春風が微笑む、その場所で 作:一介のエンジニア
私立
教室の入口に立つと、そこにはすでに
「千夏、こっちこっち! 今日から同じクラスだよ、最高じゃない?」
そう言って、ほのかは勢いよく千夏の手を引く。ほのかとは中学の頃からの親友で、その無邪気な明るさにいつも助けられてきた。
「ほんとにね。2年生のクラス替え、一緒になるって信じてたけど……よかった」
「だよね! 早速、席どこにしようか――」
と、ほのかが声を弾ませた瞬間、教室の空気がふっと変わった。
まるで皆が何か珍しいものを見つけたかのように、ざわめきとともに視線が一点に集まる。
窓際の席に座る、生徒の姿。銀糸のような髪が春の日差しをはらみ、静かに輝いていた。肌は透き通るほど白く、細身で儚げな空気をまとうその姿は少年とも少女ともつかない。長い睫毛の奥の瞳は、淡い藤色を帯びているように見える。
(この人、誰……?)
千夏は思わず足を止めた。ほのかもまた、興味深げに視線を向けている。教室全体が、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれた。
「皆さん、おはようございます」
担任の
「今日から2年C組を担任します空です。新学期、皆で協力して有意義な一年にしましょう。さて、皆さんに紹介する転校生がいます。
先生がそう言うと、銀髪の少年――雪宮透は立ち上がり、軽く頭を下げた。教室の空気が再びざわつく。淡い光が揺れるように、彼の銀色の髪がさらりと揺れる。
「……雪宮透です。よろしくお願いします」
静かで通る声だった。だが、その挨拶の言葉以上に、周囲が息をのんだのは彼の微笑みだった。自然体のようでいて、どこか影を帯びた笑顔。その奥に隠されているものを感じたのは、千夏だけではなかったはずだ。
ホームルームが終わり、休み時間になると、クラスメイトたちは好奇心から透を取り囲もうとした。だが彼は、どこか距離を置くようにふらりと立ち上がり、静かに教室を出て行ってしまう。
「なんだか……近寄りがたい雰囲気だね」
ほのかが少し困惑したように呟く。
「でも綺麗だったね。男か女か分からないくらい……」
「うん。……すごく、不思議な感じがする」
千夏は、胸の奥にぽつりと小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。どこかで見たことがあるような、けれど決して知っているはずのない存在。ほんの一瞬、まるで物語の中の人物を目の当たりにしたような錯覚に陥る。
昼休みになり、千夏はほのかと一緒に食堂へ向かった。ほのかはカルボナーラ風のパンと野菜ジュースを手にし、興奮気味に話し続ける。
「ねえ、せっかくだし雪宮くんと仲良くなりたいと思わない? なんか、皆ちょっと怖がってるっぽいし」
「うん……私も、もう少しお話ししてみたい」
「じゃあ、探してみようよ!」
好奇心旺盛なほのかに引っ張られるように、千夏は手早く食事を済ませる。だが結局、透の姿を校内で見つけることはできなかった。
午後の授業が始まり、ようやく教室へ戻ってきた透に声をかけるタイミングを千夏は探るものの、周囲にはあれこれと彼に話しかけようとする生徒がちらほらいる。好奇の目は多いものの、どこか遠巻きで、直接言葉を交わそうとする者は意外にも少なかった。
(……どうしてこんなに話しかけづらいんだろう?)
千夏は自分でも理由がわからないまま、ほんの少しだけ胸の奥がうずくような感覚を覚えた。
「放課後にでも、思い切って声をかけてみよう」
そう心に決める。
放課後。チャイムが鳴り響き、生徒たちが各々部活動へ、あるいは友人同士で遊びに出かけるために教室を飛び出す。千夏は慌ただしい空気の中、何とかほのかと一緒に透の姿を探し当てた。
「雪宮くん! あの、私たち……」
ほのかが声をかけると、透は少し驚いた様子を見せてから、静かに振り返る。
「あ……朝比奈さんと、堀川さん……だよね?」
「そうそう、よく覚えてたね。あの、今からちょっと……ううん、よかったら一緒に帰らない?」
千夏もかすかに緊張しつつ、微笑みを添える。だが、透はほんの一瞬、ためらったように視線をそらした。
「……ごめん、今日は用事があるんだ」
それだけ言うと、申し訳なさそうに頭を下げて、教室を出て行ってしまう。肩透かしを食らった形になった千夏とほのかは、思わず顔を見合わせるしかなかった。
「なんだか逃げられちゃった感じだね」
ほのかは苦笑いを浮かべるが、千夏はなぜだか、心の奥底にぽつんと小さな棘が刺さったような寂しさを感じた。出会って間もない相手に、どうしてこんな気持ちが湧くのか自分でも不思議だった。
その日の帰り道。
千夏は校門の外へ続く空を見上げた。
春の風がそっと吹き抜ける。
(あの微笑みの奥にあるものを、私は知りたい)
翌日、気を取り直して迎えた朝。千夏がホームルーム前に教室に入ると、透が窓際の席で外を眺めていた。朝日を受けて淡く光る髪が一層際立ち、まるで絵の中から抜け出してきたような美しさを放っている。何か声をかけようか迷っていると、空先生が姿を見せた。
「雪宮くん、今日も早いね。困ったことがあればいつでも言いなさい。……そうだ、堀川さんたちも協力してくれると嬉しい」
空先生は千夏に向かって穏やかに笑う。担任として、透の家庭事情など何かを把握しているのだろうか。先生の目には、一抹の優しさと深い思慮が宿っているように見えた。
千夏は先生の意図を汲むように、隣の席のほのかへ視線を送った。ほのかもうなずき返す。どうやらここで身を退いては、せっかくの出会いを台無しにするだけだ。そこで千夏は空先生の背中を追うように透の傍に近づく。
「おはよう、透くん。何を見てたの?」
躊躇いがちに問いかけると、透は少し迷った様子で振り返った。
「おはよう。……校庭の桜が、ちょうど咲き始めてるんだ。綺麗だよ」
「桜、ね。あ、本当だ。まだ満開には遠いけど、淡いピンクがかわいい」
しばし沈黙が降りたあと、透はかすかな笑みを浮かべる。
「……二人とも、普通に接してくれるんだね。ちょっと、意外だった」
「意外?」
「うん。僕……どこへ行っても、あまり歓迎されるほうじゃなくて。海外にいた頃も、勘違いされることが多くて……」
そう言う透の目は、一瞬だけ寂しそうに伏せられた。けれど、その声色にはわずかながら安堵も混じっているように思えた。
「そんなこと……私たちはただ、仲良くなりたいだけだよ。ね、ほのか?」
「そうそう! 第一印象で“近寄りがたい”とか言われてるけど、私たちは正直、話してみたい気持ちのほうが大きいし」
ほのかが人懐っこい笑顔で言い切ると、透は少し驚いたように目を丸くする。その瞳の色が、桜色に染まる朝日を受けて儚げにきらめいた。
「……ありがとう」
ほんの小さな声で、透はそう呟いた。まるで独白のような、誰に聞かせるでもない優しい響き。それを聞いたとき、千夏は自分の胸の奥が柔らかい光で満たされるのを感じた。
その日の放課後、今度こそ三人で少し会話をしようと声をかけると、透は素直に「いいよ」と言ってくれた。ほのかが「やった!」と大きく喜ぶ一方で、千夏は内心でほっと胸をなで下ろす。クラスメイトの霧島陸や、ほかの生徒たちが透を遠巻きに見ている気配を感じながらも、気にしないようにして教室を後にする。
校舎の窓から外を覗くと、まだ日は高い。ほのかが笑顔で提案する。
「せっかくだし、中庭のベンチでおしゃべりしない? 桜も少し見えるし」
透は少し迷った様子を見せたが、千夏とほのかが声を揃えて「行こうよ」と誘うと、観念したように頷いた。
三人で中庭にある小さなベンチへ移動する頃には、ほのかが先陣を切って透に質問攻めを始める。
「透くんは海外のどこにいたの? 言葉とか困らなかった?」
「英語が主だったから、言葉は慣れれば平気だった。でも、あまり人と話さなかったから……上手いかどうかは分からない」
「へえ、すごいなあ。あ、髪はずっとその色? 染めてるって噂もあるけど、地毛なんだよね?」
「うん、これが生まれつきで……ちょっと目立つから嫌われることもあったけど」
透の言葉に、千夏はそっと口を挟む。
「でも、すごく綺麗だよ。まるで銀色の糸みたい……」
素直な思いだった。透は少しはにかむようにうつむきながら、小さく笑う。その笑顔を見て、千夏は胸が暖かくなるのを感じた。
(この笑顔……何か隠してるみたいだけど、すごく優しい)
ほのかも同じようなことを感じたのか、穏やかな表情で透を見つめていた。まるで春風が三人の間を吹き抜け、柔らかい空気を運んできているようだった。
夕暮れが近づき、オレンジ色の光が中庭を染め始める。ベンチの隣で揺れる木々の葉は、若緑の柔らかい芽吹きを見せている。透はその木漏れ日のコントラストをじっと眺めていた。
「……なあに? 何か気になる?」
千夏が不思議そうに尋ねると、透はゆっくりと息を吐き、目を細める。
「春って不思議だよね。出会いがある一方で、別れもある。暖かい風と、少し切ない空気が混ざり合ってる感じがする……」
そう言う透の横顔は、やはりどこか寂しげで。けれど、今は少しだけ安心しているようにも見えた。
「新しいクラスって、まだ慣れないことも多いけど……私とほのかは、透くんと仲良くなりたい。もし嫌じゃなかったら、これからも一緒に色々話そう?」
千夏は意を決して、はっきりと伝える。ほのかもうんうんと勢いよく頷いていた。
透は一瞬、言葉を失ったように見えた。そしてすぐに、「ありがとう」とつぶやく。あの儚い微笑みを再び浮かべた透の姿に、ほのかが小さく歓声をあげた。
「わあ、なんか、やっとちょっと打ち解けられた感じ!」
まるで解けかけていた氷が、春の陽光に溶かされていくようだ。透の笑顔は優しく温かく、それでいてどこか壊れそうな危うさをはらんでいる。千夏は、この笑顔の奥にある秘密や過去に今はまだ踏み込めない。けれど、いつかきっと触れられると信じていた。
暮れゆく空に混じる淡い桜色を見上げながら、三人はそろそろ帰宅の時間だとベンチを立つ。春風がまたひと吹き、透の銀の髪と千夏のポニーテール、ほのかのセミロングを優しく揺らした。
「明日からも、よろしくね」
ほのかが明るい声で言うと、透は少し戸惑いながらも頷いた。その瞳の奥には、まだ誰も知らない秘密を隠しているのだろう。けれど、彼の唇には確かに微笑みが宿っている。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
柔らかな声が三人の間に残り、ゆっくりと消えていった。
その日の帰り道、千夏は胸の内に心地よい予感を抱えていた。今はまだ小さな一歩だけれど、透という転校生と出会ったことで何か大切なものが生まれそうな気がする。ほのかも同じ思いを抱いているはずだ。あの儚げな笑顔の裏にある寂しさに、いつか自分たちが寄り添えたら――そんなことを考えると、自然と足取りが軽くなる。
新学期が始まり、まだ数日。これから先、どんな日々が待っているのかはわからない。だが、心地よく吹き抜ける春風とともに、新たな物語が静かに動き出したことだけは確かだった。生まれたばかりの繋がりを、千夏は大切に抱えながら家路を急いだ。