天正四年(1580年) 十月 近江
朽木での生活は驚きの連続だ。
普段、御屋形様は暦の間と呼ばれる場所で執務を取る。ここでは北は奥州から南は薩摩まで、様々な地域の事が話題に上る。
薩摩なんて、小田原城に居た頃は意識した事も無かった。織田や徳川がいつ攻めて来るかと気が気でなかったし、家中でもその辺りの話題がほとんどだったように思う。遠く離れた場所の事など考えている余裕は無かったのだろう。
朽木は朝廷とも密接に結びついているようだ。帝から使者が来た時は本当に驚いた。この国で一番偉い人から直接使者が来るなんて……しかも御屋形様はそれに驚く様子が無い。慣れたような様子で会話を交わしていた。自分なら緊張で固まってしまうだろうな。
領内からは日毎に様々な報告が上がってくる。
御倉方からは銭。公事方からは法や訴訟。農行方からは田畑。殖産方からは産物。軍略方からは戦。この他に、忍びからは他国の情勢について報告がある。伊勢氏からは朝廷の動向についての報告もある。御屋形様はその全てを聞き、判断し、指示を下す。
当主って、こんなにたくさん考えないといけないのか……
御屋形様が執務を取る姿を見ながら呆然としていると、御屋形様から"新九郎、おんせんに行くぞ"と御声を掛けられた。おんせんって……もしかして温泉か?浸かる奴だよな。今まさに朽木家の長男である弥五郎様は美濃攻めを始めようとする所なのだが……思わず近習たちと顔を見合わせる。御屋形様はニヤニヤと笑っておられる。……えっ、本当に行くの?
天正四年(1580年) 十月 伊勢
「はぁ~……」
ちょうど良い湯加減に思わずため息が漏れる。ここ最近は学ぶ事ばかりでずっと頭を働かせていた。こんな風に気が緩むのは随分と久しぶりな気がする。
「良いなぁ~こういうの。近江にも温泉だけは無いからなぁ」
隣で、近習仲間の加藤孫六殿が気持ち良さそうに目を閉じている。
没落した家の当主、それでいて同年代の男など我ながら接し方に困るだろうと思うのだが、孫六殿はそんな自分にも臆せず話しかけてくれる。無礼だとは思わなかった。彼が話しかけてくれなかったら私は近習たちの中で孤立していたかもしれないのだ。彼が気さくに話しかけてくれるおかげで、私は皆に腫れ物扱いされる事無く日々を過ごせている。有難い事だ。
「孫六は慣れてるんじゃないのか?こういう風呂」
「いやあ、やっぱり温泉は開放感が違うよ。それに、涼しい風に当たりながら湯船に浸かるってのはまた格別だな」
風呂と言えば普通は蒸し風呂だが、不思議な事に朽木では湯を張ってそこに浸かるのが一般的らしい。何でも御屋形様がお若い頃に広まり始めたとか。
「お若いっていうか、まだ幼い頃にこういう習慣をお始めになったみたいだけどな」
「そんなに前から?」
「うん。今の朽木じゃ当たり前だけど、当時はやっぱり珍しかったんだってさ。随分強硬に進めてたって新次郎様が言ってたよ」
「確かに気持ち良いけど……いちいち湯を沸かすなんて」
「まあ、御屋形様には昔からそういう所があるらしいな。皆が思いもつかない事を考えるというか……新九郎も見てきただろ?」
「うん」
素直に頷けた。御屋形様はいつも驚くような事をお考えになる。
「すごいよなぁ。俺にはとても考えつかんよ」
孫六が岩に頭を預け、空を見上げている。自分も同じ気持ちだ。御屋形様が何かをするたび、いつも自分に問いかけている。私にも出来るだろうか?北条家を背負う当主として……そして答えはいつも同じだ。とても無理だ……
「私もいつかあんな風に……出来ないといけないのかなぁ」
目指すべき場所の遠さに落ち込んでいると、孫六が苦笑した。
「いやあ、御屋形様は別だと思うぞ」
「別?」
「そう。あの御方は別なんだ。俺は最近そう思うようにしてる」
孫六が笑っている。どこか達観したような笑い方だった。
「朽木には色んな人たちがいる。
確かに、御屋形様がいない朽木というのは想像がつかない。嫡男の弥五郎様は勿論、他の誰が当主になっても御屋形様と同じように朽木を率いる事は出来ないだろう。
「誰も替わりになれないって事は、つまりだ。御屋形様を目指すってのはどだい無理な話なんだな」
「それは……諦めが良すぎるんじゃ」
「勉学や兵法を頑張れば追いつけるって言うんならいくらでもやるさ。でもなぁ……」
孫六が溜息を吐いた。
「澄み酒や石鹸の作り方を考えたり、関を廃して税を安くしたり。そんなの、頑張って思いつくような物じゃないだろう。御屋形様を目指すなら、そういう事も思いつけるようになるって事だ。でもさ、そんなのどうすりゃ良いんだ?」
「……う~ん」
自然と湯船の中で腕を組んだ。
「新しい事を考えるだけじゃ駄目だぞ?それで周りが認める程に成功しなきゃいけない」
「……うう~ん」
誰もが思いつかないようなことを考え、実行し、成功させる。それが出来るようになるには……一体……
「な?鍛錬とかそういう話じゃないんだ。御屋形様は別なんだよ。少なくとも俺は自分が御屋形様のようになれるとは思わない」
「でもさ、税とか特産品の事とかは当主……というより、家を持つことになるなら必要だろう?」
「そうだな。だから将来領地を頂いた時の為に、家を率いるってのがどういう事かを学ぶ。それが俺たちのやるべき事だと思う。自分にとって必要な事を……"御屋形様を目指す"んじゃなくってな」
溜息を吐いた孫六が、ぼうっと空を見上げている。
御屋形様を目指すのではなく、自分にとって必要な事を学ぶ。……そう考えると、少し心が落ち着いたような気がする。私は焦っていたのかもしれないな。目指す場所が遠すぎて途方に暮れていた。自分に出来るのかと不安だった。でも今は……
自分に必要な事、か……
朽木での生活にも慣れてきた頃、御屋形様から呼び出しを受けた。
小姓の一人である自分を直接呼びつけるとは尋常ではない。今の自分は北条家を代表する立場だ、自分に失態があればそれは北条家そのものへの悪評へと繋がってしまう。何か粗相をしてしまったのだろうか?
緊張した面持ちで部屋に向かったが、幸いな事に叱責を受けるのではなかった。御屋形様から直々に、私を兵糧方に任ずるとの御下知を受けた。
礼を言いつつ深々と頭を下げる。兵糧方……確かその名の通り、朽木家の兵糧を管理するお役目だったはずだ。後は街道の整備だったかな。しかしそこへ配するという事は、やはり戦には出られないという事なのか……
ゆっくり顔を上げると、ニヤニヤと笑っている御屋形様の顔が目に入る。何だ?
複雑な心境をよそに別室へ案内されると、
「新九郎殿は兵糧方をどんなお役目だと思われるかな?」
「兵糧を管理したり、街道の整備をしたりすると聞いておりますが……」
右兵衛尉殿が"そうですな"と言って頷いた。
「基本的にはそのようなものです。しかし新九郎殿は兵糧方として実際に働くことになりました。であればもう少し正確にお役目を把握しておく必要があるでしょう」
「はっ」
「兵糧方のお役目は多岐に渡ります。まず兵糧を買う。これには商人との交渉や、各地の米の取れ高の把握が必要になります。次に兵糧を蓄える。毎回近江から運ぶ訳にはいきませんから、戦をする場所ごとに兵糧を保管する場所を整えなければなりません。次に兵糧を運ぶ。街道を把握し、どの道を通るか判断します、実際に荷駄部隊の運用も行います。街道の整備はこれに関係して行うものですな。朽木には水軍もありますから、船の事や港の事、海路の把握も必要です」
……何だか、思ったよりも多いぞ。ぼんやりと想像していた感じでは、兵糧を買って運べばいいと思っていたのだが……
「それから、一口に兵糧と言っても米さえあれば良い訳ではありません。塩や味噌、そして当然ですが飲み水も必要になります。さらに彼らに支給する刀や槍、鎧、鉄砲に大筒、そしてこれらの弾。馬用の飼い葉もありますな。これらは別々の商人から買う必要があります」
塩?味噌?それに刀や鉄砲……兵糧と言うからには米だけを扱うのだと思っていた。しかしこれは……だんだん顔が引きつって来るのが分かる。
「ざっと挙げてみましたが、要するに兵たちが戦う上で必要な物は全て兵糧方が揃える必要があるという事ですな。大変なお役目ですぞ。何しろ我らがしくじれば朽木の兵たちは食うに困るどころか、刀や鉄砲も使えない状態で戦をする事になります。それでは勝利などとてもおぼつきませぬ。つまり……」
右兵衛尉殿がニヤリとしながらこちらを見た。思わず気圧される。
「朽木の兵を生かすも殺すも。我ら兵糧方次第と言う事です」
……ひょっとして、私はとんでもない所に来てしまったのでは。"共に頑張りましょう"
という右兵衛尉殿の言葉を前に、私は言葉も出ず座っている事しか出来なかった……