り上げろ!なぜ私の同盟国は、敵と戦う時より、私に嫌がらせをする時の方が手際がいいのだ!」
暖炉の前まで歩いた首相は、そこで立ち止まり、額へ手を当てた。指先が後退した生え際に触れたことで、腹立ちに別の種類の悲しみが加わった。以前、情報部の持ち込んだ海藻の話を信じ、国政より先に自分の腹具合が危機に陥ったことまで思い出してしまったのである。
「……君の持ってくる話は、国家の前線から私の生え際に至るまで、後退させるものばかりだな。今度こそは何かないのか。少なくとも、我々が止めようとしたことくらい、共和国人に分からせる手段はあるだろう」
アーサー卿はファイルを閉じ、椅子の背へ静かに体重を預けた。皮肉な笑みは口元に残っていたが、首相を見る目には、それとは別の疲れがあった。
「公表はできます。合州国との意見対立を明らかにし、作戦の責任を向こうへ押し返す。そのうえで、次の食料船団と燃料供給、航空部隊の増派について、同じ相手へお願いを続けることになります。ワソントンの馬鹿どもが、我々の道義的な独立を喜んで支えてくれるのでしたら、私も賛成いたしますよ」
返事の代わりに、チャーブルは暖炉の縁へ肘を置いた。壁の地図には、船団の航路と各地の戦線を示す印が並んでいる。そのどれを眺めても、合州国から届く兵器と物資を、明日から不要にできる場所は見つからなかった。
連合王国には、反対する権利があった。だが、無視されたあとで飛行場を閉鎖し、補給を止め、同盟国の部隊を実力で押し留めることができるかとなれば、話は違った。抗議文に署名するためのインクは残っていても、その署名を支える食料と燃料は、海の向こうから運ばれてきているのだ。
「素晴らしい同盟だ。我々は土地を貸し、港を貸し、兵隊を出し、そのうえ、何が起きても連中と同じ顔をしていなければならん。彼らが満腹になるたび、なぜ私の胃袋だけが痛むのか、ようやく理解できたよ」
「お食事についてでしたら、合州国軍は厨房まで持ち込んでおります。我が国の料理を食わせれば帰りたくなる、という最後の手段も塞がれました。敵への備えと同じくらい、我々への備えも怠っていないようです」
チャーブルは鼻で荒く息を吐き、机へ戻ってウイスキーを注ぎ直した。琥珀色の液体がいつもより高い位置まで達したが、アーサー卿は止めなかった。その代わり、机の端に伏せておいた小さな紙を、いよいよ首相の方へ向けた。
「それと、合州国大使が来訪されます。今回の作戦を支えた我が国の協力に、直接謝意を示したいとのことです。記者も同行するそうですから、お手元の酒は、先に召し上がっておかれた方がよろしいでしょう」
「帰ってもらえ!首相は体調不良だ。胃が痛い、頭も痛い、同盟国の顔を見ると病状が悪化すると、ありのまま伝えてやれ。私の頭から毛を引き抜いた手で握手を求めるとは、どこまで図々しい連中なのだ!」
「では、涙が出るほど感激しておられると、穏当にお伝えしておきます。その御様子なら、写真に写っても嘘には見えますまい。……なお、大使は既に玄関へお着きです」
チャーブルはグラスを握ったまま、閉じた扉を睨みつけた。共和国からは責められ、議会からは説明を求められ、合州国からは感謝される。その全てが、本人の反対した作戦の成果であった。
首相はしばらく黙っていたが、やがて、胸の奥から絞り出すような声で呟いた。
「……私が泣いていたら、感激ではないぞ、アーサー卿。その一行だけは、君のくだらん報告書にも、正確に書いておけ」
◇
《二週間後 フランソワ共和国 パリースィ》
共和国義勇軍の募集所には、入口から通りへはみ出すほどの列ができていた。冬の曇り空の下、男たちは外套のポケットへ手を入れ、足を踏み替えながら順番を待っていた。軍歴証明を大切そうに抱えた者もいれば、仕事場から来たままの服装で、同僚と低い声で話している者もいた。
ケルセルメビークの後にも、共和国では義勇兵が集まっていた。既に部隊と制度があり、募集の告示そのものは新しいものではなかったが、今回の空襲によって、それまで窓口の前を素通りしていた人々が立ち止まるようになった。
遠い南方で戦う話を聞いていた者が、自分の住む街を守るための話として受け取るようになったのである。
もちろん、志願した者を全員兵舎へ送るわけにはいかない。年齢も健康状態も確かめなければならず、鉄道員や熟練工を無計画に引き抜けば、今度は軍隊を動かす仕事の方が止まってしまう。入口には職業と軍歴を確認する机が増設され、受付の奥では、昨日まで別の部署にいた職員が書類の扱いを教わっていた。
壁には共和国の国旗が掛けられ、その下には、ルーアンから届いた写真が貼られていた。政府は被害を公表し、帝国は医療要員と物資を送り、両国の新聞は救援の模様を大きく伝えていた。その一方、西部方面総司令部では救援活動の失敗を検証する作業が進められ、教会前の広場は、避難場所の選定を誤った事例として教育資料へ記されていた。
同じ広場の写真が、駐屯部隊の教室では命を失わないために使われ、募集所では新たに戦争へ加わる者たちの頭上に掲げられている。
受付の机の前に座った男は、外套の内側から、端の傷んだ軍歴証明を取り出した。三十二歳、予備役伍長、砲兵。右手には包帯が巻かれ、紙を押さえる時に指を動かすと、わずかに顔が強張った。
「その手では、先に診察を受けてもらうことになる。医者の判断によっては、しばらく待ってもらわなければならんし、以前と同じ所属へ戻せるかも分からん。それでもよいか」
「ええ、分かっています。今の医者には、治れば握れるようになると言われていますから。必要なら、診てもらった病院の名前も書きます」
書記は頷いて書類をめくり、軍歴の欄で一度ペンを止めた。前の戦争で帝国軍と戦い、敗戦後に復員したことが記されていた。
「今度は、あの帝国軍と一緒に戦うことになる。その点は承知しているのだな。軍服を受け取ってから、隣の兵隊と揉められても困る」
男は、机の向こうの壁に貼られた写真へ目を向けた。焼けた家並みの前に立つ兵士の輪郭を、しばらく確かめるように見てから、包帯の巻かれた手を膝へ戻した。
「好きになったわけじゃありませんよ。あいつらに撃たれたことまで忘れたわけでもない。ただ、あの晩、うちの子を捜しに行ったのは帝国の兵隊でした。やめておけと言われても、まだ中にいるかもしれないからと、戻っていったんです。……その兵隊も、帰ってきませんでしたが」
書記は黙って話を聞き、男が口を閉じるのを待って、現在の住所を尋ねた。ルーアンの住所はもう使えないという返事だったので、今いる親戚の家を記入し、連絡もそこへ送ってよいかを確認した。
妻と子の名を書く欄は、空欄のままだった。書記はそこへ静かに線を引き、診察へ回す紙を渡した。男は両手でそれを受け取ると、外套の内側へしまい、教えられた廊下の奥へ歩いていった。
空いた椅子には、次の志願者が座った。入口では係員が列を詰めるよう声を掛け、外で待っていた男たちが、一人ずつ寒い街路から建物の中へ入ってきた。
海峡の向こうでも、ルーアンから得られた経験をもとに、新しい指示書が配られていた。整備員は機体へ手を入れ、搭乗員は次の出撃に備え、合州国軍の報告書には、今回の作戦がもたらした成果が書き加えられていった。
共和国の募集所へ増え続ける志願者の数は、その成果を数える欄には含まれていなかった。
チャーブルとアーサー卿のコンビは使い勝手が良すぎるんじゃ。