春風が微笑む、その場所で 作:一介のエンジニア
春の陽射しがやわらかく校舎を包む四月中旬。新学期が始まり、数日が経ったある日の放課後。
2年C組の教室からは、部活動へと向かう生徒たちのにぎやかな声が響いていた。だが、その喧騒に溶け込むことなく、堀川千夏は静かに鞄を肩に掛け、廊下へと足を踏み出す。
親友の朝比奈ほのかは部活動に呼ばれ、放課後すぐに別れてしまっていた。
(今日は静かに過ごしたい気分……)
そう思いながら、自然と足が向かった先は校舎の奥にある図書室だった。普段はそこまで賑わう場所ではないのだが、新年度早々に新しい司書の先生が着任したと聞き、一部の生徒の間で小さな話題になっている。その影響か、ドアを開けるといつもより数人多くの生徒が机や本棚の前に点在していた。
静かな空気に包まれる図書室。外の喧騒とはまるで別世界のようで、千夏はほっと肩の力を抜いた。
ふと奥に目をやると、一つのテーブルに銀糸のような髪が揺れるのが見え、胸が小さく高鳴る。
(雪宮透くん……)
転校生の雪宮透は、まだクラスに馴染めているとは言い難い。それでも、千夏とほのかが積極的に声をかけたおかげか、最近は廊下ですれ違うと軽く挨拶をしてくれるようになった。
この日は、静かに一人で本を読んでいるようだった。机の上には何冊かの文庫本が積まれ、その中の一冊を透はじっと見つめていた。姿勢はまっすぐで、周囲の物音に気を取られることなく集中している。窓越しに差し込む夕陽が、銀糸の髪を淡く照らしていた。
(……話しかけても、いいよね)
まだ遠慮がちになってしまう気持ちを押し込めるように、千夏はそっと透の隣へ歩み寄り、小さな声で問いかけた。
「雪宮くん、こんにちは。ここ、座ってもいい?」
透は小さく肩を揺らし、顔を上げる。
一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子で頷いた。
「うん、もちろん。堀川さんも、本を読みに?」
「うん。……ほのかが部活に行ったから、一人で静かに過ごそうかなって」
千夏がそう答えると、透はわずかに微笑んだ。その表情はどこか透明感があって、千夏は不思議と心が温かくなるのを感じた。
隣の席に腰を下ろし、千夏はふと透が読んでいた本の表紙に目を向ける。
そこには、どこか懐かしい町並みが描かれていた。
「『時間が逆戻りする町』? なんだか不思議なタイトルだね。それ、面白い?」
「うん。たまたま図書室で見つけたんだけど、昔の海外の民話を翻案したらしくて。ある日、町の人たちが時間を逆に生き始める話なんだ。日が沈んだら朝になるみたいに、出来事がどんどん巻き戻っていくっていう……」
透は薄い声で説明してから、まるでその情景を思い浮かべるように瞳を細める。
「でも、ただの奇妙な話じゃなくて……戻った時間の中で、語られなかった想いや後悔を解きほぐしていくって話みたい。まだ途中までしか読んでないけど」
その言葉に、千夏はすっと引き込まれるような感覚を覚えた。普段、彼が多くを語らないぶん、その静かな声の一つひとつが心を掴んで離さない。
「時間が逆に流れたら、どんな感じなんだろう……。取り戻したい過去とか、直したい失敗って誰にでもあるよね。」
「……そうだね。でも、もし本当に戻せたら——今のこの瞬間は、どうなるんだろう」
透の目は本の文字を追いながら、どこか遠い世界を見ているようだった。ふと影が差した気がする。
(雪宮くんも……何か、過去に戻りたいと思うことがあるのかな)
もちろん、いきなりそんな話を聞くことはできない。透自身も過去についてあまり語ろうとはしない。それでも、こうして少しずつ言葉を交わせるようになったことが、千夏には嬉しかった。
しばらく二人で本をめくったり、 言葉を交わしたりして過ごしていると、「がらり」と図書室のドアが開いた。思わず視線を向けると、そこには担任の空先生がいた。先生は借りていた本を司書に返却しているようで、本棚の前で穏やかに会話を交わしている。
そしてふと、千夏たちに気づくと、柔らかな微笑みを浮かべて手を振った。
(雪宮くんは大丈夫……?)
どうやら、そう問いかけるようにも見える仕草だった。空先生は透の家庭事情を少し知っているらしく、いつも気にかけている。その優しさが、千夏にはありがたく思えた。
千夏は「大丈夫です」という気持ちを込めて、ほんの少しだけうなずき返す。すると先生は安心したように目を細め、再び静かに本棚へと視線を戻した。
透もまた、先生の存在に気づいているようだったが、特に何を言うこともなく、本へと視線を戻した。
彼にとって空先生はどんな存在なのだろうか——千夏にはまだ分からない。ただ、先生が透を静かに見守っていることだけは確かだった。
やがて、司書の女性が「もうすぐ閉館時間なので、返却や貸し出しをする人はお早めにどうぞ」と声をかけてきた。窓の外を見れば、すでに空がオレンジと紺色を混ぜ合わせたような夕暮れの色を帯びている。
「そろそろ行かないと……暗くなっちゃうね」
千夏がそう言って席を立つと、透も少し名残惜しそうに本を閉じ、腕の中に抱えた。
「あ、借りるんだね? さっきの『時間が逆戻りする町』も?」
「うん、続きが気になるから。夜のうちに読むかもしれない」
その小さな意欲に、千夏は嬉しくなった。彼がこんな風に「何かを知りたい」と思えることは、きっと彼の中で小さな変化が起きている証拠なのではないか。思わずそんなことを感じてしまう。
貸出手続きを終えたあと、二人は静かに図書室を出る。校舎の窓から、夕焼けが廊下をほんのり茜色に染め上げ、長い影を落としていた。生徒のほとんどはすでに帰宅しているらしく、聞こえてくるのは遠くの方から響く部活動の掛け声くらいだ。
「……雪宮くん、今日は一緒に帰れるかな?」
少し躊躇いながら千夏が問いかけると、透は一瞬迷ったようだったが、すぐに小さくうなずいた。
「うん、今日は特に寄り道の用事もないし……もし良かったら途中まで」
その言葉を聞いて、千夏は安堵と喜びが胸に広がるのを感じた。前に声をかけたときは、用事を理由に断られてしまったからだ。少しだけ、透が自分たちとの距離を縮めてくれたのかもしれない。
二人並んで校門を出る頃には、すっかり空は群青色に変わりはじめ、微かな月明かりが差し込んでいた。風はまだ少し冷たいが、昼間の春らしい爽やかさを思い出させる香りを含んでいる。
「……図書室、落ち着くよね。あんなに静かな空間って、なかなかないし」
千夏が何気なく話題を振ると、透は夜風を受けながら微笑んだ。
「うん。海外の学校にいた頃は、図書室が“自分の居場所”だった時期があって……。あそこに行くと、時間がゆっくり流れる気がするんだ。それに、誰も干渉してこないから」
「そっか……。そう考えると、日本の図書室はどう? もう慣れてきた?」
そう尋ねた千夏に対し、透は少し考えてから口を開く。
「うん、思ったより慣れたかも。借りたい本も豊富だし、今日みたいに知ってる人が来てくれることもあるから……悪くない」
(知ってる人、か……私のことを、少しは身近に思ってくれてるんだ)
ほんの小さなことだけれど、千夏の胸は不思議と温かく満たされる。透の柔らかな口調と相まって、まるで春の夜気が優しく包み込んでくれるようだった。
やがて、ほのかと千夏がいつも一緒に帰る道の分岐点へ近づく。透はその道をさらにまっすぐ進んで行けば駅がある方へ向かうと、手短に説明してくれた。
「じゃあ、ここで……また明日」
そう言って千夏が名残惜しそうに足を止めると、透もぺこりと小さく頭を下げた。
「うん、また明日。今日は……ありがとう。図書室で、色々話せてよかった」
まるでどこかで春の花が揺れたかのように、千夏の心がそっと弾む。前よりも少しだけ深く、透の中の柔らかさに触れられた気がした。
「私も、楽しかった。続きの本、読んだらどんなだったか教えてね」
「分かった。きっと面白い結末だと思うよ」
透はそう言うと、ほんのわずかに笑みをこぼしながら夜の街へと歩き出す。その背中はまだどこか儚くも感じられるけれど、前よりはずっと近くに思えた。
翌日、千夏がクラスの会話に混ざりながら朝を過ごしていると、ほのかが大きな声で呼びかけてきた。
「千夏ー! 昨日はごめんね、遅くなっちゃって。結局、雪宮くんとは話せなかったんだけど、二人とも先に帰っちゃったの?」
ほのかは少し残念そうだ。いつもなら、ほのかが一番に透と接点を持とうと積極的に動いているのに、昨日はタイミングが合わなかったらしい。
「うん、たまたま図書室で会ったから、そのまま一緒に帰ったんだ」
「そっかあ。いいなあ、私も今度一緒に帰りたい! っていうか、放課後がこんなにあっという間に終わっちゃうの、もったいないよね。もっと三人でのんびり過ごせる場所とかないのかな」
ほのかはいつもの元気な調子で言いながら、考え込むように口元に指を当てる。
(もっとのんびり過ごせる場所、か……そういえば学園の裏手には古い東屋があるって聞いたことがあるけど……)
千夏の頭にふと、校舎裏の林にひっそりと建っている東屋の噂がよぎる。そこは生徒たちがあまり立ち寄らない場所と聞いたことがある。
けれど、そんな話はまた別の機会にすればいいかと、千夏は思った。まだ、実際に自分の目で見たわけではないし、ほのかや透が気に入るかも分からない。ただ、心のどこかで小さな期待が芽生える。彼らと一緒なら、その静かな東屋が特別な空間になるかもしれない、と。
放課後、千夏はいつものようにほのかと合流し、いっしょに校門へ向かおうとした。すると、昇降口のあたりで透を見かける。遠巻きにクラスメイト数名の姿もあり、どうやら透にいろいろ話しかけているようだ。
「なあ雪宮、あの銀髪って染めてんの? まさか地毛じゃないよな?」
大きな声が聞こえ、ほのかが「うわあ、陸くんまた余計なことを言ってる」と呆れたようにこぼす。透は軽く微笑んで否定している様子だが、その場の空気に少し居心地の悪そうな雰囲気を漂わせている。
(やっぱり噂や好奇心の目って、雪宮くんにとっては負担なんだろうな……)
千夏はそう感じて、ほのかと目を合わせた。すると、ほのかが「行こう」と言わんばかりに顔で合図してくる。
二人で駆け寄り、透を囲むようにしている陸たちに軽く会釈をすると、ほのかが明るい声で割って入る。
「雪宮くん、もう帰るところ? ね、今日は私たちも一緒にどうかな?」
少し強引ではあるが、ほのかのいつもの人懐っこい態度と満面の笑顔に、陸たちもどうやら反論できないらしい。
「あ、ああ……そうか。じゃあ俺は部活あるし、先行くわ」
陸は少し引き気味になり、周りの生徒も気まずそうに退散していった。
残された透はほっとした様子でほのかと千夏を見つめる。
「助かった……。別に怒ってるわけじゃないけど、ああいう風にみんなの注目が集まるのは、まだ苦手で」
「大丈夫、分かるよ。まだ新学期始まったばかりだしね。……もしよかったら、今日は三人で帰らない? 駅までおしゃべりしながら行こうよ」
ほのかは先ほどの千夏と同じ提案を、軽やかに投げかける。透は小さく頷き、安堵の笑みを浮かべた。その表情がどこか柔らかくなってきているのを千夏は感じる。
三人で下校する道すがら、ほのかは昨日の図書室の話に興味津々だ。
「雪宮くん、図書室でどんな本読んでたの? 千夏、何か聞いた?」
「うん、ちょっとだけ。すごく不思議な民話を翻案したっていう物語……“時間が逆戻りする町”だっけ」
すると、透は思い出したかのように口を開く。
「あれ、けっこう面白かったよ。まだ全部は読んでないけど、想像以上に深い話だった。時間が巻き戻ったことで、主人公たちは過去の自分と向き合うチャンスを得る。でも、そのせいで今の人間関係が歪んでしまったり、誰にも言えなかった秘密が暴かれたりするみたいで……」
「わあ、何それ、なんだか切ないね」
ほのかが少し目を丸くして同情的な声を上げる。千夏も胸がきゅっとなるような感覚を覚えた。人には言えない秘密や、言葉にしづらい想いが誰にでもあるのかもしれない、と。
透はそのまま歩を緩めて、ぽつりと呟くように言葉を落とす。
「……過去がどうであれ、今の自分を認められることが大切だと思う。やり直せるなら、それはもちろん魅力的だけど――そう簡単にはいかないし、現実は前に進むしかないから」
それは、まだ多くを語らない透の“本音”のように聞こえた。過去を変えられなくても、何とかして未来に目を向けようとしている。そんな意志の光が、ささやかに感じられるのだ。
その光に、ほのかも千夏も気づいたのか、自然と表情が柔らかくなる。きっと透の抱える悩みは簡単には解決しないし、本当の意味で打ち解けるにはまだ時間がかかるかもしれない。だけど、こうして少しずつお互いを知り合っていくことが何より大事だ、と三人とも心のどこかで思っていた。
別れの分岐点に着くと、ほのかは「また明日ね!」と軽く手を振り、透も同じように小さく手を振り返す。そのやり取りを横で見ていた千夏は、どこか幸せな気持ちになりながら、それぞれの帰り道へと分かれた。
気がつけば空気は少しだけ肌寒くなっていて、春といっても夜はまだ冷えることを思い出す。
それでも、千夏の胸には温かな余韻が残っていた。図書室で透と交わした会話、そして歩きながら語り合った時間――どちらもかけがえのない、穏やかで不思議な空気に満ちていた。過去に何があろうと、今こうして少しずつ笑顔を見せ始める透の姿が、千夏には愛おしかった。
(もう少ししたら、ほのかも含めて、落ち着いて過ごせる場所を探してみよう。みんなでのんびり話せるような、特別な場所……)
そう思い浮かべると、小さく胸が高鳴る。この春に訪れた新しい出会いが、きっとこれからの学園生活を鮮やかに彩ってくれるに違いない。