永禄五年(1562年) 二月
「幻庵、入るぞ」
自室で書き物をしていると、後ろにある戸の向こうからくぐもったような声が聞こえてきた。声のした方へ振り向くと、主君である
「妙な男が来たぞ」
殿がにやりと笑いながら、儂の前に腰を下ろす。隣には隠居した殿の父君、
「妙な男、と言いますと?」
「米商人だそうだ。面白い書状を持って来た。……ほれ」
殿が懐から書状を取り出し、儂の方へ差し出した。一礼してそれを受け取り、中を改める。
「中島金衛門……武田の紹介状ですと?」
驚きながら顔を上げると、殿が"もう一つあるぞ"とからかうような表情で書状を手渡して来た。
「今川の紹介状……」
目を丸くしていると、殿がくすくすと笑った。
「そなたのそういう顔は久しぶりに見たな」
「御戯れを……」
溜息を吐いた。しかし、冗談にしては妙な話だ。訝し気に思っていると、御隠居様が眉をひそめながら問いかけてきた。
「この書状、誠だと思うか?」
「……
「分かっておる。だがどうにもな……武田と今川だぞ?どういう顔でこれを送って来たのだ」
御隠居様が"ふん"と鼻を鳴らし、腕を組んだ。確かに、あの二国が仲良く誰かの肩を押すというのは想像しづらい。三国同盟を結ぶ前は犬猿の仲だったというのに……まぁ、ともかく。
「書状については本物でしょう」
「その心は?」
「仮に偽るなら遠国の名を使うはず。武田と今川はどちらも北条にとって隣国。それに、まがりなりにも同盟国で御座います。その気になればいつでも書状について確かめられましょう。……その男は米商人と言いましたな。要件は商いの話で?」
殿が"そうだ"と言って頷いた。
「では、やはり本物でしょうな。短い間だけ騙そうと言うならともかく、商いであれば付き合いはそれなりの長さになるはず。書状を確かめられる事も想定しているでしょう」
二人が顔を見合わせた。
「では、信じて良いのでしょうか?」
「そうだな。念のため確認の使者は送るのが良かろう」
儂が御隠居様に同意すると、殿が頷いた。
「して、この男の要件は?」
「米を売りたいそうだ。北条家に」
「北条家……商人や民草ではなく?」
「そうだ。誰に配るかは我らの自由、だそうだ」
配る、か。なるほど……。
「面白いですな」
「面白い?」
殿が不思議そうにしている。ご隠居様は分かっておられるようだ。この辺りは年季の違いであろうな。
「ここ数年、関東では凶作が続いております。誰もが米を求めている。それは民草だけでなく、国人衆も同じです。そんな中で北条が米を配ると言えば……」
「そうか!彼らを味方につけられる!」
殿が嬉しそうにご隠居様を見た。ご隠居様も頷いている。
「川中島で長尾が大勝して以降、関東では長尾の武勇を称える声が大きくなっておる。このまま手をこまねいていれば、関東の情勢は一気に動きかねん」
「何とかして彼らを北条に引き留める必要があります。米を与えるというのは妙手ではありますな」
これまでは肝心の米が無かった。しかし外部から米を得られるというのであれば、それらを配る事で国人衆たちを北条に引き付ける事が出来るかもしれない。
しかしこの男、どこか引っかかるな。こういった考えは商人というよりむしろ武士、それも国人衆や大名の思考に近い。あるいは武田か今川が知恵を授けたという線もあるが……
その事を言うと、お二人が顔を見合わせた。
「風魔に探らせますか?父上」
「……いや、やめておけ」
御隠居様が息を吐いた。
「風魔は関東と越後を調べている。長尾の影響力が強まる今、みだりに力を分散するべきでは無い」
「ご隠居様に同意します。信用状を授かるという事は、少なくとも武田と今川に対しては誠実な取引をしていたという事でしょう。それに、何かあればこの二国に責を問う事も出来まする。警戒は必要でしょうが、それよりも疑いすぎて米を逃す方を避けるべきでありましょう」
殿が二度、三度と頷いた。
「分かりました。では米の取引についてはひとまず了承するという事でよろしいですか?」
「うむ」
御隠居様が頷いた。話がまとまった所で女中を呼び、茶を持って来させる。三人で茶を飲み、一息付いた。
「長尾が大勝したと聞いた時はどうなるかと思いましたが、まずは一つ方策が見つかりましたな。父上」
「うむ、良き事よ。だが油断はならんぞ」
御隠居様がこちらをみた。儂も頷いて同意する。
「川中島の戦では、武田は相当な損害を受けたようです。立て直しは容易ではありますまい」
「そうだな。今川も武田を支える事を選んだようだ」
殿が今川からの文に目を落とした。文の中には金衛門が武田に米を運んでいた事、そして今川が金衛門に対する税を免除した事が書かれている。間接的にだが、武田を支援するという事であろう。しかしこの状況……
「ふむ。……あまり面白くはありませんな」
「というと?」
殿が不思議そうにこちらを見た。
「この文を見る限り、金衛門は駿河を通って甲斐に米を運んでいるようです。しかし今川が荷止めを行えば、これらはたちまち甲斐には届かなくなります。つまり今川は、武田に首輪を掛けているに等しい。今川だけが武田に首輪を掛けるというのは……」
「そうだな。あまり面白くは無い」
眉をひそめたご隠居様を見て、殿も難しい顔をしている。武田とはこれからも、対長尾で協力していく必要がある。だがそんな武田の手綱を今川だけが握っている。これではいざという時、北条の立場が弱くなりかねぬ。
「我等も何らかの方法で、武田に首輪を掛ける必要がありましょう」
「そうだな。ふむ……」
殿が考え込んでいる。御隠居様は殿を見ながら、あえて口を開かない。殿を育てようというおつもりのようだ。
「武田に塩を送るのはどうか?」
「塩をですか?」
殿が頷いた。御隠居様をちらりと見る。御隠居様が小さく頷いた。
「良き御考えと思います。武田の領地である甲斐は山国、塩はぜひとも欲しい所でありましょう」
「今川が米を融通するなら、我らは塩を融通する。これなら我等も武田に首輪を掛ける事が出来よう。……だが、今川にも海はある。新九郎、今川に文を書け」
「文をですか?」
殿が御隠居様を見た。御隠居様が頷く。
「そうだ。北条が塩で、今川が米で武田を支える事。ただし今川は塩を送らず、北条は米を送らない事。武田から何らかの要請があった場合は北条、今川の両者で協議の上対応する事。これらを約定として取り決めよ」
殿が目をぱちくりさせている。御隠居様が薄く笑った。
「今川に抜け駆けされてはたまらんからな。放っておくといつの間にか武田が今川の忠犬になっている、という事になりかねん。ゆえに取り決めを定める」
「そうですな。どちらが何を扱うか明確に分けておけば、今川に不審な動きがあってもすぐに察知出来ましょう」
今川が米に加えて塩まで送り始めては、武田は今川に尻尾を振るようになってしまう。北条など見向きもしなくなるだろう。それは防がねばならぬ。
それを言うと、殿がなるほど、といった風に頷いた。この辺りはまだ素直にピンと来ぬか。まあこういうのは経験が物を言う。そのための我等、そのための重臣よ。殿はまだ二十四、家督を譲られてから二年と少ししか経っていない。幸い御器量は悪くない。まだまだこれからだ。育てれば立派な当主になって下さるだろう。その時が楽しみよ……
永禄五年(1562年) 三月
八門の拠点に戻り、鼻歌を歌いながら部屋へ入ると、中には二人の男女がいた。片方は
「その様子では、良い商談が出来たようですね」
野介が笑みを浮かべながら問いかけてきた。
「うむ、上々だ。北条と米の取引を結んだ。全部買うから持てるだけ持ってこい、だそうだ。野介、まずは八門で余っている米を回してくれんか」
こちらも笑いながら応える。野介は一人前の忍びになるにあたって名を改めたのだが、一年以上の付き合いという事もあって、儂は相変わらず偽名のまま呼んでいる。本人も忍びとしての任務上、そちらの方が都合が良いらしい。だがもう一人の御仁はそれを知らなかったようだ。
「あら、まだその名前で呼ばせているのですか?」
「ええ、まあ」
野介がどこか照れ臭そうに頭をかく。儂が不思議そうに見ている事に気付いたのだろう、野介が女の方を手で指した。
「こちらの方は、
「主馬で御座います。八門の組頭として、九の組を預かっております」
「ほう!」
女が丁寧に頭を下げた。こちらはどうすべきか?僅かな逡巡の後、頭を下げた。忍びに頭を下げるのは気が引けるが、今の儂はただの商人でしかない。迷ったら頭を下げる。そうすれば滅多に悪いようにはならぬ。商人になってから身に着けた処世術だ。
「金衛門殿の事は良く聞いております。米の売買は順調ですか?」
「うむ、武田は先の戦で銭を使い果たしそうなのでな。新たな取引先を探していた。幸いにも北条が買ってくれるらしい。春先の米はどれほど買えるかな?」
儂の言葉に、二人が顔を見合わせた。
八門は、数年前から竹若丸殿の命で米の売買を行っている。安い所から仕入れ、高い所に売る。その影響で、今では全国規模で米の値や取れ高についての情報網を持っているらしい。
本来なら、情報は集めるだけで銭が掛かる。情報を持った人が移動する際に各国の関を通るからだ。しかし忍びである彼らは関を無視して移動できる。儂はそんな彼らが集めた米の一部を買う事で、他所の商人よりも随分安く米を仕入れている。武田との商いが成り立っている理由の一つだ。
「北条は持てるだけ持ってこいと言っている。実際関東の需要は大きかろう。なるべく多めに欲しいのだが」
「う~ん……」
野介が難しい表情で首を傾げている。何だ?
「……実を言いますと、今年の米は少々難しい状況でして」
「というと?」
「数日前から、旧浅井の領地で澄み酒の製造所が作られ始めたのです」
「澄み酒の製造所?」
「それは、竹若丸殿の命か」
「はい」
当主直々の命、つまり朽木の国策としてやるという事か。澄み酒の需要を考えれば、新たに作られる製造所はかなりの規模だろう。つまり……
「ふむ、そちらに米が引っ張られると?」
「恐らくは。既に
「買い付けと言っても、まだ春にもなっとらんぞ」
「それが、気の早い商人が秋の収穫分を去年の相場で買い取る交渉をしているようでして」
なんとまあ。もうそんな事をしているのか。無事に実るかも分からんだろうに……それだけ朽木の需要が信用されているという事なのか。
「それから、もう一つ」
主馬が静かに言った。儂ら二人も視線を向ける。
「六角に不審な動きがあります。周辺から米を買い付けているようです。どうも美濃を攻めるのではないかと」
「何?」
驚いて問い返すと、主馬がもう一度頷いた。信じられぬ、聞き間違いではないのか。
「なぜ六角が美濃を責める。両者には特に
「殿が新年の挨拶で観音寺城へ赴いた所、六角の重臣達から密かに話を伺ったそうです。家中で美濃攻めの話が出ていると」
事の発端は、先の浅井との戦いで六角が坂田郡を得た事だった。あれによって六角は東山道を使って美濃一色家への侵攻が可能になったが、同時に一色から攻められる危険も発生した。織田と争う一色に、六角と事を構える余裕があるとは思えぬ。だが良い機会でもある。これを機に不破郡を抑え、不和の関を得て国境を安定させるべきだという意見だったようだ。
「……それで美濃を攻めるのか?六角の主敵は三好であろう。下手をすると背後に不要な火種を抱える事になるぞ」
「金衛門殿の言う通りです。実際六角の家中でも反対する者は多いのだとか」
だろうな。儂でも阿呆かと思うわ。
「八門では実際に戦が起こると見ているのか?」
「はい。六角の家中で、美濃との戦を強力に
「それは?」
「……
主馬が静かに言った。思わず盛大な溜息が出た。あの馬鹿息子か。あ奴が余計な口出しをしなければ高島家が朽木家に戦を仕掛ける事は無かった。儂は半ば、あ奴のせいで家を失ったようなものだ。阿呆馬鹿間抜けと散々に罵ったが、相変わらず
「父親の
「それが、どうも止めないようです。理由までは不明ですが……」
主馬が眉をひそめた。野介も困ったような顔をしている。息子と違って、左京大夫様は道理の通る御方だ。何かしらの理由があるのだろうが……
待てよ?そういえば、儂が家を失っていなかったら儂もその戦に巻き込まれる所だったのか。この場合運が良い……と言えば良いのだろうか?何とも微妙な所だ。しかし、阿呆な戦に巻き込まれる国人衆達には同情するな。
「六角と美濃一色の戦か。そして朽木では澄み酒の製造所。近江で米を得るのは難しそうだな」
儂の言葉に二人が頷いた。これまでは京の周辺で米を買っていたが、こうなると仕入れ先を増やすべきか。しかし儂は近江以外はとんと知らぬ。北陸で米の栽培が盛んだとは聞いた事があるが、実際に行った事は無い。知らない土地は危険が大きい。ゆえにこれまでは足を延ばさなかったが、どうやらそうも言っていられないようだ。八門に改めて話を聞こう。米が採れる場所、米が安い場所を探さねばならぬ。