目の前で、焼き魚がぱちぱちと音を立てている。いかにも旨そうな
皮についた焦げ目、香ばしい油の香り。つい先ほど炭火で焼いたばかりなのだろう。う~む、見ているだけでたまらぬ。
早速行くか?まずは腹の辺りを……いやまて、まずは皮から行こうではないか。身は後でも食える。だがパリパリの皮、これは今しか食べられぬ。時間を置けば置くほど、このパリパリとした感じは失われてしまう。そうと決まれば……
箸をそろりと皮の下へ差し込み、ゆっくりと剥がしていく。焼き方が足りない場合、ここで皮が千切れてしまう。だがしっかりと焼き上げられたこの皮ならば!
慎重に慎重に、焦ってはならぬ。事を急いては、焼き上げた料理人の腕をも無駄にしてしまう。焦るな、あと少し……来たっ!
綺麗に剥ぎ取れた皮を、思わず目の前に掲げた。何とも美しい。この油の照り返しよ!魚を獲る漁師、焼き上げる料理人、そしてこの儂。誰が欠けてもこの作品は生まれなかった。その大事な一翼を私は成し遂げたのだ。
誇らしい気持ちを噛みしめながら、大振りの皮を口に運ぶ。
うまい!自然とうなり声が出た。思わず目が閉じるのが分かる。余計な情報はいらぬという事だ。儂の体も味わい方を心得ておる。実に素晴らしい。
自分の世界に浸っていると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。目の前に座っている
「先生はいつも美味しそうに食べられますね」
「当然だ、これほどの物は中々食べられん。ここの店は当たりだったな!」
焼き加減は勿論だが、これほど脂の乗った秋刀魚はそうそうお目に掛かれない。さすがは
目の前で可笑しそうに笑っている女子は、殖産奉行における私の部下だ。朽木家譜代の小身の家の娘で、新しいものを好む。御倉奉行でそろばんを弾かせるよりは色んな所へ行けるほうが良かろうと、御屋形様直々に殖産奉行へ配された。
「ここは相当に賑わっていますね。敦賀にも引けを取りません」
「うむ。真田殿は副将だったが、領地を纏めるのも上手いらしい。元は信濃の国人衆であられたからな」
ひと月ほど前に、朽木の副将を務めていた
御屋形様はこれまでの忠義に感謝し、真田殿へ領地を与えたのだが、その領地はなんと海沿いの伊勢であった。真田殿の魚好きを覚えていたようだ。何とも心憎い気配りをされる事よ。
領地をもらった真田殿は、傍目からもウキウキした様子で伊勢へ向かわれた。今思い出しても可笑しくなる。見るからに足取りが軽かったな。とても老人には見えなかった。あれならあと十年は副将を務められたのではないか?
「お待ちどうさま!」
思い出に浸っていると、赤々と茹で上げられた大きな海老がどんと机に乗せられた。殻の上半分は外され、中の身が湯気を立てている。何とも凄い迫力だ。
「おお!見事な物だ」
「ありがとうございます」
店員の女性が嬉しそうに礼を言った。実際見事ではある。秋刀魚もそうだったが、ここの海産物は相当に質が高い。特産品を扱う仕事柄、色んな港町を見てきたが、ここは一二を争う。いや、もしかすると一番かもしれぬ。
「いつもこれだけの物を出しているのか?」
「はい。真田の殿様が来てくれますから、皆張り切っちゃって」
「真田の殿様?ここに来るのですか?」
部下が不思議そうな顔をしている。
一国を任された領主がこういう店に来る。領内を見回るというならおかしなことではない。だが店員の口ぶりからすると……
「この辺りじゃ有名ですよ。色んな店で魚や海老、貝なんかを美味しそうに食べてるんです」
「はー。魚や海老を……」
やはりな。真田殿は自らの脚で店と言う店を食べ歩いているらしい。思わず苦笑が出た。
領主ともなれば、野菜や魚といった産物は領民に納めさせるのが普通だ。もしくは買い上げても良い。居城には腕のいい料理人がいるはず、美味い魚を食うならそれで十分。
だが、それでは楽しみが半減するという事なのだろう。自分の脚で歩き、自分の目で見て、自分の選んだ店で食べる。それでこそ食を楽しむというもの。
しかしいかにも武人と言った雰囲気の真田殿が、これほど食にうるさくなろうとはな。何とも愉快な事よ。
「真田様は、こういう所にも自ら足を運ばれるのですね。……よろしいのですか?」
店員が去ってから、部下の女子が小さく眉をひそめて訪ねてくる。何とも愛嬌のある顔だ。男衆からは相当に人気らしい。この表情でこの可愛らしさとなれば、笑顔でも向けられればひとたまりもあるまいな。
「よろしいとは?」
「その、領主様がこういう店でよく食べているというのは」
「ふむ。仕事をしていないという事かな」
「えっと、その……警備の事とか……」
ずばり遊んでいるとは、さすがに言いづらいらしい。後ろめたそうに横目を向けている。
「ふふふ。真田殿か。確かに随分と伊勢の海を満喫しているらしい」
「いえ、私はその」
慌てて両手を振る部下を、まあまあと言って抑える。殖産奉行に入って1年、一生懸命仕事を覚えているようだが、まだこの辺りは難しいだろうな。
「領民の気持ちになって考えてみよ。自分たちの領主が、自分たちの店で美味い美味いと食べてくれる。魚を獲ったり、料理したりする者はどう思うかな?」
「あっ……誇らしい、と思います」
「うむ。領民にとっては、自分たちの働きを領主自らがお褒め頂いたという事になる。日々の仕事もがぜんやる気が変わってくるだろう」
「そういえば、さっきの店員も皆張り切っていると言っていました」
港町なら、荷下ろしをする者たちに活気があるのは当然だ。だがここでは、漁師や店を開いている者たちの活気が凄まじい。食べ歩きと言うと聞こえは悪いが、要は領民たちの仕事を自ら見回り、褒め、励ましているという事になる。領主としては立派な仕事だ。
そのことを言うと、部下が感心した様子で頷いた。
「なるほど、領地を治める一環だったのですね」
「うむ。警備に気を付ける必要はあるだろうがな。つまり朽木家の殖産奉行である我らがこうして現地の料理を食べているのも?」
ニヤリとしながら部下を見る。
「大事なお仕事!」
「そういう事だ。さ、遠慮なく食べると良い」
「はい!」
部下が笑顔で海老に箸を入れ始めた。
……真田殿と我らでは立場が異なる。領民にとって真田殿は自分たちの領主だが、我らは殖産奉行とはいえただの民衆、旅行者程度にしか見えまい。つまり我らが美味しいものを食べても直接領民のためになる訳ではない。
まあ殖産奉行であれば現地にどういうものがあるか調べる必要はあるが、これを仕事と言い切れるかはちょっと怪しかろうな。
ゆくゆくは、こういう話のすり替え程度は見抜けるようになってほしいものだ。