永禄二年(1559年) 三月 駿府
閉め切られた部屋の中で、表通りの喧噪が静かに聞こえてくる。あちらはまるで別世界だな。
六畳一間の小さな部屋に、机と筆、
微かな喧騒を聞き流しつつ、ゆっくりと筆を動かしていく。ここへ来てから数日後、さすがに暇を持て余すという事で紙と筆を所望した。この手で墨を擦るなどいつぶりの事か。当初は随分苦戦したが、今ではそこらの近習より上手くやれると思う。
書いているのはつい最近の出来事だ。高島と
手慰みに始めた事だったが、こうしていると不思議と心が落ち着いてくる。当時の事を遠くから、真っすぐ見られるようになったのだろう。
田中たちと共に朽木へ攻め寄せる数年前。高島七頭を構成するうちの一つ、朽木家が急速に発展し始めた。
様々な産物を生み出し、銭で兵を雇い、高価な鉄砲を揃える。驚く事に、その財力は朝廷をも動かすほどだったという。
それだけなら、まだ大きな問題ではなかった。問題が起こったのは朽木が関を廃し、税を大幅に安くした事だった。
まず敏感に反応したのは商人たちだ。関を排した事で、物を動かしやすい朽木へ商人が集まり、その分周辺からは商人が消えた。売る者がいなくなった事で領内の物が不足し、あらゆる物の値がじわじわと上がり始めた。
次に影響を受けたのは領民たちだ。物の値が上がり、暮らしが厳しくなってきた所で朽木の噂を耳にした。税は安く、物価も安く、ひとりひとりが豊かになりつつある。気づいた時には、彼らの不満は徒党を組みかねぬ所まで高まっていた。
急遽翌年分の税を減らしたが、それで不満が完全に収まったわけではない。そして税が少なくなれば、当然だがお家の事情は厳しくなる。このままでは徐々に徐々に、高島は朽木に押される事になる。
攻めるしかないと思った。銭で勝てぬ以上、兵を使って勝つしかない。幸い前回の戦では、朽木の前当主を討ち取るほどの勝利を挙げている。後を継いだ竹若丸は未だ幼い。勝機は十分にある。そう思った。
だが……肝心の戦をする前に、朽木はさらなる手を打ってきた。御大葬・御大典による朝廷への奉仕。そして当時争っていた、三好家と将軍家の和睦。第十三代将軍、足利義輝様からは朽木を攻めぬようにと直々に触れが出された。朽木は近江のいち国人領主、それを思えばまさに破格の事であった。朽木は朝廷、そして幕府を味方につけた。我らは戦を封じられた。
水軍を取り纏めていた
気持ちは分かる。だがあの状況で水軍に銭を使う事は出来なかった。すぐ隣には、目を見張る速度で発展していく朽木がいた。高島家にとって最大の敵は陸伝いにあったのだ。とてもではないが、水軍にまで手を回す事は出来ぬ。
八方塞がりとなった所へ、主家である六角家から使者が来た。観音寺城へ赴くと、朽木家に圧力を掛けよという。
すぐに彼らの思惑を察した。六角は朽木を欲しがっている。その手段として我らを使うつもりだ。
こちらとしても都合が良い。六角の後ろ立てがあれば、戦をせずに朽木に要求を呑ませる事が出来るかもしれぬ。じわじわと立ち行かなくなっていくこの状況を打破できれば、そう思ったのだが……
結果的に戦は起きた。それも最悪の結末だった。
高島六頭は敗れ去り、六角は我らを守る事なく自身の潔白を優先した。全ての責は儂にある、高島越中こそが強欲に駆られ、田中たちを
溜息を吐いた。朽木へ攻め込んだ二度目の戦。あの時、本当は兵を使うつもりなど無かった。だからこそ最初に
六角家から朽木家へ圧力をかけるよう要請された時、儂は何度も兵を用いぬ事を念押しした。
当時、将軍である義輝様からは朽木を攻めぬようにと触れが出ていたのだ。三好ほどの大家ならともかく、儂のようないち国人領主が幕府の、将軍様の命を破る事など出来ぬ。六角とて、それが出来ぬからわざわざ高島に話を持ってきたのだろう。
文を送り、反応を見る。兵はあくまで集めるだけ、絶対に戦は起こさない。それが依頼を受ける条件だった。
だが、土壇場で方針が変わった。六角家の次期当主である
冗談ではなかった。兵を起こせば、例え勝ったとしても高島家は幕府を、将軍家を完全に敵に回す事になる。六角も取りなしなどするはずがない。高島を庇う理由が無い。幕府の印象を悪化させてまで高島を守る?ありえぬ事だ。
何とかして当初の条件を守らせようとしたが、重臣たちの反応は鈍かった。御屋形様の反応もだ。
おそらく、次期当主である右衛門督の意見を無下にしすぎるのはまずいと思ったのだろう。しかしこちらにとっては文字通り死活問題だ。だが味方がいない以上、あまり厳しく反論も出来ぬ。結局最後は押し切られた。
事ここに至ってはやむをえぬ。とっさに田中・永田・平井・横山・山崎を巻き込んだ。六角家としても、高島六頭全てを切り捨てる事は出来ぬはず。事が大きくなれば監督不行き届きとして責任問題にもなる。
高島だけならともかく、六家全ての手綱を握れなかったとなれば他家からも侮りを受けるだろう。国人領主の統制が取れぬ、内が纏まっておらぬと自ら宣言するようなものだ。さすがにそれは六角とて望むまい。
……そう思っていたのだがな。最終的に六角は我らを見放した。いや、正確には「儂を」か。
あの戦いで、儂は表向き討ち取られた。実際には落馬しただけで命を落としたわけではない。その後は朽木の捕虜になっていたのだが、表向きの首謀者であった人物が居なくなった事で、六角と田中たちの口裏合わせが可能になった。
死人に罪を押し付ける事で田中たちを庇い、かつ首謀者は死んだとして責任を免れる。朽木を攻めたのはあくまで高島、六角は直接の仕掛け人ではない。六角は笑っておったろうな。あのままいけば、追及はなあなあで終わったかもしれぬ。
しかし、竹若丸がそれを許さなかった。ここぞという時の為に儂を温存し、六角への恫喝とした。今考えると、六角の差し金である事も最初から分かっていたのだろう。でなければ儂を殺して終わりだったはずだ。此度の経緯は全て知っている、いざとなれば六角家の行いを天下に示す。朽木を舐めるな、手出しは許さぬ!
戦後交渉に来ていた蒲生下野守殿は冷や汗をかいただろうな。あの場には幕府からの使者も来ていた。最悪の場合、六角家は将軍の命に背いたとして三好家と同じ敵対勢力扱いになりかねなかったのだ。六角家は口を閉じるしかなくなった。
見事な物よ。内政だけではない、戦も交渉も儂は遠く及ばぬ。未だ十歳前後の童である事を考えればまさに異様、恐るべきと言えるが……
だが、儂は竹若丸の才をこの目で見た。戦になるまでは、よほどに優れた家臣が登用されたのかと思った。だが、あの交渉の場で直接見た今なら分かる。鋭い眼光、有無を言わせぬ弁舌、そして他を圧する覇気。竹若丸は、朽木の当主としてあの場に君臨していた。朽木を発展させたのも、あの戦いで勝利をもたらしたのも、六角の目論見を見破ったのも、全ては竹若丸だ。儂は竹若丸に負けたのだ。そして全てを失った……
溜息を吐いた。仰向けに転がり、天井をぼんやりと見つめる。
儂は間違ったのだろうか。仮に船を揃え、交易をしていればいずれは朽木を越える事が出来ただろうか?
……いや、まず無理だったろう。朽木には産物がある。澄み酒、椎茸、石鹸、鉄砲鍛冶に刀鍛冶。遠方からも様々な商人が、朽木の産物を求めて集まっていたと聞く。だが高島にそれは無い。
関を排しても同じだ。高島には売れるものが無い。産物が無い所には商人も集まらぬ。ただいたずらに税収を減らし、家が瘦せ細るのを早めただけだろう。
何か一つでもいい。朽木の産物が高島にもあればのう。澄み酒、椎茸、石鹸……
澄み酒か……儂も一度飲んだが、思わず目を見張った。濁り酒と比べて雑味の無い、すっきりとした米の味わい。そして何より、透き通るような美しい見た目。高値で売れるのも道理だと思った。味が良い、見た目も良いとなれば売れない訳が無い。
惜しかったな。あれ以来澄み酒を飲む機会は無かった。需要が高まると共に澄み酒の値は上がり続け、とても我らに手を出せる品ではなくなっていった。大名でさえ容易には買えなかったはずだ。まして余裕が無かったあの頃の儂には……
畳に背を預け、両腕を広げて静かに目を閉じる。ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
全ては過ぎた事だ。今の儂は、もはや国人領主ではない。守るべき家も、背負うべき民もいない。ただ一人の、高島越中という人間だ。
心は不思議と穏やかだった。部屋から出られぬのは窮屈だが、以前のように領地をどう治めるかと思い悩む必要は無い。高島家の当主であった頃、胸の一部にはいつも張り詰めた感覚があった。当主とは決断を下す人間だ。最後の最後、最も重要な場面で誰も頼る事は出来ぬ。そして逃げる事も……あれは苦しかったな。
だが、今はそういう感覚が無い。儂の命は朽木に握られている。自分から何かを決断する事は出来ぬ。流れに身を任せるしかないのだ。時が経ち、状況を受け入れてしまえば多少は気が楽になった。……とはいえ、有り余るこの時間をどうしたものか……
小さく聞こえてくる喧噪に耳を澄ませていると、すっと
この男は儂の監視役だ。八門とかいう、朽木が雇った忍びの一員らしい。
儂がいる建物は、八門によって固められている。どうやら駿府における八門の活動拠点になっているようだ。他の建物では目が届かぬ、ここならついでに監視も出来る。ひとまずここに放り込んでおこう、そんな所か。
首を傾け、几帳面に座る監視役へ目を向ける。
……しかし、この若者は大丈夫かな?いかにも見張っていますと言わんばかりの視線でこちらを見つめてくる。その様子は真剣さよりもむしろ、余裕の無さを感じさせる。
当初はもう少し年かさの、一目で出来ると分かる男が監視に付いていた。だがしばらくすると、この男が付くようになった。どうやら役目を交代したらしい。
見るからに慣れてなさそうだが……もしかしたら修行を兼ねているのかもしれぬ。という事は、儂の危険度は低いと判断された。ここ数日の殊勝な態度も少しは認められたというわけか。
ふいに笑いが込み上げてきた。
朽木に敗れ、竹若丸に命を拾われ、六角の陰謀に対する生き証人として恥を晒している。そんな儂が妙な考えをするものよ。他人の心配をする身分ではあるまいに。
ここに来ておよそ半月、少しは気持ちの整理が付いたという事か。
……そうだな。ひとつ頼んでみるか。
「少し良いかな?」
「……なんでしょう」
身を起こした儂に、若者が眉を寄せて返答してくる。顔中に警戒と書いてあるようだ。思わず苦笑しそうになるのを堪える。いかんいかん、あまり笑いすぎては話を聞いてもらえぬかもしれん。
「酒を貰えぬかな。小さな器に一杯、それくらいで良い。どうじゃ」
「……お酒ですか」
若者の反応は厳しそうだ。捕虜に酒など、そう思っているのかもしれぬ。だがこちらとしても、長い監禁生活で酒も無しというのはちと寂しい。ふっ、と笑って言葉を続けた。
「酒の一杯程度では何も出来ぬ。おぬしに飲ませる訳ではないのだ。ここに来てから随分経つ、少々口が寂しくなってな。これまでの態度に免じて、どうか一杯だけ。この通りだ」
膝の横に拳を突き、頭を下げた。
酒一杯に頭を下げる。それが今の儂の身分だ。もはや国人領主ではない。失うものなど、何もない。
「……しばしお待ちを」
若者は迷った末に立ち上がり、部屋を出ていった。おや?きっぱり拒否されると思ったが。これはひょっとすると……?
いやいや、期待するのは早い。儂は朽木にとって敵だったのだ。だが重要な証人でもある。はてさて、どちらに重きを置いてくれるか。
急ぐ事は無い。どうせここからは出られぬのだ。答えが来るまで、ゆっくり待つとしよう……