淡海乃海 短編集   作:もりのち

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時系列:原作二巻


中島金衛門 5

永禄4年(1561年) 十月 甲斐(かい) 中島金衛門(なかじまきんえもん)

 

 久方ぶりに訪れた甲斐の国は、暗い雰囲気に包まれていた。

 誰も彼もが下を向き、悲観と不安、そして絶望の表情をしている。村も、町も、まるで活気が無い。……間違いない、これは負け戦の空気だ。

 

 一月ほど前、京の町で米を買い漁っていた儂は、八門の使いから武田と上杉が北信濃で大戦(おおいくさ)をしたとの報告を受けた。

 武田の大敗、四~五千近い兵を失った模様と聞いた時は耳を疑ったが……周囲の様子を見るに、あながち間違いではないらしい。少なくとも、民が悲観に包まれる程度には負けたようだ。言い方を変えれば、誤魔化す事も出来ないくらいには大負けしたという事だ。

 

 どこか張り詰めたような空気を感じながら、甲斐の町を歩く。左右に控える用心棒たちも緊張した様子を隠せない。

 こちらを見る甲斐の民の視線には、明らかな"欲"が浮かんでいる。儂や用心棒の身に着けている物を欲しがっているのだ。儂らが着ている物は身綺麗なだけで、さほど上物という訳ではない。普段であれば気にも留めんだろうに……それほどに切羽詰まり、余裕を無くしているのだろう。

 

 歩きながら考えを巡らせた。

 これほどの負け戦となれば、武田の懐は軍の立て直しや家臣たちへの手当てで精一杯であろう。以前ほどの米の注文は得られぬかもしれん。

 儂はこれまで、ほとんど武田のみを相手に商いをしてきた。ここで彼らからの注文が無くなれば、儂の商いもほとんどが無くなってしまう。どこか別の場所での商いを考えるべきだろうか。

 だが自分のような新参がいきなり他所へ食い込むのは難しい。地元の座に睨まれれば国外退去という事もありうる。何とかして後ろ盾がほしい所だが……

 

 そうこうしているうちに、武田氏が居を構える躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が見えてきた。門番の者たちがこちらを誰何(すいか)する。落ち着いて立ち止まり、用心棒たちと共に頭を下げた。軽く身を改められ、すぐに中へ通される。今回ここへ来たのは、武田の方から至急会いたいとの文を受け取ったからだ。負け戦の後に呼ばれるとはいかなる用向きか。用心棒たちと別れ、奥の間に進む。はてさて……

 

 

 

永禄四年(1561年) 十月 甲斐 馬場美濃守信春(ばばみのうのかみのぶはる)

 

「すまんな。急に呼び立ててしまった」

「いえ。滅相もございませぬ」

 

 目の前で、一人の男が頭を下げた。中島金衛門……もはや、今の武田家に無くてはならない人物だ。

 

「そなたが早馬で届けてくれた薬は大層役に立った。礼を言う。この通りだ」

 

 深く頭を下げると、金衛門が"美濃守様"と慌てた様子で手と首を振った。分かっている。武士が商人に頭を下げるなど。だが……

 ひとつ、ふたつ、みっつ数えてから頭を上げた。

 

「重臣の方のお具合は、よろしいのですか?」

「うむ、何とか落ち着いた。今は熱も下がり、容体も安定しておる。……お主のおかげだ」

 

 先の戦で、御屋形様は右肘から先を斬り飛ばされる大怪我を負った。猛り来る越後勢から何とかその身を守り抜き、甲斐へと撤退する事は出来たが、御屋形様はすぐに高熱を出して伏せられた。血を失いすぎたのが原因だ。

 すぐさま医師に見せたが、この重症から持ち直すには特別な薬が必要だという。だがその薬は珍しく、京でも滅多には手に入らない。慌てて手の者を放ったが、京に伝手(つて)を持たぬ我らではすぐに薬を手に入れる事は出来なかった。

 

 そんな時、家中で名が上がったのが目の前にいる金衛門だ。

 金衛門は甲斐に来る以前は上方で商いをしていたらしい。ここ最近は、挨拶ついでに京で手に入れたという珍しい物を持ってきてくれた事もある。金衛門ならば、あるいは薬を手に入れてくれるやもしれぬ。

 

 大急ぎで金衛門を探した。たまたま京に居てくれた事は誠に幸運であった。すぐに重臣の一人が戦で大怪我を負っている事、怪我を治すのに珍しい薬が必要である事を伝えた。金衛門はすぐに動き出し、八方手を尽くして何とか薬を調達してくれた。さすがに銭はかかったが、それでも手に入れてくれたのだ。儂らだけではどれほど時を掛けた事か……

 

 ただ、さすがに御屋形様が怪我を負ったという事実は伏せた。御屋形様が斬られた所は越後勢も見ている。噂が広がるのは時間の問題だろう。それでも、少しでも体制を整える時間を稼がなければ……

 

「金衛門」

「はっ」

 

 改めてその名を呼ぶと、金衛門が姿勢を正す。

 

「この度、そなたを呼んだのは他でも無い。以前そなたが献上してくれた石鹸という物があったな」

「はっ」

「あれが欲しい。出来る限りの量をだ。金に糸目は付けぬ」

「……石鹸でございますか……」

 

 金衛門が困ったように眉根を寄せた。

 

「あれは上方でも、まだ一部の地域にしか出回っておりませぬ。私が手に入れたのもほとんど偶然でして……」

「難しい事は分かっておる。だがどうしても欲しい。地の毒を防ぐにはあれが必要なのだ」

 

 御屋形様を診た医師は、とにかく体を清潔に保ち、病や地の毒を寄せ付けぬ事が重要であると言った。弱った体では、普段は何でもないような事でも命を脅かしかねぬと。身体を拭くのはもちろんだが、最も身体の汚れを落とせるのは石鹸を使う事だ。御屋形様の命を救うには石鹸が必要だ。

 

 金衛門は難しい顔で腕を組んだ後、顔を上げ、こちらを見て頷いた。

 

「分かりました。他ならぬ美濃守様の頼みです」

「おお、本当か!」

「はっ。微力を尽くさせて頂きまする」

 

 金衛門が頭を下げた。

 

「すまぬ。武田家として……いや、一人の武士としてそなたに感謝する」

「滅相もございません。こちらと致しましても、私のような新参の商人に過分なお計らいを頂いた事、感謝しております。此度の件で少しでも御恩をお返しできればと思います」

 

 ただし代金は頂きますぞ、と言って金衛門が笑った。思わず苦笑が浮かぶ。普通の商人であれば気を悪くしたであろうが……重い雰囲気にしないようあえて言葉に出したか。すぐにそう思える程度には、この男に助けられてきたのだな。

 

「勿論だ。そなたの望む額を用意しよう。……ただし、石鹸を持ってきてくれたらの話だぞ」

「それはもう。今更前金が欲しい等とは言いませぬ」

 

 再び金衛門が笑った。こちらも笑う。沈んでいた部屋の空気がわずかに明るくなった。

 武田は敗れた。だが、まだ滅びたわけではない。まだ運は残っている。ここから巻き返す。必ず、必ずだ。

 

 

 

永禄四年(1561年) 十月 駿府(すんぷ) 中島金衛門(なかじまきんえもん)

 

「というわけで、石鹸をくれ」

 

 八門が隠れ家にしている商家で事のあらましを話すと、目の前に座る男が溜息を吐いた。

 

「そういう事でしたか。……困りましたね」

 

 男は腕を組み、"う~ん"と言いながら何かを考えている。名を柳井五郎正義(やないごろうまさよし)、かつて野介と名乗っていた八門の忍びだ。出会った頃はまだまだ未熟な半人前であったが、朽木と浅井が戦う間、手薄になった駿河方面の監視を任され、その任を過不足無くこなした。今ではその功を認められて名を名乗る事を許されたらしい。

 もう二年以上の付き合いになるが、商人として独り立ちした今でも八門、そして朽木との連絡役として何かと手を貸してもらっている。正直言ってかなり助かる。儂のような木っ端商人が石鹸を入手できるのも、こやつを通して朽木との繋がりがあるからだ。

 

「その大怪我を負ったという重臣ですが。おそらく信玄公でしょう」

「信玄公?武田の当主か!?」

「はい。先の戦で右腕を失ったとの報告がありました」

 

 なんと……武田家の当主が腕を失うとは。それほどの負け戦だったのか。

 呆然としていると、五郎がいつの間にかこめかみを抑えている事に気付いた。

 

「どうかしたのか?」

「……朽木は上杉と親しくしております。今の所は、我らの殿と関東管領殿の個人的な友誼止まりであるようですが……此度の一件、我らは明確に武田を助けてしまいました」

 

 思わず"うっ"と声が出た。

 

「いやしかし、米についても同じではないか?あれも随分武田を助けていたと思うが」

「米の件は上から許可をもらっていましたので。銭を払うなら問題無いと」

 

 そうか。…………困ったなぁ。思わず目を覆ってしまった。

 薬の件では、八門にも随分協力してもらった。京には八門が商いの拠点を置いていたから、彼らの手を借りたのだ。結果的に武田からは随分と銭をもらえたし、八門にも相当な量の分け前を渡せたのだが。

 あの時はとにかく急いでいたからな。武田の重臣が怪我を負ったと言われても、まさかそれが当主の信玄公だとは思わなかった。儂も、八門も、銭の多さに目が(くら)んでいたとしか言いようがない。道理で美濃守殿があれだけ頭を下げていたわけだ……

 

 顔を上げると、五郎も悩んだ様子でこちらを見ている。

 

「やはりまずいかな?」

「どうでしょう。……現時点では、朽木は上杉と明確に義を結んではおりません。殿も積極的に上杉を助けようとしている訳ではないようです。恐らくお咎めは無いのではないかと思いますが……」

 

 互いに微妙な表情で黙り込む。

 

「……いや、悪かった。少し勝手にやりすぎたようだ」

「いえ、確認を怠ったこちらの手落ちでもあります。少なくとも金衛門殿が一方的に問い詰められる事は無いでしょう」

「なら良いのだが……」

 

 溜息を吐いていると、五郎が何やら難しい表情でこちらを見ている事に気付いた。

 

「何だ?」

「いえ、もう一つ重大な事件があったのですが。この件をお伝えするべきかどうか」

「重大な事件?」

 

 五郎が"はい"、と言って頷いた。

 

「儂が知るとまずい事なのか?」

「はい。武田の内情についてですが……金衛門殿はあくまで一介の商人です。なのに武田が隠している事を知っているとなれば、我らとの繋がりを感づかれるかもしれません」

 

 そういう事か。確かに怪しまれるだろうな……

 儂も腕を組む。"う~ん"という唸り声が部屋に重なった。

 

「……出来れば、教えてほしい」

「理由をお聞きしても?」

「武田は此度の戦で大きな痛手を受けた。もしかすると、儂へ払う銭が無くなるかもしれん。そうなると他に商いをする場所を探さねばならん。駿河か、相模(さがみ)か……場合によっては越後か。これからの動きが大きく変わる事になる」

 

 五郎が"ふうむ"と言って顎に手を当てた。

  

「そうですね。信玄公の事は話してしまったし……上杉も確認している。いずれ広がる噂ではありますか」

 

 五郎がこちらを見据える。釣られたように背筋が伸びた。

 

「この一件、信玄公の事と合わせて、越後から流れてきた噂という事でお願いします」

「うむ」

「金衛門殿。武田家は次期当主を失いました」

「次期当主を?……それは」

 

 思わず息を吞む。

 

「はい。信玄公の嫡男である武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)が、先の戦で討ち死にしたようです」

「……馬鹿な」

 

 嫡男が討ち死にしただと。それは……それは、とんでもない大敗だ。信玄公も腕を失っている。先に届けた薬が信玄公に使われたとあれば、容体も相当に悪いのだろう。果たして武田は立ち直れるのか……

 

「金衛門殿。此度の戦の影響で、武田は大きく弱体化しました」

「うむ」

「我らが殿は、武田と今川、そして北条の三国がこれ以降さらに結びつきを強めると見ています」

「武田と北条は対上杉に、今川は織田と離反した松平にという事だな」

 

 五郎が"はい"と言って頷いた。

 

「この辺りの状況は激変するでしょう。武田と上杉、どちらが北信濃を抑えるか。今川は松平を鎮圧出来るのか。そして北条は関東を飲み込めるのか。いずれも目が離せません」

 

 大きく息を吸い、"ほうっ"と息を吐いた。

 

「まさに乱世だな」

「はい。しかし金衛門殿にとっては追い風かもしれませんよ」

「そうだな。戦が起これば、米が売れる」

 

 だが、儂には武田以外にこれといった伝手が無い。あまり派手に米を売れば、現地の座の商人たちから袋叩きにされかねん。是が非でも米を売りたい所だが……

 

 ……あっ、待てよ?

 

 

 

 

 

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