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永禄五年(1562年) 六月
ひとまず手持ちの米を北条に売りつけ、ほくほく顔で駿河に戻ってくると、なぜか武田の使者が待ち構えていた。驚く間もなく馬に乗せられ、あっという間に甲斐へと連れ去られる。なんだ?何事だ?
武田の本拠である
「美濃守様!」
「すまんな、金衛門殿。急に呼びつけてしまった」
呼びつけたと言うか連行されたのだが、まぁそれは言うまい。美濃守様が座るのを待ち、向かい合うように儂も座った。
「火急の御用件とお見受けしますが」
「うむ、米だ。米をくれ」
思わず"えっ"と言う所だった。米をくれと言われても、今動かせる米は北条へ売ってしまったばかりだ。何という間の悪さよ……
「米でございますか」
「うむ」
「……御存じかと思いますが、今の米は高いですぞ。どこの家も冬ごもりと田植え明けで、手持ちの食料を使い果たしておりますからな」
加えて、田植えが終わった今の時期は一部の大名たちが戦を始める時期でもある。彼らが兵糧を確保するために米を買い込むのでさらに値が上がるのだ。あまり米を買うのに適した時期とは言えない。
「それを御承知の上で買うのですな?」
「……やむを得ぬ。今は何よりも速さだ。
「一月!」
思わず目を見張った。ほとんど時間が無いではないか!近江から持ってきてぎりぎりという所だ。
顎に手を当てて考え込む。遠方から買っている暇は無さそうだな。こうなれば近場の商人を銭で叩くしかない。だがこの時期に横やりを入れて買おうとすれば相当に足元を見られるはずだ。のんびり交渉している時間も無い、ほとんど言い値で買わざるを得んだろう。時間さえあれば、八門に安い所を探してもらうという手もあるのだが……
「今少し、猶予を伸ばす事は出来ませぬか。急いで買おうとすればその分だけ銭が掛かりますぞ」
「……駄目だ、一月だ。それ以上は伸ばせぬ」
やはりか。使者の急ぎ具合で予想はしていたが……よほどの事情があるようだな。
「……承知致しました。一月で、可能な限りの米をお持ちしましょう」
「すまんな。頼む」
美濃守様が溜息を吐いた。だいぶ追い込まれておるな。
「美濃守様。戦の予定があるのですな?」
儂が確認すると、美濃守様が困ったような表情をした。本来ならば戦の情報を話したりはすまい。だが、これほど急いで米を買うとなれば理由は戦以外には無い。美濃守様も誤魔化せないと分かったのだろう、大きく溜息を吐いた。
「……そうだ」
「戦場は信濃でございますか」
「なぜだ?」
美濃守様が眉をひそめた。
「実を言いますと、今年は上方の米が全体的に不足しております。新たな仕入れ先として越前や加賀、つまり北陸一帯を考えていたのですが、あそこから南回りに行こうとするとかなり遠回りになるのです。飛騨を抜けて信濃、甲斐へと運べるのであれば幾分ましになると思うのですが」
北陸から東へ進むこの進路では、いくつもの山を越える事になる。山賊に襲われる危険も大きいし、量を運ぶのも難しい。速さ自体も海を使える南回りと比べて、どちらが上かは微妙な所だ。しかし時が無いのであれば、なるべく多くの手段を確保しなければならぬ。
ただし、大きな問題が一つある。現在の信濃が、武田と上杉がぶつかり合う
「信濃で戦をするのであれば、この道は使えませぬ。申し訳ありませんが、私も商人ですからな。戦場を突っ切って米を運ぶ事は出来ませぬ。御答え
美濃守様が厳しい目つきで腕を組んでいる。儂もじっと美濃守様を見た。三度、四度と呼吸をした頃に、美濃守様が目を閉じ、息を吐いた。
「そうだ。戦場は北信濃だ。越後勢と戦う手はずを進めておる」
「やはり、そうで御座いますか」
美濃守様が頷いた。
「先の敗戦以来、北信濃の国人衆たちに動揺が広がっている。長尾も調略を強めているようだ。あの者たちが寝返る前に越後勢を打ち破る。……そのためにな、兵糧を集めねばならぬ」
美濃守様が再度溜息を吐いた。北信濃か……やはり、北陸は諦めた方が良さそうだな。当初の予定通り、近場の商人を当たるしかあるまい。八門にも協力してもらおう。分け前を増やせば嫌とは言わないはずだ。
しかし、川中島の敗戦から一年も経たぬうちに出兵か。御家の内情は相当に苦しかろう。仮に負けるような事があれば、武田は二度と立ち直れぬかもしれん。いよいよ今川と北条の重要性が増して来たな。商売先を広げておいて良かった……
永禄五年(1562年) 八月
八門と共に米を求めて駆けずり回った儂は、武田へ米を売りつけた後、駿河へ帰ってくるなり疲労困憊で倒れ込んだ。三日三晩、食っては寝ての生活を繰り返してようやく動けるだけの気力を取り戻すと、北条に米の取引を止めてしまった事の説明と詫びを済ませ、ようやく人心地付く事が出来た。
今回の商いは随分な銭になった。北条に売った分もそうだが、武田がかなりの銭を払ってくれた。無理難題を聞いたかいがあったというものだ。
正直に言えば、武田が銭を払えるかは半信半疑であった。川中島の敗戦で多くを失い、実際にあの後、米の依頼は長きに渡り止まっていた。北条に米を運ぶ際も念のため半分程は残しておいたのだが、武田に使者を送ったところ余裕が無さそうだったので、残りも北条に売り払ったのだ。まさかその直後に米を欲しがるとは……あの時は驚いたわ。恐らくだが、なけなしの銭をはたいたのではないだろうか。
おかげでかなりの高値で米を売る事が出来た。不当な値付けだったとは思わぬ。実際、本当に大変だったのだ。
各地の商人を片っ端から当たり、渋る彼らから米を買い、駿河に集め、甲斐へと運ぶ。休む間も無く働いた。人夫や用心棒たちにも無理をさせた分、かなりの銭を支払った。用心棒たちは何があっても十日は依頼を受けんぞと言い張り、銭袋を握りしめて城下町へと消えて行った。まあそのうち帰ってくるだろう。うちの払いの良さは知っているはずだからな。
武田からは、駿河に居る儂の元へ礼を示す文が届いた。十分な米を運べたとは思えんが、文には本当に感謝している、これからも取引を続けていきたいと書いてあった。これを見るに、儂が特別高く売ったという事は無いらしい。他の商人も儂と同じか、それ以上の値を付けたのだろう。あるいはそもそも米を調達出来なかったか。
何にせよ、ひとまずは落ち着いたな。銭はある。手の届く距離にある米はほとんど買い尽くしたから、米の収穫までは商いは出来ぬ。しばらくゆっくりしても良かろう。用心棒たちも居ない事だし、たまには自分に褒美でも取らせるか。
市場で酒のツマミを買いこみ、いそいそと八門の拠点へ戻る。台所にいた女に銭を握らせ、買ってきた魚を焼いてくれるよう頼んだ。酒を抱えてのしのし歩く儂を八門の者たちが呆れたように見ているが、知った事か。儂は頑張ったのだ。それに、今回の件では八門にもかなりの分け前を渡した。相当な稼ぎになったはずだ。文句は言わせぬ。足音を響かせて廊下を歩き、居室にしている部屋へ入りこんだ。
焼き魚が来たのを皮切りに、一人ばかりの酒宴を始めた。目を細めながら酒を飲み、"ほうっ"と息を吐く。ああ、酒がうまい。
見よ、この透き通るようなイカの切り身を。塩をチョンとつけ、口へと運ぶ。何とも言えないこりこりとした食感が広がった。うむ、こういうのは中々無いな。豆腐とも違う、こんにゃくとも違う。不思議な食感だ。以前食べた時は生臭くて食えたもんじゃないと思ったが、新鮮なヤツは一味違うという魚屋の言葉を信じて良かった。
自分への褒美として買った澄み酒を、
悪くない。以前は高い物を買うと、家臣たちが分けろ分けろと
ふわふわとした心持ちで目を閉じていると、戸の向こうから儂を呼ぶ声がした。何じゃ、無粋な。せっかくの酒盛りだというのに。無粋め、無粋じゃ。無粋……
ぶつぶつ言いながら半眼になって戸を睨んでいると、戸がするりと開いて野介が入って来た。何じゃ、こやつか。野介が盆を挟んで儂の前に座る。苦笑する野介を見て溜息を吐いた。
「酔っておられますね」
「見ての通りだ。酒盛り中だぞ」
こやつもそれなりに忙しい身だ。要件も無しにここへ来ることはあるまい。盃を持ち上げながら"何が起きた"と問うと、野介が静かに口を開いた。
「武田が敗れました」
盃を持つ手が止まった。揺れる澄み酒をじっと見つめる。酔いが静かに覚めていく気がした。
「……そうか。武田は敗れたか」
「はい。終始上杉に押されたようです。信濃は諏訪を含めたごく一部を残し、大部分が上杉に下りました」
大敗だな。厳しい戦になるであろうとは思っていたが……やはり、上杉を押し返す事は出来なかったか。そっと目を閉じ、溜息を吐く。盃を静かに置いた。
「……今川と北条から援軍は出なかったのか」
「今川は家中が落ち着きませぬ。北条は米不足が深刻です。どちらも援軍を出す事は出来なかったようです」
そうか。どちらかでも助力を得られれば違ったであろうに……ますます武田は追い込まれたな。
「関東にも影響が出ています。国人衆たちは上杉の武威を受け、北条を見限る動きが強くなっているようです。現当主の
野介の言葉に眉をひそめた。武田だけではない、北条も追い込まれている。状況はかなり悪いようだ。
……ここで商いを続けて大丈夫か?少し不安になって来たな。とはいえ拠点を移す訳にもいかぬ。儂は一応八門の保護下にある。あまり勝手な真似は出来ぬ……となれば今ある商いを広げるしかない。
「武田へ挨拶に行く。少しは内情も探れよう」
「お願いできますか」
「うむ。土産がいるな。石鹸を……」
くれ、と言いかけて思い留まった。野介が不思議そうな顔をしている。
「いや、何でもない。土産はこちらで見繕おう」
「そうですか?」
首を傾げる野介に頷いた。武田は敗戦で気が立っていよう。石鹸を見ると朽木を連想して気分を害するかもしれん。此度は別の物を持っていこう。
石鹸か……あれは朽木の匂いが強すぎるのが難点だ。出来れば儂も澄み酒と合わせて商いに使いたいが、武田の恨みようは朽木を呪い殺さんばかりと聞く。となればこれらを商いにするのは難しいだろう。
今川、も駄目だろうな。今川は織田と争っている。織田は朽木と仲が良いからな……北条ならばとも思ったが、儂が澄み酒や石鹸を扱っているのを武田や今川が知れば、やはり良い顔はしないだろう。つまりこの辺りで朽木の産物を商品にするのは難しいという事だ。
やはり米だな。米は良い。どこでも採れるしどこでも売れる。嫌な顔をされる事も無い。とはいえ、時期にやや左右され過ぎるきらいはある。余裕が出来たらもう一つ、商いを考えてみるのも良いかもしれんな……
思いがけず来週分を吐ききってしまったので、来週の月曜日は投稿はありません。
ゴメンネ