淡海乃海 短編集   作:もりのち

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時系列:原作十巻


北条新九郎氏基 1

天正四年(1580年) 九月 近江 北条新九郎氏基(ほうじょうしんくろううじもと)

 

 眠れない。

 夜の闇と静寂の中、もう何度目かも分からない寝返りをうつ。

 今日この日、朽木の城にて自分は元服した。名を安王丸改め、北条新九郎氏基。新たな北条の基となるよう朽木権大納言様……いや、御屋形様に与えられた名だ。

 

 新九郎は北条家の嫡男が代々名乗る通称だった。私は三男、本来なら名乗るはずの無かった名だ。しかし、兄二人は北条家最後の戦で死んだ。徳川に騙され、織田の大軍に成すすべなく踏み潰された。足利義氏(あしかがよしうじ)公も、今川治部大輔(いまがわじぶたいふ)様も、小田原城を守って死んだ。安房守(あわのかみ)幻庵(げんあん)、そして……母上も。

 私も残って戦いたかった。弟は()だ幼い。いざという時は私が母上を守るのだと、そう誓ったはずだったのに……

 

 思い返すと、じわりと涙が滲んでくる。あの時、城へ残る事を主張した私に幻庵は優しく笑いかけた。死んではなりませぬ。あなたは生きて、北条の血を繋ぐのです。そう言って私の頭を撫でた。義氏公、治部大輔様、皆微笑んでいた。どうして皆笑えるのだ。これから死ぬかもしれないのに。たくさん斬られるかもしれないのに。なぜそんな、そんな顔で……

 

 心の定まらぬまま、伯母上方に連れられて城を出た。船に乗り、遠ざかっていく城を見ていると涙がこみ上げてきた。あんなに大きかった小田原城が、私たちの家が、どんどん小さくなっていく。もう二度とここには戻れない。父上、母上、二人の兄たち。みんな、みんな死ぬだろう。私は泣いた。船に乗った皆も泣いていた。

 

 海の上では恐怖との戦いだった。

 織田は後継ぎが決まらず混乱しているとはいえ、軍そのものが無くなった訳ではない。現に織田三介と織田三七郎は四万の兵を率いていたのだ。奴らの水軍に見つかれば、刀を振るう事も出来ず沈められるかもしれない。夜半に出られれば良かったのだが、逼迫(ひっぱく)した状況がそれを許さなかった。ただひたすらに震え、無事に伊勢へ着く事を神仏に祈った。自身がどれほど無力な存在か、あの時ほど思い知らされた事は無い。

 

 何とか伊勢に辿り着くと、元武田家家臣の真田が出迎えてくれた。城に入ってからは武田の松姫様、菊姫様も。いざという時は我々を受け入れてくれるよう、事前に母上から連絡が入っていたのだという。話を聞いた時は涙が止まらなかった。母上は最初から我らを朽木へ送るつもりだったのだ。我らを守るため、そして北条の血を守るために。

 

 数日が経ち、御屋形様から伯母上方へ説明があった。父上も母上も首を晒されたらしい。織田は父上を、徳川は母上を。伯母上方は、私には両親は討ち死にしたとだけ伝えた。しかし朽木家中では誰もが噂をしていた。織田、徳川…許す事は出来ぬ。必ずこの手で仇を取ってみせる。

 

 拳を握る私を伯母上方は(たしな)めた。復讐に捕らわれてはなりませぬ、功を焦って討ち死にしては北条家を(おこ)す事は出来ませぬと。

 頭では理解できる。私が死ねば北条家の皆は拠り所を失うのだ。私は北条家で最も年長の男になってしまった。もはや自分一人の命では無い、感情のままに動く事は出来ぬ。だが、このやり場の無い怒りはどうすれば良い?私は家族の仇を討つ事も出来ないのか。(うつむ)く私を、伯母上方は悲しそうな目で見つめていた。

 

 感情を抑えられず苦しんでいた時、武田の事を思い出した。そういえば、武田の方々はどうしているのだろう。武田家は朽木家を深く恨んでいたと聞く。朽木が上杉に助言をしなければ、川中島の戦いで武田が大敗を喫する事は無かった。

 私にも彼らの気持ちは分かる。あの戦いで上杉の武名は天下に鳴り響き、関東の国人衆たちは雪崩を打って上杉に付いた。関東制覇を掛けて上杉と争っていた北条家は一気に苦境へと立たされた。川中島さえ無ければ、皆がそう言っていたのを何度も聞いた事がある。

 

 武田は朽木を憎んでいた。しかし武田の旧臣たちも、武田の姫様たちも朽木に庇護を願い、朽木で暮らしているのだ。恨んだ相手を頼らねばならない、どれほど屈辱だっただろう。様々な事を我慢し、耐え忍ばれたはずだ。今の私よりもはるかに多くの事を。話を聞いてみたいと思った。

 

 朽木の城には、武田の旧臣たちが多く仕えていた。彼らは色々な話をしてくれた。

 御家の役に立てなかった事。(あるじ)を捨て、恩に背を向け武田を去らなければならなかった無念。憎き敵に仕える苦悩。そして、朽木から受けた予想外の歓迎。

 朽木にとっても武田は憎き敵だった。朽木家は、一向門徒に散々煮え湯を飲まされてきたのだ。そんな一向門徒を動かしていた武田に、家中が恨みを抱かぬはずは無い。

 だが、朽木家で武田の者が差別を受ける事は無かった。何より御屋形様がそれを許さなかった。朽木の為に働くなら過去は問わぬ。御屋形様は、誰よりも率先して武田の者を重用した。

 家臣たちもそれに従った。元々朽木には譜代の家臣が少ない。ほとんどは他国からの流れ者だ。皆様々な過去を持っている、中には朽木に敵対し直接戦った者までいた。だが今は、皆が朽木の家臣として仕えている。

 

 朽木とはそういう家なのだ。敵対した、命を懸けて戦った、そんなものは関係無い。朽木に仕える以上、過去は水に流す。それは朽木に対してだけではない。浅井と六角はかつての主従で激しく戦った仲だった。しかし今、両家の家臣は共に肩を並べて戦っている。恨みが簡単に消えるはずは無い。だがそれで誰かを差別する事は無いし、される事も無い。……私にも、そんな生き方が出来るだろうか。

 

 今はまだ我慢できる。今の所、朽木家中に北条の敵だった人間はいない。だが織田は後継ぎ争いで混乱し、徳川は上杉を敵に回した。武田の事を考えれば、織田・徳川の家臣が朽木へ仕官してくる可能性はある。そうなった時、私は彼らと肩を並べて戦えるだろうか。

 織田は父上たちを殺した。徳川は母上の首を晒した。いざ武器を握った時、私は彼らの背中を刺す誘惑に耐えられるだろうか……

 

 一つ、二つと月が変わっても決心はつかなかった。次第に焦りが大きくなる。こんな事では家を興すなど到底無理だ。しかし状況は私を待ってはくれなかった。

 

 伯母上方と御屋形様が話し合い、私の元服が行われた。拒否など出来ようはずもない。御屋形様から頂いた名は氏基(うじもと)。本来なら(いみな)を頂く場合は基の字が上になるはずだが、御屋形様は北条家はこちらが通例だからと氏基と名を付けて下さった。

 伯母上方は涙を流し、御屋形様へ感謝していた。私は……私は不安で胸がいっぱいだった。これからは私が北条家を背負う事になる。当主としての心構えなど何もしてこなかった。何かを背負う覚悟も無かった。ある日突然、自分より上の男が皆いなくなる等どうして想像できるだろうか?

 

 何とか元服を終え、与えられた屋敷に戻った。皆には北条家当主として励みますと言ったが、誰もが不安そうな表情をしていた。仕方の無い事だと思う。私自身が先の見えない事態に怯えているのだ。皆が心細く思うのは当然だ……

 

 私が北条家を背負う。そんな事が出来るのだろうか。

 いや、出来るかではない。やらねばならぬのだ。

 私の肩には北条一族の命運がかかっている。逃げる事は出来ぬ。

 

 布団の中で拳を握った。手が震えているのが分かる。動悸が早くなる、眠らねばならぬと思っているのに目はどんどん冴えていく。何度も寝返りをうち眠ろうとしたが、睡魔は一向にやってこなかった……

 

 

 

天正四年(1580年) 九月 近江 北条新九郎氏基(ほうじょうしんくろううじもと)

 

 八幡城へ出仕すると、御屋形様の近習を命じられた。

 北条家の当主が近習か。改めて現状を突き付けられたような気がした。

 

 しかし、御屋形様の近くに侍るなど良いのだろうか?私は新参者だ、それに近習としての手習いも受けた事は無い。小田原城では父や兄を助けようと、兵法ばかりを学んでいた。近習とは一体何をすれば……

 

 私の不安を見越したのか、御屋形様が石田佐吉(いしださきち)殿を教育係として付けてくれた。

 生真面目そうな方で、私に一通り教えたかと思うと、自分はさっさと仕事に戻ってしまわれた。

 最初は落ちぶれた北条家に思う所があるのかと思ったが、どうも含む所がある訳では無いらしい。聞けば丁寧に教えてくれるし、間違えても蔑みの視線を送られる事は無い。無視されている訳でもない。職務に忠実なだけで悪いお人ではないようだ。

 

 近習の仕事をこなしながら、少しずつ朽木を学んでいく。人の顔、人の名前、どんな組織があり、どんなお役目があるか。それぞれの土地の特色、様々な産物と商人たち、他国との関係、そして法と税の仕組み。詰め込む事が多すぎて目が回るようだ。

 最初は戦に出られないのを残念に思った。家を興すなら戦で功を立てるのが一番の近道だからだ。しかしよく考えれば、いきなり兵を率いろと言われてもそれはそれで困っただろう。朽木の兵は銭で雇ったものだと聞くが、そんな彼らが自分のような新参の若者の言う事を素直に聞いてくれるはずがない。経験豊富な家臣がいれば彼らに任せる事も出来るが、北条家にはもはや一人の家臣も居ないのだ。

 

 御屋形様は算盤(そろばん)を使えるようにしておけと仰られた。武士なのに算盤?と最初は困惑したが、朽木家中では誰もが算盤を使う。共に仕事をする近習たちはもちろん、御屋形様のご子息まで。驚いた事に朽木の姫様たちですら普通に算盤を使っていた。ここではこれが当たり前なのだ。

 時間が足りない。覚える事、やるべき事が多すぎてあっという間に陽が沈む。お役目を終え、屋敷に戻ってからも書物や算盤と格闘し続けた。気づけばここに来た頃の不安など消し飛んでいた。そんな余裕は無かったという方が正しいかもしれない。いけない、武芸の鍛錬もしなければ。身体が二つ欲しい気分だ……

 

 

 

天正四年(1580年) 十月 近江 風魔出羽守(ふうまでわのかみ)

 

「あの子は大丈夫でしょうか……」

 

 目の前に座る春姫様が不安そうに呟いた。久しぶりにお会いしたが顔色が良くない。飯もあまり喉を通らぬと聞く。痛ましい事だ……

 

「此度の伊勢行きは美濃を攻める弥五郎様への助力が目的で御座います。織田はどう動くか方針が纏まらぬ様子、殿が戦に巻き込まれる事はほぼ無いでしょう」

「だと良いのですが……」

 

 春姫様が〝ほうっ〟とため息をついた。この状況では無理もない……

 

 先日、ついに朽木が美濃へ侵攻した。

 織田三介は織田三七郎を討ち果たしたが、国を纏める事は出来なかったらしい。織田は朽木にとって大事な同盟国だ、どう動くと思っていたがまさか兵を向けるとは……

 

 驚いたのは美濃侵攻の指揮を執っているのが御屋形様の御長男、弥五郎様だった事だ。弥五郎様の歳は殿とさほど変わらぬはず、しかし早くも軍を率いて一国に攻め込んでいる。そして御屋形様は戦へ(おもむ)く息子を尻目に伊勢への湯治に行かれるという。

 

 最初は確執があるのかと思ったが、真の目的は温泉ではなく尾張への牽制らしい。御屋形様が三千の兵を率いて伊勢へ向かう。現地でも国人衆たちを呼び集めるから総兵力は一万を越える。これだけの兵が尾張のすぐ隣に居れば、三介も簡単には美濃へ後詰を出す事は出来ない。表向きは湯治だが、真の目的は美濃を攻める弥五郎様への援軍だったのだ。そして先月元服し、北条家の当主になった新九郎様も御屋形様と共に伊勢へ向かわれた。

 

「今の北条家にはあの子を支えてあげられる家臣がおりませぬ。もし万一の事があれば……」

「伊勢には五郎衛門殿や新次郎殿をはじめ、朽木の重臣方もおられます。戦になっても簡単に負ける事はありますまい」

 

 気休めだ。自分でも分かっている。しかしこう言うしかなかった。北条家に人がいない事はどうしようもない事実なのだから。

 

 先年、北条を攻めるため東海道を東へ進撃した織田に対し北条は伊豆に出兵し迎え撃とうとした。失陥した伊豆を少しでも回復し、その上で織田を食い止めるのが目的だ。北条が織田を食い止め、その隙に徳川が背後を討つ。奴らが来る前に戦果を上げるには残り少ない兵力を集中させる必要があった。小田原城を守る兵も可能な限り削られた。戦力を温存する余裕など無かった。かき集めた兵は約三千、生き残った家臣のほとんどが伊豆へと出兵していった。しかし徳川が裏切り、小田原城は落城した。そして伊豆へ向かった北条家最後の兵力は織田の前に踏み潰された……

 小田原城に残った兵もほとんどが死んだ。最後まで手ごわく戦ったらしい。彼らは北条家の為に死んでくれたのだろう。その想いには感謝しかない。

 しかし、結果的に北条家の家臣たちはほぼ全滅と言って良い状況だ。北条家に身を寄せていた今川家の家臣たちも。現状、殿を助けられる家臣は居ない。一介の忍びに過ぎぬ自分が、春姫様とこうして直接お話している。その事が北条家の置かれた厳しい状況を物語っている。

 

「そなたが生きて帰って来てくれた時は本当に嬉しかった。そなたがあの子を支えてくれれば良かったのですが」

「……今の北条家に対して、某が役に立てることは多くありませぬ。殿の御傍にいるよりも、朽木の為に働く方が結果的に御家の為になりましょう」

 

 現在の北条家には新たに当主となった新九郎氏基様と、その御舎弟である千寿丸(せんじゅまる)様しか男手がいない。後は全て女子供ばかりだ。ぎりぎりの所で滅亡を免れたが、その命運は風前の灯に近い。

 しかし、武田の姫様方の縁で朽木の庇護を受けることが出来た。小田原城に籠り、織田・上杉と戦っていた頃に比べればむしろ北条家を直接脅かす者はいなくなったとも言える。そういう状況で北条家の忍びが役に立てる事はほとんど無い。むしろ朽木の為に働く事で北条家に対し便宜を引き出した方が良いだろう。その事は殿や園姫様にもご了承を頂いている。

 

 とはいえ、殿を支える家臣が居ない事は大きな不安だ。仮に新九郎様が功を立てても、これでは兵を動かす事も、領地を治める事も出来ない。

 春姫様の〝頼みますよ〟というお言葉に頭を下げる。この先、もし自分が褒美を得るようなことがあれば、北条家に家臣を付けてもらえるようにお願いしよう。自分は主家を守れなかった忍びだ。にも拘らずこうして生き恥を晒してしまった。今度こそお役に立たねばならぬ……

 

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