「新九郎殿。進み具合はどうですかな?」
兵糧方の建物で数字と格闘していると、
「左衛門尉殿。昼過ぎにはお出しできると思います」
「それは重畳です」
左衛門尉殿が満足そうに頷いた。
「ただ、焦って間違えてはなりませんぞ。元は今日中にという話でしたからな。私も明日の朝、内容を見る予定です。それまでは確認などすると良いでしょう」
「はっ。有難うございまする」
にこやかに去っていく左衛門尉殿に頭を下げ、改めて紙の束に向き合った。
兵糧方に任命されてから一月近く経ったが、まだまだお役目には慣れていない。
ぎゅっと目を
目の前には紙と
兵糧方に入ると、まずはこの写本を作る事になる。本の内容を隅々まで知る事が出来るし、何よりこの本はあまり数が無い。写本家に任せる方法もあるが、どうせ一度は目を通す事になるし、実際に書いた方が頭に入る。という事で、新入りの恒例行事になっているようだ。
今はこの書物を元に、兵三千が一月戦う場合の必要な物資を計算している。もちろんこれは仮定の話だ。兵糧方の役目は重要で、いきなり実際の仕事を任せられる事は無い。我々が間違えれば兵が飢える事になるのだから、慣れるまではこうして仮定の計算をして経験を積む。その出来栄えを検査するのが先ほど声を掛けてくれた左衛門尉殿という訳だ。
書物の内容を確かめながら、一つ一つ算盤を弾いていく。
朽木では兵一人に対し、一日当たり何をどれだけ配るのかあらかじめ決められている。では兵が百人いれば百人分の物資を用意すれば良いのかと言うと、事はそう単純ではない。
例えば兵糧の場合、足軽と侍大将では支給する内容が変わってくる。当然だが、
武具については予備も必要になる。長期戦になると槍が折れたり、鉄砲が壊れたりするので、これまでの記録を元に特定の日数ごとに予備を一つずつ計上する。遠征や籠城戦で戦が伸びると一人当たりの必要量が青天井に増えていくので、文字通り頭を抱える事になる。
そして忘れてはならないのは、荷駄部隊と呼ばれる補給物資を運ぶ者たちだ。物資を運ぶには人や馬がいる。当然だが、彼らに食べさせる兵糧の分も計算に入れておく必要がある。
兵が増えると必要な物資が増え、それを運ぶ人や馬が増え、彼らが食べる兵糧も増え、さらにそれを運ぶ人が必要になり、さらにそれらの兵糧が上乗せされて…………まるで無間地獄のようだ。
大殿が兵糧方を作ったのも納得だ。こんな事、何かの片手間に出来るような事じゃない。専属で人を配さなければとてもじゃないがやっていけない。
考える程に大変で、重要なお役目でもあるのだが、困った事に兵糧方は人気が無い。私も初めはそうだったが、戦国の世では戦で功を立てる事が何よりも重要視される。戦で手柄を立てて出世する、というのが分かりやすいというのもあるだろう。それに比べれば兵糧方はどうしても地味というか、裏方の印象が強い。分かりやすい手柄も無いし、実際に命を懸けた兵たちと並べればどうしても下に扱わざるを得ない。
"計算"という専門技能が必要になるのもやっかいだ。一桁や二桁程度ならともかく、万単位の数字を正確に扱える技能は裕福な武士か、商人でもなければまず身に付かない。つまり、最も人の多い農民から兵糧方に入れるような人材はほとんど出てこない。
そして頭の痛い事に、高い計算技術を持った人材は御倉方や農方方も欲しがっている。商家の三男等が来た場合は皆で取り合いになってしまうほどだ。そしてそういう人間は、大抵御倉方が持って行ってしまう。銭を扱うからには仕方がない事ではあるのだが……
私が兵糧方に入りたての頃、先達の方々が妙に嬉しそうにしていたのは、つまりそういう事だったのだろう。武士の子は基本的に小さい頃から算術の手習いを受ける。珍しく即戦力が入ってきてくれたと大喜びだったのだ。おかげで随分と可愛がられた気がする。
「よし」
そうこうしている内に資料は纏まった。今は……ちょうど昼か。左衛門尉殿は明日の朝見る予定と言っていたな。御言葉通り、今日のうちは確認に時を費やそう。ここで間違いがあるようでは信用を得る事は出来ない。仕事も任せてもらえないだろう。北条家の事もあれば失敗は許されぬ。見直しは何度やってもやりすぎるという事は無い……
目の前で、左衛門尉殿が私の作った資料をじっと見つめている。時折、パラリと紙をめくる音が部屋に響く。
緊張のひと時だ。自身の鼓動がやけに耳に響く。間違いはないはずだ。あれから三度も確認した。間違ってはいない。……つもりだが……
左衛門尉殿がこちらを見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。何だ?どっちだ?
「お見事です、新九郎殿。全て合っております」
「……はあ~っ」
思わずため息をついた。左衛門尉殿が声を上げて笑っている。安堵と疲れが一気に押し寄せてきたような気がした。
「初めてでこれだけやれるとは大したものです。普通はどこかに抜けがあったり、数字を間違えたりするものですが」
「有難うございまする」
お世辞かもしれない。しかし、今は無事に終わったという安堵の方が大きかった。
「これならいざ、お役目を任せても大丈夫そうですな」
うっ、そうか。これからは何度もこれをやる事になるのか。随分頭を抱えながら作ったのだが……
何とも言えない顔をしていると、紙束を脇に置いた左衛門尉殿が"新九郎殿"と話しかけてきた。
「必要な兵糧を導き出す。まずはお見事でした。ですが、実際の戦では予想外の事がいくつも起こります。例えば九州で戦が起きるとして……追加の兵糧が必要になった場合、新九郎殿はどこで調達しますかな?」
「九州ですか?」
思わず目を見張った。随分と遠くだ。
……いや、待てよ?つい先日、九州に逃れていた征夷大将軍の足利義昭様が、一向一揆の指導者である顕如に殺害される事件が起きた。顕如もその場で自害したらしい。朽木はその件で島津の関与を疑っていると聞く。……ひょっとして朽木は九州への遠征を考えているのかな?
「九州への遠征となれば、
「ふむ。買える場合はそれで良いでしょう」
左衛門尉殿が頷いた。買える場合は、というと?
「戦が起きそうな場合、周辺の地域では戦に備えて大名たちによる兵糧の買い占めが起こります。実際に戦が始まれば、需要を狙って商人たちも買い込みを強めるでしょう。その場合、我らがいざ兵糧が足りないから買おうと思っても兵糧自体が市場から消えている可能性があります」
「なんと……」
買おうと思っても買えない。そんな事があるのか。銭さえあれば良いという訳では無いのだな……
「この場合、既に蓄えてある兵糧の一部を戦場に近い所へ運んでおくのが有効です。この場合は九州が戦場ですので、例えば安芸に置いておく、といった具合ですな。もし実際に足りなくなればそこから兵たちに兵糧を届け、こちらは別の安い所で兵糧を買う。そして随時、安芸に送り届ける。こうすれば兵糧が不足して慌てる事も、無理に買って高値で掴まされる事もありません」
「なるほど」
足りなくなる事を見越して近くに置いておく、か。これは小さな領地でも応用できるな。私が将来、領地を頂いた時に参考になるかもしれぬ。心に留めておかねば……
「いずれは兵糧をどこに保管するか、どうやって運ぶかも考えて頂く事になります。今のうちに、それらを念頭に置いて考える癖を付けておくと良いでしょう」
「はっ。有難うございまする」
頭を下げると、左衛門尉殿が満足そうに頷いた。兵糧方とは何と大変なお役目なのか。今でも何とかやり切ったという体なのに……しかし泣き言ばかりは言っていられない。いずれやらねばならん事だ。
ひとまずは算盤だな。あれに手こずるようでは兵糧方は務まらない。もっと数字に慣れなければ……刀や槍を振る時間はほとんど無さそうだな……